「変装して潜入なんてドキドキする!」

 心浮き立つ感情を抑えきれぬまま言葉に出せば、伏黒くんが辟易した様子で肩をすくめてみせた。「声を落とせ」と窘められたものの、閑散とした駅のホームに人の姿はない。視線だけで不服を訴えれば、小さな嘆息とともに紙袋を手渡された。

 わたしは胸に抱いたそれを、待ちきれんばかりに覗き込む。白い紙袋の中で、杉沢第三高校の制服一式が静かに眠りについていた。

「遊園地とは違って“バレちゃ駄目”って感じがなんか良いよね」
「何度も言うようだが遊びじゃねぇんだぞ」
「わかってるよ?」
「ほんとかよ……」

 彼は疑惑の色を揺蕩わせた首を左右に振ると、疲労感を孕んだ低い声音で続ける。

「着替えたらすぐ杉沢第三高校に――」
「その前にちょっと寄り道してもいい?」

 言葉を遮ったわたしは駅のホームに設置された時計を見つめた。貸し倉庫から程近いこの小さな駅に、もうすぐ仙台駅行きの普通列車が到着する。

「……またか。で、次はどこだ?ケーキ屋か?」
「ううん、杉沢病院だよ。飛び降りた人の怪我が気になるから」

 笑顔で滑らかに答えれば、彼の片眉が僅かに持ち上がる。わたしは慌てて言葉を継いだ。

「伏黒くんは先に行ってて?すぐ追いつくから」
「……ストーカーされてるって言ったよな?」
「大丈夫だよ。何かあったらすぐ連絡するし、移動には必ず電車かタクシーを使う。それでも駄目?」
「だったら俺も行く」
「心強い!って言いたいところだけど……ゆっくりしてる時間もないでしょ?先に行って見つけておいてくれると大変助かります」

 そう言いながら会釈するように頭を垂れると、もう何を言っても無駄だと察したのだろう、伏黒くんは険しい顔で視線を逸らした。

「……何もなくても絶対連絡しろ」
「了解です」

 ほどなくして到着した普通列車に乗り込み、わたしは伏黒くんと一旦別れた。

「やっぱり手ぶらでは行けないよね……持っていくならお花よりお菓子かなぁ」

 というわけで、時間もないので仙台駅から目と鼻の先にある大型ファッションビルで、適当なお見舞い品を見繕うことにした。男性でも喜んでくれそうな洋菓子の詰め合わせを購入し、タクシーで杉沢病院へと向かう。

 病院の正面玄関に降り立つと、伏黒くんにメッセージを送る。

 “病院に着いたよ”
 “呪物を持ってる奴を見つけた。今から残穢を追う”
 “よろしくお願いします!”

 さすが伏黒くんだ、仕事が早い。すごいなぁと感心しつつ、変装用の制服が入った紙袋とお見舞い品の入った紙袋、ふたつの紙袋を左手に持って総合案内を目指す。

「昨日入院された森河さんですね?……森河さんなら301号室ですよ」
「ありがとうございます」

 入院病棟に歩を進め、森河さんの病室を探していると、いつの間にか見覚えのある廊下に辿り着いていた。そういえば、昨日あの少年と別れたのもこの辺りだっただろうか。

 鼻先を床に落としたそのとき、不意に違和感を感じた。足を止めて周囲を見渡し、わたしは小さく首を傾げる。

「……呪物の気配?」

 昨夜あの杉沢第三高校で覚えた強い気配をたしかに感じる。しかし廊下にはそれらしき物は落ちていないし、強い呪霊が潜んでいる様子もない。ひとまず気のせいにして、白い壁に掲げられたプレートを見つめながら、ひと気のない廊下をゆっくりと歩いていく。

「301、301……あ、301。“モリカワ”……うん、ここで間違いない」

 銀色の取っ手に指を伸ばし、それに触れる寸前で躊躇う。病室から人の声が僅かに漏れ聞こえていたからではない。扉の向こうから特級呪物の色濃い気配を感じていたからだ。

 一体どういうことだろうと首をひねりつつ、意を決して取っ手を掴もうとしたそのとき――先に勢いよく扉が開いた。

 驚いて右手を引っ込めれば、「すんません」と小さな声が聞こえた。瞬間、気配を増した呪物の残穢に小さく肩が跳ねる。用心深く視線を持ち上げれば、病室から出てきたのは昨日出会ったあの少年だった。わたしは思わず目を瞬く。

「君は、昨日の……」
「……あれ、おねーさん?……こんなとこでまた会うなんて奇遇じゃん」

 薄っすらと笑みを浮かべた少年の目元は、何故か赤みを帯びている。病室の奥に白衣を着た医者や看護師の姿がちらりと見えた。ただならぬ空気にわたしはそっと声を潜めた。

「……何かあったの?」
「あぁ……うん。俺の爺ちゃん、ついさっき死んでさ」

 目を逸らした少年は小さく笑った。その痛々しい笑みに何も返せぬまま、病室を示すプレートに視線だけを這わす。“イタドリ”と言う名の患者が少年のおじいさんなのだろう。

 少年は扉の前で立ちすくんだまま、か細い声でぽつぽつと言葉を紡いだ。

「あの、さ……おねーさん、時間ある?」
「え?」
「時間あるなら……ちょっとだけでいいんだ、俺と向こうで話さねぇ?」

 ひとりになりたくない気持ちは痛いほどよくわかった。どれほどの孤独感に苛まれているのかも。

 少年から特級呪物の色濃い気配を感じたけれど、今ここで優先させるべきことではないと強く思った。周囲に呪いの気配はないし、安全だろうと勝手に判断する。怒った伏黒くんの姿が目に浮かび、あとでたくさん謝る羽目になりそうだと心の中で苦笑した。

 わたしは俯き気味の少年の顔を覗き込む。深い悲しみに揺れる黄金色の双眸を見つめながら、「わたしなんかで良ければ」と穏やかな笑顔を返した。



* * *




 右足を骨折し入院した森河さんは元気だった。骨折もさほど酷い状態ではなく、後遺症も全く残らないらしい。「助けてくれてありがとう」と何度も頭を下げられたものの、怪我の原因を作ったのは他でもないわたしだ。巻き込んでしまったことがただただ申し訳なかった。お見舞い品の洋菓子が入った紙袋を渡し、深く一礼して病室を出た。

 廊下をしばらく進むと、自販機のあるこぢんまりとした休憩スペースが見えてくる。ベンチに座り、缶ジュースを手にひとりでぽつんとわたしを待っていた少年は、“虎杖悠仁”と名乗った。杉沢第三高校に通う一年生らしい。

「まさか同い年だとは思わなかった。、大人っぽいし」
「そう見えるようにメイクしてますから」

 自慢げに笑いながら、ペットボトルに入った冷たいミルクティーに口を付ける。わたしが来るより前に虎杖くんが買っていてくれたものだった。タダで話に付き合わせるのは悪いとでも思ったのだろう。その気持ちを無下にするわけにもいかず、甘みの少ないそれを少しだけ喉奥に流し込んだ。

「虎杖くんのおじいさん、ずっと入院してたの?」
「俺が高校入ってすぐ。急に倒れて、それからずっと」
「おじいさんと仲良かったんだね」
「……うん。俺の親みたいなもんでさ」

 隣に座る虎杖くんの視線が手元に落ちる。どこか落ち着かない様子で炭酸ドリンクの入った缶を両手で弄いながら、抑揚に欠けた小さな声音で訥々と続けた。

「お前は強いから、人を助けろ。大勢に囲まれて死ね、俺みたいになるな――なんて、最期にカッコつけて死んでさ……顔合わせりゃ悪態ばっかの偏屈ジジイだったけど、でも、でもさぁ……」

 そこでしゃくり上げる声が聞こえ、彼の背中が前のめりに丸くなった。平板な口調が大きく崩れ、懸命に絞り出すような涙声が溢れる。

「俺にだって“ありがとう”ぐらい、言わせてくれたって良かっただろ……」
「……うん」
「自分だけ言いたいこと言いやがって……あぁクソ、駄目だ……涙止まんねぇ……」

 掠れ切った自虐的な笑みが聞こえた。小さくなった背中が嗚咽に震えている。わたしが使っていないハンカチを差し出すと、虎杖くんは「さんきゅ」とぎこちなく笑って受け取った。

 押し殺すような泣き声を聞きながら、わたしはずっとミルクティーのラベルを見つめていた。口を固く一文字に結んで。やがて虎杖くんは何度か鼻水をすすると、明るさを取り繕った声音で言った。

「……人ってさ、マジで死ぬんだな」
「うん、そうだね。マジで死ぬ」

 わたしは細かい文字が並んだラベルに視線を置いたまま、舌が震えそうなほどの緊張を隠してそっと切り出した。

「わたしもね、今年の四月にお兄ちゃんが死んだんだ」

 お兄ちゃんを知らない誰かにお兄ちゃんが死んだ話をするのは、これが初めてのことだった。心臓が張り裂けるかと思うほど痛い。虎杖くんは驚いた様子で「え」と声を漏らした。

「……それマジ?」
「うん、マジ。わたしも小さいときに両親が死んで……だから、虎杖くんと同じ。お兄ちゃんがずっと親代わりだった。もうすっごい過保護でね、シスコンここに極まれり!って感じのお兄ちゃんなんだけど」

 話し始めると、意外にも滑らかに口が動いた。しかし心臓の脈打つ音はいつもよりずっと速い気がする。そこから先の言葉を探していたとき、虎杖くんが得心したような顔で頷いた。

が妹ならわかるかも」
「……わかる、って?」
「うーん、なんか隙があるって言うの?ちょっとよそ見した隙に誘拐されそうじゃん。変質者に付き纏われたりとかさ」
「うっ……」
「あぁうんなるほどね……の兄ちゃん、相当苦労したんだろうな……」
「仰る通りです……」

 肩を落としながら項垂れたあと、わたしはずっと気にかかっていることを吐露した。囁くほどの小さな声で、感情を押し殺すようにして。

「でも、虎杖くんみたいに泣けなかったなぁ。ずっと一緒にいたのに。大好きだったのに」

 心のずっと奥底に仕舞い込んでいたものを、今ここで陽に当てようと思ったのはどうしてだろう。何も知らない虎杖くん相手なら、薄情な自分を晒しても痛くはないとでも考えたからだろうか。虎杖くん相手なら、薄情だと罵られても傷は浅いとでも思ったのだろうか。

 自分のことがよくわからなかった。ミルクティーがぬるくなるほどペットボトルを強く握りしめる。少しの間を置いて、小さく笑った虎杖くんが優しい声で言った。

「まだ生きてるんだな。の兄ちゃん」
「……え?」
の中でまだ死んでねぇってこと。だから泣けないんだ」

 はっと顔を持ち上げる。視線を絡めると、目を真っ赤に腫らした虎杖くんが朗らかに笑った。

「兄ちゃん、すっげー愛されてんな」

 その瞬間、目頭がかっと熱くなった。全身が波を打つように細かく震えていた。深く俯いて下唇を噛む。わたしの大好きな、夏空によく似たお兄ちゃんの笑顔が脳裏を掠めた。なんだかやっと、自分を許せたような気がした。

 それでも一向に涙が滲むことはなかったけれど、ほとんど涙声にしか聞こえないような震えた声音を懸命に押し出した。

「……うん、そうかもしれない。ううん、きっとそうだね」

 笑みをこぼしてかぶりを振ると、わたしは顔を上げる。穏やかな表情を浮かべた虎杖くんをまっすぐに見つめ、身を乗り出すようにして明るく尋ねた。

「虎杖くんさえ良かったら、おじいさんの話、聞かせて?」
「……爺ちゃんの話?」
「そう。どんな人だったのかとか、おじいさんと一緒に過ごした思い出の話とか……虎杖くんの迷惑じゃなければ、わたしも一緒におじいさんを見送りたいなって」

 予想だにしない唐突な言葉に、虎杖くんは何度か瞬きを繰り返した。

「いいの?そりゃ爺ちゃんは喜ぶだろうけど……」
「うん、聞きたい!」

 どこか迷いを含んだ声音に、わたしはことさら明るく笑ってみせる。虎杖くんがどこか困ったように、けれどその何倍もうれしそうに口元を綻ばせて頬を掻く。互いの顔の中に照れ臭げな笑みを認め合うと、虎杖くんは「じゃあどっから話そうかな」と呟いた。

 虎杖くんは時おり声を詰まらせながら、おじいさんの話をたくさん聞かせてくれた。とても頑固で短気で偏屈で、口が悪くて、少しアウトローなところもあって、けれど孫である虎杖くんのことは本当によく見ていた。おじいさんは虎杖くんのことが大好きだったのだろう。

 わたしがもらい泣きしていると、「なんでが泣くんだよ」と虎杖くんは笑った。勝手に涙が溢れてしまうのも無理はない。虎杖くんとおじいさんの記憶はそれほど優しくて、けれど騒がしくもあって、とても温かいものだったから。



* * *




「うん、必要な書類はこれで全部」
「ウッス。お世話になりました」

 一階の総合受付で女性看護師に明るい声を返しながら、虎杖くんは亡くなったおじいさんに関する書類を書き上げていく。わたしはやや猫背気味になったその背中を少し遠くから見つめていた。看護師はこちらに柔らかい視線を投げると、虎杖くんを気遣った優しい口振りで問うた。

「本当に大丈夫?」
「そーっスね。こういうの初めてなんで、まだ実感湧かないかな……」

 そこでボールペンを置き、どこかすっきりとした声音で言葉を続ける。

「でもいつまでもメソメソしてっと爺ちゃんにキレられるし、あとは笑ってこんがり焼きます」

 その物言いに看護師が思わず「言い方……」と苦笑する。わたしも同じように苦い笑みを浮かべながら、しかし内心では虎杖くんらしいなと思っていた。あのおじいさんの孫だというなら、その言葉や態度はきっと正しいような気がして。

 書類を書き終えた虎杖くんが看護師の顔を見つめたそのとき、

「虎杖悠仁だな」

 決して大きくはない、怜悧で牢固な声音が夜の病院内に響き渡る。そこに含まれるただならぬ迫力に視線が集中した。音もなく突如姿を現した少年の姿に虎杖くんと看護師は瞠目し、わたしは目を瞬きながら彼の名を口にする。

「あ、伏黒くん」
「……どうせここだと思ったが」

 まるで鬼の形相でこちらを睨め付けると、地響きにも似た低い声音で責め句を紡ぐ。

「何もなくても連絡しろって言ったよな?」
「……まさか」

 慌ててスマホを取り出し、伏黒くんからの数件の不在着信と無事を尋ねるメッセージの山を確認する。虎杖くんとの会話に夢中になっていたせいだろう、全く気づかなかった。これでは鱗の呪霊に殺される前に伏黒くんに殺されてしまう。全身を強張らせながら、わたしはその場で深々と頭を垂れた。

「本当にごめんなさい……」
「その様子じゃ呪物は回収してねぇな。文句は後だ。言い訳したらどうなるかわかってんだろうな?」
「はい、充分に覚悟しております……大変申し訳ございませんでした……」

 謝罪の言葉を重ねるわたしに、虎杖くんが「こいつ誰?の彼氏?」と張り詰めた空気にはそぐわぬ不思議そうな響きを落とす。伏黒くんはその問いを完全に黙殺すると、厳しい表情で明朗に告げる。

「呪術高専の伏黒だ。悪いがあまり時間がない」

 そう切り出した見ず知らずの少年に、虎杖くんと看護師が不審げな視線を送る。しかしそれには気にも留めず、伏黒くんは淡々と言葉を続けた。

「お前が持ってる呪物はとても危険なものだ。今すぐこっちに渡せ」
「……じゅぶつ?」
「これだ。持ってるだろ」

 伏黒くんが特級呪物“両面宿儺の指”の写真が映し出されたスマホを見せると、虎杖くんは「んー?」とひどく怪訝そうな声を漏らす。そしてスラックスのポケットに両手を突っ込んで、こともなげに答えてみせた。

「あーはいはい、拾ったわ。俺は別にいいけどさ、先輩らが気に入ってんだよね。理由くらい説明してくんないと」

 その言葉に数秒間沈黙した伏黒くんは、「お前、日本国内での怪死者と行方不明者の数は知ってるか?」と抑揚に欠けた口調で口早に切り出した。根が真面目だからだろう、何も知らない虎杖くんに対して丁寧に理由を説明をしている。

 突飛もない話を虎杖くんが信じるかどうかは、きっと問題ではない。真摯に対応することで、事を荒げることなく誰も傷つけることなく、安全に特級呪物を回収したいという真面目な彼の思いが透けて見える行動だった。

「人死にが出ないうちに、渡せ」

 その思いはきっと虎杖くんに届いたのだろう。「いやだから俺は別にいいんだって」と言いながら、虎杖くんはポケットから取り出した小さな木箱を投げ付けた。

「先輩に言えよ」

 呆れ返った響きが静まり返った病院に反響する。木箱を受け止めた伏黒くんは中身を確認して絶句した。蒼白になった彼の顔の中で、青い眼球がこぼれんばかりに見開かれる。

 焦燥に駆られた様子で伏黒くんが床を強く踏んだ。すでにその双眸には獰猛な獣にも似た剣呑な光が宿っている。彼は虎杖くんのパーカーを乱暴に掴むや、唇を捲り上げて激しく怒鳴り付けた。

「中身は?!」
「だぁから先輩が持ってるって!」
「そいつの家は?!」
「知らねぇよ。たしか泉区のほう……」

 負けじと声高に答えていた虎杖くんの声が、そこで何故か尻すぼみになる。黄金色の瞳はもう眼前の少年を映してはいない。ぼんやりとしたその様子を不審に思ったのだろう、眉間に深い皺を穿った伏黒くんが促すような声を放つ。

「なんだ?」

 強い語気にはたと我に返った虎杖くんの双眸に、再び明るい光が戻る。後頭部を掻きながら、どこか困惑したように片眉を持ち上げた。

「そういや今日の夜、学校でアレのお札剥がすって言ってたな。え……もしかしてヤバイ?」

 全身から血の気が引く音をたしかに聞いた。わたしは顔を引きつらせたまま虎杖くんを見つめる。何故かひどく嫌な予感がする。驚愕に目を瞠った伏黒くんはその表情とは裏腹に、全ての感情が消え失せたような無機質な声音ではっきりと告げた。

「ヤバイなんてもんじゃない。そいつ、死ぬぞ」