「だーれだっ!」
「……人を待たせといてそれか、
「そんなに早く着いてたの?……ごめんなさい。大変お待たせしました」

 瞳を覆う両手を解放すると、ソファに腰掛ける伏黒くんが呆れた様子で振り返る。一階の総合待合でずっと待っていたらしい彼は、わたしの顔を見るや深く嘆息した。

「それで、怪我は?」
「打撲と右足の骨折だけだったよ。今のところ精密検査にも異常はなし。しばらくは入院が必要になるけど、あの高さから落ちて無事なのは奇跡だって」
「違う。だ」
「え、わたし?……すっごく元気だよ。観覧車からダイブしたときのほうが痛かったかも」

 話題を終わらせようと悪戯っぽく笑ってみせたというのに、その物言いが彼の心を逆撫でたのだろう、表情が一気に険しくなる。「また何か隠してんだろ」と氷点下の声音が頬を打ち、わたしの唇を鉛のように重くした。

 彼は衣擦れの音ひとつ立てず立ち上がった。白群の瞳に灯る厳しい光がわたしをまっすぐ見下ろしている。ほんの数秒も直視できず、わたしは下唇を噛んで鼻先を逸らした。

 伏黒くんが怒っている。それも、本気で。

 ただならぬ空気を感じ取った人々が、好奇と不安の入り混じった複雑な視線を寄越し始める。一点に集まる周囲の目など気に留める様子もなく、彼は鋼の鋭さを纏った声音を継いだ。

「怪我したんだよな?」
「……うん。でも軽傷だよ?おでこをちょっとすりむいただけ。落ちたひとが助かったんだから、もう――」
「良くねぇよ。あれだけ血が出てたのにそんな説明で納得すると思ってんのか。どこをどう怪我したのかちゃんと言え」

 嘘も抗弁も許さぬ気迫にたじろぐ。激怒する伏黒くんの気持ちはわからないでもなかった。急に走り出したと思ったら、直後ビルから飛び降りた男の下敷きとなって倒れたのだから。

 きっと心配をかけたのだろう。だからこそ、優しい彼を傷つけてしまったのだろう。迷惑をかけたくない故の強がりがこれほど逆効果になるとは思ってもみなかった。

 周囲の目から逃れるように、わたしは伏黒くんの制服の袖を掴んだまま病院を一歩出た。正面玄関の邪魔にならない場所で足を止めると、すでに夜の香りがし始めている空気を軽く吸い込む。彼は何も言わずわたしの言葉を待っていた。

 指で前髪を寄せながら、白い包帯に覆われた髪の生え際、右のこめかみ近くを示した。

「おでこの怪我……これはちょっとだけ縫いました」
「何針」
「……四針」
「他にも怪我してんだろ。どこだ」
「どうしてバレちゃうんだろう。伏黒くんには嘘はつけないね」

 軽く笑みをこぼして、右袖を軽く捲りながら白い包帯を見せる。

「右手首の捻挫」
「それと」
「それと……肋骨。一本は完全に折れてて、ヒビが入ってるのがいくつか。それで全部だよ」

 言葉が途切れると、やや俯いた伏黒くんが重く長いため息を吐き出した。しかし次に視線を交わしたときには、先ほどまでの怒りはもうどこにも滲んでいなかった。ただ心底呆れ返った様子でかぶりを振る。

「どこが軽傷なんだよ」
「……ごめんなさい」
「内臓や血管には何もないんだな?折れた骨が刺さったりとか」
「うん、そういうのはないよ。ちゃんと固定してもらったし、もう平気。だからね、東京にとんぼ返りなんて嫌だよ?」

 先回りするように言葉を付け足せば、彼の表情が一段と険しいものへ変わる。

「……
「嫌だ。帰りたくない。これじゃ何のために仙台に来たのかわかんない」
「呼吸するだけで痛むんだろ」
「……伏黒くんお願い。足手まといだってわかってるけど……ごめんなさい。それだけはできない」

 それだけは譲れなかった。どうしても。伏黒くんは説得を試みようと口を開いたものの、結局言葉にはならなかったらしく唇を横一文字に結んだ。痛いほどの沈黙が数分流れ、観念したかのように彼が小さな声で切り出した。

「……ビルの屋上にいた奴だが」
「うん。うんうん!どうなったの?!」

 食い気味に反応した矢先、胸に激痛が走った。「痛い……」と涙目で呻くと、「馬鹿か。大声出すからだろ……」と嘆息混じりの響きが返ってくる。伏黒くんはわたしの背中からリュックを奪い取りながら、淡々と説明を続けた。

「また逃げられた」
「またってどういうこと?」
「残っていた残穢は鱗の呪いと同じものだった」

 慈母のような穏やかな微笑が脳裏を掠めた刹那、折れた肋骨の中で憤怒と憎悪がじわりと滲んだ。瞬きも忘れて奥歯を噛みしめれば、「」と心なしか心配そうな声音が耳を打つ。わたしは慌てて笑みを作った。

「ごめんなさい、ぼうっとしてた。続けて?」
「……遊園地の件といい今回の件といい、向こうに完全に先回りされてる。どうやらこっちの動きが筒抜けらしい。おそらく上層部に情報を流している奴がいるか、もしくは何らかの術式で情報を盗み聞きしているんだろう。それから、これも」

 抑揚のない口調とともに懐から取り出したのは、見覚えのあるメッセージカードだった。わたしは小さく肩をすくめる。

「……やっぱり“I miss you.”?」
「いや、全く別だ」

 差し出されたメッセージカードを受け取り、青いインクで綴られた華奢な文字の羅列に目を見開いた。

 “e38182e381aee7b484e69d9fe38081e5bf98e3828ce3819fe381aeefbc9f”――その意味不明な英字と数字の並びに首を傾げる。

「なんだろう、これ。暗号?」
「だろうな。悪いがまだ解読できてない。少し時間もらってもいいか?」
「うん。よろしくお願いします」

 散らばった青いバラの花弁が目蓋の裏にこびりついている。飛び降りた男は警察に対して“家を出たところから何も覚えていない”と説明したそうだ。きっとわたしのせいで巻き込まれてしまったのだろう。罪悪感に苛まれつつ、はたと思い出したことを口にする。

「あ、貸し倉庫の場所、詳しく聞いたんだ。ここから近いらしいけど、これからどうする?」
「予定変更だ。もう時間も遅いし、まずはこのまま宿儺の指の回収に向かう。明日改めて貸し倉庫を調べに行くぞ」
「了解です」

 伏黒くんは正面玄関に停車していたタクシーに乗り込む。急ぎ足になったわたしに、「ゆっくりでいい」と無愛想な声で告げる。一緒に来たのが彼で良かったと、心の底から思った。



* * *




「表から堂々と入れるんだね」
「学校側には前もって連絡してるからな」

 正門から敷地内へと足を踏み入れたわたしたちは、明かりのない夜の学校を静かに歩いていた。

 杉沢第三高校は宮城県仙台市に位置する公立高校のひとつだ。偏差値は中の下。勉強よりもスポーツが有名。自由を重んじつつ主体性を育んでいく教育方針で、ホームページには校内に植えられている木々や草花の写真がたくさん掲載されていた。

 公立高校といえど、正門前や正面玄関、裏口を含め、至るところに監視カメラが設置されている。監視カメラと目が合うたび、わたしは小さく会釈をしつつ足早に通り抜けた。許可を得ているため不審者として扱われることはないものの、なんとなく気が咎めてしまう。

「本当に怒られないの?」
「物を壊せば怒られるだろうが、歩き回るくらいなら問題ない。それにしても、呪物の気配がデカすぎてよくわかんねぇな……」
「悟くんに訊いてみよう?」

 渋々提案を飲んだ伏黒くんは、うんざりした様子で悟くんに連絡を取った。そして通話開始からたった数秒で素っ頓狂な声を上げる。

「百葉箱?!そんなところに特級呪物保管するとか馬鹿過ぎるでしょ」

 百葉箱と言うと、気温や湿度などの気象観測を行うための装置だ。大抵は校庭の隅に設置されていることが多く、小学生のとき理科の授業で使い方を教わったような気がする。

 わたしが首を左右に振って白い木箱を探している間にも、彼の表情はどんどん険しさを増していく。彼が電話口の相手に文句を言おうと唇を割った瞬間、わたしは大きな声を上げながら得意げに指を差した。

「あった!」

 意外とすぐ近くにあった百葉箱の隙間を覗いて、思わず目を瞬かせる。施錠されていない古びた扉を開ければ、途方に暮れた声がこぼれ落ちていく。

「……あれ?」
「……嘘だろ」

 通話を続けていた伏黒くんの乾いた声音が背後から聞こえる。振り向こうと視線を動かせば、至近距離に彼の横顔があった。驚嘆を上げそうになるのをぐっと堪え、会話の成り行きを無言で見守る。

「ないですよ……百葉箱、空っぽです」

 彼のスマホにそっと耳を近づければ、「マジで?ウケるね」と笑みを含んだ軽薄な声が返ってくる。瞬間、切れ長の目元に青筋が浮かび上がっていた。相当頭に来ているのだろう、薄い唇から放たれた「ぶん殴りますよ……」の一言には沸騰した殺意すら籠っている。

「それ回収するまで帰ってきちゃ駄目だから」

 むしろこの状況を楽しんでいそうな口振りが、さらに伏黒くんの苛立ちを加速させる。もう見ていられない。口端を引きつらせる彼からスマホを奪い取ると、わたしは口早に尋ねた。

「もう誰かに盗られたとか、悪用されてる可能性は?」
「あ、!伊地知から聞いたよ、また無茶したんだって?人助けも大事だけど自分のことも同じくらい大事にしてよ。帰って来たらお説教だから覚悟しておくように。それから――」
「そんなことより特級呪物!」

 暢気に紡がれる声音を遮れば、長いため息が耳朶を打つ。

「そんなこと?僕は宿儺なんかよりのほうが数億倍大事なんだけど……まぁいいや。その辺りから特級呪霊の気配はする?」
「そこまで強そうな呪いはいないと思うけど……」
「じゃあまだ大丈夫かな。どこかに落ちてるか、誰かがただ持ってるだけだと思うよ。宿儺の指は強力な呪いである分、残穢を辿りやすい。とにかく一度調べてみてよ」
「わかった。また連絡するね。おやすみ、悟くん」
「はーい、おやすみ」

 浮ついた響きが完全に沈黙したところで、スマホの画面を制服の袖で何度か拭う。わたしの指紋が綺麗さっぱり消えたそれを伏黒くんに差し出した。

「今日は遅いし、明日にしよう」
「この辺りだけでも調べて――」
「ううん、明日にしようよ」

 焦燥の滲んだ言葉に、わたしは優しい声音を重ねた。眉をひそめる彼の顔にはまだ苛立ちの色が揺れている。

 イライラしているときはうまく行かないことが多い。これはただの探し物ではないのだ。一体どこにあるのかもわからないほど気配の強い“両面宿儺の指”。神経をすり減らして探し出さなければならない特級呪物なら、気持ちに余裕がなければきっと見落としてしまうだろう。明かりのない夜という時間であるなら尚のことだった。

「チェックインの前に、どこかでご飯食べて行かない?美味しい物がいいな。いっぱい食べて、お風呂に入って、たくさん寝て……また明日頑張ろう?」
「特級呪物は危険なんだぞ。そんなにゆっくりしてる時間なんて」
「ほら、わたし肋骨痛くなってきたし」

 笑顔で胸を指差しながら付け足すと、やがて彼は黙って目を伏せた。きっとわたしの意図するところを察したのだろう。気まずそうな様子でぽつっと呟いた。

「……じゃあ、肉」
「え?」
「食べるなら肉がいい。アバラ折ってるときに食うもんじゃない気もするけど」
「ううん、大賛成」

 正門へと踵を返した伏黒くんの隣を歩きながら、わたしは黒一色の空を見上げる。

「お肉、お肉かぁ……せっかくだし仙台牛にしない?」
「高級黒毛和牛だよな?そんな金ないぞ」
「ふっふっふ……あるんですよ、それが」

 自慢げに含み笑うと、彼が背負うリュックから財布を取り出し、目当てのものを見せつけるように引き抜いた。

「じゃーん!悟くん名義のクレジットカード!」

 たちまち伏黒くんの表情が曇った。眉間に深い皺を刻んだまま、疑うような眼差しを寄越す。

「……おい、それどこから持ってきた」
「あ、こっそり盗んだとかそういうわけじゃないよ。悟くんに何でも買って良いよって渡されてるだけ。もちろん食事も大丈夫です」

 得意げな笑みとともに説明すると、「シスコンその二……」と伏黒くんは独り言ちた。ポケットからスマホを引っぱり出し、画面に置いた親指を素早く動かしていく。

「ちょっと待て。店調べる」
「焼き肉?ステーキ?すき焼き?」
「ステーキ一択。五条先生を破産させる」
「乗った!」

 月も星もない闇の下、わたしたちは極悪な顔をして笑い合う。タイミングを見計ったようにわたしの腹の虫が空腹を訴えて、小さく噴き出した伏黒くんが「行くぞ」と歩き出す。落ち着いたその足取りはひどく緩慢で、わたしをいつまでも待ってくれるような気がした。