と一緒に戻らないんですか?」

 事務的な口調で素っ気なく尋ねた伏黒恵は、その白群の視線を質問の相手である長身の白髪男ではなく、喪服めいた黒の巫女装束に身を包んだ少女へと寄越した。

 一風変わった制服姿のは大小さまざまな箱を順番に手に取るや、きらきらと輝く瞳で包装紙を食い入るように見つめている。童心に帰ったようなの無垢な横顔に視線を送りつつ、五条悟がどこか楽しげな口振りで答えた。

「そのつもりだったんだけど、僕は悠仁を高専まで案内しなくちゃいけないからね。恵はと先に戻って、硝子に怪我を治療してもらってよ」
「わかりました。虎杖、学長の面談はクリアできそうですか?」
「まぁ何とかなるんじゃない?せっかくの執行猶予を一瞬で無駄にするような子ではないでしょ」

 時刻は午後一時――駅ナカに設けられたそれほど広くない土産物屋は、仙台や東北ならではの手土産を買い求める客で賑わっていた。が店に入ってすでに三十分が経過している。土産を買うという行為それ自体が生まれて初めてだというのだから、子どものように浮足立つのも無理はないだろう。

 恵とが乗車予定の新幹線はおよそ十五分後に到着する。恵は買い物カゴに土産を放り込むの幸せそうな顔を遠目に見つめた。そろそろ声を掛けたほうが良いだろうか。それともあと数分は待ってやるべきだろうか。逡巡し始めた恵をよそに、五条は傍らを通る者が必ず振り返っていく怪しげな相貌で隣に立つ恵を見下ろした。

を仙台に行かせて正解だったね。死人が出てしまったことは残念だけど、結果的にはそれがの善性に良い影響を与えたみたいだ。だからってをひとりにするのはまだ不安だし、恵のお役御免はもう少し先になりそうかな。いつまでもニコイチで悪いね」
「いいえ。別に構いません」
「あれ?もう嫌そうな反応しないんだね」

 悪戯っぽく首を傾げる五条の視線に気づき、恵は僅かに表情を強張らせる。良からぬ追撃の予感に身構えた瞬間には、それはまさに嫌な現実となって恵の鼓膜を叩いていた。

「一応確認なんだけどさ……恵、のこと好きになってない?」

 心臓が大きく脈打つほどの動揺は、しかし幸いなことに白い肌の上には微塵も表れなかった。根も葉もない噂に不快感でも示すように、恵は眉間に皺を刻んで低い声で吐き捨てる。

「なってませんよ」
「本当?あのとき驚くほど必死だったからもしかして……と思ったのに」
「俺はたださんや五条先生との約束を守っただけです」
「ふうん。それなら良いんだけどね」

 五条はすっかり興味の失せた様子で会話を切り上げると、何かに気づいたように店の中を覗き込んだ。

「おっと、もうすぐ時間だ。ー!急いで急いで!新幹線乗り遅れるよ!」
「えっ、もうそんな時間?!ごめんなさい!」

 焦りを滲ませたが買い物カゴを片手にレジへ急ぐ。たっぷりと土産物が詰め込まれたカゴを見て、どうせ荷物持ちを手伝う羽目になるのだろうと恵は小さくため息を吐いた。

 五条は足早に土産物屋の奥へ消えた小さな背中からその視線を恵の横顔に戻し、僅かに苦笑しながら真面目な声音で忠告した。

「青春しろとは言ったけどさ、本気になるつもりもないならのことは潔く諦めたほうが良いよ」
「……え?」
「誰かや何かを好きになるのも、好きで居続けるのも、人間に与えられた自由のひとつだ。本来なら教育者はこういうことを言うべきじゃないんだろうけど……これは人生の先輩かつ同じ男としてのアドバイスかな。今ならまだ引き返せるだろ?」

 まるで恵を案じるように懇切に言い含めると、美貌と呼んで差し支えないほどのかんばせに普段と変わらぬ軽薄な表情を刻んだ。

「悠仁が来るまで暇だし、ホームまで荷物運びでもしてあげよっと」

 弾んだ声音で呟きつつ、軽やかな足取りで店の奥へ進んでいく。目を伏せた恵はその場に立ち尽くしたまま、五条の言葉に気を呑まれた様子で息を詰まらせていた。

 深く意識せずとも、至近距離で柔和に目を細めたの表情をはっきりと思い出せる。昨夜何度も交わした口付けはにとっては単なる人工呼吸のようなもので、甘い感情など一切含まれていないことは充分に理解している。

 息を奪うように角度を変えながら唇を何度も押し付けられ、どこか楽しげな様子で下唇を食まれ、まるで恋人に向けるようなたしかな熱が恵ととの隙間をぴったりと埋めていた。

 いくら顔を固定されていたとはいえ、頭を思い切り後ろに引けばそれで済む話だった。今すぐやめろと振り解けば、優しいはきっと言う通りにした。それをわかっていて無抵抗を貫いたのは、きっとの術式のためだけではない。

 五条に言われずとも、恵は己の立場を嫌というほど知っている。の最愛の兄である樹を見殺しにした。助けられなかった。つらい記憶を思い出させる存在でしかない伏黒恵という男を、そもそも妹のが好きになるはずもない。

 最初からわかっていたことだが、は昨日まで恵のことを異性として微塵も意識していなかったようだし、誰の目から見ても明らかなほど完全に恋愛対象外だ。恵が抱いてしまった感情など、にとってただの迷惑でしかない。

 だからあの一瞬一秒を、疑似的な熱を、本能的に求めてしまったのだろう。恋人にはなれないとわかっているからこそ。行き場のない不毛な感情と、少しでも折り合いを付けたくて。から与えられるものだけを受け入れること、自らの欲に任せて唇を押し付けないことだけが、の恋人でも何でもない恵の矜恃だった。

 お人好しのはきっと恵を拒めないだろう。だから本気になるつもりはない。との関係も見返りも、何ひとつ求めようなどとは思っていない。自身の身勝手な欲のためにを傷つけることだけはどうしても赦せなかった。

 この無意味な感情に未来はない。だがにとって伏黒恵は有象無象のひとりである――その事実を認めることが、どれほど空しく受け入れがたいことか。優しく重ねられた口付けに託された意味を、相手が恵だから抵抗なく口付けたのだという淡い期待を、無意識的に見出そうとする自らの往生際の悪さが、どれほど手遅れかを物語っていることか。

「……今さらどうやって引き返せって言うんですか」

 足を縫い付けられたように一歩も動けないまま、恵は掠れた小声を絞り出した。五条が人生の先輩で同じ男だと言うなら、そうやって親切心で忠告するなら、ここから引き返す方法のひとつやふたつくらい教師らしく教えてくれても良かったというのに。



* * *




「お願い、伏黒くん寝ないで。東京に着くまで一緒に遊んで」
「はぁ?も徹夜だろ。なんでそんなに元気なんだよ……」
「お土産買ったら目が冴えた!ねぇ何する?こいこい?あ、トランプも持ってるよ!」
「俺に寝る権利はないんだな……別にいいけど途中で寝るぞ」
「え、それは寂しいかも……じゃあ少しでも眠気が飛ぶように罰ゲーム決めていい?ちょっと恥ずかしいほうが良いと思うから――負けたら初恋について語ろっか!」
「…………それ拒否権は?」
「勝てばいいんですよ、勝てば。伏黒くんの得意なゲーム、選んでいいよ?」

 面倒事を回避できなかった十分前の自分を恨みながら、数枚のトランプを片手に恵は無遠慮に生欠伸を噛み潰した。

 例えばこれが虎杖相手なら「うるせぇ黙ってろ俺は寝る」と堂々と言えただろうし、と知り合ったばかりのあの頃なら黙殺してすぐに目を閉じただろう。恵はただ単に「ごめんなさい」と言いながら寂しそうに笑うを見たくなかっただけだ。完全に弱みでも握られたような気分だった。

 ひどく真剣な表情で恵の手札を睨み付けると、やがての細い指はハートのジャックを選び取った。「うん、良い調子」と得意げに微笑みながら、は自らの手札からカードを一枚抜き取る。残念なことに、ジョーカーは恵の手から一度も離れていない。

 は運が良い。だからこそルールを完全に把握していない花札よりも、単純明快なババ抜きのほうがまだ勝ち目はあるはずだと踏んだのだが、何度カードの位置を変えてもの指は道化師を選ばないどころか道化師をことごとく避けている。

 カードの絵柄は全く同じだし、ほとんど新品らしいカードの紙に擦れや汚れなどは一切見当たらない。透視でもしているのかと思うほど、は華麗にジョーカーを回避し続けていた。

 次は恵の番だった。参加者がたったふたりだけ、加えて道化師が恵の手元にあるなら迷う必要はどこにもない。着実に減っているの手札から適当に一枚引き抜こうとしたとき、が恵の顔をじっと見つめていることに気づいた。真面目な色を湛えたその双眸が、恵を妙に落ち着かない気分にさせる。

「……なんだよ」
「伏黒くんって格好良いよね」

 ひとり納得した様子で紡がれた淀みない言葉に、思わず恵の手が止まる。しかしすぐにカードを選ぶと、恵は強い疑いの眼差しをに向けた。

「……動揺させようって魂胆か?」
「そんな策士じゃないよ。率直な感想」

 眉尻を下げて小さく笑みをこぼしたは、特に迷う素振りもなく、恵からクローバーのクイーンを軽やかに奪い取った。

「責任感も喧嘩も強いし、勉強もできるし、無愛想に見えるけどすっごく優しいし、おまけに顔もスタイルも良い。びっくりするほどモテる要素だらけだよ。本当に恋人いないの?」

 不思議そうに首を傾げただが、唐突に並べ立てられた賛辞に動揺と面映ゆさを覚える恵に気づいた様子はない。恵はやや顔を俯けて、素っ気なく視線を逸らした。面と向かって褒められることに慣れていないというよりも、その褒め言葉を口にしたのがだという事実が、恵をひどく決まりの悪い気分にさせている最たる理由だろう。

 数秒の沈黙がの不安を駆り立てたらしく、「……あのときは言い出せなかっただけで、実は恋人がいるとか?」と訥々と囁くような声がする。恵はすぐにかぶりを振ると、嘆息混じりに愛想なく呟いた。

「いたらお前とあんなことしない」
「それもそっか。じゃあ好きな人も?」
「……当たり前だろ」
「そうなんだ」

 穏やかに頷きながら、が安堵の笑みを浮かべる。その柔らかな表情に意識が奪われたせいだろう、頭の片隅に浮かんだ問いが無意識に口から滑り落ちていた。

「……は?」

 発した恵にしか聞こえないほどの、囁くような小さな声音だった。しかしそれは恵自身を狼狽させるには充分だった。自らの発言に我に返った恵が動揺を押し隠すようにのカードに指を伸ばせば、顔を覗き込むようにしてが申し訳なさそうに言う。

「ごめんなさい。今の、ちゃんと聞こえなくて……もう一回だけ言って?」
「……何も言ってねぇよ」

 恵は一瞥もせず口早に答えると、から逃げるように視線を落とした。

 想い人の有無を尋ねてどうするつもりだったのだろう。何の意味もないのに。恵には全く無関係なのに。が因縁の相手である恵を選ぶことなど、絶対に有り得ない話だというのに。

 残り二枚になったカードを黙々と背中の後ろで混ぜる恵の鼓膜を、の不満げな声音が優しく叩いた。

「嘘。何か言ってくれたよね?」
「言ってねぇって。の聞き間違いだろ」
「……そっか。変なこと言ってごめんなさい」

 まだどこか納得できない気持ちを滲ませたまま、はぎこちなく笑ってみせる。恵は僅かに罪悪感を感じつつも、心の内でほっと安堵していた。何を言われてもしらを切るつもりだったが、早々に諦めてくれたのは助かったと思った。

 おそらくは恵を気遣ったわけではない。強く言及する必要性がないほど、元より恵に対してさほど興味もないのだろう。

 恵は眼前にカードを差し出した。緊張の色を帯びた穏やかな瞳が恵のカードを撫でる。

 この一枚で勝敗が決まる。恵はなんとなく負けるような気がしたし、むしろ負けたほうが都合が良いと思った。初恋について語る――単なる眠気覚ましのために用意されたその罰ゲームに、の興味が強く注がれているわけでもないだろう。

「今ならまだ引き返せるだろ?」

 ふいに五条の言葉が頭を過ぎった。まだ一歩も引き返していない。そもそもここまでどうやって歩いてきたのかもよくわからないし、振り返ったところで道という道はどこにも見当たらない。

 今は駄目だと思った。の話を聞いてはいけないと思った。紡がれる一言一句、そこに秘められた感情の一片まで、ひとつ残らず記憶に刻む自信があるからこそ。

「伏黒くんから見て右がジョーカー、左がスペードのエースでしょ?」

 耳を打った茶目っぽい声音に、恵は一瞬で意識を引き戻される。それに導かれるように手札に視線を送れば、配置はの言葉通りだった。勝利の女神は今日もに味方しているらしい。

「どうだかな」と小さく呟くと、は得意げに頬を綻ばせる。恵の発言に考えを改めた様子はなく、むしろ確信を得たようだった。自信たっぷりにスペードのエースを掻っ攫うや、両手を挙げて子どものように無邪気に喜んだ。

「やった!わたしの勝ち!じゃあ伏黒くん、存分に語ってください!」

 不敵な笑顔を向けられた恵は面倒臭そうに視線を逸らし、の手にたった一度も渡ることのなかったジョーカーをじっと見つめる。に見向きもされなかったそれがまるで自分自身を映しているようで、恵はカードから目を外すとやけに重たい唇を開いた。

「……語れって、例えば」
「そうだなぁ……いつの話とか、好きになったキッカケとか、あとは――」
「そんなに昔の話じゃねぇしキッカケもわかんねぇ。もう満足か?」
「それ全然語ってないよ?!」

 ひっくり返った声で謗られたものの、下手に口を割って墓穴を掘ることだけは避けたかった。恵の思い浮かべる相手が自分だとは露ほども思っていないだろうは、何とか話題を続けようと視線をふらふら泳がせている。やがて何かを思い出した様子で、恵に話を振ってきた。

「そういえば伏黒くんってファーストキスじゃなかったんだよね?初恋の人がその相手なの?」
「違う。中三のとき、告ってきた奴に無理矢理されただけだ」
「すごい!大胆だね!その子とは付き合わなかったんだ?」
「ああ。それで諦めるとか何とか言ってたな」

 約一年前の出来事だというのに、胸倉を掴むようにして半ば強引に奪っていったあの少女の顔も名前も、もうはっきりと思い出すことすらできない。たしか同じクラスだったような気がするが、恵に残っているのはその程度の記憶だけだ。

 しかしその記憶だけが風化するように霞んでいるわけではない。恵が中学三年に上がって間もない頃の記憶はどれも似たようなものだった。人間の記憶容量は限られている。恵が鮮明に記憶しているのは、津美紀が呪われ寝たきりになったことだけだ。強い感情の伴わない学生生活の記憶は全て、どうでもいいものとしてすでに破棄されてしまったらしい。

 はトランプを片付けながら、揶揄するように首を傾げた。

「その子のこと、意識した?」
「意識?」
「それね、多分諦めるためじゃなくて、伏黒くんに少しでも意識して欲しくてやったことだと思うよ?」
「……そうなのか」
「あ、その様子じゃ全く意識しなかったんだね。伏黒くんひどい」

 非難がましく唇を尖らせるを一睨みして、口を噤んだ恵はすぐに視線を外した。よくもまあ自分のことを棚に上げて他人を責められるものだなと感心すらしたのだが、決して言葉にはせず心の内だけに留めておく。

 初恋などという何の生産性もない話題から降りようとする恵を、は「なんだか勿体ないね」という物悲しげな一言で引き止めた。

「……何が」
「だって伏黒くん、こんなに格好良いのに」

 しかしその賛辞が恋慕に繋がらないことは嫌というほど知っている。溢れ出した空しい感情には見ないふりをして、ひどく険しい表情で恵は無言を貫いた。が一刻も早くこの話題から離れてくれることを願って。金輪際似たような話題を振られぬよう、不機嫌であることを全身で表現しながら。

「……恋愛するもしないも自由だよね。ごめんなさい、不躾なことばかり言って」

 重い沈黙を破ったのは、弱々しい響きを伴った謝罪だった。は小さな声音で「わたしも眠くなってきたかも」と独り言ちると、恵の顔を真面目な双眸で見据える。

「もし好きな人とかお付き合いする人ができたら、絶対にすぐ教えてね。絶対だよ?」
「……なんで」

 不愛想な言葉とともに白群の色をした鋭い視線を返せば、はその口元にひどく優しい笑みを浮かべた。

「もう二度と術式使わないから」

 うんともすんとも言わず、恵はに背を向けるように上体をひねり、新幹線の背もたれに深く体重を乗せる。眠気を含んだ目蓋を閉じて、白い光が滲む夜を呼んだ。己の唇にはっきりと残る柔らかな感触を消し去るように、下唇を強く噛みしめる。

 のその言葉は、間違いなく呪いだった。

 芽吹いたばかりの恵の初恋は、花も実も付けず、茎をへし折られるように終わる。否、もう終わったも同然だろう。

 しかしそうやって甘い水を与えられ続ければ、簡単に枯れることもできない。のことだ、根が腐るまで水を注ぐこともないだろう。だから、きっともう己の意思では枯れることを選べない。恋人じみた、あの疑似的な熱が約束されている限り。錯覚だとわかっていても、そこに都合の良い夢が横たわっている限り。

 恵は薄っすらと自嘲めいた笑みを浮かべた。たとえここから引き返すことができたとしても、あの口付けひとつで簡単に連れ戻されるような気がして。