梅雨明け宣言はおそらくまだ当分先だというのに、穏やかな街並みを照らす日差しが充分なほどに夏の到来を予感させる。頬を撫で付けるようにして、爽やかな風が誰もいない屋上を吹き抜けた。喪服めいた黒い袴の裾が緩やかにはためく。わたしは髪を押さえつつ、銀色のフェンス越しに仙台の街を眺めやった。

 杉沢病院の屋上から一望する景色は、夜が明ければ印象も大きく変わる。夜肌に深い孤独を感じたのが嘘のように、目の前では欠伸が出そうなほど安穏な時間が流れている。

 昨日と変わらぬ当たり前の日常が地続きになっているように見えて、決してそうではなかった。昨夜遅くに杉沢病院から運び出された五十名を超える遺体。大切な人を突然喪った人々にとっては、昨日と今日では世界がまるで違って見えているのだろう。

 フェンスに添え置くようにして、わたしは一輪の白百合を捧げた。やや曲げた両膝を完全に折り畳み、居住まいを正しながらその場に跪くと、囁くように静かに、だが決然と語りかけていく。

「わたし、誰かの当たり前の幸せをちゃんと守れるような呪術師になります」

 反り返った純白の花弁を、ただまっすぐに見据えながら。

「正しく復讐したその先には何も残らないから、もう死んでもいいやって思ってました。ううん、わたしの命と引き換えにできるならそれでいいかなって今も思ってます。そのせいかな、術師になったこともどこか他人事で、呪術の勉強も正直あんまりやる気なくて……この二ヶ月、悟くんに言われるままなんとなく過ごしてきました」

 小さな声が微かに震え、そこで言葉が途切れる。途方もない後悔が大きな波となって押し寄せていた。何度か呼吸を繰り返して感情を宥めると、両手をきつく握りしめながら一気に言葉を紡ぐ。

「でもこれじゃ駄目だって思いました。正しく復讐するまでの短い間かもしれないけど、誰かの当たり前の幸せを守れるだけの力は欲しい。悟くんにお願いして、術師としてもっと鍛えてもらおうと思います。だから、これからも未熟で弱いわたしに力を貸してください。よろしくお願いします」

 乞い願いながらわたしはそっと目蓋を閉じ、白百合の前に深々と頭を下げた。まるで呼応するように一陣の風が吹き抜け、垂れ下がった髪が揺れる。一体どれくらいの間そうしていたのかはわからない。初夏の熱を纏った頭を持ち上げたのは、屋上の扉を開く鈍い音が耳朶を打ったときだった。

 接近する律動的な靴音が誰のものかはすぐにわかった。フェンスに傾けたはずの白百合は忽然と消え、視界のどこにも白い花弁が見当たらない。先ほどの強い風に運ばれてしまったのだろうか。

 しかしその行方を追うことに何の意味もないような気がして、わたしはゆっくりと立ち上がった。それとほとんど同時に足音が止まり、僅かな間を置いて素っ気ない質問が寄越される。

「何してんだ。昨日の礼か?」
「それもあるけど、一番は神様と仏様への決意表明かな」
「……決意表明?」

 わたしはその場で軽く伸びをしながら、白い雲が点々と浮かぶ青空を仰ぐ。

「お日様が気持ちいいね。洗濯物がよく乾きそう」

 清々しい群青から視線を落とし、腰からひねるようにして背後を振り返る。数歩離れた先で、眉間に皺を刻んだ伏黒くんがこちらを見つめていた。

 屋上に直行してきたということは、軽度の脳震盪を起こしたという頭部に後遺症は見つからなかったのだろう。ほっと胸を撫で下ろした。

 額に白い包帯、左頬に大きな創傷被覆材、そして唇の端には絆創膏。検査のついでに外傷の手当てを施されたらしい彼に再び背を向けると、仙台の街並みを目に焼き付けるようにまっすぐ映す。医者に扮したあの男――否、黒い大蛇の言葉が今でも耳の奥で響いているような気がした。

「わかんないことばかり増えるね」
「……そうだな」
「あ、でも伏黒くんのことはちょっとわかったかも」
「……俺のこと?」

 予想と違わぬ怪訝な声音が鼓膜を叩き、わたしは待ってましたと言わんばかりに笑顔で振り向いてみせる。眉を寄せた彼をまっすぐ見据えると、丁寧に指を折りながらきっぱりと告げた。

「意外と心配性なこと、怒るとものすごく怖いこと、あと恋人募集中なこと!」
「募集なんかしてねぇよ」
「もっと青春しなよ若人」

 悟くんの軽薄な口振りを真似て、大袈裟なほど大きくかぶりを振ってみせる。しかしすぐに無言で視線を逸らされ、わたしは肩をすくめた。今のはかなり似ていたはずなのだけれど、きっとそれ故に神経を逆撫でてしまったのだろう。

 今度からは伊地知さんの真似をしようと思いつつ、わたしは気を取り直して会話を続けた。

「伏黒くん、今回も色々と本当にありがとう。それでね」
「また寄り道だろ。知ってる」

 硬質で無愛想な声音に言葉を遮られ、思わず何度か目を瞬かせる。

「あれ?もう怒らないんだね。どこに行くかも訊かないの?」
「別にどこだっていい。ただし今度は絶対についていくからな」
「ありがとう。お母さんが一緒なら安心だね」
「誰がお母さんだ」

 呆れ返った様子で嘆息した伏黒くんとともに杉沢病院を後にすると、正面玄関前に停車していた一台のタクシーに乗り込む。伏黒くんが後部座席に腰を下ろすより早く、わたしは気の良さそうな運転手にスマホの画面を見せていた。

「すみません。この火葬場までお願いできますか?」

 スマホを目でなぞった運転手は「わかりました」と穏やかに頷くと、後部座席のドアを閉めてタクシーを発進させる。隣から何か言いたげな視線を感じ、先んじるようにわたしは口を開いた。

「虎杖くんと約束したんだ。おじいさんを一緒に見送るって」

 窓の向こうで、初夏の日差しが穏やかな街並みをじりじりと照らしていた。



* * *




 群青に溶けるようにたなびく灰色の煙を見上げる。突き出た煙突が吐き出すそれは風に揺られ、少しずつ濃度を失って青と一体化していく。閑散とした火葬場ではすでに虎杖くんのおじいさんは荼毘に付され、こぢんまりとした建物内のどこにも虎杖くんの姿は見当たらなかった。火葬場の職員の話によれば、今しがた怪しげな長身の男と連れ立って外へ出たらしい。

 まだそう遠くへは行っていないはずだろう。しかし探そうとする足が自然に止まっていた。空を仰ぐようにして青と灰の境界線をじっと見つめるわたしに、「あっちだ」と伏黒くんが静かに告げる。「うん」と言いながらもわたしはしばらく青空を眺め、満足すると彼に続いて虎杖くんのもとへ向かった。

「いいね。君みたいのは嫌いじゃない」

 立ち並ぶ木々に沿うようにベンチが設置された中庭から、ひどく浮ついた笑い声が聞こえる。遠く前方へ投げた視線の先で、悟くんが無機質なベンチに座り込んでいた。その眼前に佇立するパーカー姿の背中は、間違いなく虎杖くんのものだろう。

 急に声を掛けて会話を邪魔するのも気が引けて、わたしは無言でふたりに近づいた。伏黒くんもいつもと変わらぬ澄ました顔でわたしの隣を歩く。

「楽しい地獄になりそうだ。今日中に荷物まとめておいで」

 悟くんは軽薄な声音で不穏な台詞を紡ぐと、「よっこいしょ」と言いながら緩慢な動きで腰を持ち上げる。予想外の発言に理解が及ばなかったらしい虎杖くんが、数秒の間を置いて不思議そうに尋ねた。

「どっか行くの?」
「東京」

 その答えを端的に告げたのは悟くんではなく伏黒くんだった。突如耳を打った第三者の声に、虎杖くんが人間離れした素早さで振り返る。わたしたちの姿を視界に収めるや、勢いよく親指を立てながら嬉々として弾んだ声を上げた。

「伏黒!!元気そうじゃん!」
「コレ見てそう思うか?」

 間断なく返された凍て付いた言葉に、虎杖くんがどこか不満げな様子で「元気じゃないのか……」と小さな声で呟く。それを完全に黙殺してみせた伏黒くんとの会話は諦め、鼻先をそのまま真横へ移動させると、翳りも衒いもない無邪気な笑みをわたしに向けた。

、わざわざ来てくれてありがとな。爺ちゃんもきっと喜んでるよ」
「一緒に見送らせてもらえてうれしかったよ。本当にありがとう。それに虎杖くんへの説明も兼ねて来てるから気にしないで」
「東京へ行くって話の?」

 笑顔で頷いたわたしが伏黒くんに視線を送れば、諦念を滲ませた白群の双眸が返ってくる。無言で説明役を引き取った彼は、愛想に欠けた口振りで話を進めていく。

「お前はこれから俺たちと同じ、呪術師の学校に転入するんだ」

 以前のわたしと同じく何も知らない虎杖くん相手に、伏黒くんは呪術高専について簡単に説明している。表情豊かに相槌を打つ虎杖くんを見つめながら、わたしはいつの間にか隣に立っていた悟くんを戦々恐々と見上げた。

「えーっと、悟くん、あのね?クレジットカードの件なんだけど――」
「そんなことよりさ、ねぇ、悠仁を見て何か思うことはある?」

 唐突に割って入ったのは一切の感情が凪いだ声音だった。普段の胡散臭さがすっかり消え失せたそれに眉をひそめながら、今ひとつ意味のわからぬ問いを繰り返す。

「……思うこと?」
「いや、質問を変えよう。宿儺を取り込んだ悠仁を見て何か思い出すことは?」

 底抜けに明るい笑みを刻んで会話する虎杖くんの横顔を、目を細めつつ、穴でも開きそうなほどまじまじと観察する。術師なら誰でも知っているという呪いの王“両面宿儺”――その強大な力を切り分けて封じた特級呪物“両面宿儺の指”を、あろうことか虎杖くんは土壇場で飲み込んでしまったらしい。

 下手をすれば死んでいたというのだから、無事で良かったの一言に尽きるだろう。それにこんなに早く天国に行ってしまっては、着いたばかりのおじいさんにこっぴどく叱られるに違いない。生きていて本当に良かったとしみじみ思っていると、焦れた様子の悟くんが顔を覗き込んできた。

「どう?何か思い出した?」
「……教科書に載ってた肖像画なら思い出せるよ?」
「なるほどね。だからに有利な“縛り”を結んだわけか。ウケる」

 一体何が可笑しいのか、くつくつと喉を鳴らす悟くんを訝しんで見つめ返す。形のいい唇が弦月でも描くように歪んだ笑みを浮かべた。

「呪いの王も所詮は人の子ってことさ」

 滔々と紡がれた意味不明な言葉に首を傾げたそのとき、「そこって何人くらい通ってんの?」と尋ねる虎杖くんの明るく澄んだ声音が鼓膜を叩いた。伏黒くんが返答する前に、長い指を四本立てた悟くんが事もなげに口を挟んだ。

「ちなみに一年生は君で四人目」
「少なっ!」

 素っ頓狂な声を張り上げた虎杖くんから視線を外すと、わたしは眉間に皺を寄せた伏黒くんを見つめた。

「一年生って他にもいるの?」
「……いや、初耳だ」

 呆れた色を帯びた白群の双眸に、「悟くんらしいね」と苦笑を返す。

 取って付けたような新情報に気を取られるあまり、わたしは悟くんとの会話の内容をすっかり失念してしまっていた。そしてそのことを思い出したのはその日の夜遅く――かの呪いの王“両面宿儺”と相見えたときだった。



* * *




「ねぇ、なんか本持ってない?」

 ノックも無しにその部屋の扉を我が物顔で開け放ったのは、継ぎ接ぎだらけの肌を持つ線の細い青年だった。左右で色の異なる瞳を持つ青年は、生者とは思えぬほど血色の悪いかんばせを散らかった部屋の奥へと向ける。緻密な彫刻に彩られた木製の机に突っ伏す男に近づくと、顔を覗き込みながら優しく肩を叩いた。

「どしたの?元気ないじゃん」
「……大失敗」

 蚊の鳴くような小さな呻き声に青年は目を瞬いたものの、しかしすぐに揶揄するような底意地の悪い笑みを口端に刻んでみせた。

「あ、に逃げられたんだ?だから俺が行こうかって言ったのに」
「あんまり傷を抉らないでほしいなぁ」

 苦笑混じりに言いながら、男は伏せた上体を緩やかに持ち上げる。血の気の失せた青年の相貌を目に入れるや、悲哀に満ちた深いため息をひとつ落とした。あまりにひどいその落胆ぶりに、青年はからからと声を上げて無邪気に笑った。

「どうせまたあのジャンキー使ったんだろ。あんなのジャンキーじゃなくてジャンクじゃん」
「そんな言い方しないで。あの子なりに一生懸命考えて動いてるんだから」
「薬漬けにするからおかしくなるんじゃない?」
「うっ、痛いところを……術式使えば楽なんだけど、そうすると意思がなくなるから仕方なく……報酬中枢へのアプローチ方法は間違ってないはずなんだけどなぁ……俺たちの常識って脳のどこで決まってんだろ……」

 ぶつぶつ呻きながら徐々に丸くなっていく背中を見下ろし、青年は机に軽く寄り掛かった。立て掛けられた文庫本を適当に手に取りながら、どこか面倒臭そうに質問を紡いだ。

「都合のいい傀儡じゃ何か問題?なんでそうも意思にこだわるわけ?」
「可能な限り言語を理解させたいんだ。将来的にはもっと多くの呪いに言語によるコミュニケーションを取れるようになってほしくて……お隣さんが全く言葉の通じないひとだとやっぱり寂しいし、そんな味気ないご近所付き合いなんてが可哀想だからさ」

 しかしその返答にはさほど興味を示すことなく、青年は非難がましく唇を尖らせる。

「そんなに落ち込むなら樹が動けばいいだろ」
を驚かせたいから駄目」
「感動の再会?」
「そう。真人も泣いていいよ」
「号泣すんの樹だけだって」

 青年はうんざりした様子で肩をすくめると、手に持った文庫本を別のものと取り替えながら尋ねた。

「これからどうすんの?」
「しばらくは様子見かな。ちょっと人を殺し過ぎたからね。に大義名分がある限り、どんなに準備して動いたってどうせ碌な目に遭わないよ。だから夏油先輩が動くときに俺も便乗させてもらおうかなって」

 どこか悪戯っぽく口元を綻ばせた男を、色違いの双眸が興味深そうに見つめる。

「樹ってかなり諦め悪いよね」
「そんなことないよ」
「相手がだから?」
「そう、相手がだから。俺が大事なのは今も昔もずっと、妹のひとりだけだからね」

 澄み渡る夏空にも似た笑顔を滲ませて穏やかに断言すると、男は何かを探るように足元へ手を伸ばす。青年の視線が辿るより早く、勢い込んだ男は身を乗り出すようにして青白い顔に鼻先を近づけた。

「というわけで、とにかく本が読みたい真人に本日オススメしたいとっておきの商品はコレッ!」
「来た来たお待ちかねの通販番組!今んとこハズレがなくて俺は好き!」
「じゃじゃーん!スペシャルメモリアルブック!」
「分厚っ!えっ何コレ鈍器?」

 青年が目を剥いたのも無理はない。男が意気揚々と差し出したのは、手の大きさ次第では背表紙を掴むのも困難なほど厚みのある本だったからだ。分厚い上にずっしりと重いそれを軽々と手にした男は、自慢げに鼻孔を拡張しながら口早に語り始めた。

「これはの成長記録を綴った俺の日記だよ!俺が言うのもなんだけど結構文学的なところもあって超オススメなんだ。あ、文字だけじゃなくての可愛い写真もたっぷりあるから安心して。ちなみにこれは第1巻で今のところ既刊は第10巻まで。真人に是非とも読んで欲しいのは第3巻。運動会のかけっこでが転んだ子と手を繋いで一緒にゴールするシーンは絶対に涙なしでは――」
「いらない。別の貸して」
「えっ……これが新しい世界の聖典になるのに?」
「……マジ?」