何か途方もないものに心臓を鷲掴まれたまま、伏黒恵は床を強く蹴った。長い階段を駆け下りるのももどかしく、一息に跳躍して着地する。色濃い残穢を辿って雑居ビルの廊下を疾駆すると、扉を蹴破らんばかりにとある部屋へと転がり込む。

 室内には煙草の苦い匂いが充満していた。どうやら事務所として利用されているその部屋は、見るからに整理整頓が行き届いていない。ゴミなのかそうでないのかわからないような大量の書類が、目の付くところに山積みにされている。

「どこへ行きやがった……」

 小さく吐き捨てながら、乱れた室内をくまなく見渡す。そこには人の気配はなかった。もちろん呪いの気配も。恵は部屋の中央まで進んで視線を落とした。ローテーブルに置かれた灰皿には、まだ火の点いた真新しい煙草が放置されている。

「……誰かここにいたのか?」

 恵はすぐに部屋を出ると、残穢のこびりついた廊下を目でなぞった。複数のテナントが入っているはずなのに、何故か雑居ビルの中は物音ひとつなく閑散としている。

 駆り立てられるように美容室の看板が掲げられた扉を開けば、そこにはやはり人の姿はない。残穢が点在する部屋の奥から水の音が微かに聞こえる。見れば、シャンプー台からぬるま湯が止めどなく溢れていた。恵は革でできた座席に手で触れ、かろうじて温かさの残ったそれに瞠目する。

「一体どこへ消えたってんだよ……」

 雑居ビルの入り口から屋上へ辿り着くまで、恵は誰ともすれ違うことはなかった。それは屋上を飛び出したあとも同じだった。外から聞こえる喧騒に誘い出された可能性は限りなく低いだろう。

 もぬけの殻となった美容室で立ち尽くす恵の鼓膜が、救急車のサイレン音をたしかに捉える。我に返った恵はカーテンのない大きな窓から国道を見下ろした。

 やっと到着した救急車から救急隊員が降りてくる。人だかりの中央に倒れるふたりの男女が担架に乗せられ、矢継ぎ早に運び込まれていく。

「……

 生気のないの顔は、額から溢れた血液で真っ赤に染まっている。救急隊員の呼びかけに応じているのか、血だらけの顎先が震えるように動いていた。救急車の中に消えていく様子を呆然と見届けると、己の使命を思い出したように恵は素早く踵を返した。

 ほんの数分前。恵が呪霊の気配に気づいたときには、すでにはもう恵のずっと先を走っていた。人が飛び降りたことに気づくのも遅かった。慌てて駆け出すも間に合わず、制止の声も空しく瞬く間に小さな身体が歩道に転がった。ぶつかった衝撃で自転車が倒れ、は自転車の下敷きになった。

 自転車に押し潰され、アスファルトに投げ出された白い手。駆け寄った恵に心配をかけまいとする弱々しい笑顔。少し思い出すだけで恵の瞳は曇りガラスのように濁った。自分でも驚くほど、気が動転していた。

「伏黒くん」

 屈託なく笑うの笑顔が脳裏を過ぎり、まるで間欠泉から噴き出すように、ベッドに横たわる痩せた津美紀の姿と白い布を被った樹の姿がまざまざと蘇る。

 また何かに心臓を鷲掴みにされ、恵は奥歯を軋らせると雑居ビルを隅々まで探した。伊地知に指示を仰ぎながら、一階から屋上までを何度も往復した。目を皿のようにして残穢を辿り続けた。そうでもしなければ気が触れそうだった。足を止めれば恵の思考が向く先など、たったひとつしか残されていない。

「伏黒くーん!」

 こちらに向かって笑顔で手を振るの姿が、荒れた呼吸の隙間に浮かび上がる。そのたびに心臓が激しく痛んだ。絶望にも似た何かがすぐそこまで這い上がってきているような気がした。伊地知と実務的な会話を交わしその何かを懸命に振り払おうとしても、それは恵の思考を少しずつ蝕みながら、易々と無視できないほど質量を増していく。

 伏黒恵の心臓を鷲掴んで離さないのは、を喪うかもしれないという途方もない恐怖だった。



* * *




「……食い過ぎた」

 軽めの入浴を終えてベッドに寝転がった恵は、掠れ切った声でそう独り言ちる。A5ランクの分厚い仙台牛ステーキを限界まで詰め込んだせいだろう、胃もたれして少し気持ちが悪い。濡れた髪を乾かすことすら億劫になり、このまま寝てしまおうかと考え始める。

 五条を破産させるため、恵はとともに腹がはち切れんばかりにステーキを食べた。高級黒毛和牛はあまりにも美味だった。自然と食が進んだこともあり、ふたりは店員が言葉を失うほど、食べて食べて食べ続けた。

 その甲斐あってか会計は凄まじい額を叩き出した。呪術高専から援助を受けていたとはいえ、これまでさほど裕福な暮らしをしてきたわけではない恵にとって、それは食事というものに支払うべき金額を遥かに超えていた。

 そもそも恵は食に対して強いこだわりはない。生きていくための必要最低限さえ確保できるなら、味も質もある程度は妥協できる質である。だからこそ、提示された支払金額に一瞬面喰らってしまったのだろう。

 五条に対するなけなしの良心が痛んだ恵に反して、「悟くん泣いちゃうね」とひどく楽しげに含み笑ったは飽食した悪魔のように見えた。きっと五条から悪影響を受けた結果だろうと、恵は即座に考えることをやめたのだが。

 胃の重さを感じながら、恵は青白い天井灯にぼんやりと目を向ける。今日一日の疲労がどっと押し寄せて来て、数秒も経たぬうちに目を開けていられなくなる。

 仙台駅から徒歩一分という好立地のビジネスホテルは、補助監督の伊地知が手配してくれたものだ。与えられた部屋は人がひとり宿泊するには充分に広く、白い壁には薄型の液晶テレビが設置されている。糊の効いたシーツに覆われたセミダブルベッドの寝心地も悪くない。それでいて一泊の料金は相場よりも安く抑えられているのだから感心してしまう。さすが社畜の伊地知だ。宿泊先探しには慣れているのだろう。

 恵がうとうとと船を漕ぎ始めたとき、部屋の扉を何度か叩く音が響いた。目蓋を持ち上げようとした瞬間、

「伏黒くん、まだ起きてる?」

と、鈴を振るような澄んだ声音が聞こえた。深い眠りの淵に落ちかけていた意識が一気に浮上し、それと同時に恵は上体を起こした。だらしなく乱れた寝間着の浴衣を手早く着付け直しつつ、急ぎ足で扉へ向かう。

 施錠を解除し扉を引けば、自前の寝間着に身を包んだが所在無げに突っ立っている。気だるげな恵の顔を見るや、は困った様子で眉尻を下げた。

「夜分遅くにすみません」
「……なんだ、改まって」
「あの、そのですね……大変身勝手なお願いがありまして」

 妙に畏まったはそう言うと、背中に隠していたベージュ色した長い何かをそうっと差し出した。

「これ、巻いてもらえませんか?」
「……これって」
「えっと……胸部固定帯、です。骨折用の」

 お世辞にもセンスが良いとは言えないのTシャツを押し上げるそれに、恵の目が無意識に落ちていく。完全に焦点が合う前に我に返ると、努めて平静を装いながら視線をの顔に戻す。

 変態だ何だとあらぬ嫌疑をかけられることだけは避けたかった。相手がだというなら尚更だ。

 は恵の動揺を知る由もなく、項垂れながらぽつぽつと事情を説明し始めた。

「右手が痛くてうまく巻けなくて……ちゃんと固定しないと駄目って言われてるから、ホテルの人にお願いしたんだけど……骨折を悪化させるかもしれない、万が一何かあっても責任を負えないって断られちゃって。だからもう伏黒くんしか頼る人がいないの……どうかお願いします……」

 飛び降りた男を庇ったは右手首を捻挫している。負傷した手で固定帯を巻くのは、たしかに困難を極めるだろう。

 恵はしばらく逡巡した。寝静まった夜に女が男の部屋に入るのはいかがなものか、と。

 怪我人であるに何かしてやろうという非常識な考えは微塵もないし、そもそも付き合ってもいない相手に手を出せるほど奔放な性格でもない。遊び惚けている五条とは違うのだ。恵が何もしないのは大前提だとしても、どのような理由があれ夜分遅くに女を男の部屋に招き入れることが、常識的に考えて、倫理的に考えてのためにならないことは充分に理解しているつもりだった。

「伏黒くん……」

 今にも泣き出しそうな声が耳を打ち、悪事を働いたわけでもないのにひどい罪悪感に襲われる。捨てられた仔犬のようにしゅんと落ち込むを放っておけるわけもなく、恵は額を手で覆いながら観念したように呻いた。

「……わかった。早く入れ」
「ありがとうございます!」

 先ほどまでの落ち込みようが嘘のように、満面の笑みを浮かべたが部屋に入る。薄手のTシャツに丈の短いショートパンツという無防備にも程がある格好のに嘆息しつつ、恵はTシャツの背面に目を向けた。

 ちょうど肩甲骨の辺りに“USAGI”とポップに印字されたそれには、デフォルメされたウサギが大量に描かれている。可愛くないどころか無性に腹の立つそのウサギの顔を睨みつつ、胸に湧いた正直な感想を吐露した。

「ダッセェTシャツ……どこで売ってんだそれ……」
「あ、これ?悟くんのお土産だよ。最近出張に行くと変なTシャツばっかり買ってくるの。外で着るのも恥ずかしいからパジャマにしてるんだけど……新手の嫌がらせかなぁ」

 振り向いたが首を傾げる。恵は再び深く嘆息した。

 呪術高専は全寮制だ。女子寮を一歩出れば男子生徒や男の術師、男性職員に遭遇することも少なくない。まるで色気のないTシャツは十中八九男避けだろうが、恵は知らぬ振りをしてきょとんとしたの顔を見つめるに留まる。五条のこの努力だけは無駄にするべきではないと思ったからだ。

「あの、あんまり顔見ないで。夜だからメイクしてないし」
「いつもとそんなに変わんねぇだろ」
「……それ喜んでいいのか怒っていいのかわかんないね」

 ひどく複雑そうな顔で告げると、は恵に胸部固定帯を手渡した。その場でくるりと半回転し背を向けると、首だけで振り返って茶目っぽい笑みを刻む。

「後ろからで大丈夫だよ。前から巻くのはさすがに抵抗があると思うし」

 その提案に心の底から安堵しつつ、の背後に立った恵は華奢な腕の下から固定帯を通していく。巻き付けたい位置に自ら固定帯を押さえていたものの、身体に触れなければならない以上どうしても距離が近くなってしまう。柔らかそうな髪から漂う柑橘系の香りが鼻孔を焦がし、恵を妙にドギマギさせた。

「もっときつく巻いていいよ」
「……わかった」

 言われるがまま固定帯を引っ張ると、の頭がやや落ちた。丸くなった両肩が固く強張っている。きっと折れた箇所が痛むのだろう。恵はのその素振りには全く気づいていない振りをして、抑揚のない声音で気遣ってみせた。

「痛くないか」
「うん、平気。気にしなくていいのに」
「折れてんだぞ。そういうわけにはいかねぇだろ」
「優しいね。ありがとう」

 小さく笑みをこぼすの背中に固定帯を沿わせる。その身体は恵とは全然違った。細くて柔らかいこの痩躯が、昼間のあの衝撃を耐え抜いたのだという実感が湧かない。

 観覧車から落下したときは、普段からそれなりに鍛えている恵自身が受け身を取りながらクッションの役割を果たした上に、落ちた場所は今回のような固い地面ではなかったのだ。飛び降りた人間を庇ったは、受け身を取る暇もなく地面に叩き付けられている。これだけの傷で済んだのが奇跡のようなものだろう。

 自転車の下敷きになった血だらけのを思い出し、恵は無意識に尋ねていた。

「なんで俺に言わなかった」

 口を突いて出た言葉に恵自身が驚いていた。今さら誤魔化すのも面倒になり、恵はさらに言葉を重ねる。

「俺なら絶対により上手く助けられた」

 恵のほうが何倍も膂力があるし、何より足が速い。に知らされた後でも飛び降りた男を助けられたはずだという確固たる自負があった。

 真っ先に恵に知らせていればがこんな大怪我を負うことはなかった――そういう意味で告げた言葉だったが、はそう受け取ってはくれなかったらしい。余計なことをしたと責められたとでも思ったのだろうか、ひどく居た堪れない様子で深く俯いた。

「何も考えられなかったんだ。あの人を助けなきゃってそれしか頭になくて……伏黒くんだったらきっとあの人を怪我させずに済んだと思う。本当にごめんなさい」
「そうじゃねぇよ。俺が言いたいのは……俺が動いてりゃ、が怪我する必要はなかったってことで……」
「……え、わたし?」

 心底不思議そうな声音を返され、恵はもう何を言えばいいのかわからなくなる。今といい病院で尋ねたときといい、どうやらにとって自らの怪我は至極どうでもいいことらしい。決して自らを蔑ろにしているわけではないのだろうが、の優先順位は恵とはまるで違うのだろう。

 はしばらく黙り込んだあと、優しい響きでそっと告げた。

「ごめんなさい」
「……なんで俺に謝るんだよ」
「だって伏黒くんに怖い顔させちゃったから」

 怪我をはぐらかそうとするに激怒したことを言っているのだろう。

 あれほど怒りを露わにするつもりはなかった。しかし自分ではどうしようもなかったのだ。の死におぞましいほどの恐怖を覚えていたからこそ、軽傷だ何だと嘘を吐いたをどうしても許せなかったのだ。

 伊地知や警察に事情を口早に説明したあと、恵が一体どんな気持ちで杉沢病院に駆け込んだのか、はきっと知らないだろう。から連絡をもらう一時間以上も前からそこにいて、総合案内での居場所を訊くかどうかをずっと悩んでいたことも知らないだろう。一分一秒が何時間にも何十時間にも感じられて、嫌な想像ばかりしてしまったことも知らないだろう。

 どうしてこんなにもを喪うのが怖いのか――その理由に辿り着いてしまったあのときの恵の自虐的な苦い笑みも、はきっと何もかも知らないだろう。

 は小さな声音で言葉を継いだ。

「すごく心配かけたんだよね?だから病院であんなに怒ってくれたんでしょ?」
「……心配なんかするわけ――」
「ううん、してくれた。お兄ちゃんが死んだあの日と同じ。あのときも伏黒くん、わたしのためにたくさん怒ってくれたよね。ごめんなさい。もっと自分を大事にするべきでした。本当にごめんなさい」

 真面目な響きとともに、その場で深く頭を下げる。その体勢が今のにとってどれだけの苦痛を伴うものなのか、はっきりと恵は理解していた。一刻も早く頭を上げさせるため、頭に散らばった言葉を適当に掴み取ると、それを抑揚のない声音に乗せていく。

「今までもずっとあんな無茶してたのか」
「するわけないよ。何かあったらすぐお兄ちゃんに甘えてたから」

 笑んだは小さく肩を震わせると、明るくも落ち着いた口調で続けた。

「お兄ちゃんがいなくなって、わたしがひとりで頑張らなきゃって思い過ぎてるのかも。以後気をつけます」