「知ってた?人ってマジで死ぬんだよ」

 ともすれば霞みそうな伏黒恵の意識野に、事もなげな声がうわんと響いた。二級呪霊に校舎の壁に激しく叩き付けられたとき、もしくは校舎から放り出され屋上に身体を打ち付けたとき――そのどちらなのかあるいは両方なのかは定かではないが、脳震盪でも起こしたのだろう、頭の芯がぼうっと痺れて思考力も集中力も格段に衰えている。

 それでも恵は目の前で何が起きているのかを充分に理解していた。

 月も星もない深い夜に飲まれた視界は、頭部から大量に流れ出た鮮血の色に染まる。赤く濡れた視野の中央に、背を向けたひとりの少年が映っている。半裸姿の少年の身体には禍々しい模様が浮かび、肉体からはその模様よりも遥かに歪でおぞましく、戦慄するほど邪悪な呪力が垂れ流されていた。

「だったらせめて自分が知ってる人くらいは、正しく死んでほしいって思うんだ」

 耳に響いたその言葉はたった数分前、この世の全てを嘲る下卑た嗤笑に歪んだ同じ唇から、恵ではなく少年自身に言い聞かせるように紡がれたものだった。

 思考力はとんと鈍っていたが、己の行動指針となる物差しまで狂ったわけではない。目の前の現実に動揺と躊躇を覚える恵は懸命に目を凝らした。血とともに気力まで流れ出たのか、所有者である恵の意思を裏切るように身体がひどく重い。

 しかし恵は決断を迫られていた。一人で二役を演じ分けるように、急に様子のおかしくなった呪印だらけの背中を見据えたまま、力の抜けつつある躯体の重心を固定するためその場に両膝を付く。

 迷っていた。誰かの正しい死を願う善人の少年にその選択をさせたという深い悔恨。けれども恵には呪術師としての責務があった。全自動ではない因果応報、その“報い”の歯車のひとつとして。

 出血で蒼白になった顔を前方に向け、やたらと重い両手を握りしめて拳を作る。それを合わせるように印を刻めば、足元に広がる漆黒の影が円を描いて激しく波打ち始めた。

「動くな。お前はもう人間じゃない」

 恵の強い語気に半裸の少年――特級呪物“両面宿儺の指”を取り込んだ虎杖悠仁は身体ごと振り向くと、状況を全く理解していない表情で「は?」と怪訝な声を漏らす。

 込み上げる感情を押さえ付けたくて、恵はすぐに言葉を継いだ。悠仁から視線を外すように目を伏せたまま、その事実だけを淡々と述べる。

「呪術規定に基づき、虎杖悠仁、お前を――“呪い”として祓う」



* * *




 最強。その意味は書いて字の如く、最も強いことを表す。ひとえに強さといえどもそこにはさまざまな意味があるが、この場合の強さは呪術師として、いや生き物としての単純な“戦闘力”である。

 “現代最強術師”の二つ名を欲しいままにする長身痩躯の白髪男――五条悟の腕に、悠仁の身体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。その場に腰を下ろして事の成り行きを見守っていた恵は、不思議そうにきつく眉根を寄せた。恵の目には、五条が悠仁の額を二本指で優しく突いただけのようにしか見えなかったからだ。

「何したんですか」
「気絶させたの」

 五条はさも当然のように素っ気なく答えると、自律不可能となった悠仁の肉体を支えながら「重っ」と文句を垂らす。悠仁が取り込んだのは、特級呪物“両面宿儺の指”二十本の内のたった一本。しかし不完全といえども受肉したあの“呪いの王”両面宿儺を相手に、五条悟は遅れを取るどころか傷ひとつ負うことなく完勝してみせたのだ。自他共に認める“最強”の名はやはり伊達ではないらしい。

 そんな“最強”がここ杉沢第三高校にやって来たのは、行方不明になった特級呪物捜索のためだと言う。とはいえ数多の任務を完遂してきた五条でも、さすがに特級呪物の受肉には多少なりとも驚いたようだが。

 気を失った悠仁に鼻先を向けて、五条はその軽薄な声音にどこか好奇心にも似た響きを滲ませて告げる。

「これで目覚めたとき宿儺に身体を奪われていなかったら、彼には“器”の可能性がある」

 言葉を切るや、五条の双眸を隙間なく覆う黒い目隠しが恵を見据えた。

「さてここでクエスチョン。彼をどうするべきかな」

 その問いに恵は迷いを含んだ目を伏せた。両手で抱えた五条の紙袋が中央に映る。「僕がと帰りの新幹線で食べるんだ」と悠長に買ってきた仙台名物の入ったそれを強く握りしめると、紙が擦れ合う乾いた軽い音が耳を打った。

「なんだ、あるじゃん。全員助かる方法」

 あのとき悠仁はそう言って、宿儺の指を自ら飲んだ。一切の躊躇もなく。友だちだという先輩ふたりを助けるために。知り合って間もない恵を助けるために。

 自分が知ってる人くらいは正しく死んでほしい――その揺るがぬ信念に従って。

「……仮に器だとしても、呪術規定に則れば虎杖は処刑対象です」

 紙袋に目を落としたまま、恵は落ち着いた口調で切り出した。頭の中で言葉を選びながら、ゆっくりと。

 人を助けるために“呪い”となった悠仁は、呪術規定に基づき“呪い”として祓われる。たとえそれが呪物に肉体の所有権を奪われることのない“器”だったとしても。

 不平等な現実のみが平等に与えられている。

 だから恵は決めたのだ。疑う余地のない善人だった津美紀が目覚めなくなったあの日に。少しでも多くの善人が、津美紀や悠仁やのような善人が平等を享受できるように――不平等に人を助けることを。

「でも死なせたくありません」

 顔を上げた恵は一片の迷いもない実直な響きで告げた。白群の双眸は淀みなく澄み渡り、薄く笑う五条を深く穿つように真正面から捉えている。五条の唇が僅かに開いた。

「……私情?」
「私情です。何とかしてください」

 明瞭な声音が深い夜の中に浮き彫りになる。悠仁を片腕で脇に抱えたまま、芝居がかった素振りで五条はくつくつと喉を鳴らした。恵はわかっていた。恵に選択権を与えんばかりに尋ねておきながら、最初から選択権を本気で譲渡する気などないことを。そして五条の予想通りの答えを恵が口にしたということも。

 五条は口端を吊り上げると、その彫刻めいて整った顔の前で得意げに親指を立ててみせる。

「可愛い生徒の頼みだ。任せなさい」

 その力強い言葉に、恵は安堵した様子で小さく息を吐いた。五条はデリカシー皆無で呆れるほど軽薄な男だが、“教師”としての五条が嘘を吐いたところはまだ見たことがない。加えて恵の先輩である乙骨憂太も一度は秘匿死刑が決まった身ながら、この男の計らいでそれを免れているのだ。

 きっと虎杖悠仁の処刑もどうにかなるだろうと思っていると、恵の耳朶を浮ついた声が打った。

「ねぇ恵、ところでは?クレジットカードの件でちょっと訊きたいことがあるんだけど」

 恵は素知らぬ顔をしてすっと視線を逸らした。早速昨夜のクレジットカードの利用情報が五条に届いたらしい。その表情にも声音にも怒りや苛立ちが含まれている様子はないが、念のためバレたことを先に伝えておこうとスマホを取り出す。

なら杉沢病院に――え?」

 眩く光るスマホに視線を落とした恵は唖然とした。画面に表示されたからの不在着信の文字にひどく嫌な予感を覚える。滲むように湧いた焦燥に掻き立てられながら、素早い操作でに電話を折り返した。

 無機質なコール音がようやく途切れ、恵は相手の声も確認せずに唇を動かした。

「悪い、何かあっ――」
「現在お掛けになった電話番号は、電源が入っていないか電波が届かない場所にあるため掛かりません」
「……は?」

 瞠目した恵の口から戸惑いがこぼれ落ちる。繰り返される抑揚のない音声アナウンスを聞きながら、「……しくった」と蚊の鳴くような声で呟いた。尋常ではないその様子に気づいたのか、五条が不思議そうに小首を傾げる。

「どしたの恵?」

 問われた恵は我に返ると、跳ねるように立ち上がった。酸化した黒い血で汚れた顔には冷や汗が滲むほどの鋭い緊張が走っている。屋上の縁につま先を乗せるや、蒼白した首だけで五条を振り返った。

「五条先生、虎杖のことお願いします!ついでに校舎内にいる生徒ふたりも!」
「どこ行くつもり?」
のところです!」

 口早に答えた恵を見つめる五条は、悠仁の身体を抱え直しながら冷めた声で尋ねる。

「恵、もう限界なんじゃないの?呪力だってほとんど空でしょ?」
「……それが何だって言うんですか」
「無駄死にしようって?」

 凍り付いた白刃で肺腑を深く抉るように尋ねられ、恵の表情がたちまち硬直する。しかしそれも一瞬のことで、寝静まった街に首を向けると奥歯を軋らせて断言した。

だけは絶対に助けますよ」

 次の瞬間、恵のつま先がコンクリートを蹴った。校舎の屋上から投げ出された肉体は重力に従って勢いよく落下する。開いた両手の親指同士を交差するように絡め合いながら、呪力を振り絞るようにして恵は式神を召喚した。

「――“鵺”」

 固い地面に直撃する寸前に身体が急に浮いた。恵の両肩は鳥によく似た鵺の下肢にがっしりと掴まれている。鵺は恵を伴ったまま急上昇すると、代赭に染まった巨大な羽を広げて闇夜を猛スピードで滑空する。

 杉沢病院の位置する方角を睨み付け、恵は恐ろしいほど落ち着いた声音を放った。

「飛ばせ。全速力で」

 弾丸と化した鵺の双翼が夜気を一直線に引き裂いた。