遠くのほうで、誰かの騒がしい声がする。微睡みの海から現実の岸辺へと浮上すると、伏黒恵は目蓋をゆっくりと持ち上げた。熟睡したせいだろう、これ以上ないほど頭が冴えている。

 東京に戻ってすぐ、家入の反転術式による治療を受けた恵は、自室のベッドに雪崩れ込むや気を失うように眠りに落ちた。あれほど身体を蝕んでいた疼痛や疲労感はもうすっかりなくなり、痛みのせいで鈍っていた五感が正常に働いていることを感覚する。

 年季の入った天井を見つめると、恵は大きな欠伸をひとつ落とした。もう少しだけ寝ていたいと思った。閉じた唇の上に甦りかけた、あの柔らかな感触から意識を遠ざける。まだ寝足りないような気がしたし、眠っているうちはのことを忘れられるのも事実だった。もちろん、妙な夢を見なければの話だが。

 惰眠にも等しい二度寝を決め込み、再び意識を眠りの底に沈めようとしたそのとき――部屋の壁を伝うように聞こえた明るい声が、恵を現実へ引きずり戻した。

 意識が急速に覚醒し、思考の輪が廻り始める。恵はベッドから起き上がると、溢れた生欠伸を噛み殺しながら部屋を出た。その直後、左方向から響いたのは金属の軋むような小さな音だった。

 左右に伸びる木造の廊下を撫でるように、音のしたほうへ視線を移動させる。何故か長らく空室だったはずの隣室の扉が開いていた。

 稲妻のように全身を走り抜けた嫌な予感を現実にするように、そこから出てきたのはやけに上背のある白髪の男――五条悟そのひとだった。全てを察した恵の顔が大きく歪み、次いで「げ。隣かよ」と心底嫌そうに低い声を漏らす。

 こちらに気づいた五条と目が合うや、恵はうなじを押さえながら文句を口にした。

「空室なんて他にいくらでもあったでしょ」

 呆れと苛立ちが綯い交ぜになった恵の声音が耳に届いたのだろう、五条に続くようにして、開け放たれた扉から金髪の少年が顔を覗かせる。

「おっ、伏黒!今度こそ元気そうだな!」

 廊下に飛び出してきた虎杖悠仁は明るく澄んだ声音を弾ませる。悠仁を無言で一瞥した恵に、五条は軽薄な笑みを向けた。

「だって賑やかなほうがいいでしょ?」
「授業と任務で充分です」
「まっ、いいっしょ!」

 しかし精一杯の反論はいとも容易く左から右へと流されてしまった。良くないと胸の内で思ったものの、この男の前では全ての反駁が無に返されることを理解している恵は、潔く諦めて唇を閉じた。

 口端を吊り上げた五条が楽しげに手を打ち鳴らし、やけに弾んだ口調で高らかに告げる。

「それより明日はお出かけだよ!」

 吊り込まれるように恵と悠仁がまっすぐ見据えれば、五条は説明を促す生徒の視線にすぐさま応えてみせた。

「四人目の一年生を迎えに行きます。ってことで恵、にも連絡しておいてくれる?午後一時、原宿駅に集合って」
「わかりました。三人で向かえば良いんですよね?」
が間に合うならね」
「アイツ明日どっか行くんですか?」

 引っ掛かりを覚えた恵が問うと、虚言を弄する者特有の胡散臭い笑みが返ってくる。

「まあね。、午前中は任務だから」

 予想だにしない答えに恵は面喰らったが、漆黒の目隠しに隠された視線を突き刺さんばかりに恵へと注ぐ五条の思惑には勘付いていた。恵は自制心の限りを尽くして平静を装ってみせる。

「そういうことならには現地集合の旨を伝えておきます」
「任務の内容も誰と行くかも訊かないんだ?」
「別に興味ないんで」

 素っ気なく吐き捨てた恵を、五条は胡乱げな面持ちでしばらく見つめた。何か言いたげなその表情に、氷塊めいた不快な感覚が背筋を伝う。やがて沈黙に耐え切れなくなった恵は、顔をしかめて詰問した。

「……俺に何か言いたいことがあるんでしょ」
「ないよ。今のところはね」

 皮肉っぽい微笑を浮かべながら大袈裟にかぶりを振ると、五条はその鼻先を悠仁のほうへ滑らせる。そして「わかんないことは恵に全部訊いてね」とだけ言い残し、いつもと変わらぬ悠々とした足取りで男子寮を去っていった。会話を交わしたのはほんの数分だというのに、すでに凄まじい疲労感が恵を襲っている。

 やけに長いため息をひとつ落とした恵は悠仁に向き直った。“軽薄”という言葉が服を着て歩いているような男のことだ、寮生活について碌な説明もなく悠仁をここに連れて来たのだろう。ともに共同生活を送るにあたっての最低限のルール、そして共有スペースの掃除やゴミ出しといった当番制の役割分担。つまり恵が全て一から教えろということだ。面倒事を押し付けられたのは明白だった。

 根が真面目な上に、先輩である棘やパンダに余計な迷惑をかけたくない恵は、渋々思考の糸を廻らせ始める。何から教えるべきかを脳内で整理していると、

「ずっと気になってたんだけどさ」

と、唐突に悠仁が口火を切った。その口調はひどく滑らかで明るく、躊躇いや後ろめたさを含んでいる様子は一切ない。どうせ大したことでもないだろうと、恵が無愛想に「なんだ」と促せば、不思議そうな顔をした悠仁は悪意のない声音で言葉を継いだ。

「ぶっちゃけと伏黒ってどういう関係なわけ?」
「……は?」
「付き合ってんの?」
「んなわけねぇだろ……」

 予想の斜め上を行く質問に、苛立ちも呆れも通り越した複雑な表情で恵は呻いた。碌でもない勘違いは今ここで訂正しておくべきだろう。

 案内や説明を兼ねて男子寮内を歩き回りながら、恵はとのこれまでの経緯を掻い摘んで話した。因縁と形容して差し支えないふたりの関係性を聞き終えた悠仁は、まるで苦虫でも噛み潰したように険しく顔を歪める。

「うっわー……気まず……」

 あからさまなその態度は恵を得も言われぬ気分にさせたし、返すべき言葉も見つからず、恵は無言で視線を外した。恵との関係は加害者と被害者のそれと言っても過言ではない。何も知らない悠仁に勘違いをさせるほど距離が近付くこと自体、本来ならば有り得なかったことだろう。お人好しを極めたようなの性格があっての現状であることは、火を見るよりも明らかだった。

 胸の前で両腕を深く組んだ悠仁は、感慨深げに何度も頷いてみせる。

「でも伏黒はが好き、と」
「……なんでそうなるんだよ」
「見りゃわかるよ。お前、には露骨に口数多いし。自覚ねぇの?」

 似たようなことをパンダに言われたことを思い出し、恵は思わずぞっとした。もしやあのときにはすでに手遅れだったのだろうか――否定できないその可能性に目を覆いたくなる。

 全く穏やかではない恵の胸中を露ほども知らぬ悠仁は、自らの考えについて懇切丁寧に説明を加えた。

「なんかの番組で見たんだけどさ、人って好きな相手には口数が増えるらしいよ。心理学ってヤツ?」

 悪意のない追い打ちが、輪をかけて恵を抉る。やや顔を俯けて黙り込んだ恵に、悠仁は「決定打になったのはさっきの五条先生の態度だけどな」と茶目っぽく付け足した。

 間を置いて恵は腹を括ったように目を上げると、腹の底から低い声を絞り出す。

には黙ってろ」

 今にも射殺さんばかりに睥睨されたというのに、悠仁に微塵もたじろいだ様子はない。頭の後ろで腕を組むと、あっけらかんとした口調で尋ねた。

「認めんの?」
「余計なこと言われるほうが迷惑なんだよ」
「えっ、告白とかしないわけ?」
「さっきの話聞いて何でその発想になるんだ。心臓に毛でも生えてんのか」

 怒りも忘れて吐き捨てた恵は、念を押すように言葉を続ける。

には絶対に言うな。墓場まで持ってくって決めてんだ」
「墓場ってまた大袈裟な」
「わかったな?」
「はいはいわかったよ」

 口早な言葉とともに肩をすくめ、悠仁はどこか寂しげな笑みを滲ませた。

「まぁは伏黒に興味なさそうだもんな。ただのオトモダチって感じ」

 心の柔らかい部分が激しく毛羽立つ感じがした。己の感情と何も折り合いが付いていないことを自覚する。内心の動きを捉えられぬよう、恵はごく自然な素振りで顔を逸らして表情を消した。

の任務のこと、ちゃんと訊かなくて良かったのかよ。昨日だってかなり危ない目に遭ったって聞いたけど」
「大丈夫だろ。それに俺が聞いたところで何かが変わるわけでもない」
「……なぁ伏黒、お前なに怒ってんの?」

 悠仁の指摘に恵は瞠目した。どうやら声色に全て滲み出てしまっていたらしい。今さら取り繕うのもどうかと思ったが、何食わぬ顔をして手近な階段につま先を乗せる。これ以上の追及を避けるため移動を始めた恵を追いながら、悠仁が裏表のないまっすぐな声音で尋ねた。

「あ、もしかしてさっき俺が“オトモダチ”って言ったから?図星だからって拗ねんなよ」
「拗ねてねぇ」
「拗ねてんじゃん」
「拗ねてねぇって言ってんだろ。しつこいんだよ」

 自らの発言に負い目を感じているのか、はたまた恵の一方的な片思いを面白がっているのかは定かではないが、このまま悠仁との会話を続けていても気力を消耗するだけだろう。聞き流すに限ると決め込むや、恵は反応することを一切やめた。街中の環境音と同じように処理しながら、足早に自室へ戻って扉の鍵を閉める。

 恵はスマホのメッセージアプリを起動させ、に明日の連絡を入れようとした。明日午後一時原宿駅集合、現地集合でも可――伝えるべきことはたったそれだけなのに、恵の親指は迷いを含んだように宙を彷徨う。

 が一目で理解できる言い回しになっているか。誤解を招くような言葉足らずな内容ではないか。妙に馴れ馴れしい文章になっていないか。言葉にすればほんの数行の伝達事項を、無言で吟味し続ける。五条にも悠仁にも勘付かれたのだ、本人に知られることだけは絶対に避けたかった。

 やっと送信内容が決まったのは、悠仁が「伏黒!晩飯ってどこで食うの?!」と叫びながら扉を叩いてきたときだった。気づけばとっぷりと日が暮れている。恵は目を伏せて深く嘆息した。

「……何やってんだ」

 送信ボタンを押して玄関へと向かう。迷いを全て置いていくように、たしかに前を見つめながら。

 恵がやるべきことは実にシンプルだった。樹との約束を果たすこと。つまりが正しい復讐を遂げるその瞬間まで何があっても守り続ける、ただそれだけだ。そもそもは復讐のために呪術師になったのだから、目的を果たせばもう二度と会うこともないだろう。いつか終わる――そう思えば、身動きの取れないこの状況もいくらか耐えられる気がした。

「寝てんの?!それとも留守?!俺もう腹減って死にそうなんだけど!」
「マジでうるせぇ」

 扉に手をかけようとしたとき、ポケットに入れたスマホが小さく振動した。メッセージを受信したスマホに伸びそうになった指は寸前で止まり、代わりに扉の施錠を外す。

 返事なら直接聞けばいいと思った。おそらくこの時間ならは食堂にいるだろう。どうせ今だけなのだから、いつか終わるのだから、身動きが取れないことを割り切ってしまうのも手かもしれない。そのあとは、きっと時間が解決してくれるだろう。

 古びた扉を押し開けば、この世の終わりでも見たようなひどく情けない顔が恵の視界に飛び込んでくる。悠仁の腹の虫が懸命に空腹を訴える叫び声が、小夜を迎えた薄暗い廊下にこだました。