「夜遅くに迷惑なこと頼んでごめんなさい。本当にありがとう」

 胸部固定帯を巻き終えた伏黒恵の眼前に、のつむじが惜しげもなく晒される。激痛に耐えながら腰を折って丁寧に頭を下げるのは、恵に対して無理を申し出たなりの礼儀なのだろう。

 その無愛想な顔に数滴、苦い表情を滲ませた恵は、そそくさと部屋を立ち去ろうとする頼りなげで小さな背中に声を掛けた。


「ん?どうかしたの?」
「お前はもっと周りを頼っていい」

 樹という寄る辺を失くしたばかりのに、「ずっと過保護な兄貴の言いなりで生きてきたんだな」と無神経なことを言ったのは他でもない恵だった。あのとき、は「もうちゃんと自分で考えなくちゃね」とぎこちなく笑っていた。恵の言葉がどれほど影響を及ぼしたのかは定かではないが、なりに兄のいない現実を受け止めた結果がこの大怪我に繋がったような気がしてならなかった。

 をひとりにしたのはきっと俺だ――恵のその思いが躊躇いを含んだ重たい唇を動かしていた。

「五条先生はお前に特別甘いし、禪院先輩や家入先生は同性だから相談もしやすいと思う。乙骨先輩やパンダ先輩、狗巻先輩も面倒見がいいし、きっとお前の力になってくれる。術師として困ることがあれば、伊地知さんか夜蛾学長にすぐに言え。あの人たちは何があってもお前の味方だ」

 は訥々と響く不器用な言葉を真剣な表情で聞き入っていた。小さく頷くだけで何も言わず、ひどく穏やかな視線で恵に次の言葉を促し続ける。

 柄にもないことを口走る自分が急に恥ずかしくなったものの、話の途中で止められるわけもなく、恵は鼻先を逸らしながらやや調子の崩れた声を継いだ。

「だから……頼むから今日みたいにひとりで突っ走んな。無茶だけはやめてくれ。万が一お前に何かあれば俺がさんにぶっ殺される」
「やっぱりお兄ちゃんに何か言われたの?」
「……ああ」

 観念するように恵は首肯した。も薄々は勘付いていたのだろう。恵は今まで何度もを守ってきたが、いくらあの樹の妹といえど恵が身体を張ってまで守る義理はどこにもないのだ。最期に交わした樹との約束。託された想いを無下にすることは恵には到底出来なかった。

「周りを頼る、かぁ……」とは確認するように呟くと、口を閉じた恵にずいっと身を寄せた。口端に茶目っぽい笑みを刻んだまま、どこか楽しそうな声音で尋ねる。

「それって伏黒くんのことも、もっとたくさん頼っていいってこと?」

 予想だにしない問いに恵は瞠目した。しかしそれも瞬く間のことで、すぐに仏頂面に戻ると気まずげに顔を背ける。

 言うんじゃなかったと恵は心から悔いた。完全に機会を見誤った。どう考えてもが大怪我を負ったこんなときに言うべき内容ではなかった。羅列した人間の中に恵の名前が無かろうと、今の言い方では“もっと俺を頼れ”という意味以外に捉えるのは難しいだろう。

 ――そう思ってない、わけじゃねぇ、けど……。

 きっと心のどこかで思っていた“に頼られたい、もっと甘えてほしい”という本音から出てしまった言葉だったのだろう。気づくと羞恥で顔から火が出そうだった。

 余計なことを口走った愚かな自分を何度も責めながら、その動揺は皮膚一枚の下に押し込んで、顔を深く伏せて小さな声音でうそぶいた。

「……俺はたいしたことなんてできねぇよ」
「そんなことないよ」

 否定を紡ぐ柔らかな声音が耳を打った瞬間、胸の奥でじわりと何かが滲んだ。頭をもたげた苛立ちの理由に恵はすぐに気づく。その間にもは優しい口調でゆっくりと続けた。

「わたし、伏黒くんに出会ってからずっと助けられっぱなしだよ?伏黒くんがいなかったら確実に二回は死んでると思うなぁ。ほら、アパートで呪いに襲われたときと観覧車からダイブしたとき。あのときは助けてくれて本当にありがとう。お兄ちゃんのことも協力するって言ってもらえてすっごく心強かったし、この仙台出張だって伏黒くんのお陰。ね?ずっと助けてもらってるでしょ?だから言葉では足りないくらいたくさん感謝してて――」
「やめろ」

 機械じみた無感情な響きが転がり落ちた。霜の張った声音にただならぬ空気を感じ取ったのか、は即座に唇を閉じる。恵は視線を床に落としたまま両手を震わせて言った。

「ありがとうとか、感謝とか……いい加減そういうのやめてくれ。さんが生きていればお前は術師なんかにならずに済んだ。こんな目に遭うこともなかった。俺がさんを見殺しにしたせいでお前は」
「伏黒くん」

 窘めるように名を呼ばれ、我に返った恵は言葉を切って歯噛みする。目を上げられなかった。が今どんな顔をしているのか手に取るようにわかるせいで。

 は自らの痛みは誰にも見せようとはしないくせに、他人の痛みには神経質なほど敏感な人間だ。極度のお人好しで、いつも柔らかな笑顔を浮かべている。善人のを地獄にも似たこの呪術界に引きずり込む原因を作った自分に、恵は無性に腹が立っていた。

 呪術師になる人間が必ず一度は耳にする言葉がある。“呪いに遭遇して普通に死ねたら御の字、ぐちゃぐちゃにされても死体が見つかればまだマシ”――術師に凄惨な現場は付き物だ。樹が死んだ四月以降、は術師として何度か怖い思いをしてきただろうが、あの程度はほんの序の口だ。

 もっと惨い現場を恵は何度も見てきたし、はきっとこれからそんな光景を幾度となく目にすることになる。肋骨骨折よりもさらに酷い怪我を負う可能性も充分に有り得る。それこそも樹と同じ、鮮やかな鱗に溺れるようにして死ぬかもしれない。

 足元から這い上がった途方もない恐怖が恵を支配していく。爪が食い込むほど拳をきつく握りしめたのはほとんど無意識だった。押し黙る恵の硬い拳が柔らかくて温かい何かに包まれて、ようやく自分の状況に気がついた。

「そんなに強く握りしめたら血が出ちゃう」

 重い沈黙にはまるで似合わぬ、茶目っ気を含んだ声音が鼓膜を震わせる。恵が顎を持ち上げたときには、右手はの小さな手の中にあった。恵の手が僅かに緩んだ隙を突くように、視線を落としたはきつく結ばれた無骨な指を一本ずつ丁寧に解いていく。

「わたし……お兄ちゃんのこと、忘れたわけじゃないよ」

 よりずっと背の高い恵には、深く俯いたの表情を伺い知ることは出来ない。白い包帯を巻いた頭をただ無言で見下ろした。は宝物でも慈しむような手つきで恵の指を解きながら、どこか寂しげな響きで告げる。

「どうしようもなかったんだってわかってる。わたしがお兄ちゃんでも同じことをしたと思う。でも……でもね、本当のことを言うと……まだちょっとだけモヤモヤするときがあるんだ。ごめんね」
「……無理に許さなくていい」

 恵はの手を振り払うように右手を下ろした。幸福を溶かし込んだ透明な微笑が脳裏を過ぎる。かつて津美紀に言われた言葉をなぞりながら、恵は優しい体温の残った自らの手をじっと見つめた。

「俺を許す必要なんてどこにもない。それもの優しさだから」

 少しの間を置いて、「なんか深いね」とは穏やかな声で呟いた。そして右手を見つめていた恵の視界に突然、の悪戯な笑顔がぬっと入り込んでくる。瞠目する恵の顔を覗き込みながら、その優しい双眸にひどく真剣な光を灯す。

「たしかに人を許せないのは優しさだと思う。でもね、それを自分に向けるのは優しさとは言わないよ?」

 茶目っぽく付け加えると、柔らかそうな頬をふっと綻ばせた。穏やかな春の日差しにも似た屈託ない微笑に、視線が釘付けになる。

「そんなに自分を責めないで」

 続いたその言葉は恵の意識を大きく揺さぶった。恵が逃げるように顔を伏せれば、は自らの両手で恵の両手を優しく握りしめる。まるできかん気な弟を宥めるように手を添えたまま、柔らかな口調ながらも断固として告げる。

「もういいんだよ。だって当事者のわたしがいいよって言ってるんだから」
「……俺がお前たち兄妹に何したかわかってんのか」
「兄妹って……もう、大袈裟だなぁ」

 何が可笑しいのか小さな笑い声を上げると、は明るい口振りで続けた。

「ちゃんとわかってるよ。でも伏黒くんがいなくてもお兄ちゃんは殺されたかもしれない。というより、きっと伏黒くんはたまたまあの場に居合わせてしまっただけだと思う。伏黒くんがお兄ちゃんを殺したわけでもないのに、ちょっと自分のことを責めすぎだよ?」
さんが死んだせいで、お前の人生滅茶苦茶だろ」
「それは違うよ。正しく復讐するってわたしが決めたの。わたしが呪術師になったのは伏黒くんのせいじゃない。ちゃんと自分で決めたことだよ」
「……けど、さんが生きてれば」
「伏黒くん。どれだけ“たられば”の話をしても、お兄ちゃんはもう帰って来ないよ」

 調子の変わらぬ優しげな物言いが、恵から全ての反駁を奪い去る。言葉を失った唇を横一文字に結んだ。

 “お兄ちゃんは帰って来ない”――そのたった一言を妹のが口にすることが、どれほど苦しく悲しいことか。そんなつらさなど微塵も感じさせず、不変の事実として平然と口に出したのは他でもない、樹の死に縛られたままの恵のためだった。

「伏黒くんはお兄ちゃんみたいにわたしを守ってくれる。たくさん心配して怒ってくれる。お兄ちゃんのことを一緒に調べてくれる。それだけでもう充分」

 その明朗な響きに嘘や偽りは一滴も含まれていない。が「ね?」と柔らかく微笑みかけても、しかし依然として恵の表情は険しく曇ったままだ。別に意固地になっているわけではなかった。ただに何を言えばいいか、どんな顔をすればいいか、恵にはもうよくわからなかっただけで。

 なお唇を固く閉じたままの恵の手を一度だけぎゅっと握りしめると、は両手をそっと離した。そしてその手で自らのTシャツの裾を掴むや、それを何度も軽く引っ張りながら、裏返った甲高い声音を絞り出してみせた。

「恵くんはもう自分のことをたくさん責めたピョン!だからもう許してあげてほしいピョン!可愛いウサギ一同からのお願いだピョン!」

 はじめは気でも触れたのかと思った。恵はポカンとした間抜け面でを見つめる。唖然とする恵の様子など気にも留めず、「ちゃんからも言ってほしいピョン!……うん、わかった。わたしからも伝えてみるね」とはTシャツを揺り動かしながら一人芝居まで始める始末だ。しかし声の切り替えが下手クソ過ぎて、語尾の“ピョン”がなければどちらが話しているのか全くわからない。

 もう駄目だった。のそのあまりに陳腐な茶番が恵の笑いのツボに入る。二の腕に口元を埋めて必死で笑みを殺そうする恵に、はまるで教師のように真面目くさった口調できっぱりと告げた。

「ほら伏黒くん。可愛いウサギくんたちもこう言ってることだし――」
「俺はガキか」

 堪え切れず端的に指摘すれば、すぐにが勢いよく噴き出した。「だ、だって」と肩を小刻みに震わせるに、恵は笑みを噛み殺しながら言う。

「第一そのウサギのどこが可愛いんだ。自称にしたって図々しいんだよ」
「う、うさ……ふ、ふ……かっ、かわ……か、わい……ふ、ふふ」
「何も言えてねぇぞ」
「やだ、もう……あ、ばら……いた……」
「自業自得だろ」

 言葉では冷たく突き放しつつも、心配になった恵はの顔をそっと覗き込む。笑いすぎて涙すら浮かべていると視線を絡めると、その笑みは瞬く間に春を思わせる穏やかなものへと様変わりする。

「その顔」
「……顔?」
「うん、その顔すごく好き。しかめっ面よりそっちのほうがずっと素敵だよ」

 口角が持ち上がったままだったことに気づき、恵は勢いよく顔を背けた。「その顔すごく好き」と告げたの声音を繰り返し再生し続ける、自らの単純な脳味噌に苛立ちと情けなさを覚える。羞恥に身体が熱くなるのを感じながら、の悪戯な視線から必死に逃れようとする。

「あ、照れてる。伏黒くん照れてる」
「うるせぇな」
「もっと顔見たいなー」

 じゃれる仔犬のように視界を動き回るに言い返す言葉を考えていたとき、小さな頭に巻かれた白い包帯が目に付いた。の機嫌が良さそうなうちに恵は意を決して切り出すことにした。

。その額の傷、見てもいいか」
「えっ、どうして?……まさかとは思うけど実はそういう趣味?ドS?」
「違ぇよ」

 はそれ以上は何も訊かず、白い包帯を自ら解いた。傷口を押さえる白いガーゼを取り除くと、四針縫ったという深い切り傷が露わになる。前髪の生え際に沿うそれを、恵はしばらく無言で眺めた。に怪我を負わせた自らへの戒めとして、どうしても目に焼き付けておきたかったのだ。

「いつ抜糸するんだ」
「東京に戻ったらすぐ。家入先生が反転術式で治してくれるって」
「……傷痕は?」
「このまま残る可能性が高いって。お兄ちゃんがいなくて良かったかも。こんな傷見たら泡吹いて倒れちゃうよ」

 脳内で想像でもしたのか、が口に手を添えて小さく笑う。傷口にガーゼをそっと自ら押し当てると、どこか物悲しげな目をして呟いた。

「お嫁に行けなくなったら嫌だなぁ」
「……嫁?」
「うん、お兄ちゃんの夢だったからね。花嫁姿のわたしを見ること」

 の代わりに包帯を巻いてやりながら、恵はその言葉に黙って耳を傾けた。

「結婚だけが女性の幸せじゃないし、結婚すれば幸せになれる時代でもない。でもお兄ちゃんはずっと結婚に夢を見てた。自分じゃなくて、わたしの結婚に。絶対一緒にバージンロードを歩くんだ、馬鹿みたいに泣いてやるからなって……一緒に歩くのは、もう無理だけどね」

 ぎこちない笑みとともに言葉を付け足すと、長い睫毛に縁取られた目蓋をそっと伏せる。

「だから花嫁姿のわたしだけは見せてあげたいんだ。お兄ちゃんがいなくてもちゃんと幸せだよって胸を張って言えるようになりたい。今はまだ難しいけど……いつかそういう自分になれたらいいな」

 小さな声音が途切れたところで、ちょうど恵は包帯を巻き終える。今ここで何を言っても空々しくなるような気がして、どう相槌を打てばいいのかわからなかったが、は恵の返事を求めてはいないようだった。どこか寂しげで虚ろな色は瞬く間に消え、すぐにいつもの穏やかな笑みが宿る。

「眠くなってきちゃった。こんなに夜遅くまでごめんなさい」
「……こっちこそ。引き留めて悪かった」

 はやや俯き気味にかぶりを振ると、顔を固く強張らせた。恵から視線を外したまま、やがて取り繕った笑顔で意を決したように切り出した。

「ねぇ伏黒くん。これからもわたしのこと、絶対に助けてくれる?」
「ああ。絶対に助ける」

 間髪入れずにきっぱりと即答すれば、はひどく驚いた様子で目を瞬いた。まさか恵が断言するとは思ってもみなかったのだろう。何度も瞬きを繰り返している。

 自分には似合わない言葉を口走った気がしないでもないが、その問いにだけは曖昧な答えは返せなかった。返したくなかった。男の矜持として。

「本当?」
「ああ、嘘じゃない。信じろよ」
「テスト勉強も?」
「但し徹夜は二度と御免だ」
「それは残念です……でも、ありがとう。すごくうれしい」

 くしゃっとはにかんで笑ったに息が詰まる。普段は大人しい心臓が大きく脈打ち、身体がひどく熱くなった。原因は嫌というほどわかっていた。今すぐ顔を覆いたい気分になる。

 一体何がどうなってこうなったのだろう。気づいたのは病院の待合だが、それ以外が全くわからない。そもそもいつから。どのタイミングで。自分の感情のはずなのにまるで理解が追い付かなかった。四月の恵が聞けば目玉を落とすほど驚くに違いない。

 全く穏やかではない恵の胸中を知る由もなく、は「あと、それから」と悪戯っぽく言葉を継ぐ。

「髪が大人しい伏黒くんってなんか新鮮かも。ちょっと幼くて可愛いね。今日だけはなんだか弟みたい」
「……弟って」
「いつもはほら、口うるさいお兄ちゃんだから」

 予想だにしないからの評価にたちまち空しい気分になり、自らの感情の起伏の大きさに手遅れかもしれないと今さら強い危機感を抱く。今日気づいたのだからまだ引き返せるはずだと、不安を覚える自分にそう言い聞かせる。

 ――勘違い、気の迷い、一時の感情……。

 その感情を何度も否定しながら、扉に手をかけたを見つめる。は見覚えのある軽薄な笑みを浮かべて、聞き覚えのある浮ついた声音で言った。

「あ、恵!ちゃんと髪乾かさないと風邪引くよ!なんてね。コレ悟くんの真似なんだけど……うーん、あんまり似てなかったな。もっと精進します。じゃあ……おやすみなさい」
「……おやすみ」

 無機質な扉が重い音を立てて閉まる。物真似は上手いなと思いつつ、踵を返したその足で糸の切れた操り人形のようにベッドに雪崩れ込む。仰向けになると、白い天井灯から逃れるように腕で目元を覆った。

「アレは過保護にもなる……」

 もう何も考えたくなかった。考えれば考えるほど堂々巡りに陥るような気がした。目蓋の裏にの屈託ない笑みが焼き付いている。恵の弱さを優しく受け入れたの声音が耳から離れない。しかし疲労困憊だったせいだろう、恵はあっという間に眠りに落ちた。



* * *




 その夜、恵は夢を見た。

 ふと気がつけば、恵は明るい場所に立っていた。目の前には窓があった。白い壁をくり抜いて作られた大きな窓からは穏やかな光が差し込み、思わず目を細めてしまうほど眩しかった。

 恵が周囲を見渡そうとしたとき、背後から扉が開くような音がした。振り返れば、開いた豪奢な扉からふたりの人間が静かに姿を現した。

 それは男と女だった。若い女は細かな装飾に彩られた純白のドレスに身を包み、その傍らに立つ男は声も殺さず咽び泣いている。恵はそこでようやくここがチャペルであることに気づいた。

 花嫁と男は歩幅を合わせるように、腕を絡めたままこちらへゆっくりと歩いてくる。時おり男は老人のように腰を曲げてわんわん泣いた。そのたびに花嫁は男の曲がった背中を何度も優しく擦ってやった。ふたりは時間をかけて恵のそばまでやってくると、花嫁は深く俯いた男の腕をするりと手放した。

 雪のように白いピンヒールが一段ずつ、まるで勿体ぶるように階段を上る。やや俯き気味の花嫁が恵の前に立った。その顔を覆い隠す純白のベールを、恵は緊張した手付きでそっと持ち上げる。それに引き上げられるように、花嫁の優しげな双眸が恵の顔をまっすぐ映した。

「伏黒くん」

 そこで勢いよく上体を起こして目覚めた恵は、片手で顔を覆いながら低く呻いた。

「……完全に手遅れだ」