今しもよろばう影に殴り掛かろうとしていた伏黒くんの前に、わたしは両腕を大きく広げて立ち塞がっていた。凍り付いたように硬直した固い拳が目と鼻の先にある。彼はやや不審げに眉根を寄せると、鋼鉄にも似た声音で肺腑を抉るように間断なく告げた。

「邪魔だ。どけ」

 真正面から厳しく睨め付けられ、身震いしながらも強くかぶりを振った。

「伏黒くん、やめて」
「……正気か?」
「ごめんなさい、馬鹿なことしてるってわかってる。でも」

 危険な角度に眉を上げた怜悧なかんばせをすり抜け、わたしの視線は冷たい床に昏倒した壮年の男をなぞる。見開かれた瞳には白く濁った膜が垂れ下がり、太い鼻面は殴打の衝撃であらぬ方向を向いていた。その痛々しい相貌を見つめたまま、わたしは湿り気を帯びた声で訴える。

「お願いだから……綺麗なまま、大切な人のところへ帰らせてあげて」

 こちらを睥睨する硬質な双眸に感情が滲んだそのとき、殺意に満ちた獰猛な呻き声がすぐ耳元で聞こえた。

!」

 切迫した響きとともに視界が大きく揺れ、伏黒くんに腕を強く引かれたことを認識する。前のめりになったわたしの身体を抱き留めると、彼は流れる動作でわたしを横抱きにして後ずさった。亡者たちの青白い手が肉薄していた。非常灯の明滅する階段へ狙いを定め、飢えた獣の目のように輝く赤光の間を縫うように勢いよく走り出す。

 しかし自我のない影がみすみす見逃してくれるはずもなく、隙間を駆ける伏黒くんに容赦なく襲い掛かった。腕を掴まれ速度が落ちたところで、狙いすませたように別の人影に二の腕や肩口を強く噛み付かれる。彼の黒い制服に血が滲んだのが、暗闇の中でもはっきりとわかった。

 激痛に顔を歪めたのも一瞬で、わたしに伸びる白い指先を捕捉するや、顔を深く伏せた彼が上体を丸めるようにして床を強く蹴り付ける。その身体のどこに秘められていたのか疑わしくなるほどの脚力が、身動きを奪う血の通わない手を半ば強引に振り払っていく。

 追い縋る人影を置き去りにして、伏黒くんが階段を駆け上がり始める。乾いた血が付着する胸元に視線を置いたまま、わたしは霞んだ声で謝罪した。

「……わがまま言って、本当にごめんなさい」
「いい。もう慣れた」

 呼吸の荒い伏黒くんは素っ気なく言うと、すぐに冷静な口調で言葉を継いだ。

「けどこの先は屋上だぞ、どうするつもりだ。術式の条件を満たして鵺で飛んで逃げる手もあるが――」
「それは絶対に駄目。あんな状態の人たちをこのまま置いていけないよ」
「だろうな。言うと思った」

 言葉を遮るほどの強い反発に、彼は呆れた声を返す。しかし見上げた彼の顔には怒りも苛立ちもなく、凪いだ表情だけが横たわっている。視線に気づいたように、切れ長の瞳がこちらを一瞥した。

「ライターなんか持ってるわけねぇよな」
「ないけど……どうして?」
「あの術式の弱点だ。本体のほうは駄目だが、死体のほうは火を見せれば簡単に術式が解ける。俺が火を使う式神を調伏してたら良かったんだが……」

 そう言い淀むと、伏黒くんが苦虫を噛み潰したような顔で唇を横一文字に結んだ。律動的な乾いた足音が薄暗い階段に響く。必死に頭を巡らせたそのとき、尖った爪で黒板を引っ掻いたような、金切り声にも似た耳鳴りが思考を麻痺させた。

「――喚んでる」

 意味の成さない音の向こうで激しい驟雨が降っている。それはここから遠く離れた別の世界の、それも星辰の遥か彼方からたしかに響いていた。どうしてそれがわたしを喚ぶ声だと思ったのかはわからない。その甲高い声がわたしにはひどく優しくて温かいもののように感じたからだろうか。明確な根拠などなく、ただ本能的な直感だった。

 眉間に皺を刻んだ彼の足が僅かに止まり、言葉もなく怪訝な視線が寄せられる。わたしはすぐに唇を割った。

「お願い、そのまま屋上まで行って」
「……屋上?」
「空が近いほうが良いの。きっと何とかなるはずだから」
「何とかって……の術式じゃ無理だろ」

 伏黒くんの言う通りだった。たとえわたしが術式の使用条件を満たしたとしても、操られた人々を相手取るのは彼なのだ。術式で強化などすれば、操られた人々にますますひどい怪我を負わせかねない。

 身を挺して退路を拓こうとしてくれた伏黒くんに、わたしはひどく身勝手な我儘を言った。傷だらけで呪力も残ってない彼の状態を知りながら、杉沢病院から離れることに反対をした。

 だからこそ、この状況をわたしが何とかしなければならなかった。誰も傷つかなくていい方法で。操られた人々が大切な人のもとへ帰れるように。きちんと弔ってもらえるように。

 屋上へと続く銀色の扉が見えると、わたしは伏黒くんの腕からそっと降りた。彼に先んじて階段を駆け上がり、腹部に滲む痛みを堪えて重い扉を一息に押し開ける。

 そこには黒一色の広大な空が広がっていた。月もなく、星もなく、小さな雲のひとつすらも確認できない。まるで結界術である“帳”が下りているようだと思った。それほどまでに光がなく、雄大な空は闇に覆い尽くされていた。晒された夜肌が生ぬるい空気を拾う。駆け足気味に屋上の中央まで歩を進めたところで、

「どうすんだ!」

 地上から微かに聞こえる呻き声を上書きするように、心配の色を帯びた声音が耳を打った。振り向けば、険しい顔をした伏黒くんがその背中で硬い扉を押さえている。鉄を殴るような鈍い音が絶え間なく聞こえた。すぐそこまで操られた亡者が迫っているのだろう。わたしは頬に両手を添えると、声を張り上げて答えた。

「わたしを怒らせると怖いんだぞってこと、今ここで相手に知らしめてやりたいの。二度とこんな酷い真似をさせないように。もう誰も巻き込まれずに済むように。だから伏黒くんはそこで見てて!」
「勝算はあるんだろうな?!」
「ある!」

 笑顔できっぱりと断言したものの、決して確信めいた勝算ではなかった。希望的観測と言ってもいい。彼もわたしの強がりをわかっているのか、どこか不安げな様子でこちらを見据えている。

 わたしは刺繍に彩られたドレスの裾を踏まぬよう、注意を払ってその場に正座をすると、隙間なく閉じた両膝の前に揃えた手を丁寧についた。ざらついた無機質なコンクリートが冷たく感じるほど、身体がひどい熱を帯びている。

 肺が膨らむまでゆっくりと息を吸い込めば、乾いた唇が独りでに哀願を込めた呪文を朗々と紡ぎ始める。まるで魂に深く刻み込まれた言葉を一心に読み上げるように。

「――諸の禍事、罪穢れ有らむをば祓い給え清め給えと白す事を、天つ神、国つ神、八百万神等共に聞こし食せと畏み畏みも白す」

 漆黒に染まる天の原を見つめる視線を落とし、緩慢な動きで深く頭を垂れれば額を冷たいコンクリートに擦り付ける。目蓋をそっと閉じたわたしの脳髄に、抑揚のない機械音声が直接響いた。

【術式使用条件及び領域使用条件クリア】
「領域使用」

 目を閉じたまま、わたしは祈りを捧げるようにその言葉を復唱した。操られている人々がひとりの例外もなく、生前と変わらぬ姿で大切な人のもとへ帰れるように。

【音声コマンド入力完了。呪力消費開始――現在地を中心に領域展開準備完了。選択対象に使用される術式全てを即時無効化、及び損傷部位を反転術式にて修復します】
「領域展開――“千歳慰む慈雨”」

 淀みなく紡いだ言葉の意味もわからぬまま、無機質な地面に額を押し付け続ける。わたしが閉じた目蓋を持ち上げたのは、冷たい何かが頭頂を優しく打ったときだった。

「……雨?」

 訝しげな伏黒くんの声に導かれるように、闇に塗り潰された空を見上げる。

 ぱらぱらと軽快な音を奏でながら、一陣の驟雨が辺りに降り注ぎ始めた。始めは通り雨かと思ったけれど、決してそうではなかった。身体を打つ小さな雨滴は、肌に触れるとまるで幻のようにたちまち霧散する。どうしてだろう、その優しい雨を浴びれば浴びるほど、強張った心が柔らかく解けて安らいでいく感じがした。

、平気か?」

 駆け寄ってきた伏黒くんを見上げる。頷いて立ち上がろうとしたものの、身体にうまく力が入らなかった。大量の呪力とともに気力まで流れ出てしまったのかもしれない。彼に抱き起こされて何とか膝を伸ばすと、肩を貸してもらいながら屋上のフェンス越しに地上を見下ろした。折り重なるように地面に伏した人々を眺めやって、わたしは首を傾げる。

「みんな倒れてる?」
「術式が完全に途切れたからだろうな」

 感情の凪いだ双眸で地上をなぞる横顔を見つめ、勇気を振り絞るようにしてたどたどしく質問を重ねた。

「あの、えっと、ごめんなさい……わたし、何をしたの?」
「……よくそれで勝算があるなんて豪語したな」

 嘆息混じりに呟いた伏黒くんが、わたしの肩を担いだままフェンスから離れる。緩慢な足取りで扉のほうへ向かいながら、落ち着き払った口調で求められた説明を淡々と始めた。

「これは“領域展開”――術式を付与した生得領域を呪力で周囲に構築したものだ。呪力の消費が激しい分、能力の上昇や術式の必中……とにかく術師にとって色々と利点が多い」
「でも構築って感じ、しないね」
「領域を展開すれば普通はもっと景色が変わる。俺が領域を見たのは数える程度だが、それでも不完全でもないのに“外”との差が全くない領域は初めて見た。その上術師のくせに防御型の領域なんだからな。が領域に何を望んだのかが嫌ってほどよくわかる」
「……え?」
「お前らしいって言ってんだよ」

 不愛想に告げられた言葉に、わたしは何度も目を瞬かせる。

「褒めてくれてる?」
「褒めてはない」

 立ち込めた期待を軽々と一蹴され、肩を落として項垂れる。伏黒くんは自分が天才だからと他人に厳しすぎやしないか。「良くやった」の一言くらい口にしてほしかったのに。

 来た道を引き戻りながら、諸々の事後処理をお願いするため、伏黒くんは伊地知さんに連絡を取った。時おり彼の唇が謝罪の言葉を紡ぎ、居た堪れない気分になる。長い通話を終える頃には、わたしたちは一階に到着していた。

 スマホを仕舞いながら、伏黒くんが陰鬱そうな表情で呟く。

「……東京戻ったら始末書だ」
「えっ、また夜蛾学長の三時間お説教?」
「それだけで済めばいいけどな。五条先生がクレジットカードの件で訊きたいことあるって言ってたぞ」
「……伏黒くん、一緒に謝って?」
「……気が向いたらな」

 冷たい床に倒れ込んだ息のない人々を避けて、正面玄関の停止した自動ドアを通り抜ける。ようやく杉沢病院から出られたことに胸を撫で下ろした瞬間、伏黒くんの足がぴたりと止まった。半瞬遅れてわたしも禍々しい残穢を察知する。それを追うように視線を動かせば、玄関前に植えられた樹木に隠れるその存在をすぐに視認する。

 そぼ降る雨に打たれるようにして、二足歩行の呪霊が複数佇立している。人間によく似ているのはモデルのように細い胴体とすらりと伸びた両脚だけで、その頭部には青を基調とした美しい花が咲き乱れている。まるでそれ自体が大きな花束を模したような呪霊は地面を踏むと、雄叫びを上げるように躯体を激しく揺らしてみせた。

「アレも操られてんな……呪いには効いてねぇのか」
「どうして?」
「おそらくが死人だけを対象に選んだせいだ。お前まさかアイツらにも手加減しろって言うんじゃねぇだろうな」
「それは絶対に言いませんっ」

 不気味な姿の呪霊をきつく睨み据えたまま、伏黒くんはわたしを背後に庇った。首だけで振り返ってこちらを一瞥すると、真面目な声音で口早に指示を出す。

「今度は動くなよ。そこで地蔵になってろ」
「承知仕った」

 小さな声でぼそりと返せば、伏黒くんは口端を僅かに緩めた。しかしすぐにそれを引き締め直すと白群の双眸を強く光らせ、右手を旋回させるや肉薄した呪霊の頭部を力任せに殴打する。呪霊は僅かに怯んだだけですぐに体勢を整え、再び伏黒くんに牙を剥く。

 足元に視線を滑らせ、わたしはすぐそばに横たわる警備員らしき男の遺体を見つめた。魂が消えてしまった青白いかんばせに、そっと小さな声を落とす。

「ゆっくり眠りたいよね……ごめんね、もう少しだけ我慢してね」

 そうして地蔵と化したわたしは汗ばむ手をきつく握りしめながら、退路を拓かんとする黒い背中をひたすら見守った。接近する獰猛な殺意は瞬く間に伏黒くんに阻まれ、攻撃の際に生まれる微弱な風すらわたしに触れることはない。

 本能的に生まれた死への恐怖は次第に遠のき、思考にも少しだけ余裕が生まれる。身体ひとつで呪霊を昏倒させていく伏黒くんを、わたしはとても頼もしく感じていた。

 頼り甲斐があるというのは、きっと彼のような人のことを指すのだろう。少し不愛想で口が悪いけれど根は真面目でとても優しく、加えて頼り甲斐もあるとなれば、周りの人間は決して彼を放っておかなかったはずだ。きっと格好良いだの何だのと持て囃したに違いない。

 汗を滴らせた凛々しい横顔が目の前を横切ったとき、わたしはふと気がついた。棒立ちになったまま何度か目を瞬かせる。どうして今までそこに思考が至らなかったのか、自分でも不思議で仕方がなかった。

「……あれ?そういえば伏黒くんって――」

 しかし漏れた言葉も廻る思考もそこで寸断される。眼前で伏黒くんの身体が冗談のように宙を舞っていた。病院の白い壁に叩き付けられ、苦鳴もなくそのまま床に頽れた姿に思わず叫び声を上げる。

「伏黒くん?!」

 彼に駆け寄るより早く、動揺に溺れたわたしの視線は彼が飛んできた方向を追っていた。そこで身体を揺らしていたのは花束めいたあの呪霊だ。ただその頭部からは茨を纏った無数の蔓が鞭のように伸び、異臭を放つ濁った液体が花弁から断続的に垂れ流されている。その液体はアスファルトに落ちると白い煙を噴き上げた。おそらく、塩酸か何かを含んだ消化液だろう。

「何あれ……気持ち悪い……」
「気持ち悪いとは失礼ですねぇ。私の可愛い傑作なのですよ?」

 漏れた感想を非難する声音にはっとなった。肌を突き刺す混じり気のない邪悪な呪力が、呪霊を操る張本人であることを明確に示している。

 声がしたほうを素早く向けば、少し離れた場所に一匹の大蛇がいた。闇夜に溶けるほどの黒一色の身体に瞬く間に息が詰まる。その姿があまりにも“円”――お兄ちゃんが連れてきたあの大蛇によく似ていたせいで。

「貴女の“目覚めの鳥”があの両面宿儺だったとは……最悪です」

 どこか間の抜けたような愛嬌のある平べったい顔をこちらに寄越すと、赤外線を察知するためのピット器官が行儀よく並んだ上唇を持ち上げ、うんざりとした物言いで滑らかに言葉を続ける。

「しかも術師が――人間が貴女の傍にいるなら私に勝ち目などありません。このまま帰っても地獄、帰らずとも地獄ですか……はぁ、帰るほうがまだマシでしょうね。賢い私はこの辺でお暇しますよ。あの子にたっぷり遊んでもらってくださいね」
「待って!あなたに訊きたいことがあるの!」
「熱烈なお言葉は大変うれしく思いますが……それはまた次の機会に」

 黒く艶やかな頭部を下げて器用に会釈をすると、大蛇は地面を這って一目散に逃走する。大蛇を庇うように立ち塞がった呪霊が威嚇のために消化液を吐き散らした。跳ねた液体が事切れた人々に降り注ぐがたちまち驟雨に遮られ、魂の消失した肉体には一向に届く気配はない。

 視界の端に、身体を起こした伏黒くんの姿が見えた。まるで囮になるように疾駆するや、勢いよく跳ね上がった蹴りが呪霊の胴体を直撃する。あの大蛇を追うための隙を与えてくれたのだとすぐに察した。しかしわたしは逃げる大蛇から彼へと視線を移動させると、迷うことなく地面を蹴る。自らの決めた優先順位に一片の躊躇などなかった。

「……早く伏黒くんを助けなきゃ」
【術式使用条件クリア。直ちに呪力を投与ください】

 小さな決意に呼応するように、抑揚のない機械音声が頭に直接響く。伏黒くんは駆けてきたわたしを視界に入れると、眉を吊り上げて激しく怒鳴り付けた。

「何でアイツを追わなかった!」
「だって伏黒くんのほうがずっと大事だから!」

 負けじと腹から声を絞り出せば、怯んだ様子で彼が言葉を詰まらせる。気まずげに視線を逸らし、呪霊の動きに神経を尖らせながらも掠れた声で呟いた。

「……術式、使うんだろ。早くしろ」

 心なしか躊躇いがちなその物言いが数分前の思考を蘇らせる。言うか言うまいか悩んだものの、あとで後悔だけはしたくなかった。伸ばした蔓をしならせ始めた呪霊に注意を払いつつ、わたしは意を決して切り出した。

「その前にひとつだけ確認してもいい?」
「……確認?」
「伏黒くんって恋人はいますか?」
「………………は?」

 突飛もない質問に口を半開きにして唖然となった彼の横面を、次の瞬間、茨だらけの蔓が鞭のように激しく打ち付けた。夜気に小気味いい音が響き渡り、後方に大きくよろめいた彼に図らずも同情の視線を送ってしまう。

 深く伏せた左の頬から真っ赤な血が流れている。今のは絶対に痛いだろうなと思いつつ、素早く彼の手を取って呪霊の攻撃を躱すように建物の裏手に回る。

「……お前今なんて言った?」

 抑揚に欠けた淡々とした響きながら、そこには怒りにも似た感情が大きな渦を成して横たわっている。あ、わたし今日ここで死ぬかもしれない。数秒後に迫る自らの余命を悟り、なんだか無性に泣きたくなった。余計なことを訊かなければ良かったと後悔しつつも、もはや引くことなどできず、これ以上彼の気分を害さぬように丁寧に質問を投げかける。

「ふ、伏黒くんにはお付き合いされている方がいらっしゃるのでしょうか……」

 意外にも、鼓膜を叩いたのは怒声ではなく呆れ返った長い嘆息だった。手を引いて走っていたはずが、いつの間にか喪服めいた黒い背中に追い抜かれている。伏黒くんは制服の袖口で左頬から溢れる血液を粗暴に拭いながら、迫りくる呪霊の敵手を器用に躱してみせた。わたしの手は決して離すまいと強く握りしめたまま。

「……その質問、今じゃないと駄目なのか」
「できれば教えてほしいなって……いるなら伏黒くんの恋人さんに土下座して謝らなくちゃいけないし、今から心の準備をしておきたくて……」

 訥々と説明しているうちに罪悪感で胸が苦しくなる。罵倒や土下座で済むなら安いものだろう。どうしてもっと早く確認をしておかなかったのか、頭の回転が遅い自分がほとほと嫌になる。

「今さら?……今まで普通にしてただろ」
「本当にごめんなさい……だって伏黒くんがモテる要素で溢れてる事実に気づいてしまったというか……こんなに格好良いなら恋人がいて当然だろうなという考えにさっきやっと至ったというか……」
「……さっきって」
「い、いますか?いませんか?どっちですか?」

 一刻も早く答えを与えてほしかった。まくし立てるように問いかければ、僅かな沈黙を挟んで短い返答が寄越される。

「いない」

 修羅場回避を告げる言葉に安堵でへたり込みそうになるのを懸命に堪え、わたしはその場で足を止めて伏黒くんを見上げる。感情の読めない不愛想な顔がわたしを見つめ返していた。傷のない右頬にそっと手を添えると、つま先に力を入れて背伸びをする。

「何度もごめんなさい」

 首をひねるようにして顔の角度を微かに動かし、乾いた唇に優しく口付ける。刹那、頭蓋骨を揺さぶるように機械音声が響いた。

【呪力過剰投与25%――オーバードライブ】