身体に纏わりつくような粘り気のある暗黒に、急に光が差し込んだ。薄っすらとこじ開けた目蓋の隙間を射すそれは、けれども光と呼ぶにはあまりにも弱々しく頼りない。輪郭のない杏子色を感覚しながら、意識がゆっくりと浮上していく。

 ――もう起きなきゃいけない時間だっけ?

 つい先ほど眠りについたような気がするけれど、溜まった疲労からの勘違いだろうか。それともうっかり目が覚めてしまったのだろうか。もしかしたら、悟くんから命じられた早朝任務に身構え過ぎたのかもしれない。

 設定したアラームはまだ鳴り響いていない。朝の支度をする時間はまだまだ遠いと判断し、頼りなげな光を追い出そうと目蓋を閉じようとして――後頭部を支える枕が妙に硬いことに気がついた。その違和感が芋づる式に寝心地の悪さを呼び起こす。

「……眠れない」

 小さく呻きながら、覚えのないほど硬質なベッドから身を起こしたところで、わたしは山積した白い骨の上に大の字になっている自分を発見した。声にならない小さな悲鳴をこぼすと、戦慄した身体を両腕で抱きしめて周囲を見渡す。

 そこは眠りに落ちたはずの自室ではなかった。静謐な暮夜を溶かし込んで作ったような空間だった。ひと目見ただけで人間の住居ではないことを理解する。天井もなければ壁もなく、光源と呼べるものが何ひとつ見当たらないというのに、あたりは何故かぼんやりとした杏子色に染まっていた。

 視界のあちこちに、死んだ生き物の頭蓋骨で出来た山がいくつも盛り上がっている。歪曲した角の生えたそれは鹿の一種だろうか。ひどく混乱する頭を懸命に働かせつつ、自分の頬を叩いて鋭い痛みが伴うことを確認した。

「……夢、じゃない?」

 おびただしい量の白骨の上にそっと立ち上がると、何を溶かしたのか想像もつかない黒い海に沿って慎重に歩き始める。歩くたびに骨と骨が擦れ合う乾いた音が響く。気の滅入るような淀んだ空気が充満した空間をしばらく進めば、一際高く積み上げられた山の上に人影が見えた。

 薄ら明かりの中でもわかる、上下で色の異なる刈り上げた短髪。明るく脱色した金髪と墨汁を混ぜたような黒髪は間違いなく彼のトレードマークだろう。こちらに背を向けて座り込む少年に、わたしはそっと声を掛けた。

「虎杖くん」
「俺と小僧を間違うとは良い度胸だな」

 静寂を裂くように響き渡ったその声音に瞠目する。濁りなく澄んだ虎杖くんの声色とはまるで違う、その禍々しく淫靡な響きにぞわりと鳥肌が立つ。

 悠然とこちらを振り返った和装の少年のかんばせは、驚くべきことに虎杖くんと瓜二つだった。その肌には刺青めいた黒い呪印が刻まれ、見据える双眸は血を垂らしたように爛々と赤く輝いている。

 こちらに対する敵意は感じられない。しかし耳の奥でずっと妙な音が響いている。金属を引っ掻いた音と激しく降り注ぐ驟雨の音を撹拌させたようなそれは、杉沢病院で聞いたものと全く同じものだった。思考や会話の邪魔にならない程度の耳鳴りを意識から外し、警戒心を抱いたまま少年に質問を投げかける。

「……あなたは?」
「とうに名乗ったが」

 ひどく素っ気ない言葉が記憶の蓋をこじ開けた。普段の胡散臭さが鳴りを潜めた響きが、頭の後ろでうわんと反響する。

「宿儺を取り込んだ悠仁を見て何か思い出すことは?」

 わたしは赤い瞳の少年を見上げて、小さく首を傾げた。

「……えっと、もしかして両面宿儺さんですか?」

 しかし少年は何も答えず、どこか呆れた様子で嘆息しただけだった。否定をしなかったところを見る限り、おそらくその名で正解なのだろう。その名は教科書で何度も見たし、呪術史のテストにも出題された。教科書や図録に載っていた不吉な肖像画とは全く異なる相貌を食い入るように見やる。まるで街中で偶然にも有名人に遭遇したかのような気分だった。

 少しでも宿儺さんに近付こうとわたしは一歩踏み出したものの、足の置き場が悪かったのか骨の上で踵が滑った。あ、と思ったときにはすでに視界が回り始めている。慌てて軸足で踏ん張ろうとしたけれど間に合うはずもなく、わたしは山積した白骨に背中から倒れ込んでしまった。

「……痛い」

 背面に広がる鈍痛に顔をしかめていると、漆黒の空を映していた視界にぬっと宿儺さんが現れる。その場にしゃがみ込んで呆れ返った瞳でこちらを見下ろす呪いの王は、小さなため息をひとつ吐き出した。

「相変わらず鈍臭い女だな」

 足場が悪いからに違いないと腹の底で責任転嫁しつつ、熟れた柘榴色の双眸をじっと見つめる。

「あの、つかぬことをお尋ねしますが……ここは一体どこですか?」
「俺の生得領域だ」
「どうしてわたしが宿儺さんの領域に――ふがっ」

 何の前触れもなく宿儺さんに鼻をぎゅっと摘ままれ、呼吸が止まったわたしは焦った。すぐに口呼吸に切り替えて、「……宿儺さん?」と戦々恐々と名前を呼ぶ。鼻に走る痛みがますます鋭さを増して、わたしは思わず眉根を寄せた。宿儺さんが再びため息をこぼした。

「お前の天命は嫌と言うほどに知っているが、流石に腹も立つ」
「……えっと」

 返答に窮して目を泳がせていると、鼻を摘まむ指がようやく離れた。視界から宿儺さんが消えたことを確認し、赤くなっているであろう鼻を隠すように押さえて片腕だけで上体を起こす。振り返った視線の先で、宿儺さんが胡坐をかいていた。

「あの術師が言っていた。家族を殺された復讐のために術師になったそうだな」

 あの術師とは悟くんのことだろうか。宿儺さんと向かい合うように正座すると、居住まいを正して肯定を示すように小さく頷いてみせた。するとその直後、宿儺さんの口元が忌まわしいほどの嗤笑に歪んだ。

「そうか……ならばちょうど良い」

 そう言って頬杖をつくと、宿儺さんは満腔の悪意に満ちた嘲弄の響きを寄越した。

「時間もないことだ、今すぐお前の話をしろ。さもなくば殺す」

 あまりに唐突な命令とついでのように付け足された不穏な台詞が、わたしの心拍数を一気に上昇させる。従わなければ言葉通りに殺されると直感した。こちらに向けられた骨身を貫くような明確な殺意は、冗談で口にした言葉ではないことを証明するためだろう。

 肌の上にびっしりと冷や汗が滲んだ。奥歯を噛みしめながら、纏う空気の変わった宿儺さんを見据える。相変わらず敵意はない。けれどもそこには殺意はあった。ほんの気まぐれで殺されることを予感した。

「早くしろ」

 急かす言葉に身体が強張る。値踏みするようなその視線に居心地が悪くなり、わたしは目を逸らしながら首をひねった。

「……わたしの話、ですか?えっと、あの、それって例えばどういう内容の……」
「色恋の話に決まっておろうが」

 かの呪いの王の口から出たとは到底思えぬ突飛な言葉に、わたしは何度も目を瞬いてしまった。人の趣味嗜好はさまざまだから、宿儺さんのそれにとやかく言うつもりはない。けれどもどうしてわたしが恋バナの相手に選ばれたのかは、正直よくわからなかった。

 適任者は他にも大勢いるのではないだろうか。例えばモテまくりの悟くんは幾度となく修羅場をくぐり抜けているから話題には事欠かないし、きゅんと切ない片想いの話が聞きたいなら伊地知さんをおいて他にいないだろう。そもそも自身の器である虎杖くんから話を聞くのが最適解であるように思うのだが。

 こちらを見つめる宿儺さんをちらりと一瞥する。誰にも縛られない悟くんと似たような空気を感じ取り、宿儺さん自身きっと恋愛経験が豊富なのだろうと勝手に判断する。どうせ幼いわたしの恋愛話など“つまらない”と吐き捨てられるのがオチだ。呪いの王たる宿儺さんの時間を無駄にするのも忍びないし、ここは早々に諦めてもらったほうが良いような気がする。

 隙間なく揃えた膝に視線を送りながら、わたしは言い訳めいた言葉を口早に紡いだ。

「宿儺さんの期待を裏切るようで大変申し訳ないのですが、わたし、恋愛経験ってほとんどないですし、というか他人に話せるような面白いエピソードなんて何ひとつ――」
「御託はいらん。話せ」

 鋼鉄をも一刀両断しそうな鋭い声音の前に、わたしの企図は脆くも崩れ去る。小さく肩を落として、躊躇いを含んだ視線を黒い海へと滑らせた。その深い色が色褪せることのない記憶と重なっていく。わたしは膝を抱えると、言葉を選びながら話し始めた。

「……夏になると、夜の海によく連れて行ってもらいました」

 鼻孔を焦がす潮風の匂いが甦るような気がした。

「お兄ちゃんが仕事で遅くなる日か泊まりの出張でいない日、太陽が沈んだ頃にそうっと家を出るんです。今すごく悪いことしてるなぁって思いながら。でも罪悪感なんて車に乗るとすぐに忘れちゃう。熱帯夜の中、窓を全開にしてドライブをするのが楽しすぎて。夢中になって他愛もない話をしました。学校の話とかテレビの話、あとは好きな音楽の話とか。そのうち海が近付いてくると潮の香りがする、あの瞬間が大好きでした」

 目前で聞き入る宿儺さんではなく、自分の中にいる誰かと対話するように、わたしは静かに言葉を継いだ。

「近くのコンビニで飲み物とアイスを買ってもらって、暑さなんて関係なく手を繋いで、ちょっと溶けたアイスをかじりながら、近場の駐車場から海までのんびり歩いて。潮の香りが強くなると、地面がコンクリートから砂利へ変わるんです。歩きにくいねって笑いながら、ひたすら海を目指して歩きました」

 じっとりと湿った生ぬるいあの空気の中にいるような錯覚を覚えた。人影のない砂浜の向こうで、空と海の境界線が溶けている。暮夜を含んで混ざり合うその光景はどこまでも孤独だったけれど、手を伝う温もりが寂しさをいくらか和らげてくれた。ひとりではないとたしかに教えてくれた。

「海に入るわけでもなく、砂浜から広い海を見てしばらく話すだけ。空なのか海なのかわからないそれを眺める横顔をこっそり見上げるその時間が、本当に、本当に大好きでした」

 そこで言葉を切ると、膝を強く抱き寄せる。眼前に横たわる黒を溶かした海を見つめたまま、じわりと滲んだ空しさを小さな声に乗せた。

「……でも“妹”として愛してもらうだけじゃ、もう物足りなくなってしまって。ひとりの女性として接してほしかった。大勢の“家族”のひとりじゃなくて、たったひとりの“恋人”になりたかった」

 続きを促す沈黙に甘えるように、わたしは訥々と事の結末を口にする。

「去年のクリスマス、勇気を振り絞って告白したけど……振られちゃいました。少しでも意識して欲しくてキスまでしたのに、それから全く連絡が来なくなっちゃって……大失敗です。どうしたら良かったんでしょうね」

 ぎこちなく笑んで見せれば、わたしの話にじっと聞き入っていた宿儺さんが頬杖をついたまま唇を割った。

「お前の今の年齢から考えて、その相手はうんと年上だな。だが尻の青い生娘に手を出すほど飢えてはいない。お前とは昔から親しいが、おそらく常に会える関係ではないはずだ。そして自らについては多くを語ることはないか、もしくは一切立ち入ることを許さない。お前をとことん甘やかす、詐欺師じみた嘘吐きな男。極め付けは――まぁこれはいいだろう」

 勿体ぶるように含み笑った宿儺さんの言葉に、わたしは開いた口が塞がらなかった。感情の凪いだ双眸を見つめながら、湧いた疑問を迷いなく紡いだ。

「どうしてそこまでわかるんですか?」
「条件を満たす相手だからな」
「……条件って?」
「お前は端から理解していたはずだ。叶う訳がないと。その男がお前を選ぶことなど絶対に有り得んと。全く変わっていないな」

 鋭い視線でこちらを睨め付けると、嫌味をたっぷり塗した声音を放った。

「悲恋に酔い痴れ自己完結。滅私奉公と言えば聞こえは良いが、衆生のため術式のため、都合の良い男を選んで何が愉しい」

 汚ない物でも投げ捨てるように、宿儺さんは忌々しげに吐き捨てる。

「それとも何だ、己が運命に呪詛を吐く色恋は二度と御免だと?それは殊勝なことだな」

 それ以上は居た堪れず、わたしは膝を抱き寄せながら顔を伏せた。一片の隙も無く並べ立てられたその言葉の意味を全て理解したわけではないけれど、宿儺さんがわたしの恋愛に対して苛立ちを覚えていることだけは充分にわかる。そして半分も理解の及ばない指摘に対して、わたし自身何故か深く動揺していることも。

「――時間か」

 そう呟く声に誘われるようにわたしはそっと顔を持ち上げ、信じられぬ光景に目を大きく瞠った。鼻先を埋めていたはずの両膝が薄っすらと透けている。息を呑んで手のひらを見つめれば、半透明になったそれの奥に白い頭蓋骨の山が見えていた。

 徐々に色彩を失う自らの肉体に目を瞬かせるわたしの耳朶を、ひどく歪で禍々しい声音が叩いた。

「これから毎晩ここへ呼ぶ。何を話すかよく考えておけ」
「えっ、毎晩ですか?」

 さも当然のように冷めた顔を寄越した宿儺さんに、わたしは確認するように問いかける。

「……それってやっぱり恋の話ですよね?今話したばかりなのに?」
「さっきの男の話はもういい。好みの男や理想の男の話のほうが良いだろうな。もしくは好きな男と共に行きたい場所の話でも構わんが……いや、手っ取り早く済ませるならアレに限るか」
「アレ?」
「お前、絶対に恋仲になりたくない男がひとりいるだろう」

 欠けた弦月のように吊り上がった邪悪な唇が、わたしの記憶を刺激する。罪悪感に滲む白群の双眸が浮かび上がり、やや間を置いてわたしは小さく頷いた。

「しばらくはその男について話せ。拒めば殺す」
「……どうしてその話を?」
「今にわかる」

 目を細めた宿儺さんの嗤笑に嫌な予感を覚える。立ち上がった宿儺さんを追いかけようとしたものの、身体が思うように動かなかった。透けた肉体は僅かな輪郭を残しているだけで、感覚がほとんど失われている。頭の後ろで意識が少しずつ蝕まれていた。全てが消えてしまう前にと、わたしは懸命に声を振り絞った。

「宿儺さんはどうしてそんなにわたしの話を聞きたいんですか?」
「無論、解呪するためだ」

 熟した柘榴に似た双眸が狂熱的な光を湛えていた。硬質な怒気を孕んだ静かな声音が、生得領域から消失する意識を木っ端微塵に切り刻んでいく。

「それが俺の“正しい復讐”だからな――