とデートなんだから、もうちょっとマシな格好したら?」

 たった一言の反駁も許さぬ鋭い視線に穿たれるや、眉間に深い皺を刻んだ伏黒くんが無言で呪術高専へ続く道を引き戻っていった。慌てて紡いだ制止の声は彼の耳には届かず、駅前で待つ他なくなったわたしはコンビニで買ったばかりのアイスモナカをかじった。

「わざわざ着替えなくても良かったのに」

 ため息をつくように小さな声で呟けば、カップアイスを手にした野薔薇ちゃんが途端に顔をしかめた。

「一応デートなのよ?部屋着同然の格好で隣歩かせてどうすんの。ま、どうせまた黒一色でしょうけど」
「同じ黒でもとデートなら一張羅だろ」

 晴れた空を仰ぎ見ながら、虎杖くんがソーダ味の氷菓を咀嚼する。同意を示すように野薔薇ちゃんは呆れた様子で肩をすくめた。

「そうであることを祈るわね。曲がりなりにもデートなんだし」
「野薔薇ちゃん」

 窘めるように名を呼ぶと、「事実でしょ」とあっけらかんとした響きが返ってくる。わたしは首を左右に振った。

「違うよ、伏黒くんはただの付き添い。あんまり言うと怒られるよ?」

 しかし野薔薇ちゃんは悪びれる様子もなく、安っぽいスプーンでバニラアイスを掬う。虎杖くんが不思議そうに首を傾げた。

は怒んないわけ?」
「全方位からモテそうな伏黒くんとデートできるなんて恐悦至極です」
「全方位って言うけどにはモテないじゃん」
「わたしにモテても別に嬉しくないと思うけどなぁ」
「なんで?」
「なんでって……わたし、樹の妹だよ?」

 嫌な記憶を引きずり出す存在でしかない“樹の妹”からの好意など願い下げだろう。本心から答えたというのに、虎杖くんは何故か険しい表情を浮かべている。

「まさかアイツ、土俵にも上がれてねぇってこと?」
「え、今さら?の時間はまだ止まってんの。そう単純な話じゃないのよ」
「なーんだ、それなら可能性あるじゃん。つーかむしろ押せば全然イケそうじゃね?なんでアイツ最初から諦めてんの?」
「時間を動かす勇気もその先を見て傷付く勇気もないんでしょ。向き合うより逃げるほうがずっと楽だもの」
「そりゃそうか。誰だって傷付きたくねぇよな」

 目を瞬くわたしを挟んで繰り広げられる会話について行けず、ひとさじの寂しさを拭いたくて勇気を出して問いかける。

「……えっと、それって何の話?」
「こっちの話」

 合図もなしに、虎杖くんと野薔薇ちゃんは声をぴたりと揃えてみせた。どれだけ粘ろうとも欲しい答えは返ってこない気がした。諦めたわたしは眉尻を下げると、溶け始めたアイスモナカを口いっぱいに頬張って、燻ったままの疑問にそっと蓋をする。



* * *




 静寂に包まれた暮夜の中を歩きながら、一片の光すら喰らい尽くす昏い海面を目でなぞる。

 何かが浮かぶこともなければ波打つこともないその黒い海は、いつだって変わらずそこに横たわり続けている。始めこそ途方もない孤独を感じたものだけれど、今では肋骨の内側に滲むそれを心地好く感じていた。余計なことは何ひとつ考えなくていいから。

 しばらく歩き続けた先で、うずたかく積み上げられた白骨の山頂に目当ての人影を見つける。少しだけ顎を持ち上げると橙色の光が薄暗い視界に差し込んだ。

「こんばんは、宿儺さん」

 やや丸みを帯びた背中にそっと声を掛ければ、僅かな間を置いて着物姿の少年が気だるげに振り返る。虎杖くんと瓜ふたつのかんばせに浮かぶ血染めの双眸。こちらを値踏みするような歪な視線に緊張を覚えることはもうない。宿儺さんは無言で膝を伸ばすや、布擦れの小さな音ひとつ立てずわたしの後方に着地した。

 挨拶への返事がないのもいつものことだった。適当な場所に胡坐をかいた宿儺さんと向き合うように、わたしは硬くて冷たい白骨の上に腰を落ち着ける。

 空腹に飢えた闇が隅々まで覆い尽くす世界は、現実からおよそ遠くかけ離れていた。生者も亡者もいないこの世界は夢寐によく似ている。眠りについたわたしの意識だけが宿儺さんの生得領域に招かれていると聞いても、現実と同じように五感が冴えているのは未だに不思議な感じがする。これだけはまだしばらく慣れそうにない。

 どこか退屈した様子で頬杖をついた宿儺さんは、純度の高い黒を溶かした海に目をやりながら口火を切った。

「兄の死に因る遭逢も今日までの経緯も聞いた。そろそろ話題も尽きてきたか?今宵は何を話すつもりだ」
「今日は一緒に映画を観てきたんです。だからその話をしようかなって」

 呪いの王たる宿儺さんが求めたのは、最も色恋沙汰から遠い相手との話――つまり、わたしにとっては伏黒くんとの話だった。

 記憶を辿るように語るそれこそが、わたしに対する“正しい復讐”に繋がるのだと宿儺さんは言う。ここではわたしはひとりぼっちだ。拒否権など行使しようものなら赤子の手をひねるよりも容易く心臓を抉り取られてしまうだろう。

 逆らうことは即ち死を意味する。だからわたしは呪いの頂点に君臨する王の機嫌を損ねぬよう注意を払いつつ、千夜一夜物語のシェヘラザードのように今夜も寝物語を紡がなければならなかった。

 いつものように居住まいを正すと、わたしはゆったりとした口調で切り出した。

「縁があって映画の無料券を頂いたので、成り行きで一緒に観に行くことになりました。大ヒットしている少女漫画が原作の恋愛映画で、しかも公開されたばかりだからか、映画館は同年代くらいのカップルでいっぱいでした」

 映画館は右を見ても左を見ても、仲睦まじい恋人同士の姿で溢れていた。伏黒くんの表情筋は役割を完全に放棄して虚無そのものだったし、映画館に漂う甘ったるい空気に呑まれたわたしは何を話せばいいのかわからなくなった。互いに気まずさを抱えたまま、わたしたちは口数も少なく座席についた。ほどなくして、映画本編の上映が始まった。

「映画は事故で記憶喪失になった主人公が一冊の日記を見つけたところから始まります。日記に記されていたのは高校生の“私”が“先輩”と恋に落ちるまでの詳細な記録でした。主人公は日記を読むことでその恋を追体験していく。日記は先輩が卒業したところで終わっているんですが、追体験の中で主人公は“先輩”が自分自身であることに辿り着くんです」
「……ほう。それで?」
「主人公は名前も思い出せない“私”を探します。必死に探すうちに記憶が少しずつ戻ってきて、事故に遭ったのは“私”と些細な喧嘩をしたあとだったことを思い出すんです。主人公は罪悪感から逃げるように暮らしていた“私”をやっと見つけ出しました。紆余曲折を経たふたりが誤解を解いて、無事に仲直りをするところで物語が終わりました」

 映画のあらすじを端的に語り終えると、宿儺さんが不満げに眉根を寄せた。

「どんでん返しのひとつもないのか。つまらん話だな」
「わかりやすいのが大事なんですよ?」
「ならばその色恋の場面もそれはわかりやすかったのだろうな?」

 唇を尖らせて指摘したわたしに、間髪入れず嗤笑にも似た揶揄するような視線が送られる。図星を突かれたせいで一瞬で言葉に詰まった。目を泳がせるわたしを追い立てるように「話せ」と冷めた声音が耳朶を打つ。

 どうせ最初から逃げ場などない。観念したわたしは小さな声でぼそぼそと言葉を紡いだ。

「……この映画、何故かキスシーンが多くて。日記を追体験するシーンは特に。恋愛映画だからキスがあっても何もおかしくないんですけど……とにかく回数が多い上に、そのキスもちょっと……何と言うか、すごく大人な感じで……」

 映画館の巨大なスクリーンに容赦なく投影される、少年と少女の深い口付け。互いの愛を確かめ合うように繰り返されるそれに、わたしは居た堪れなくなった。手のひらにじっとりと冷や汗が滲んだし、心拍数の上昇した心臓はひどくうるさかった。

 すぐ真横に座る伏黒くんが一体どんな気持ちでスクリーンを見つめているのかと思うだけで、途方もない申し訳なさと気まずさが込み上げた。すぐにでも立ち上がって映画館から一目散に逃げ出したくなるくらいに。

「……変ですよね。術式を使うために何回もキスしてきたのに、映画のキスシーンにいちいち動揺するなんて」

 そう言いながら自虐的な苦笑をこぼしたものの、こうして語るだけでも心がひどくざわついている。どこを探してみてもわたしに余裕はなかったし、宿儺さんの反応がとにかく怖かった。何かを言われてしまう前にと、わたしはすぐに口を開いた。

「大人っぽいキスシーンのせいでしょうか、すぐ前の席のカップルがこっそりキスし始めちゃって……しかも一回だけじゃなくて何回も。映画の中盤辺りから最後まで、ずっとです」

 並んで恋愛映画を観る以上は多少気まずくなることは想定していたものの、まさか観客が眼前で睦み合い始めるなど一体誰が予想できただろう。

「そんなことになるなんて想像もしてなかったから、何でこんな映画に誘っちゃったんだろうって泣きたくなるくらい後悔しました。そんな状態で映画に集中できるわけもなくて、“早く終われー!”って心の中でずっと祈ってました」

 羞恥に顔が熱くなるのを感じながら、閉じた膝に視線を落としたわたしは訥々と言葉を継いだ。

「……映画が終わって、やっと電気が点きました。みんなが手を繋いで出て行く中で、わたし、腰が抜けたみたいにイスから立ち上がれなくて。ただただ申し訳なくて、どうしたら良いかわからなくて、伏黒くんに小さな声で“ごめんなさい”を言うので精一杯でした。しばらくしてスタッフの人に帰るよう促されたんですけど、それでも立てなくて。そうしたら、伏黒くんがスタッフさんに代わりに謝ってくれたあと……わたしの手を、優しく握ってくれました。“別に何も怒ってない”って言いながら」

 たしかに繋がった彼の無骨な手に引っ張られるようにしながら、小刻みに笑う膝を伸ばして何とか立ち上がった。客席の間の狭い通路を足早に歩く黒い背中についていく。わたしたちは劇場を出るまで始終無言だった。互いを繋ぐ手の感触だけがやけにはっきりとしていた。

「一階へ降りるためのエレベーターは、人でいっぱいでした。わたしが押し潰されないようにしてくれたから、どうしても密着する感じになってしまって……そんなの、嫌でも意識しちゃうじゃないですか」

 見ず知らずの誰かに迷惑をかけるくらいならとでも言うように、伏黒くんは気まずさを引きずったままのわたしの身体を自らのほうへ引き寄せた。そしてその背中でわたしをすっぽりと隠すようにして、押し潰されるのを防いでくれた。

 人が詰め込まれた箱の中で、わたしは筋肉の付いた彼の背にそうっと額を寄せた。白い英字がシンプルにプリントされたTシャツ越しに緊張が伝わっても、わたしは体重を乗せるように額をくっ付け続けた。それが許されるのは、その一瞬だけのような気がして。

「……でも。でもね、やっぱり思うんです。伏黒くんがこうやって優しくしてくれるのは、わたしがお兄ちゃんの妹だからなんだろうなって。罪悪感がそうさせてるんだろうなって。急に申し訳なくなっちゃって、その場で伏黒くんの手を振り解きました。もうこれ以上、余計な迷惑をかけたくなかったんです」

 彼の手が離れても、優しい体温は手のひらにじんわりと残っていた。すっかり消えてしまったその温もりを鮮明に思い出そうとするように、わたしは右手をそっと握り締める。

「わたしたちは高専まで一直線に帰りました。いつもと変わらない、どうでもいいような話ばかりしながら。一緒に観た映画の感想だけは避けるようにして」

 続いていた言葉がようやく途切れると、宿儺さんが突然哄笑した。嗤笑によく似たそれにわたしの身体が反射的に緊張する。唇を三日月に裂いた宿儺さんは、笑みを孕んだ淫靡な声でわたしを謗った。

「了簡が美徳だとでも言うつもりか?下らん。全く度し難い女だな」
「……え?」
「一体誰に遠慮している。そもそもお前の意思はどこにある」
「……わたしの、意思?」
「もっと正直になれ、

 嘲笑に歪んだ唇が紡いだ言葉はわたしの内側を深々と抉る。全身から血の気が引いた。瞬きひとつできないわたしを、皮肉げな笑みが息の根を止めるようにさらに深く穿つ。

「お前が愛しているのは誰だ?」

 その瞬間、肋骨の中で波打っていた感情がたちまち凪いだ。激しい動揺が嘘のようだった。宿儺さんの質問に対する答えは、もうずっと前から用意されていたものだったから。

「……傑くんですよ。もう振られちゃいましたけど」

 今度はわたしが微笑む番だった。宿儺さんは鮮血の双眸に一瞬だけ険しい光を灯すと、すぐにそれを呆れ返った色で塗り潰してみせる。

「だとは思ったが。そういうことにしておかねば困るのはお前自身よな」
「……わたしが、困る?それってどういう意味ですか?」
「己が正義を貫いたお前には何も思い出せまい」

 落ち着き払った響きが鼓膜を打ったときには、周囲の夜がまるで明け方のように白んでいる。いつものように、別れの時間が来たのだろう。

 わたしの意識が真っ白に灼けていく。厭わしげにこちらを睨め付ける熟れた柘榴の視線だけが、白く染まった世界で最後まで確かな色を持ち続けていた。


水無月 了