呪術高専からおよそ十五分ほど歩けば、駅前の目抜き通り沿いに色褪せた赤い暖簾が見えてくる。

 昔から同じ場所に店を構えているらしい中華料理屋は、地元民だけではなく呪術高専で働く多くの術師や補助監督にも長く愛され続けてきた。その証拠に高専から近くてハズレのない美味い店を尋ねれば、必ずと言っていいほどこの中華料理屋の名が返ってくる。

 注文を告げて十分も経たぬうちに、やや狭い四人掛けの赤いテーブル席いっぱいに出来立ての料理が並んだ。伏黒恵は湯気の立ち昇る大きなラーメンどんぶりを右側へ寄せる。席が窮屈なせいだろう、少し動いただけでも左隣に座るに身体がぶつかってしまうのだ。

 しかし当のは最初に肩が当たったとき、たった一度だけ「ちょっと狭いね」と困ったような笑みを浮かべただけで、それ以降は特段気にする素振りもない。恵は四川風担担麺に箸を伸ばすの姿を視線だけでなぞる。いつものことと言えばいつものことだが、肋骨の内側が伽藍洞になるような空しい気分だけはどうしても慣れなかった。

 箸袋から黒い箸を抜き出しつつ、釘崎野薔薇が目の前の海鮮あんかけ焼きそばを驚いた様子で見つめる。

「少し高いと思ったけど、結構量あるわね」
「スープ付いてるしな」

 耳を打った野薔薇の率直な感想に、誰よりも早く特盛ラーメンを頬張り始めた虎杖悠仁が同意するように付け足した。恵はお品書きに表記されていた情報をさらに付け加える。

「あとで杏仁豆腐も来るってよ。サービスで」
「おおっ」

 悠仁と野薔薇とが声を揃えて目を輝かせた。「お腹いっぱいになるね」と楽しげに笑いかけてきたに「そうだな」と無愛想な相槌を返すと、恵は煮卵と叉焼の乗った大盛りのラーメンを食べ進め始める。

 悠仁と野薔薇が呪術高専に入学して早数日。ふたりにとって、今日が高専生として迎える初めての休日だ。朝から部屋で文庫本に読み耽っていた恵は、これと言って急を要する予定もなかったため、呪術高専周辺の探索も兼ねて外で昼食を食べたいと言い出した野薔薇に付き合うことにした。今日は昼食のためだけに外出したようなものだった。

「駅前って何もないのね。ちょっとガッカリ」

 野薔薇は嘆息して肩を落とすと、眼前に座るに視線を注ぐ。

、このあと一緒にアメ横行かない?あそこのフルーツ食べてみたいのよね」
「行きたい!」

 顔を上げたが笑顔で声を弾ませる。自由奔放で暴れ馬のような一面を持ち合わせた野薔薇と、物柔らかでお人好しを極めた。馬が合わないことも予想していたのに、互いに自己紹介を終えたその日の夜には意気投合したらしい。は何事にも物怖じしない野薔薇を憧憬の対象として見ているようだが、憧れるならもっと別の人間にしたほうが良いのではないかと恵は割と本気で思っている。

 野薔薇が反応を返すより早く、先ほどとは打って変わって、はひどく申し訳なさそうに首を傾げた。

「行きたいんだけど……それって明日じゃ駄目かな?」
「何か先約があるの?」
「うん。今日は映画に行こうかなって」
「この間言ってたやつ?」
「そうそう」

 ふたりの会話が途切れると、ラーメンを頬張った悠仁が不思議そうに口を挟んだ。

「映画って誰と?伏黒?」
「ううん、違うよ。ひとりだよ」
「……は?……ひとり?」

 ひどく間の抜けた声とともに、恵は箸で掴んでいた煮卵をぽろっと落とした。鈍い水音が耳朶を打ち、熱々のスープが軽く跳ねる。

 街中で宇宙人にでも遭遇したかのように唖然とする恵を揶揄する視線でなぞりながら、悠仁と野薔薇はひそひそと小声で囁き合う。

「はい出ました伏黒の過保護っ。最近は五条先生より彼氏面してるよな」
「いやもう露骨過ぎてドン引きよ。の鈍感さに救われたわね」

 恵を揶揄いたいだけのふたりから即座に目を逸らし、恵は澄ました表情を貼り付けたまま、喉までせり上がった言葉をぐっと飲み込んだ。彼氏面など誰がするかと腹の底で吐き捨てるに留まる。声に出して否定すれば認めたことになるような気がして。

 ちなみに恵のどうしようもない片想いは、野薔薇にも容易く看破されている。それも野薔薇が東京にやってきた日、と話す姿をたった一目見ただけで。「アンタそれで隠してるつもりなの?」と眉をひそめられ、瞬く間に恵の心が虚無に染まったのは言うまでもない。

 渦中の人であるに余計なことを聞かれたのではないかと焦りを覚えたものの、幸いなことには店員の運んできた料理を笑顔で受け取っている最中だった。「取り皿もいただけますか」と頼むをよそに、恵は感情を抑えた声音で話題を戻した。

「お前らだってコイツの状況わかってんだろ」
「わかってるわよ。でも別にを殺すのが向こうの目的ってわけでもないんでしょ?そこまで神経質になるようなこと?」
「腹刺されて死にかけてんだぞ」

 硬度の増した言葉を投げ付けられた野薔薇は、返す言葉もないのか小さく肩をすくめる。は悠仁に二人前の餃子が乗った皿をそのまま手渡すと、恵の顔を覗き込みながら人畜無害な笑みを浮かべた。

「アレはちょっとびっくりしたよね。あ、伏黒くんも麻婆豆腐食べる?このあとすぐに春巻きも来るって」
「……はもっと危機感を持て。頼むから」

 覇気の失せた声音で忠告すれば、はまるで他人事のような笑みをさらに深くする。特に悪びれた様子もなく「ごめんなさい」と口先だけの謝罪をする横顔に、恵はもうそれ以上の忠告を告げる気にはなれなかった。どれだけ言葉を尽くしたところで、“ひとりでも映画に行く”というの意志は変わらないだろう。

「麻婆豆腐、食べないの?」
「……春巻きも食う」

 何を言っても無駄だと潔く諦めた恵に対し、野薔薇は早々に先手を打った。

「先に言っておくけど私はパス。観たい映画じゃないのよね。虎杖は?」
「あー……俺もパス。馬に蹴られて死にたくねぇもんな。伏黒は?」

 あれよあれよとお鉢が回ってきた恵は返答に窮する。大した予定がないのは事実だが、今ここで堂々とそれを口にするのはあからさまではないだろうか。をひとりにしたくない以上はさっさと腹を括るべきなのだろうが、しかし矜持を捨てられるほど恵は大人でもなければ達観しているわけでもなかった。

 逡巡する恵の胸中など露知らず、は麻婆豆腐を取り分けた皿を恵に差し出すと、ふたりに向かって怒ったように唇を尖らせる。

「わたしひとりで行くから大丈夫です。せっかくの休日だよ?伏黒くんだって何かと忙しいと思うし――」
「……いや別に、そこまでは」

 ほとんど無意識に口を突いた恵の言葉に、悠仁と野薔薇が同時にほくそ笑んだ。躊躇いがちに恵の様子を窺うを揃って後押しする。

「本人がこう言ってんだぜ?一緒に行ってもらえば?」
「そうそう。良い女は素直に甘えるものよ。遠慮するだけ損なんだから」

 しばらく落ち着きなく視線を彷徨わせると、は迷いを含んだ色を瞳に滲ませながら首を傾げた。

「……一緒に来てって言ったら、来てくれる?」

 欲を掻き立てるようなその表情に心拍数が上昇する。瞠目した恵は開きかけた唇をすぐに隙間なく閉じた。もし悠仁と野薔薇がこの場にいなければ下らない矜持などかなぐり捨て、当たり前だと即答していたことだろう。

 黒を白に変えるほどの破壊力を備えた表情から自然な素振りで目を逸らし、恵は野次馬根性を剥き出しにする眼前のふたりを警戒する。以上に恵の胸中を気取らせるわけにはいかなかった。冷め切った色で怜悧なかんばせを覆うと、ひどく素っ気ない口振りで返事を返した。

「……まぁ、そうだな」
「無理してない?」
「してねぇ」
「本当に良いの?」
「ああ。一緒に行く」
「本当に本当?少女漫画が原作の恋愛映画だよ?」

 想定外の言葉にポカンとなった恵の耳朶を打ったのは、まるで爆発したかのような悠仁の笑い声だった。

「伏黒に少女漫画?!きらっきらの青春?!似合わねーっ!」
「ちょっと虎杖。伏黒自身が今きらっきらの青春真っ只中にいるんだからそういうこと言うのやめなさいよ。にしても、一体どんな顔して観るのかしらね。気になるわ……」

 悠仁の数倍は辛辣な野薔薇の言葉も真正面から受け止めることはせず、恵は重いため息をひとつだけ落とした。

「何で一緒に観るって選択肢しかねぇんだよ。外で待ってりゃいいだけだろ」
「えっ、観ないの?」

 隣から聞こえた驚声に思わず二度見する。は眉尻を下げながら胸の前で両手を軽く振ってみせた。

「二時間も待っててもらうのってすごく申し訳ないし、やっぱりわたしひとりで行くね。わたしから言い出したのに本当にごめんなさい。あ、何かあったらすぐに連絡するのでよろしくお願いします」

 その場で小さく頭を垂れたに戸惑いを含んだ瞬きを返せば、前方から突き刺すような鋭い視線を感じた。ふたりは揃って頬杖を付きながら、じっとりと恵を睥睨している。

「どうすんだよ伏黒」
「どうすんのよ伏黒」

 恵に与えられた選択肢など、もはやたったひとつだけだった。