「予想してたがここまで空だとはな」

 険しい色を灯した白群の瞳が伽藍洞の貸し倉庫を撫でた。伏黒くんはやや落胆した様子で深く嘆息すると、窓ひとつないトタン製の壁やコンクリートの床に用心深い視線を這わせていく。

「塵ひとつ残らず高専に回収されてんな」
「残穢もどこにもないね。もう消えちゃったのかな?」
「それもないとは言い切れない。けど、特級呪霊の残穢に限ってそう簡単に消えたりしねぇよ」

 その物言いこそ乱暴だったものの、彼の横顔に浮かぶ表情や濁りのない声音は落ち着き払ったものだった。僅かな手がかりも見逃さぬよう、彼は乗用車を一台置けるだけの狭い貸し倉庫の中をぐるぐると歩き回る。硬い靴音が反響していた。わたしは赤く錆びたトタン屋根を見上げながら尋ねる。

「伏黒くん、ここに鱗の呪いの残穢があると思ってたの?」
「ああ。その近所の人が聞いたって言う何かを引きずる音……俺もさんのものではないと思う。さんの死後すぐ、この貸し倉庫の存在を知っている誰かが侵入したんだろう。そして“樹”の遺体を奪った」

 抑揚のない声で告げた伏黒くんは両膝を折り、赤茶けた壁を伝う電力ケーブルをじっと観察している。“樹”を冷凍保存していた冷凍庫の電気は、おそらくそこから得ていたのだろう。

「ここ屋内だよ?」
「昨日言っただろ。あの雑居ビルに残っていた残穢は鱗の呪いのものだったってな。奴は何らかの“縛り”のせいで屋内には入れない、もしくは危害を加えられないだけで術式は使用できるのかもしれない。もしくは」
「もしくは?」
「俺たちが鱗の呪霊の残穢だと思っているもの……それ自体がブラフの可能性もある」
「ブラフって?」
「ハッタリってことだ」

 そう言って立ち上がると、再び厳しい双眸で貸し倉庫をじっくりと見回した。気が済んだのだろうか、その整った鼻先を最後にこちらへ向ける。彼の纏う張り詰めた空気が心なしか和らいだような気がした。

「何にせよ屋内は安全のはずだ。お前はさんの言う通り、ひとりのときは絶対に部屋の中で大人しくしてろ」
「承知!」
「……お前がたまに武士になるのは誰の影響だ?」
「ねぇ伏黒くん。高専が回収したものの写真、見せて」
「無視かよ」

 ため息をひとつ落とした伏黒くんは、促されるままにポケットからスマホを取り出す。表示された写真を覗こうと、わたしは彼の身体にぴったりと肩を寄せた。即座に「おい」と低い声が降り注ぎ、はたと視線を持ち上げる。心底嫌そうな様子で眉間に深い皺を刻んだ彼と目が合った。

「……近い。離れろ」
「あ、つい……ごめんなさい」

 互いに打ち解けてきたからだろう、最近の伏黒くんはとても優しい。しかしその優しさに勘違いをして、距離感を完全に見誤ってしまった。不快な思いをさせるなんて大失敗だ。せっかく仲良くなれたと思ったのに、これではまた振り出しに戻ってしまう。

 次からは気を付けようと深く反省しつつ、人ひとり分の距離を空けるように身体を真横に移動させると、「スマホ貸してください」と腕を伸ばしてみせた。伏黒くんといえどもこれなら何も文句はないだろう。遠く伸びた手を険しい顔で見つめると、「……離れろとは言ったけど」と彼は囁くような声で呟いた。

「伏黒くん?」
「……変なとこ触んなよ」

 何故か苛立った様子でスマホを雑に手渡される。「絶対に触りません」と固く誓って、わたしはスマホの画面に目を落とした。

 個人情報の宝庫であるスマホを他人に触れられたくない人間は多い。例えば伊地知さんと傑くん。伊地知さんは“窓”の連絡先をたくさん登録しているからだろうし、傑くんは「見られたくないものが多いからね」と眉尻を下げて笑っていた。お兄ちゃんや悟くんのように、「ならいいよ」と許してくれる人のほうが少なくて当たり前なのだ。

 昨夜伏黒くんのスマホを勝手に触ってしまったことを思い出し、次からは気を付けようと心の中で再び小さな反省会を開く。直後、刺すような視線を感じて顎を持ち上げれば、彼が渋面でこちらを見つめていた。早くスマホを返すべきだと慌てて写真に目を通していく。

 呪術高専が貸し倉庫から回収した物品を収めた、何枚もの写真。しかしどれだけ目を凝らしてみても、わたしの探している物はどこにも映っていなかった。

「……やっぱりない。どこへ行ったんだろう」

 思わず困惑した声音を漏らせば、「ないって何が」と抑揚に欠けた言及が飛んで来る。

「カメラ」
「……カメラ?」
「そう。お兄ちゃんが使ってた一眼レフとビデオカメラ」

 湧いた戸惑いを隠せぬまま、役目を終えたスマホを差し出す。怪訝な表情を浮かべた伏黒くんはスマホを受け取ると、自らも確認するように画面に指を滑らせていく。

「たしかに見当たらないな……さんが死んだ場所にもなかったはずだ。家には?」
「なかったよ。それにアルバムもない。たくさんあるはずなのに」
「アルバム?……家で保管してたわけじゃなかったのか」
「うん。うち、そんなに広いアパートじゃなかったから。アルバムが溜まると、お兄ちゃんがどこかに持って行ってたんだ。貸し倉庫を借りてたって聞いて、てっきりここに置いてるんだとばかり思ってたのに……」
「“溜まると”ってことは、多少は家に置いてたんだよな?」

 こちらを見つめる伏黒くんは微妙に声調を低めた。賃貸アパートを引き払ったときの記憶を掘り起こせば、音を立てて全身から血の気が引く。わたしは床に視線を落とすと、小刻みに唇を震わせた。

「……なかった」
「一冊もか?」
「……うん。多分見てない」

 床を映す視界に黒い靴が入り込んだ。ゆっくりと頭を持ち上げると、真摯な目をした伏黒くんが真正面に立っている。上体をやや曲げるようにしてわたしと目線の高さを合わせ、気遣うような口調でゆっくりと問うた。

「家に入られた痕跡は?残穢は見たか?」
「……ごめんなさい、わかんない。早くアパートを出なきゃって、それしか考えられなくて」
「他に何がなくなったか覚えてるか?」
「……ううん。ごめんなさい……」
「謝らなくていい。嫌なこと思い出させて悪かった」

 彼は苦虫を噛み潰したような顔で後頭部を掻き、しかしすぐにその手を止めた。額に穿たれた皺をさらに深くすると、不審げに細められた青い瞳をこちらに寄越す。

「ついでにもうひとつだけ訊いてもいいか?」
「……うん」
さんが死ぬまで、ゴミはどうやって捨ててた?」

 思いもよらぬ質問にわたしは目を瞬いた。小さく首を傾げながら答えを口にする。

「ゴミ?……普通に分別してたよ?」
「そうじゃなくて……お前のゴミとさんのゴミは分けてたか?」
「それって……」

 質問の意図するところをようやく理解すると、伏黒くんは気まずげに視線を逸らして言った。

「無理に言いたくないなら別に――」
「分けてたよ」

 彼の言葉を引き取るようにして、わたしは淡々と頷いた。

「……古くなった下着とか、使った生理用品とかは、分けてた」
「それ、どうやって捨てた?」
「外から見えないように黒い袋に入れて、普通に……あ、ゴミ袋にシール貼ったよ」
家秘伝の?」
「そうだよ。ドーマンの呪符」

 刹那、逸らされた白群の瞳が絶対零度に凍り付いた。ただならぬ迫力に声が詰まった。昨日わたしに見せた怒りとは全く別の、憤怒と憎悪と殺意が容赦なく入り混じる混沌の色。微動だに出来ぬ気迫に、わたしは頭から呑み込まれていた。

 途方もない怒りで双眸を濁らせた彼はこちらに背を向けると、霜の降りたような声音で忌々しげに吐き捨てた。

「……変態野郎が。絶対赦さねぇからな」

 底冷えした響きの裏に獰猛な殺意を見た。冷たくなった指先が恐怖に震え、地面に足が縫い付けられている。冷徹な殺気を孕む背中を見つめることすら出来ず、逃げるように視線を外した。

 その瞬間、初めてわたしは心の底から伏黒くんを怖いと感じた。昨日の怒りなど可愛いもののように思えた。背中を這い上がる恐怖に何も言えぬまま、わたしはずっと俯いていた。

 やがて伏黒くんはこちらの様子に気づいたのか、「は何も悪くねぇよ」と気遣う色を含んだ声音で言った。わたしがこうして顔を伏せているのは、鱗の呪いに執拗に狙われていることに全く気づいていなかった自らを責めているからだとでも思ったらしい。

 そっと視線を上げれば、彼はどこか困った様子で口端を少し緩める。先ほどとは打って変わった穏やかな空気に思わず泣きそうになり、わたしは伏黒くんに駆け寄った。込み上がった感情を処理出来ず、数分前の反省会を無駄にするように彼の二の腕に軽く頭突きをする。

「うわ。なんだいきなり」
「伏黒くん……そっちのほうが好き……」
「……はぁ?……そっちってどっちだよ」

 ひどく呆れ返った響きが耳を打ち、いつもの優しい伏黒くんがそこにいることに心から安堵する。額に触れる二の腕から温かさが伝わるような気がした、そのとき――頭に温かい何かが触れた。優しく添えるような感触に目を瞬く。

 頭を起こそうとしたときには、その感触は消え失せていた。ただわたしの目は伏黒くんが凄まじい速さで鼻先を逸らしたのと、所在無げに浮いたままの無骨な右手を捉えていた。

 どうやら彼に頭を撫でられたらしい。もしくは二の腕を圧迫する頭が邪魔で掴んだのだろう。ほんの一秒か二秒だけだったからどちらかは定かではないけれど、あの気まずげな様子から見て後者だろうか。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返せば、背を向けた伏黒くんが大股で歩き出した。

「ぼさっとしてんな、さっさと行くぞ」
「……あの、えっと、どこへ?」

 口早な指示に対してしどろもどろに問いかけると、ただ事実を述べるだけの抑揚のない答えが返ってくる。

「杉沢第三高校だ。今から潜入して先に宿儺の指を探す。を探すついでに奪われでもしたら厄介だろ」
「……わたしを探すってどういうこと?」
「まだわかんねぇのか」

 焦燥と苛立ちを露わにした声音が鼓膜を叩く。足を止めて首だけで振り返った伏黒くんが、白刃のように鋭利な口調で告げた。

「お前、鱗の呪霊にストーカーされてんだよ。おそらくの家族が死んだ十年前からずっとな」