「……なんだ、あれ」

 宵闇に溶けるように天高くから地上を見下ろした伏黒恵は、視界に映るその光景に眉をひそめた。すでに今日の診察は終了し、街そのものが静まり返る時間帯にもかかわらず、杉沢病院の正面玄関には人らしき黒影がいくつも確認できる。

 訝しむように目を細めながら、恵は鵺に降下を指示した。闇に沈んだ地上が徐々に近づき始めると、白群の双眸に走る怪訝な色がたちまち驚愕へと変化する。目に映る不吉な影の虚ろな表情と覚束ない足取りは、およそ人間のそれから大きくかけ離れていたからだ。

「マジかよ……」

 地上から聞こえる苦鳴にも似た低い呻き声に、恵は強く歯軋りした。

「ゲームの世界じゃねぇんだぞ……」

 当てもなく彷徨い歩く人影から離れた位置に着地すると、呪力の消耗を僅かでも抑えるために術式を解く。代赭色した鵺の身体は瞬く間に闇の中へ消えた。近くに停車していた無人のタクシーの影に身を隠し、警戒した視線を辺りに這わせていく。

 千鳥足の怪しい人影が周囲を徘徊する異様な状況だというのに、全く騒ぎになっていないのは一体どういう理由だろう。術式が張り巡らされている感覚も領域内に侵入した感覚もないとなれば――と恵は顎を持ち上げてその双眸を入院病棟の窓に向ける。

 ――やっぱり中で何か撒いてんな。

 カーテンの開いた窓から覗く室内が淡く濁って見える。声ひとつ漏れてこないことから、おそらく敵は睡眠剤か何かを気化させたガス性の化学兵器を使用したのだろう。ここからでは致死性か非致死性かも判別できない。術式を使用されるほうがずっと良かったと肩をすくめる。

 ――ガスがどこまで回ってるかわかんねぇ。屋上から入んのはナシだ。

 恵は即座に視線を落とし、侵入ルートを地上に絞って思考をまとめていく。正面玄関付近に七人、併設された入院病棟の入り口周辺にも何人か人影を確認できる。正面玄関を避けて入院病棟の裏口から入ることも考えたものの、が向かったであろう霊安室は外来病棟の地下にある。の状況がわからない以上は下手に時間を割くべきではないし、何よりガスが散布された入院病棟に足を踏み入れるのは極力避けるべきだ。

 ――入るなら正面一択か。

 壊れかけた人形のような人影がどれほどの攻撃力を備えているのかは定かではないが、微弱な残穢から考えてもあれは間違いなく人間だろう。その全てが呪詛師だという可能性も限りなく低い。ならばと両眼を鋭く光らせ、恵は地面を強く踏んだ。

「……強行突破だ」

 己を鼓舞するように呟きながら、暗い正面玄関に向かって一直線に駆け出す。先の戦闘で負った傷がひどく痛んでいた。脳震盪の影響で視界が妙に霞む。呪力もほとんど空っぽで、術式はあと一回使えるかどうか。出血と疲労のせいか全身がやたらと重い。それでも恵は狙いを定めて一心不乱に地面を蹴る。

 足音に気づいた人影が次々に恵を捉えた。凶暴な輝きに濡れた血色の双眸は猛然と駆ける恵を激しく視殺した。

「唹々々々々々ッ!」
「呀々々々々々ッ!」

 嗤笑めいた絶叫が闇夜にこだまする。威勢のいい声音とは裏腹の緩慢な動きの隙を突くように、恵は走る勢いを殺さぬまま三人の男女を難なく回避する。目前まで迫っていた若い女が両手を伸ばし、叫びながら前のめりに襲い掛かってくる。恵は軽く地面を蹴って跳躍すると、よろめいた女の頭に片手を置いてその痩躯を飛び越えてみせた。

 着地点にいた中年男の横面を一閃に蹴り飛ばして地に足を着く。地面に転がった男の蒼白な顔を一瞥すると、恵は眉間に深い皺を刻んだ。

「……やっぱり死んでんのか」

 そう呟いた次の瞬間、恵は振り向きざまに拳を作った左腕を大きく振るう。背後に忍び寄っていた若い男の顔面に拳がめり込み、呻き声もなく仰け反って倒れ込んだ。

 息絶えた肉体からはすでに微弱な呪力が途切れている。どうやら攻撃すれば簡単に術式は解けるらしい。これだけの数を同時に操るのは簡単なことではないからこそ、この程度の衝撃で容易く術式が解けてしまうのだろう。恵は首を左右に振った。

 ――操ってる奴はどこだ?

 しかし至るところから微弱な残穢が感じられるせいで、相手の居場所を特定できそうもない。きっとの近くにいるはずだと結論付けると、恵は正面玄関を睨み付ける。

 半開きになった自動ドアの前には、進路を妨害するように警備員らしき服装の男が立ち塞がっていた。恵が怯むことなく駆け出すと、血走った目の警備員は唸りながら恵に牙を剥いた。獲物に飛び掛かるように獰猛に襲い来る。恵は肉薄する敵手を捉えるや、右の手首をしならせ反撃を繰り出した。固い拳が容赦なく鳩尾を抉れば、その躯体は崩れるように膝をついて地面に伏せる。

 横倒しになった死体を飛び越え、杉沢病院に足を踏み入れる。薄暗い院内を目に入れた恵は思わず歯噛みした。たった一度の攻撃で術式が途切れるといえども――

「数でゴリ押しされんのはさすがにキツい……」

 顔をしかめる恵の視線の先にあるのは、総合待合にひしめく死体の大群だった。恵の姿を目にした動く死体は、揃いも揃ってけたたましい叫び声を上げる。

 恵は鼓膜が破れそうになりながらも前に進もうとしたが、まるで壁のように迫り来る死体に行く手をことごとく阻まれる。焦燥に駆られたまま小さな舌打ちを落とし、恵は拳を振るって眼前の敵を薙ぎ倒した。広い総合待合ではあるが、これほど密集されれば走って逃げることもできない。

ッ!」

 視界に伸びる敵手を身を屈めて躱し、腹の底から声を絞り出した。

ッ!どこだ、返事しろッ!」

 つんのめるようによろばう死体を盾にして、恵に牙を剥く死体の攻撃を防ぐや、身代わりのそれを力任せに殴り倒した。転倒に巻き込まれた数人が床に沈む。しかし恵の耳が拾い上げるのは嗤笑めいた叫び声と呻き声、そしてこちらに近づく複数の足音だけだった。恵の額から冷や汗が噴く。

 の身に危険が迫っているのは間違いない。いちいち相手にしていては埒が明かないし、早く行かねばきっと取り返しのつかないことになる。たとえ理解していても身動きが取れないのは事実だった。通路の奥から次から次へと湧いて現れる黒影が、恵を窮地に立たせている。

 肉薄する複数の赤い光に強く歯噛みし、半歩後ずさりしたそのとき――甲高い小さな音が鼓膜を叩いた。恵がふと視線を落とせば、倒れた死体の胸ポケットから滑り出したらしいそれが床に転がっている。

「……ライター?」

 どこにでも売っていそうな半透明の安っぽいライターが、降りしきる雨の中で交わした家入との会話を呼び起こした。

「わからないことだらけの呪霊だが、ひとつだけ弱点がある」
「弱点?」
「火に弱い。遺体を燃やせば容易く術は解ける」

 しなやかに身を翻して床に落ちたライターを拾うと、恵は赤い瞳を爛々と光らせる死体を険しい双眸で見据えた。ここで死体を燃やすわけにはいかないが、鱗の呪霊に関係しているなら何らかの突破口になるかもしれない。小さなライター一本でどうこうできる状況ではないことは理解していたものの、それでも物は試しだと恵は縋るような思いでライターを点火した。

 橙色の光が深い暗闇の中に浮かんだ瞬間、よろばう死体の動きがぴたりと止まった。小さな火を目にした死体の双眸から真っ赤な色が消え失せ、瞬く間に死魚のように濁ったそれに変わる。糸の切れた操り人形の如く床に這いつくばるまで、ほんの数秒も要さなかった。

「……弱いなんてもんじゃねぇな」

 動く死体の大群が次々と自律不能になるその光景に目を瞬いたのも一瞬で、恵は安物のライターを点火したまま、倒れた死体を避けながら総合待合を駆け抜ける。

 古来より火は穢れを焼き祓うという。このライターの炎に呪術的な要素があるのはたしかだが、呪力も籠めずここまで効果があるのは本当に火が弱点だということなのだろう。とはいえ、これが術式を使用された死体――つまり術式を使用する呪霊本体ではないからこそ効果が表れただけという可能性も充分に有り得る。恵は手の中のライターを一瞥した。

 ――これ一本でどうにかなるとは考えないほうがいい。

 そう結論を下した恵がより速く疾走しようとしたそのとき、どこからか悠揚な足音が聞こえた。重い肉体を引きずるようにして歩く死体とはまるで違うそれに違和感を覚え、足を止めた恵は耳を澄ませながら靴音のする方向を探る。地下へと繋がる階段から響いていることに気づいた瞬間、顔に緊張を走らせた恵は即座に臨戦態勢を取った。

「足止めをしたつもりだったのですが、おかしいですねぇ」

 間延びした不吉な声音とともに軽い靴音が耳朶を打つ。まるで勿体ぶるように床を踏んだのは白衣姿の若い男だった。その瞬間、医者めいた格好の男の細腕に抱えられた少女を目にした恵の呼吸が止まる。

 気を失ったように目蓋を閉じるは、何故か黒い制服ではなく銀糸金糸で刺繍された白いドレスを纏っていた。ただその腹部には僅かながら赤い染みが広がり、の顔もぱっくりと大きく開いた胸元も血の気が失せたように青ざめている。

 恵は瞬時に悟った。ひとりになったが襲撃されたこと、そして捕らえられた挙句に馬鹿げた格好に着替えさせられたこと。恵の腹底で怒りが煮え滾っていた。白群の双眸が獰猛な殺意を灯した様子など気にもせず、男はゆっくりと近づきながら微笑する。

「なるほど、ライターですか……火は嫌いです。嫌なことを思い出すもので」
を返せ」
「大変申し訳ないのですが、それは無理なお願いですね。彼女を連れ帰ることが私の役目ですから」

 低い恫喝に対して男が柔らかな物腰で言葉を返すと、恵はを奪い返す算段をしながら時間を稼ぐように問い質す。

「ここにある死体、どこから調達した。あの雑居ビルからか?」
「ええ、そうですよ。貴方たちに邪魔をされることは想定内でした。だからこそ魔が哭くこの夜を選んだのです。仮に五条悟がこの地に来たとしても、彼はきっと魔の相手で手一杯でしょうから」
「……そうやってペラペラ喋るってことは、俺を殺してを連れて行く気だな?」
「おや、察しが良いですね。話が早くて助かります」

 穏やかな笑みを浮かべた男は、恵の攻撃範囲から一歩引いた場所で足を止めた。

「兄様が首を長くして待っているのです。彼女との至福の時を望んでいらっしゃるのです」
「……兄様?そいつが鱗の呪いか?……いやそもそも呪いに兄弟なんて概念――」
「名や呼称は個を識別するための記号に過ぎませんよ、式神使い」

 疑問を遮ったのは以前どこかで聞いたことのある台詞だった。恵が眉をひそめながら「……どういう意味だ?」と問えば、男は悠然とかぶりを振った。生まれてこの方、たったの一度も嘘を吐いたことがないとでも言わんばかりに口を開く。

「深い意味などありません。その呼称こそあの御方の愛した記号だということ、ただそれだけです」

 うっとりと心酔したような表情で述べると、はっと我に返った様子で口早に声を継いだ。

「ああ、あまり話していると帰りが遅くなってしまいます。叱られてしまいます。私がお相手をして差し上げたかったのですが、貴方の相手は人形たちにお願いしましょう。それではこれにて失礼いたしま――」
「逃がすかよ!」

 怒号を放った瞬間にはすでに男は恵の死角に回り込んでいる。動体視力で捉えられないほどの凄まじい速さだった。背後からの一撃を横跳びに逃れようとしたが避け切れず、蹴り抜かれた脇腹を庇いながら床を転がる。

 足早に立ち去ろうとしている男の背に向かって、恵は一か八か橙色の火が点いたライターを投げ付けた。男はそれを振り向きざまに蹴り飛ばすと、明確な殺意を孕んだ視線をこちらに寄越す。壁にぶつかったライターが床に転がる乾いた音がした。

「……火は嫌いですと先に申し上げたはずですが」

 地鳴りにも似た低音が笑みの消えた唇から溢れ出す。恵の行為が逆鱗に触れたのだろう、いきなり厳しい顔になった男がを強く抱えたまま猛然と向かってくる。恵は素早く立ち上がって身構えた。とともに逃走されることは防いだ、ならば後はを無事に取り戻すだけだ。

 みるみる迫ってくる男から飛びすさろうとするが、その圧倒的な速さは恵にその隙も与えなかった。距離を詰めた男の左足が恵の横面めがけて旋回する。恵はそれを紙一重の差で何とか躱すと、逆に一歩前へ大きく踏み込んで、軸足一本だけになった男の顔面に左右の拳を交互に叩き込んだ。

 たしかな手応えはあったものの、即座に男は後退した。ひしゃげた鼻は出血はおろか赤味すら帯びていない。男は忌々しげに舌打ちすると、怯んだ様子もなく真っ向から駆け出した。

 先ほどの穏やかさが嘘のように凶悪な表情を漲らせたまま、恵の胴体へと鋭い蹴りを放つ。恵がその場で膝を折って回避すれば、掠めた黒髪が数本、夜闇に踊った。床に着いた足を旋回させて男の軸足を払うように一閃した途端、ようやく男の身体が前のめりになる。

 ひどく大事そうにを抱えていることで、男の攻撃パターンが限られていたことも幸いしたのだろう。負傷した身体ながらも恵は男相手に優勢に立ち回っていた。

 男はしかしすぐに崩れた身体を立て直すと、顔面を狙う恵の拳を間一髪で避けてみせた。依然としてをきつく抱きしめたまま、恵から距離を置いて不思議そうに首を傾げる。

「おかしいですねぇ。式神使いは近接戦闘が苦手ではないのですか?」
「お前の常識で俺を計るな」

 殺気の籠った冷ややかな答えを返した恵は、男を強く睨み付けながら尋ねた。

「……お前の本体はどこにいる?変態野郎」
「おや、気づかれてしまいましたか。一体いつから?」
「いつまで経っても俺に直接術式を使ってこない。だからって呪力切れを起こした様子もない。おかしいと思うのは当然だろ」
「なるほど、なるほど……今後の参考にします。感謝しますよ、式神使い」
「やっぱり室内には入れないんだな」
「ご名答。やはり勘が良いですねぇ。兄様が警戒するだけのことはある。いえ、あれは警戒ではありませんね」

 そこで言葉を切ると、男は目を伏せて穏やかに微笑んだ。

「伏黒恵、あなたには幸せに恵まれてほしいと願っているようですから」
「……は?」
「ですが残念ですね。邪魔をするからにはここで死んでいただきます。大丈夫ですよ、兄様が供犠の花とともに貴方の死を心から悼んでくださいますから」

 男の顔から笑みが消えた次の瞬間には、その影はまるでコマ落としのように目前に肉薄している。脚を滑らかに持ち上げた男の思惑通り、得意げに放った横薙ぎの一閃が恵の左頬を激しく打ち付けた――が、しかしそれだけだった。横面を打った足を左手で固定するように掴み上げたまま、恵は微動だにしない。

「……あ、れ?」

 男の口から小さな声が漏れた瞬間、その身体は大きく揺らめいた。力の抜けた細腕からの身体が落下し、地面に衝突するより早く恵はを腕に抱える。

「直接術式が使えない以上、俺を殺るには近づくしかない」

 切れた口端から赤い血を滴らせながら、恵は視線を落とした。くずおれた男の双眸は白く濁っており、そこに生者らしい色は全く存在していない。恵を蹴り付けた足には小さな呪符が貼り付いている。

が作った摩利支天の呪符だ。これも魔除け用の特級呪物だからな、相当効くだろ」

 恵は物言わぬ死体に戻った男を一瞥すると、腕の中で気絶しているドレス姿のに視線を移した。腹に怪我を負ったときに大量に血を吐いたのだろう、口の周りは赤黒く染まっている。その血液は白い首筋を伝い、露わになった胸の谷間にまで流れ落ちていた。無意識に見てしまったそれから慌てて目を逸らしながら、恵はひどく険しい顔で嘆息する。

「……なんて格好させられてんだよ」

 そうは言ったものの、そもそも元を辿ればに杉沢病院にいろと命じたのは恵である。つまりに怪我を負わせたこともストーカーに服を取り替えられたことも恵の責任なのだ。だからと言ってあの場で恵に同行させていても怪我は免れなかっただろうが、それでもこんな花嫁衣装めいた馬鹿げた格好をさせられることはなかったはずだ。

 考えの浅かった自らに無性に腹を立てながら踵を返したとき、どこからともなく邪悪な嗤声が響き渡った。

「――“獲鱗侵髄”」
「とっとと諦めろって!」

 恵は床を蹴って駆け出しながら、執拗にを狙う相手に怒号を放つ。至るところで倒れている死体がゆっくりと上体を起こし始めた。本体を叩いたわけではない以上、術式が使用されるのは当然と言えば当然なのだが――

「……今ここで囲まれたら」

 未だ気を失ったままのを抱える恵の顔に、激しい焦燥の色が滲む。ライターを失い、呪力もほとんど底をついたこの状況で、数で圧倒されれば勝ち目などない。恵には奥の手がないわけではないが、外に本体が待ち構えているとなればここで使用することは絶対に避けるべきだろう。

 死体がひしめく一階の総合待合からの遁走は潔く諦め、恵は手近の階段を一段跳びに駆け上がる。階段や踊り場で待ち受ける動く死体を流れるような足捌きで躱しつつ、目蓋を隙間なく閉じたままのに大声で呼び掛けた。

!無事か!」

 二階から飛び降りての逃走を図ろうとするも、恵の思考は読まれているのか廊下の窓から見下ろした先には虚ろな表情をした死体が集まっている。鋭い舌打ちをひとつ落とし、恵は周囲に用心深い視線を走らせる。あちこちで不吉な赤い光が浮かんでいた。来た道を引き返すや、再び階段につま先を乗せて疾駆する。

 だけでも逃がさなければ――ただそれだけの思いで恵は懸命に名を呼んだ。

、起きろ!」
【生体認証開始――完了】

 しかし鼓膜を叩いたのは、またしてもの穏やかな声音ではなかった。突如として恵の脳髄に直接響いた抑揚に欠けた機械音声は、驚愕に目を瞠る恵を待たずして次の言葉を淡々と紡いでいく。

【対象を“友だち”――“伏黒恵”と断定。システム管理者は現在損傷部位自己修復のため一時的に活動を停止、外部との応答は一切出来ません。再起動しますか?】

 不可思議な言葉に訝しげに顔をしかめ、恵は顔面蒼白のに目を落とす。

「停止ってどういうことだ?……術式で仮死状態にでもしたのか?」
【再起動しますか?】

 機械音声との全く噛み合わない台詞に苛立ちを覚えつつ、「早くしろ!」と恵は声を荒げる。すると一秒も間を置くことなく機械音声は恵の言葉に応え始めた。

【“両面宿儺”の受肉を確認、生得術式“機械仕掛けの神”の全使用を許可、損傷部位80%の修復を確認――緊急措置として対象“伏黒恵”のシステム使用を限定承認します。再起動のため、直ちに呪力を投与してください】

 階段を駆け上がっていた恵の足が止まる。機械音声からの指示に目を瞬かせる。

「……呪力を、投与?」

 動揺する白群の視線が血染めの唇に落ち、意味を理解した心臓が遅れて大きく脈打った。を抱える両手がじっとりと汗ばむのを感じる。一瞬で思考が取っ散らかった恵を叱咤するように、平板な機械音声が再び耳朶を打った。

【再起動のため、直ちに呪力を投与してください】
「それって……」
【再起動のため、直ちに呪力を投与してください】
「ああクソッ!やりゃあいいんだろッ!」

 捨て鉢な台詞を吐き捨てると、恵は迫りくる敵手を躱しながら階段の踊り場で再び足を止める。灯りのない建物の中だというのに、青ざめたの顔がやけにはっきりと見えた。呪力の投与を求められている割には、その肉体には潤沢なほどの呪力が廻っているように感じられる。

「俺のほうが空だってのに……」

 小さな声で文句をこぼし、頭でも垂れるように恵は下を向いた。首の角度を僅かに変え、逸る心臓を押さえ付けながらに顔を寄せる。たったそれだけで発熱したかのように身体が熱を帯び、今にも膝が笑い出しそうだった。しかし緊張する自分に呆れる余裕すらもなく、少しでも自らを落ち着かせようと掠れ切った声で囁く。

「……貸しだからな」

 朱を塗ったような赤い唇に口付ける。柔らかいそれに意識が漂白されそうになるのを懸命に堪えながら、恵自身の肉体を廻る呪力の流れを操作していく。恵は目を伏せるとより深く唇を重ねた。互いの輪郭が溶け合って曖昧になるほどに。

 恵が生まれて初めて好きな女にした口付けは、鉄の錆びたようなひどく苦い味がした。