「素晴らしい――塵殺だ」

 この世の全てを嘲るような、下卑た嗤笑を確かに聞いた。

 ひどく耳障りな笑い声が、深い眠りの淵に落ちていた意識を今まさに引き上げようとしていた。苦痛を和らげてくれる場所。世界と交わることのない場所。ここでは内側を見つめているだけで良かった。守るものなど何もない肋骨の中を覗くように。月も星もない死んだ暮夜に溶けていくように。

 浮上する意識が徐々に肋骨の外側を認識していく。わたしは暗がりにいた。右手がとても温かくて、誰かとずっと手を繋いでいることに気づく。視線を落とせば、大きな左手の親指の付け根に小さな黒子がぽつんと乗っている。

 わたしは隣に鼻先を向けて、泣きたくなるほど優しい表情で微笑むお兄ちゃんを見つめた。

「お兄ちゃん、ごめんね。わたし、もう行かなくちゃ」

 お兄ちゃんはひどく悲しそうな顔をして、小さくかぶりを振った。そんなことはやめろとでも言うように。わたしは安心感に満ち溢れる手に守られた、自らの右手をじっと見つめる。離れがたいその温かい左手を惜しむように、そっと優しく握り返した。

「本当はずっとここにいたいよ。ここにいれば何も考えなくていいし、痛い思いや怖い思いもしなくていい。わたしのせいで大勢の無関係な人が酷い目に遭うこともない。でも……わたしが戻らないと、きっと傷付く人がいるから」

 質量すら感じられそうな、重い罪悪感に滲む白群の瞳が脳裏を掠める。

「責任感の強い人なんだ。真面目で優しい人なんだ。今ここで妹のわたしまで戻らなきゃ今度こそ潰れてしまう。きっとお兄ちゃんのとき以上に前を向くまで時間がかかってしまう。それは絶対に駄目だと思うから……わたし、行くね」

 そう言いながら笑顔で手を離せば、お兄ちゃんの背後で眩い光が弾けた。真っ白い清潔な光に思わず目を細めた瞬間、肋骨の内側から規則的な鼓動が聞こえ始める。そこにはすでに守らねばならないものがあったし、その白く輝く光の先にはそれ以上に守らねばならないものがたくさんあるような気がした。

 現実がすぐ間近に迫っていることを感覚する。目線を合わせるように膝を曲げ、お兄ちゃんがわたしの頭を何度も撫で付けた。心配で仕方ないその様子に、わたしは小さく笑みをこぼす。

「大丈夫だよ、心配しないで。戻るって決めたからには、自分にできることを精一杯やり遂げてみせる。神様と仏様に力を貸してもらいながら、もう誰も傷付くことがないように。だから……もうしばらく、ここで見守っててね」

 するとお兄ちゃんが優しく笑った。わたしの大好きな、初夏のような爽やかを纏った笑顔で。

 髪を梳く穏やかなぬくもりが消えて、ほんの少しだけ寂しくなる。軽く下唇を噛んで足元を数秒見つめると、わたしはやや伏し目がちに歩き出した。視線も合わさずお兄ちゃんの脇をゆっくりと抜け、そこから少しずつ歩く速度を上げていく。顎を持ち上げてまっすぐ前を向いたときには、わたしは強く地面を蹴っていた。

 瞳の奥に痛みを感じるほどの混じり気のない白が、夢を見るわたしを今にも焼き尽くそうとしている。眩しい光を目前にして、わたしは身体ごと振り返った。ずっと遠くにいるお兄ちゃんは、もうどんな表情をしているかもわからないほど小さく見えていた。

 白い光に意識が呑み込まれるより早く、わたしは手を振りながら笑顔で叫んだ。大好きだった日常に溢れていた、当たり前のその言葉を。

「いってきます!」



* * *




 燦爛な光から放り出される気分に襲われたときには、意識はとっくに覚醒を終えていた。

 鉛を含んだように重い目蓋をゆっくりと押し上げる。ひどく薄暗い視界の中で、自分が宙に浮いていることを認識した。それと同時に、身体の片側の側面だけがとても温かいことも。

「……ここ、って」
?!」

 切迫した響きに誘われるように目を持ち上げれば、焦燥に駆られた様子でこちらを見つめる白群の瞳と視線が深く絡んだ。わたしは少し掠れた声音で彼の名を呼ぶ。

「……伏黒くん?」

 切れ長の双眸に安堵の色が淡く滲む。すぐに決まりが悪そうに目を伏せると、罪悪感に満ちた響きで告げた。

「悪い。待たせた」
「ううん。絶対来てくれるって信じてたよ」

 あまり気遣わせぬよう口端を緩めて応じつつ、わたしは刺された腹部に手を這わせる。そこに痛みがほとんどないことよりも、指先に何かが引っかかるような奇妙な感触に眉をひそめた。違和感を拭えないまま視線を移動させ、視界に映り込んだ高級そうな白い布地に思わず目を瞬いた。

 いつの間にか、衣服が白のドレスに様変わりしている。わたしの記憶が正しければ、今日はずっと巫女装束じみた呪術高専指定の制服を着ていたはずだ。一体いつ着替えたのだろう。金糸銀糸で繊細に刺繍されたそれが花嫁衣装にそっくりだと思った次の瞬間、見慣れた胸元があられもなく晒されていることにぎょっとした。

 伏黒くんに見苦しいものを見せてしまった申し訳なさが込み上げ、素早く両手を交差させて血で汚れたデコルテを隠した。勢いあまって肌を強く叩いてしまい、ぺちっと軽い音が響き渡る。おそるおそる上を向けば、彼はひどく気まずそうに顔を逸らしていた。

 わたしを横抱きにしている彼は、おそらく否応なしに見たくもないものを見てしまったのだろう。あんまりだなと思った。同情を覚えつつも、何故このような格好になっているのかを尋ねることにした。

「……えっと、あの、これ、伏黒く――」
「俺じゃない断じて違う頼むから変な誤解だけはやめてくれ」
「う、うん?」

 感情の一切が死んだ目で弁解を言い募る伏黒くんからは、もはや深い哀愁すら漂っている。さすがにそれ以上の言及などできず、潔く諦めて周囲を見渡した。

 消毒液のつんとした匂いが鼻孔を掠め、まだ杉沢病院から脱出できていないことをなんとなく察する。階段の踊り場らしき薄暗い場所に視線を這わせながら、わたしは湧いた疑問を口にした。

「今ってどういう状況なの?」

 伏黒くんは周囲を警戒しつつ、声量を抑えて淡々と答える。

「死体の群れから逃げてる最中だ。操ってる本体は外にいる」
「特級呪物は?」
「色々あったが五条先生が来てくれた。あっちのことは任せていい」
「そっか、悟くんがいるなら安心だね。虎杖くんや虎杖くんの先輩たちも全員無事?」
「……ああ。ちゃんと生きてる」
「良かった。あと、ついでに伏黒くんの状態も訊いてもいい?」

 何度目かの質問を重ねると、彼はその眉間に憂いの影を落とした。

「……怪我はしてるが問題なく動ける。けど、呪力が空だ」

 素っ気ない言葉を聞いたわたしは、躊躇いを過分に含んだ唇を小さく開いた。遊園地で浴びせられたあの怒声が、耳の奥でうわんと響いているような気がする。

「伏黒くんはすごく嫌だと思うけど……術式、使うね。本当にごめんなさい」

 先に謝罪を済ませたからなのか、彼はあのときのように怒らなかった。ただ蚊の鳴くような小声で「わかった」と答えただけだった。やっぱり不快だろうなと思いつつ、早く済ませようと覚悟を決める。

「ちょっとだけ屈んでください」と穏やかな声で頼めば、返事もなく感情の読めない頭が落ちてきた。わたしは首を伸ばすように持ち上げ、横一文字に結ばれた薄い唇にそっと口付けた――つもりだったのだけれど。

「……あれ?」

 どういうわけか、いつまで経ってもあの奇妙な機械音声が脳髄に響かない。一度唇を離すと、戸惑いを帯びた伏黒くんの頬を両手でがっちりと固定して、勢いよく唇を重ねてみる。今度は隙間を埋めるようにやや強めに口付けたはずなのに、それでも機械音声は聞こえない。

「どうして?」

 こんなことは初めてだった。不測の事態に首をひねりながら、「ちょっと待て」と制止する唇を黙らせるように三度目の口付けを交わす。

 時間が短いのかと十秒以上ぴったりと唇を合わせたり、角度が悪いのかと何度か頭を動かしたり、もっと熱っぽさが必要なのかと下唇を食むようにキスをしたり。考えつく限りの試行錯誤を繰り返したものの、望んだ声は一向に落ちてこなかった。

 落ち着かないわたしは軽く湿った唇を指で弄いつつ、眉間に深い皺を寄せて首を傾げる。

「おかしい……」
「……もう気は済んだな?」

 呻き声にも似た低い響きに意識を引き戻される。怒りとも憎しみともつかぬ複雑な表情を浮かべる伏黒くんは瞬きひとつせず、まるで親の仇のようにこちらをきつく睨み付けている。思わず喉がひゅうっと鳴った。あんなに執拗に口付ければ誰だって怒るだろう。したくもないなら尚更である。わたしは小声でぼそぼそと言った。

「何度も何度も本当にごめんなさい……どうして使えないんだろう」
「知らねぇよ、俺に訊くな……」
「あ、わかった。伏黒くんが寝てるわたしにキスしちゃったとか?」

 面倒臭げな伏黒くんに茶目っぽく冗談を投げかければ、白群の双眸は何故か明後日の方角を見つめる。階下から近付く複数の足音に注意を払った素振りではなさそうだった。その態度に違和感を抱き、わたしは白々しくそっぽを向く彼の肩を軽く叩く。

「あの、伏黒くん?」
「…………呪力はもらってない」
「それってもしかして――」
【術式使用条件を満たしていません】

 待ち望んだ声が脳髄を穿ったその瞬間、わたしは伏黒くんと目を合わせた。彼との会話の内容もすっかり忘れ、鼓膜を通すことなく脳に直接響く、その抑揚の乏しい声音に神経を集中させる。

【術式使用条件を満たしていません】
「……使用条件?今までそんなのなかったのに?」
【術式使用条件を満たしていません】

 まるで会話が成り立たず、わたしは早々に諦めると階段を上り始めた彼に助けを求めるように視線を送る。揺るぎない声音が降ってきたのは、短い嘆息のすぐあとだった。

「おそらく縛りだ」
「縛り?」
「自身に何らかの制約を課すことで、呪力量の増加や術式の効果を底上げできる。こういう場合は術式を使う、もしくは逆に使わない――そういうことを決めた覚えはあるか?」
「……ううん、一度もないと思う」
自身が縛りを課した覚えがないとなれば、それを課したのはきっと神仏だな。感応能力が高すぎる弊害か……もう二度と私利私欲で術式を使えないと思ったほうがいい」
「……私利私欲?」
「神だの仏だのが認めた大義名分がないと術式を使用できないってことだ」

 伏黒くんは口早な言葉を切ると、どこか急いた様子で歩速をやや速めた。長い階段から真っ暗な廊下へ移動し、焦りを帯びた険しい顔で呟く。

「……回り込まれたな」

 その言葉に導かれるように視線を動かせば、暗闇に浮かび上がるように無数の赤い光が爛々と輝いている。彼はわたしを横抱きにしたまま、緊張感に満ちた双眸を寄越すことなく尋ねる。

「身体はどれくらい痛むんだ」
「肋骨と右手はもう痛くないけど、お腹はまだちょっと痛いかも。内臓に響く感じがする」
「そうか」

 素っ気なく相槌を打つと流れる動作でわたしを床に降ろし、まるで庇うようにこちらに背中を向けた。一瞥もなく、厳しさを含んだ低い声音で告げる。

「そこから一歩も動くなよ」

 夜を映す窓を背にしたわたしの鼓膜を、嗤笑めいた絶叫が次々に叩き付ける。伏黒くんはまず右方へ動いた。緩慢な動きで近付く血の気の失せた人影にたった一歩で肉薄すると、固い拳で顔面に容赦のない一撃を加える。その後ろから迫る別の影の腕を仰け反って躱し、その伸びた腕を掴んで自らのほうへ引き寄せるや、柔い鳩尾を力任せに蹴り飛ばす。

 蹴りと同時に手を離していたのだろう、青ざめた身体が後方へ勢いよく飛んだ。迫っていた複数の人影ともつれるようにして床に雪崩れ込み、鈍く濁った音が廊下に反響する。

 ほんの数秒の出来事に、わたしは瞬きする暇もなかった。左側から唸り声が聞こえ、はっと我に返る。そちらに鼻先を向けたときには、獰猛な殺気に満ちた歪な形相が目前にあった。禍々しい殺意に本能的な恐怖が込み上げ、思わず首をすくめて息を呑む。

 たたらを踏みそうになったそのとき、下方の死角から跳ね上がった脚がその顎に直撃した。視界を横切った黒い制服にわたしは大きく目を瞠る。人影が後ろへ大きくよろめいた瞬間、右腕を旋回させた伏黒くんの動きがぴたりと止まった。

「……、お前どういうつもりだ」