「ちょっとアンタ。私は?」

 決して折れることのない芯の通った声音が鼓膜を叩いた。視線の先では、夕焼けを滲ませたような茶髪の少女がスーツ姿の中年男性に詰め寄っている。冷や汗を浮かべる男の退路を断つように胸の前で堂々と腕を組む少女の姿からは、ある種の貫禄すら感じられる。

「モデルよ、モデル。私はどうだって訊いてんの」
「いや……あの、今急いでるんで」

 あっという間に会話の主導権を握られた男はそっくり返ってたじろいだ。路面店の窓ガラスに貼り付かんばかりに後ずさるものの、強い語気で返答を求める少女の勢いに完全に呑まれてしまっている。

 流行が溢れる東京屈指の街、原宿。買ったばかりクレープとポップコーンを手にした虎杖くんは、パーティーグッズのような陽気で安っぽい眼鏡越しに少女を見つめた。

「俺たち今からアレに話しかけんの?ちょっと恥ずかしいなぁ」
「オメェもだよ」

 間断なく切り捨てたのは苛立ちを露わにした伏黒くんだった。東京を満喫する虎杖くんを睨み付ける伏黒くんを宥めるように、苦笑いを浮かべたわたしがふたりの間に割って入る。数少ない一年生がやっと揃うのだから、出来る限り険悪な空気は払拭しておきたいのだけれど。

 左から聞こえた「、ポップコーン食う?」と能天気な声音に釣られて指を伸ばせば、即座に右から「そういやお前もそっち側だったな」と肺腑を抉るような低音が耳朶を打つ。「いや、どうかな……」と曖昧に口端を引き上げつつ、わたしは伸ばした手を引っ込めた。

 今ここで虎杖くんの肩を持つのはやめておいたほうがいいだろう。後が怖い。

「食わねぇの?」と曇りのない瞳で尋ねる虎杖くんに、「今ちょっとダイエット中で……」と適当な返事を返していると、引率役の悟くんが大声を張り上げた。

「おーい、こっちこっち」

 人の溢れた街中には大小さまざまな生活音が重なり合っているせいだろう、背を向けた少女の耳には呼び掛ける声が届かなかったらしい。男を詰問する少女を見つめたまま、困り果てた様子で悟くんが肩をすくめた。

「ちっとも聞こえてないね。、悪いけどちょっと呼んできてくれない?」
「うん、わかった」

 行き交う人の波をくぐり抜けるようにして少女のほうへと駆け出せば、接近するわたしに気づいた男が疲弊の走る顔いっぱいに笑顔を咲かせる。まるで地獄で蜘蛛の糸でも発見したかのようなその輝く表情に、妙な胸騒ぎを覚えた次の瞬間。

「あっれー?!伊織さんじゃないですかぁ!こんなところで奇遇ですねぇ!」

 幾重にも重なる雑音をかき消さんばかりの大音量が響き渡った。少女の首がぐるんとこちらを振り返り、咄嗟にわたしも辺りを見渡した。しかし周囲の視線を面白いほど独占しているのはわたしひとりだけだという事実を突き付けられ、冷や汗が滲むのを感覚しながら男に視線を戻す。

 勘違いでありますように。そんな願いとともに自らを指差して首を傾げれば、男は頭がもげるのではないかと思うほど盛んに首肯してみせる。身を仰け反ったわたしは素っ頓狂な声を上げた。

「えっ?!あ、あの、人違いで――」
「ああそういえば今から次の撮影の打ち合わせでしたっけ?!私も同行しても良いですかぁ?!」

 こちらの話にはまるで聞く耳も持たず、男が凄まじい勢いで一直線に突撃してくる。笑顔を貼り付けたまま至近距離まで近付くや、ずいと身を乗り出して「さぁ行きましょう!」とどこか殺気立った声で催促した。男の目は全くと言っていいほど笑っていない。

 混乱のあまりただ立ちすくめば、男はわたしにだけ聞こえる小声で囁いた。

「すみませんが少しだけ話を合わせていただけませんか?!」
「えっ」
「お願いします!」

 断れば泡を吹いて倒れそうなほどの決死の懇願に気圧される。返事にまごつくわたしを案内するように、男が先んじて早足で歩き出した。

「早く!」と言って急かす男の勢いに流されたわたしはやや遅れてその背中を負う。「ちょっと待てやコラ!逃げんな!」と後方からドスの利いた怒声が飛び、ほとんど反射的に歩速が増した。

 行き先も告げず悟くんたちから離れてしまったことに気づいたのは、周囲の景色が様変わりしたあとだった。

 人混みを掻き分けるようにして、活気に満ち溢れた通りに面する小洒落たカフェに入る。案内された席に腰を落ち着かせるや、水玉模様のネクタイを締めた男はテーブルに額を擦り付けるように深々と頭を下げた。

「巻き込んでしまって本ッ当にすみませんでした……おかげさまで助かりました……」
「いいえ、わたしは何も……」
「お詫びと言ったらなんですが、何でも好きなものを頼んでください。ご馳走します」

 男はそう言ってテーブルにメニュー表を広げる。丁重に断ってすぐに戻ろうと思ったのに、この店の看板メニューらしき“たっぷりいちごのパンケーキ”の写真にたちまち視線が釘付けになった。三段に積み上げられたパンケーキの上には、きめ細かな生クリームと刻まれた真っ赤ないちごがふんだんに乗せられている。昼食を満足に摂れなかった胃袋がしきりに食べ物を欲していた。

「それにします?」
「……あ、はい」
「動いたばかりで暑いでしょうし、飲み物はアイスティーで良いですか?」
「じゃあ、それでお願いします……」

 いちごパンケーキの誘惑に完全敗北したわたしのスマホが、無機質な音とともに悟くんからの着信を知らせる。男に促されるようにして、わたしはスマホに耳を添えた。

、どしたの?誘拐?誘拐なら身代金払うって。恵が」
「何で俺なんですか」

 明瞭な悟くんの声に続いて、おぼろげな伏黒くんの声が鼓膜を叩く。きっと通話する悟くんのすぐそばにいるのだろう。わたしが経緯と居場所を簡単に説明すると、「まぁ抜きでもいっか」と軽薄な声音が聞こえてくる。

「多分そこなら安全だろうし、美味しいパンケーキでも食べてのんびり待っててよ。ちゃんとあとで迎えに行くから。恵が」
「……わかりました」
「ちょっとちょっと恵~!そこは“何で俺なんですか”って言うとこだけど~?!」
「いい加減ぶん殴っても良いですか?」

 ひどく不満げな響きを残して通話は切れた。ひとり勝手にはぐれたわたしの回収という面倒事を押し付けられた伏黒くんに同情を覚えつつ、そっと視線を持ち上げれば、男は「誘拐じゃないですよ!?」と額に汗を滲ませて否定する。どうやら会話が筒抜けになっていたらしい。

 注文を終えた男は改まった様子で恭しく名刺を差し出しながら、わたしの誤解を解くため手短に自己紹介を行った。聞けば、男はわたしもよく知る著名人が多数所属している大手芸能事務所に勤めているという。

 運ばれてきたアイスコーヒーに何も入れずに口を付けると、男は申し訳なさそうに身体を縮こませる。

「スカウトの仕事をしていると稀にああいう方に出くわすのですが……あんなに勢いのある方は最近では珍しくて……」
「ずっとスカウトのお仕事をされてるんですか?」
「もちろんそれだけではないんですが、入社して以来ずっとそんな感じですねぇ。うれしいことに、私が声を掛けたタレントが立て続けに売れまして」

 入社して以来――その言葉に僅かな疑念を覚えたわたしは、言葉を選びながら慎重に尋ねた。

「スカウトをするのって東京だけですか?」
「そんなこともないですよ。原石を探して地方まで足を延ばすこともあって――」
「あの、刀祢樹って名前を聞いたことはありませんか?」

 身を乗り出すように前のめりに問いかければ、「刀祢樹?」と怪訝な表情を浮かべた男が小さく首をひねる。しっかりと年齢を重ねているように見える男に対し、わたしはことさらゆっくりと言葉を紡いだ。

「仙台の小さな劇団に所属していて、十年前に行方不明になった男子中学生なんですけど」
「……ああ、いたいた!蛇神に祟られた神童だ!」

 何かに弾かれたように、男は突然大きな声を上げた。はっと我に返るや一点に注がれる周囲の視線に気づき、居心地が悪そうに背中をやや丸める。小さくなった男にわたしはそっと尋ねた。

「……蛇神に祟られた、って?」
「“安易に蛇神を演じたせいで怒りを買った、蛇神の祟りだ神隠しだ”って、当時ちょっとした噂になったんですよ」

 夜逃げの相談でも持ちかけるように、男は小声で囁き始めた。

「役者にも色々なタイプがいるんですけど、“神童”刀祢樹――彼は完全な憑依型でした」
「憑依型?」
「役になりきっちゃうんですよ。しかも彼の場合は四六時中、まるでその役として生きてきたみたいに。私も何度か観たことがあるんですけど、まさかあの若さであの境地に達しているなんて……何と言うか、ちょっと怖いくらいでしたね。本当に取り憑かれているみたいだったので」
「刀祢樹さんが、その“蛇神”を演じたのはいつですか?」
「それが舞台では一度も演じてないんですよねぇ。初公演の前にあんなことになっちゃって……最後に会ったときは“悲しい蛇神の役をやるんです”ってすごく張り切ってたのになぁ……あ、どうやらそこから祟りだの神隠しだのって噂に繋がったらしいんですけど」
「蛇神を演じるはずだった舞台の台本って――」
「残念ながら、もう一冊も残っていないんですよ……」

 先手を打つように言葉を遮った男は、血の気の引いた顔を左右に振った。青白い額に浮かぶ冷や汗をハンカチで拭いながら、囁くような声を継ぐ。

「刀祢君とその家族の不幸が蛇神の祟りや神隠しの噂に繋がった理由が他にもありまして……役者や関係者の手に保管されていたはずの台本が、何故か一冊残らず消失しているんです。しかも舞台が演じられるはずだった小劇場が不審火で全焼、そこに燃えた台本らしきものがあったとかなかったとか……データも残っていないと聞きましたよ。気味悪がった監督が舞台に関するものを全てお祓いに出して焼いてもらったそうですから」
「……不審火」
「彼が行方不明になったって聞いて残念でしたよ。若いし将来性も抜群だったから絶対売れると思ってましたし」

 男はそこで言葉を切ると、無糖のアイスコーヒーを喉奥に流し込んだ。みるみるうちにグラスが空になる。偶然が呼び込んだ思いがけない収穫を無駄にすまいと、わたしは頭の中で情報をひとつずつ整理する。戻ったらすぐにでも伏黒くんに伝えなければと考えたところで、まるでタイミングを見計らったかのようにいちごパンケーキが運ばれてきた。

 食べるのが勿体ないほどのそれに目を瞠るわたしを見つめながら、男は「ところで話は変わるのですが」と邪気のない笑顔で切り出した。

さん、モデルの仕事に興味はないですか?演技の仕事をしてみたいと思ったことは?」
「……えっと、それって」
「ええ、もちろんスカウトです」

 笑みを浮かべて断言する男に、わたしはかぶりを振って即座に応える。

「ごめんなさい。人前に出るのってあまり得意じゃなくて……それに、今はどうしても成し遂げたいことがあるんです。だから……本当にごめんなさい」
「そうですか……すごく残念です。もし気が変わったら、名刺の番号にいつでもご連絡ください」

 その言葉に頷きながら精一杯の愛想笑いを拵えれば、満足した様子で男は伝票を手に立ち上がった。「私はそろそろお暇しますね」と言ったあと、ふと何かを思い出したように首を傾げる。

「そういえば、どうして刀祢君について?」
「知り合いが刀祢樹さんにそっくりで。それで少しだけ気になっちゃって」
「……知り合い」

 わたしの言葉を口の中で小さく繰り返した男は、さらにひとつ質問を重ねた。

さんって、映画はお好きですか?」
「映画ですか?人並みには好きですけど……」

 話の流れを無視したその質問の意図を掴み切れぬまま、わたしは訥々と答えを口にする。男は明るい表情を浮かべると、懐から取り出した薄っぺらいチケットを二枚差し出した。

「じゃあコレ、どうぞ。今週から公開される映画の無料券です。巻き込んでしまったお詫びも兼ねて」
「いえ、あの、そんな……わたしのほうこそ貴重なお話を聞かせてもらいましたし……」
「余ってるんで遠慮なさらず。恋愛モノなんですけど、もし良ければ刀祢君にそっくりな方とご一緒に」

 せっかくの厚意を無下にするわけにもいかず、わたしは「ありがとうございます」と会釈しながら映画の無料券を受け取った。会計を済ませた男が一度だけこちらを振り返り、人の良さそうな笑みとともに小さく頭を下げる。その後ろ姿は賑やかな人混みに紛れるようにしてあっという間に消えた。

 甘ったるいパンケーキをひとり黙々と頬張りながら、テーブルの上に置いた二枚のチケットに視線を送る。男の残した言葉が耳の奥で響いていた。恋愛映画など絶対に嫌がられるだろうし、そもそも休日までわたしの我儘に付き合わせるわけにもいかないだろう。だからといって、伏黒くんではない誰かを誘う気にもなれなかった。

 ひとりで行くことに決めたわたしは、生クリームがたっぷり乗っかったパンケーキをそうっと口に運んだ。