「学校にはさ、大抵の場合“魔除け”が置いてるんだよね」
「魔除け?」

 書道室の座卓で墨を磨っていたわたしは、その手を止めて前方に視線を送った。心落ち着くいぐさと幽玄な墨の香りが空気中で撹拌し、呼吸のたびに鼻孔を焦がす。畳の上で胡坐をかく悟くんは頬杖をつくと、道化師にも似た軽薄な笑みで口端を歪めた。

「ほら、学校って人が多く集まる上に思い出がいっぱいじゃん?恵、中学での思い出は?」

 その問いに釣り込まれるように、わたしは鼻先を真横に滑らせた。悟くんから呪符作りの指導係を押し付けられている伏黒くんは、自らに話の矛先が向いたことに特別頓着した様子はない。難しそうな文庫に目を落としたまま、愛想のない返事を返した。

「特にありません」
「えっ即答?三年も通ってたんだから多少は何かあるでしょ」
「ないですよ。そういう期待はにしてください」
「もっと青春しなよ若人」

 肩をすくめて大袈裟にかぶりを振ると、悟くんは浮ついた微笑をこちらに向ける。

はもちろんあるよね?」
「うん、いっぱいあるよ」

 笑顔を返したわたしは再び硯の陸に墨を傾ける。横から小さな声で「少し水を足せ」と指示が入り、水差しで数滴だけ水を足した。みるみるうちに粘り気のある漆黒が滑らかな表情へと変わる。

「ちなみにの一番の思い出は?」
「一番かぁ……」

 円を描くようにして墨を磨りながら、中学校で過ごした三年間の記憶を辿っていく。

「そう言われると迷うけど……やっぱり三年の文化祭かなぁ」
「……文化祭?」

 怪訝な声がしたほうを向けば、文庫から目を持ち上げた彼と視線が絡んだ。わたしの他愛ない話に興味を持ってくれたことが純粋にうれしかった。なんだか友だちという感じがして。わたしは柔らかく緩んだ唇で彼の質問に答えていく。

「うん、文化祭。うちのクラス、ゾンビ屋敷したんだよね」
「お化け屋敷じゃなくて?」
「お化けの代わりにゾンビが出るからゾンビ屋敷だよ。クラスの皆でゾンビの仮装をして、お客さんを思いっきり怖がらせたんだ。あ、写真あるから見て見て!」

 墨の代わりにスマホを手にすると、文化祭の写真を素早く引っぱり出した。ゾンビに扮したわたしと遊びに来てくれたお兄ちゃんが映ったそれを見た伏黒くんは、感心したような表情で小さく感想を口にする。

「……意外と本格的だな」
「文化祭の満足度ランキング一位だったからね。悟くんと伊地知さんもすごく楽しんでくれて」

 弾んだ口調で焦点を前方へ戻せば、何かを噛み締めるように悟くんは深く腕を組んで何度も頷いてみせる。

「僕らは伊地知という尊い犠牲を払い、あの忌まわしい洋館から命からがら生還したんだ……」
「それ文化祭じゃなくてゲームの話も入ってますよね?」
「あれ?恵まだ生まれてないんじゃなかったっけ?」
「リマスター版。アンタ一時期ずっとその話してたでしょ」
「名作はいつまでも名作だからね。恵も一回やってみたら?戦略の幅が広がるかもよ」
「ショットガンで呪いは祓えませんよ」
「いやそこはサバイバルナイフ一択だろ」
「どれだけ強い呪いの籠ったナイフなんですか……」

 わたしにはよくわからないその会話をにこにこ聞いていると、視線に気づいた伏黒くんが「……テレビゲームの話だ」と気まずげに顔を逸らした。会話を聞いているだけで楽しかったのに、どうやら変な気を遣わせてしまったらしい。

 ふたりだけの会話はそこで途切れ、悟くんが形のいいその唇に再度浮ついた笑みを宿した。

「少し脱線したけど、ようするに僕が言いたいのは人の思い出にはさまざまな感情が付随するってこと。今のの話は楽しい思い出だけど、きっとそうじゃない思い出――つまり呪いの素となる負の感情が紐付いた思い出もたくさんあるはずだ。だから学校のように人の思い出になる場所っていうのは、呪いが生まれやすい場所でもあるんだよね。そこで話は振り出しに戻るわけ」
「……呪いの生まれやすい“学校”で呪いをほとんど見なかったのは、悟くんの言う“魔除け”のお陰ってこと?」
「そういうこと。でも学校に置いてる魔除けってそこで生まれる呪いよりも邪悪な場合がほとんどでさ。さてここでにクエスチョン。その理由は一体どうしてだと思う?」

 尋ねられたわたしは視線を彷徨わせて逡巡し、十秒ほどの時間をかけてそれらしき答えを導き出す。

「……えっと、威嚇?」
「正解。うん、四月に比べて勘が良くなってきたね。その調子」

 うれしそうに笑んだ悟くんはすぐに声を継いだ。

「これは他の呪いを寄せ付けないために毒で毒を制す悪習だ。だから今回のようにひとたび封印が緩むと呪いを呼び寄せる餌に変わり果ててしまう。僕としてはこれをどうにかできないかと思ってるんだよね」
に呪符を書かせるのはそういう理由ですか」

 会話には飽きたと言わんばかりに文庫に目を戻していた伏黒くんが、そこでやっと視線を持ち上げる。呆れ返った顔で悟くんを見つめる彼にわたしは首を傾げた。

「どういうこと?」
「呪物を回収すれば学校から魔除けはなくなるだろ」
「……あ、そっか。新しい魔除けが必要なんだ」
「で、その新しい魔除けが今からが作る呪符ってわけだ」
「えっ、わたしでいいの?」

 動揺を隠すことなく問いかければ、口端を吊り上げた悟くんが間断なく首肯する。

「むしろじゃなきゃダメかな。高専にいるどんな術師が書くより効果があるからね。宿儺の指を回収したら代わりにそれを置いてくること。絶対忘れないようにね」
「責任重大だね……」

 特級呪物である“両面宿儺の指”を回収すること、そしてその代わりとなる魔除けを作ること――その二重の意味を含んだ言葉を呟くと、さして同情もなく「水を足せ」と短い指示だけが飛んでくる。伏黒くんの言う通りに水差しを傾ければ、滑らかな漆黒がとうとう硯の海へと流れ込んだ。

 水差しから手を離しつつ、わたしはふと頭に降りてきた疑問を口にした。

「もしも呪物の封印が解かれたら、どうなるの?」

 その直後、眼前に座る悟くんの纏う空気が一変した。まるで針でも含んだように硬度が増し、その唇から浮ついた表情が消え去る。黒いサングラス越しにわたしを見据えると、真面目な色を湛えた双眸できっぱりと告げた。

「呪物を求めて呪いが暴れ出す。だからくれぐれもその封印だけは解くことのないようにね」



* * *




 伏黒くんの発言に愕然としたのも数秒のことだった。弾かれたように彼は豪然と駆け出し、その急いた靴音ではっと我に返る。「わ、わたしも」と慌てて踏み出したつま先が床を捉えた瞬間、勢いよく振り返った彼が鋭い怒号を放った。

は来るな!怪我人は怪我人らしくここで大人しくしてろ!」
「わたしだって」
「走れもしねぇくせに!足手まといだ!」

 吐き捨てるが如く怒鳴り付けると、疾駆する背中は瞬く間に遠ざかっていく。それでもなお足を進めようとしたわたしを制止するように、虎杖くんが眼前に立ち塞がった。その顔には爽やかささえ感じさせる穏やかな笑みが浮かんでいる。

「あのさ。悪いんだけど、俺の代わりに爺ちゃんの傍にいてやってよ。爺ちゃん、偏屈なくせにすっげー寂しがり屋なんだよな」
「……でも」
「頼む」

 反論の余地もない芯の通った響きに、わたしは下唇を噛んで俯いた。両手をきつく握りしめれば、捻挫した右手首がひどく痛んだ。足手まといになることは自分が一番よくわかっている。悔しさを振り払うように顔を持ち上げ、口元に微笑を拵えてみせた。

「……わかった」
「あんがと」

 歯を見せて無邪気に笑うと、虎杖くんは伏黒くんの後を追うように駆け出した。その人間離れした脚力で一瞬のうちに視界から消失してしまう。わたしは静寂を守るように数秒だけ目を伏せ、「よし」と呟いて無力な自分を懸命に鼓舞した。

 総合受付から心配そうな顔を覗かせる看護師に「騒がしくしてすみませんでした」と深々と頭を下げると、虎杖くんのおじいさんが安置されている病院の地下へ向かう。物音ひとつない薄暗い廊下を足早に進み、エレベーターに乗り込んだ。

 肌を刺すほどの静けさに、唸るような低い機械音が滲む。わたしは込み上げる恐怖を堪え切れず、地下行きのボタンを何度も連打した。

「夜の病院っていうだけで怖いよ……」

 ほとんど泣きそうになりながら、開いたエレベーターから降り立つ。目の前には天井灯が点滅する長い廊下が続いている。小さな足音すらも妙に反響する、ひと気のない暗い廊下を少しずつ進んでいく。

 これほど静まり返っているのは、霊安室のあるこの病棟が外来病棟だからだろう。杉沢病院は入院病棟と外来病棟が併設されているものの、互いを行き来する手段は数ヶ所の通路のみに限られている。二十四時間体制の救急医療を提供する施設は外来病棟内にあるとはいえ、霊安室からはまるで正反対に位置する。そのため診療時間をとっくに過ぎたこの場所が静寂に包まれるのは、至極当然というわけだった。

 怖気に肩を強張らせつつ、おじいさんが横たわる霊安室へと無事に辿り着く。窮屈なそこには青白い電気が点いていた。ベッドの傍らに用意された年季の入った丸イスに腰掛けて、白い布を被ったおじいさんにそっと話しかける。

「ここで一緒にお孫さんを待たせてくださいね」

 わたしはゆっくりと手元に視線を落とした。妙に気分が落ち着かず、ぴったりと閉じた膝を両手で何度も触る。どこを見るでもなく、視線がふらふらと泳ぎ続けていた。

 ふたりが杉沢第三高校に向かってからというもの、何かが背中を這いずるような嫌な感じがずっと拭えないままだ。それが一体何に対しての予感なのかは全くわからない。ただひどく気分が落ち着かなかった。

 少しでも気を紛らせようと、不安を取り除く一番の呪文を小さな声で紡いでいく。

「Twinkle, twinkle, little star, how I wonder what you are.」

 微かに震える手と手を握り合わせながら、子どものようにマザーグースを口ずさむ。僅かに開いた唇から次の歌詞を押し出した、そのとき。

「Up above the world――」
「――“獲鱗侵髄”」

 それは囁くようなマザーグースを容易く蹂躙する、禍々しい悪意に満ちた嗤声だった。突如として静寂を引き裂いたその響きに「……えっ、なにっ?!」と驚きのあまり思わずイスから転げ落ちそうになる。

 まるで聞き間違いかのように、再び痛いほどの静寂が耳を打った。驚愕に目を瞠ったままおそるおそる立ち上がると、周囲を警戒するように鼻先を左右に何度も動かす。その直後、先ほどまでとは明らかに違う、妙な呪力の流れを感じ取った。

「今の声って、気のせいじゃないよね?……かくりん、し?」

 霊安室に特に変わった様子はないものの、誰もいなかったはずの廊下が俄かに騒がしい。耳をすませば聞こえる程度の小さな物音が、無機質な扉を通して伝わってくる。全身の汗腺から汗が噴く。早く逃げろと頭の後ろで警鐘が激しく鳴り響いていた。

 強く床を踏みながらも、わたしは完全に気が動転していた。だから視線は一点に定まっていなかったし、扉はひとつしかないというのに逃げる方向にも迷いがあった。そちらに目を向けたのは、ほとんど偶然と言ってもいい。けれどもその偶然が、わたしの揺れる意識を深々と穿ったのだ。

「……え?」

 目と鼻の先で、おじいさんがベッドに上半身を起こしていた。

 唇を半開きにして、わたしは凍り付いた。数秒経ってようやく回転を再開した頭の隅で、虎杖くんのおじいさんが死んだ事実を必死に確認していた。起き上がったせいだろう、つい先ほどまで被っていたはずの白い布が腹の下まで落ちている。呼吸をするのも躊躇うほど戦慄しながら、わたしは目を見開いておじいさんを見つめた。

 力なく垂れた顔の中で濁った眼球が何度か動くと、機械が照準を合わせるようにわたしを見据えて寸分違わず停止する。淀んだ双眸が真っ赤に血走ったのは次の瞬間だった。

「唹々々々々々ッ!」

 嗤笑にも似たおぞましい雄叫びが鼓膜を激しく叩いた。その絶叫に怯んだせいで床から足が離れるのが一瞬遅れる。ベッドから勢いよく身を乗り出したおじいさんに右腕をきつく掴まれるや、素肌を晒した手の甲に思い切り噛み付かれた。

「――痛ッ!」

 全身を走り抜けるような激痛に苦鳴を漏らす。しかし突き立てられた歯は緩むどころか、ますます深く食い破ろうとしていた。皮膚も肉も骨も何もかも、全てを抉らんとする勢いで。

 なりふり構っていられなかった。血を噴く右手もろとも、歯茎まで剥き出しにした顔面に向かって力任せに体当たりを仕掛ける。その衝撃でやっと右手を圧迫する痛みが和らいだ。

 ほっと安堵したのも束の間、跳ね飛ばされたおじいさんの痩躯がベッドから落下する。床に頭でも打ったのだろう、痛そうな重低音が耳朶を打った。焦りを覚えたわたしは、そうっとベッドの向こう側を覗き込む。

「ご、ごめんなさ……あ、あの、大丈夫で――」
「唹々ッ!唹々々ッ!」
「ひっ!」

 赤い瞳を爛々と光らせながらベッドにしがみつき怒り狂う“それ”に、わたしは素早く背を向けた。明確な殺意がそこにある。足を止めて頭を巡らせる暇はどこにもない。

 激しい焦燥に駆られるまま、震えるつま先で床を強く蹴る。視覚が天井を這う歪な残穢を認識していた。つまりこれは――

「生き返ったわけじゃない……」

 なおも躊躇う自分に言い聞かせるように呟くと、まるで力の入らない右手から鮮血を滴らせつつ、廊下へと繋がる扉を左手で開け放った。

 眼前の光景を目に入れたわたしは、呼吸が止まるのを抑えきれなかった。無人だったはずの廊下を複数の人影が往来している。それだけならまだいい。酔ったような千鳥足で歩くその人影――年齢も性別も異なる人々の表情はみな一様に虚ろで覇気がなかった。上半身を起こしたばかりの、虎杖くんのおじいさんのように。

「……う、嘘でしょ?」

 無意識に驚嘆が漏れていた。はっと慌てて口元を手で覆ったもののすでに遅い。声の発生源に誘われるように、淀んだ焦点がこちらに定まる。白く濁った眼球が鮮血の色に染まるまで、たった一秒も要さなかった。

「唹々々々々々ッ!」
「呀々々々々々ッ!」

 青白い顔が禍々しい狂気に歪み、紫色の唇から次々と絶叫が迸る。操り人形のような拙い動きで、愛おしい者を抱きすくめるように両腕が持ち上がった。その上半身が前のめりになるよりずっと早く、わたしの足は動いていた。

 臆する間もなく奥歯を噛みしめると、上体を低く屈めて地面を蹴った。彼らと戦う術を全く持ち合わせていないからこそ、霊安室から出ないという選択肢はなかった。血走った目を光らせた彼らの隙間を縫うようにして、脱兎の如く薄暗い廊下を駆け出した。

「何あれ、ゾンビ?!ゾンビ?!」

 夜蛾学長が聞けば叱咤しそうなほどひどく情けない声で叫んだものの、当然ながら誰もわたしの疑問になど答えてはくれない。中学三年の文化祭、クラスの催し物としてゾンビ屋敷を企画した記憶が脳裏を過ぎる。血糊や衣類の乱れこそないだけで、あの動きは文化祭で演じたゾンビと何ひとつ変わらなかった。

 床を踏むたびに折れた肋骨が痛み、視界に涙が滲んだ。それでも足は止められない。低い呻き声と引きずるような足音が少しずつこちらへ近づいている。

 進行方向に待ち受けるエレベーターに飛びつくと、操作盤を何度も何度も連打した。一階からすぐに降りてきたそれの扉が、軽やかな機械音とともに緩慢に開き――長方形の箱の中に隙間なく押し込められた血の気のない人たちの姿に、瞠目したわたしは後ずさりする。痙攣したように頬が引きつっていた。

「し、失礼しました……」

 わたしが素早く踵を返したのと、鼓膜を破らんばかりの絶叫が響き渡ったのはほとんど同時だった。手近の階段を目指して疾走したものの、非常灯が点灯する踊り場では複数の人影がふらふらと揺れ動いている。

「どうしよう、どうしよう……」

 解決策が見出せないまま、呼吸だけが速くなっていく。骨折した肋骨も噛まれた右手も痛くて堪らなかった。それでも切迫した状況から逃れようと懸命に視線を動かす。廊下の先から呻き声とともに人影が接近している。歯噛みした次の瞬間、伸びる影のずっと手前に銀色の取っ手が見えた。

 ここから二十メートルほど先に扉がある。あれが一体何の部屋かは定かではないし、霊安室のように無人だとも限らない。しかしここでゾンビの群れを相手にするよりは遥かに希望があるような気がした。

 決断は早かった。奥歯を軋らせ激痛を堪えながら、冷たく乾いた床を懸命に駆ける。薄暗い廊下の向こうで複数の赤い光が灯り、次の瞬間には獣じみた咆哮が空気をびりびりと震わせる。

 半瞬たりとも怯んでなどいられない。込み上げる恐怖を置き去りにしてさらに速度を上げると、肉薄する青白い手から逃れながら灯りの点いた部屋の中へ転がり込む。

 幸いなことに部屋は無人だった。診察室、いや当直室だろうか。そこは机とベッドだけが置かれたひどく簡素な部屋だった。

 部屋そのものが振動するほど勢いよく扉を閉め、流れる動作で施錠する。肉がぶつかる鈍い音が耳を打ち、白い扉はがたがたと悲鳴を上げる。安堵する間もなく、わたしはポケットからスマホを取り出した。

「早く伏黒くんに連絡して――」
「おや、どうされましたか?」

 突然耳朶を打った優しい声音に心臓を鷲掴みにされる。即座に振り返れば、一体いつからそこにいたのだろう、穏やかな微笑を浮かべた白衣姿の若い男が立っている。胸に名札を付けた黒髪痩躯の若い男性医師は、わたしの顔を見るや心配そうに眉根を寄せた。

「大丈夫ですか?ひどく顔色が悪いように見えますが」
「……えっと」
「私で良ければ診て差し上げますよ。さぁ、遠慮せずそこのベッドに横になって」

 妙な口振りに違和感を覚えて目を凝らせば、男の両手から微量な呪力が漏れている。その微々たる量にわたしは眉をひそめた。耳の奥で伏黒くんの素っ気ない声音が響いている。先月伏黒くんから呪力や残穢について教わったとき、彼はついでのようにこう言ったのだ。

「何に狙われてんのかもわかんねぇから一応教えといてやる。術師と非術師には大きな差がある。それは呪力の漏出量だ。術師は非術師に比べると身体から漏れる呪力がほとんど無いに等しい。いいな?相手が術師かどうかは呪力量で見極めろ」

 両手以外からは呪力の漏出をまるで感じられないその男は、「何も危ないことはしませんから」と変わらず優しい声で続ける。わたしはまんまと誘い込まれたのだと遅れて気がついた。

「……お医者さんじゃ、ない、ですよね」

 ここから逃げ果せる自信は皆無に等しい。僅かでも時間を稼ごうと震える声を絞り出した。背中に隠した左手にスマホを持ったまま、画面に親指を滑らせたまま。

「どうしてここにいるんですか?」
「勘が良い――というわけではないのでしょうね。きっと私の変装がお粗末なだけでしょう。もう少し下調べをしておけば良かったですかねぇ」

 悠揚迫らぬその口振りは、勝利を確信している者のそれだった。嘆息混じりにかぶりを振る男に、わたしは掠れた声で質問を重ねる。

「……あなた、誰ですか?」
「それは名を訊いているのでしょうか?」

 男はまるで何も知らぬ子どものように、こてんと小首を傾げてみせる。

「名など個を識別するための記号に過ぎません。ですから私は名を持ち得ません。他者には呪詛師とだけ名乗っております。それでも中には私をネクロマンサーや屍術師と呼ぶ方もいらっしゃいますね。しかし私は“彼”のように死体専門というわけではないのですが……」
「……もしかして、これ、あなたの」
「ええ、その通りです」

 にっこりと穏やかに笑むと、男はその場で両手を大きく開いてみせる。微量な呪力が指の先端から迸り、黒い影の落ちるベッドの下からぬっと青白い両腕が伸びた。

 なんとか悲鳴を押し留めたわたしの目が、血の気の失せた無骨な両手に落ちる。男と同じように指先から漏れる呪力は、霊安室や廊下を這っていた残穢と全く同じものだった。

「死んだ人間も呪いと同じ。とっても操りやすいんですよ?」

 無邪気とも言えるその笑みに明確な殺意が滲んだ瞬間、わたしは胸の前に出したスマホを素早く操作した。発信ボタンを押した瞬間、スマホを手にした左手首を信じられない力で掴まれる。骨が軋むと同時に激しい痛みを感覚する。それでもわたしは決してスマホを手放さなかった。

「離してっ!」
「外に助けを求めるなど野暮なことをされては困ります」

 穢れたものでも見るような冷ややかな視線がスマホを撫で、掴まれた手首から聞いたこともないような重低音が響いた。手首を握り潰されたことに気づいたのは、目の前が焼けるほどの激痛に穿たれたせいだった。

 言葉にもならない甲高い苦鳴を唇から振りこぼす。手から滑り落ちたスマホは床を打つと、男の踵で粉々に踏み潰された。「あ……」と痛みに歪んだ情けない響きがこぼれる。

 涙が滂沱と流れ、視界の解像度が低下する。耐え難い激痛に喘ぎながらも、わたしは懸命に言葉を絞り出した。

「……全部あなたの仕業なの?」
「全部?全部って?」

 そう繰り返した男はやがて合点がいったように、口端に笑みを刻んで頷いてみせる。

「ええ、そうですよ。私は貴女の気を引けと命じられていますので。私だって本当はあんな回りくどい真似などやめたいのですが、貴女を深く傷つけることなくと仰るから仕方なく……」
「……命じられて、いる?」
「しかしそれも今日でお仕舞いです。兄様はもう待てないと仰いました。貴女のいない日々はとてもつらく、寂しく、耐え難い孤独であると。ですから今回の命令は貴女を必ず連れ帰ること……傷をつけるなとは一言も命じられておりませんので」

 男の言葉を反芻する暇もなかった。悪魔のような嗤笑が耳元で囁かれたせいで。

「だから――半殺しにしますね」

 肉が何か鋭いものに貫かれる湿った音が鼓膜を叩いたときには、わたしの身体は前のめりに折れ曲がっていた。刃渡りの長い凶器が腹に刺さっているのが見えて、腹腔を抉り抜かれたことを認識する。その鋭い先端は脾臓にまで達したのだろう、大きく開いた唇からどす黒い血が大量に溢れ出した。

「……ふ、しぐ、ろく――」

 無意識に呼んだその名前を紡ぎ切る前に、視界は黒い闇にべったりと塗り潰された。