経年劣化した木製の戸を叩けば、耳障りの良い乾いた音が響き渡る。暮夜の名残が漂う静謐な廊下に連続したその音が執拗に鳴り響くや、閉じた扉の向こうから不機嫌そうな重い足音が聞こえてくる。

「うるせぇな、今何時だと思ってんだ。昼飯食べたら正門前に集合って――は?」
「おはよう、伏黒くん」

 半開きの扉から鬱陶しげに顔を覗かせた彼に、わたしはぎこちない笑顔を向けた。寝癖の付いた黒い前髪の奥で、眠気を含んだ白群の瞳が驚愕に揺れる。

「……何でここに?お前、今日は五条先生と任務だろ?」

 もっともな質問にわたしは小さく肩をすくめた。

「祓う予定だった呪霊の等級に手違いがあったらしくて、任務は悟くんひとりで行くことになったんだ。だから代わりにわたしは伏黒くんと別の任務に行くことになって……何も聞いてないよね、急にごめんなさい」

 謝罪の言葉に続いて、「一応ここに来る前に連絡したんだけど、既読にならなくて」と男子寮に忍び込んだ言い訳を念のため付け加えておく。伏黒くんは厳しく眉根を寄せた。

「……あの人最初からそのつもりだったな」
「え?」
「何でもねぇよ。で、任務の内容は?呪霊を祓うのか?」

 起き抜けの乾燥した低い声音に、わたしはかぶりを振って否定を示す。

「ううん、高専の裏山で護摩に使う薬草採りだよ。ついでに夕食の小鉢用に山菜も採ろうかなぁって。急なお願いで大変申し訳ないのですが、同行よろしくお願いします」

 謹直に頭を下げたわたしが視線を持ち上げれば、彼はどこか困惑した様子で後頭部を掻いた。

「薬草に山菜って……そういうのは狗巻先輩のほうが詳しいだろ。何で俺なんだよ」
「わたしが指名しました」
「……が、俺を?」

 意表を突かれたような響きに気まずさを覚える。苦い笑みとともに小さく頷くと、訥々と理由を口にした。

「きっと迷惑だろうなってわかってたけど、伏黒くんと一緒だと安心できるから、つい……あっ、早起きしたからお弁当も作ったんだよ。でもこれ全部わたしひとりじゃ食べきれないし、一緒に来てもらえるとすごく助かります……」

 手にしたトートバッグを示しながら、わたしは縋るように言葉を紡いだ。優しい伏黒くんならば突然のお願いでも一緒に来てくれるだろうと見込んでの指名だったのだけれど、今日は何故か特別渋られているような気がする。寝耳に水の急な話だからだろうか。それとも任務内容が呪霊祓除ではないからだろうか。否、そもそも彼の優しさに付け込もうとするその考え自体が間違いなのだろう。

 潔く諦めようと思った矢先、伏黒くんが素っ気ない口調で切り出した。

「……植物図鑑は持ってんのか。軍手とか虫除けは?」
「薬草の図鑑と虫除けスプレーは貸してもらったけど、軍手は持ってないかも……」
「わかった。寮の前で十分だけ待ってろ」

 口早に言い残して彼は部屋の中へ消えた。閉まった扉に向かって「ありがとう!」と喜びを露わにした声で言う。浮足立つわたしは一階へと繋がる階段を跳ねるように下りた。

 きっかり十分後に再び現れた伏黒くんは身なりを整えていたものの、前髪に少しだけ寝癖が付いていた。小さく笑みをこぼせば、睨め付けるような視線とともに「何だ」と低い声で問われる。

「寝癖付いてる」
「……仕方ねぇだろ。時間がなかった」
「急いでくれてありがとう」

 顔を覗き込んで笑ってみせると、眉間に皺を刻んだ彼がそっぽを向いた。変な癖の付いた前髪がこちらから見えないようにして。そしてわたしが何かを言うよりもずっと早く、「行くぞ」と無愛想に告げて大股で歩き出す。その明らかな照れ隠しに、わたしはますます笑ってしまった。



* * *




「いただきます」

 感謝を込めた小さな挨拶が聞こえてふと目を上げれば、伏黒くんが長方形の容器に隙間なく詰められたサンドイッチを口に運んでいる。他愛もない食前の挨拶になんだかうれしくなりながら、わたしは水筒に入った紅茶を紙コップに注いでいく。深緑の茂る山中にレジャーシートを敷いて、気分はまるでピクニックだった。

「……うまいな」

 ハムたまごサンドを頬張る伏黒くんがひどく驚いた様子で呟いた。わたしは紙コップを差し出しつつ、茶目っぽく首を傾げてみせる。

「本当?好きなだけ駄目出ししていいよ?」
「いや、冗談抜きでうまい」

 きっぱりと言い切ると、食べかけのサンドイッチをたった一口で平らげてしまった。彼はどこか遠慮がちに、頭が痛くなるほどに冷えたアールグレイの入った紙コップを受け取る。紅茶に口を付けながらも、彼の焦点は次に食べるサンドイッチを選り分ける作業に入っている。その様子にわたしはほっと安堵の笑みをこぼした。

「お口に合って良かったです。遠慮せずにいっぱい食べてね」
「……はどれくらい食べるんだ?」
「えっ、わたし?」
「俺は残った分でいい」
「……伏黒くん、お腹空いてないの?」
「違う。逆だ」

 伏黒くんはふたつ並んだ大きなサンドイッチケースに視線を落としたまま、凛々しく整った秀眉をひどく険しげに寄せる。

「これくらいならひとりで全部食えるからな。うまいし」

 その言葉に思わずポカンとなった。白群の視線を追うように、色とりどりのサンドイッチがみっちりと詰め込まれた容器を見つめる。

 朝食はもちろん食べていないだろうし、薬草と山菜を採り終えて体力も消耗した彼の空腹は最高潮だろう。たとえそうだとしても、これはひとりで食べ切れる量ではない気がするのだが。

 食べ盛りの男子高校生の胃袋を舐めていたことを深く反省した。わたしは自分の食べる分をずいぶん少なく見積もって取り出すと、その残り全てを伏黒くんに差し出した。

 手にしたばかりのクラブハウスサンドをぺろりと胃に収めてしまった彼を見やりながら、わたしはトマトとレタスが挟まったサンドイッチに手を伸ばした。

「虎杖くんも呼びたかったね」
「アイツなら俺の倍は食うけどな」
「……呼ばなくて良かったかも」

 わたしが肩をすくめると、伏黒くんは無言で会話を切り上げてサンドイッチを黙々と食べ進める。あっという間にひとつめのサンドイッチケースが空になった。

 残念なことに、虎杖くんは入学手続きのため不参加だった。冷えた紅茶を少量含みつつ、目の前の彼を盗み見る。彼の纏う空気が先ほどよりも硬度を増していた。

 薬草を探している最中もそうだった。「虎杖くんも誘うつもりだったのになぁ」と肩を落とせば、何故か急に彼の口数が減った。わたしの知らないところで虎杖くんと何かあったのだろうか。もしくは、まだ何も知らない虎杖くんを気軽に誘うのは乗り気ではないのかもしれない。

 伏黒くんの考えに今ひとつ理解が及ばないでいると、わたしの思考の中心にいる彼が思い出したように口火を切った。

「あの暗号、解けたぞ」

 その言葉は脳内ですぐに繋がらず、わたしは何度か瞬きを繰り返した。小さなため息を落とした彼が呆れ顔で呟く。

「……青い薔薇」
「あっ!あのよくわかんない数字とアルファベットの?」

 わたしの問いに頷きつつ紅茶を一口含むと、懐から色褪せたメッセージカードを取り出して淡々と話し始めた。

「16進数で書かれたものだった。暗号の手法としては特に珍しくもないな」
「……ごめんなさい。進数って何?」
「コンピュータなんかでよく使われる数値の表記方法だ。コンピュータやスマホ、ネットで扱われるあるとあらゆるデータは全て0と1の羅列で成り立ってる――って話はその様子じゃ聞いたこともなさそうだな。実際プログラミングで使用されているのは2進数よりアルファベットを加えた16進数の場合が多いらしい」

 半分も理解できなかった説明に適当な相槌を返して、メッセージカードに視線を送る。青いインクで綴られた小さな英数字の羅列――“e38182e381aee7b484e69d9fe38081e5bf98e3828ce3819fe381aeefbc9f”。難解な暗号を解いたというのに、伏黒くんの表情はどこか無機的だった。抑揚のない声音が深緑の静けさに沈む。

「科学を理解するならと思って調べてみれば案の定だ」
「……科学を理解する?」
「杉沢病院でばら撒かれた入手経路不明の非致死性ガス……伊地知さんによれば独自に製造されたものと見てほぼ間違いないそうだ。人間の文化を理解するほど知能が高いってのは、多分そういうことでもあるんだろ」
「暗号には何て書かれてたの?」

 その先を急かすように話の腰を折れば、彼はこちらをまっすぐ見据えながら抑揚のない響きで告げる。

「――“あの約束、忘れたの?”」
「……え?」
「お前、鱗の呪いと何を約束したんだ?」

 隠し切れない疑念と戸惑いの滲んだ声音が耳朶を打つ。問いかける口調そのものはひどく優しかった。わたしを気遣って言葉を選んでくれているのだとすぐにわかるほどに。

 寒くもないのに何故か指先が小刻みに震えている。脳と身体がうまく繋がっていない感じがした。それを隠すように握り拳を作ると、わたしは目を伏せて首を小さく左右に振る。

「ごめんなさい、何も覚えてない……思い出せない……」
「だと思った。最初から微塵も期待してねぇから気にすんな」

 愛想の欠けた淡泊な返答に下唇を噛む。お兄ちゃんのことも、双子のお兄ちゃんのことも、鱗の呪いとの約束のことも、全てそうだ。少しずつ浮かび上がる点と点が一向に線にならないのは明らかにわたしのせいだった。手がかりはきっとわたしの中にある。伏黒くんも、それをわかっているはずなのに。

「約束の内容が“縛り”じゃなけりゃ良いんだけどな」

 独り言ちる声音は真剣そのものだった。肋骨に覆われた胸の中央から張り詰めたものが溶け出していく感じがした。向けられた優しさに本気で寄り掛かろうとしている自分に気づき、硬く握った手のひらに爪を深く食い込ませる。

 お兄ちゃんとの約束を律義に守っているだけの彼に、これ以上何を求めるつもりなのだろう。

 わたしは曖昧な笑みを返すと、彩り豊かなサンドイッチに手を伸ばした。