「付き合わせちゃってごめんね」
「……暇だったから、別に」

 素っ気なく答えた伏黒恵の声が、目の前を流れる川の音に撹拌する。空になった骨壺を抱いたは恵を振り返ると、「ありがとう」と瞳を柔和に細めて微笑を重ねた。

 名もわからぬ雑草がのびのびと茂る川原にひと気はなく、時おり聞こえる野鳥の声が静寂に木霊する。底が見えるほど澄んだ浅瀬を、小魚たちがどこか忙しない様子で泳ぎ回っている。

 川辺から続く急斜面を登った先には地元の人間だけが使うような細い道路が伸びており、赤く錆びた古いガードレールに沿って一台の普通車が停車している。車から降りた伊地知がこちらを見つめていた。休みを利用して、伊地知がふたりを連れてきてくれたのだ。

 兄妹にとって強い思い入れのあるその川は、山の上流にあるせいだろう、それほど幅は広くなかった。心地よい水音が絶えず鼓膜を叩く。勢いのある川の流れに目をやりながら、恵は疼くような感傷を気取られぬよう、努めて平板な声で尋ねた。

さんの四十九日、まだじゃなかったか?」
「今お別れしたのは、わたしの本当のお兄ちゃんだよ」

 深山を吹き抜ける柔らかな風が、の髪を揺らした。口を噤んだ恵は無意識にその流線を追う。目を伏せたがそよぐ髪を片方の耳にかけながら、桃色に色付いた口端をふっと緩める。

 心なしか寂しげな表情は、しかし次の瞬間には色を変えていた。その双眸に浮かぶのは充分に満ちた慈愛のそれだった。

「“お兄ちゃん”には……きっと今も帰りを待ってるひとがいるから」

 麗らかな春の日差しを思わせるような、ひどく穏やかな笑みだった。何も知らぬ無垢な子どもの表情にも、全てを理解した分別ある大人の表情にも見えた。ただそれは間違いなく、第三者として一線を引いた態度だった。

 は今も樹を家族として深く愛しながらも、突き付けられた現実を事実としてたしかに受け入れていた。樹の真実を探ろうとしているのは己のためでもあるだろうが、一番は今もどこかで樹の帰りを待っている“本当の”家族のためであるような気がしてならなかった。

「帰ろっか。明日悟くんが帰ってくるんだって。お兄ちゃんのこと、直接問い詰めてみるね」
「……ああ」

 恵には頷くことしかできなかった。から最愛の兄を奪った自分には、もう何も言う資格がないと思ったから。

 雑草だらけの急斜面に悪戦苦闘するの手を掴んで引き上げてやる。川原に落ちまいとするその小さな手を決して離さぬことだけが、今の恵にできる精一杯のような気がした。

 車に乗る直前、はおもむろに川を振り返った。後ろ髪でも引かれているのかと思ったが、その目に浮かぶ表情は淀みなく澄んでいた。まるで、そこに在る魂に微笑みかけようとするかの如く。

「またね」と呟いたの声音は胸の奥が痛むほど優しく、そしてどこまでも透明だった。



* * *




「ここ、いいか?」
「あ、はい。どうぞ……って、パンダ先輩」

 声を掛けられた恵が目を瞬かせたのも一瞬のことで、すぐに食べかけの焼きサバ定食の乗ったトレーを自らのほうへと引いた。勢いがついたせいで豆腐とわかめの味噌汁が小さな波を作り、あともう少しのところでこぼれそうになる。

 目の前の空席に腰を下ろすパンダはパンダではない。傀儡呪術学の第一人者である夜蛾の最高傑作、つまり感情を持った突然変異の呪骸である。それ故に食事を必要としないとわかっていたが、恵はなんとなくそうしていた。

 パンダはテーブルの上に組んだ手を置いた。恵の視線が何かを探すように毛むくじゃらの背後をなぞれば、察したパンダが「真希と棘は一緒に仕事だぞ」と答えを与える。

「珍しい組み合わせですね」
「今は憂太がいないからな」

 正午を迎えた食堂はいつも通り混雑している。本来なら空席を確保するのは一苦労だが、幸い一年の教室からは食堂が目と鼻の先にあるため、恵の定位置になりつつある食堂の隅は難なく確保できていた。

 食事に戻る恵を見つめながら、パンダが明るい声で言った。

「会うのは一週間ぶりか?元気そうだな」
「そうですね。まぁ、そこそこ」
「伊地知から聞いたぞ、最近はひとりで呪霊祓除に行くようになったんだって?さすが天才、二級術師だな。勉強のほうはアレみたいだけど」

 付け足された口早な言葉に恵が眉をひそめると、パンダは爪の長い人差し指でテーブルの隅を指差した。そこに放置されていたのは裏返された呪術史の答案用紙だった。点数を記した赤い文字が裏までくっきりと透けている。

 何食わぬ顔で恵はそれを表にひっくり返し、目の前のパンダに差し出した。

「俺のじゃないですよ。の答案です」
の?なんで恵が持ってんだよ」

 訝しみつつ受け取ったパンダは、遠く離れた席に座るに視線を送った。恵もつられてそちらを見る。巫女装束じみた制服に身を包んだが、同性の補助監督たちと楽しげに談笑しながら昼食を取っていた。

 パンダよりずっと早く視線を戻すと、恵は炊き立ての白米を口に含んだ。

「勉強教えろって言われたんで」
「あー再テストか。たしか合格点は八十点だろ?二十五点だとなかなか厳しそうだな」
「案外そうでもないかもしれません」

 不安そうな声音をあっさりと否定して、恵は淡々と言葉を継いだ。

がただの馬鹿なら厳しいでしょうし、単純に詰め込むしかないと思います。けどアイツ、多分そこまで馬鹿じゃないんですよ」
「と言うと?」
「“安倍晴明が復興したとされる神法の神であり、眷属として抱卦童子・持卦童子を従え、上杉謙信などの武家からも信仰された神は?”……パンダ先輩、わかりますか?」
「さっぱりわからん。それがどうしたんだ?」
「二十五点の馬鹿は覚えてたんです。興味があって自ら調べたことだからかもしれません。でもそれだけじゃない。話していて確信したんですけど、の記憶力にはどうも偏りがある。だから覚えていないことじゃなくて、覚えていることに何か規則性があるんじゃないかと。幸い、答案は全部埋めてるみたいなんで」
「なるほどな。それで、その規則性とやらは掴めたのか?」

 問われた恵は怜悧な表情を崩すことなく、深く頷いてみせる。

「崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、井上内親王、他戸親王……答案用紙に書かれているのは非業の死を遂げた人間の名前ばかりです。とはいえ、彼らがどういう経緯で死ぬことになったのかは、はっきり覚えていないようですけど」
「八所御霊も含めて、ってことか。は生粋のお人好しだし、同情して名前だけ覚えちゃったんだろうなぁ。お人好しのが忘れられないような、つまり心が動くような背景あれば覚えやすいかもしれないぞ」
「俺もそう思います。人物像と時代背景を深く絡めながら暗記すれば、意外と何とかなるはずです」

 そこで言葉を切って、恵は味噌汁に口を付けた。パンダは顎を触りながら口端を悪戯に吊り上げる。

のためにそこまで、ねぇ……」

 意味ありげな響きが耳を打ち、嫌な予感を覚えた恵が即座に眉根を寄せた。

「……何ですか。言いたいことがあるならはっきり言ってください」
「恵、最近とよく喋るようになったよな。お前ら付き合ってんのか?」

 予想の斜め上を行く質問のせいで、口に含んだ味噌汁を危うく噴きこぼしそうになる。幸いパンダに味噌汁を噴きかけることはなかったものの、妙なところに入ったのか恵はげほげほと激しく噎せ込んだ。

「……馬鹿な冗談やめてください」
「え、割と本気だったんだけどなぁ。俺はお似合いだと思うぞ」
「マジでやめてください。あの世からさんに呪い殺されます」

 乱れた呼吸を落ち着かせながら、恵はと話すようになった理由について滑らかに述べ始めた。

「前に比べてが話しかけてくる回数が多いだけです。それにこっちが黙ってると急にしおらしくなるんで、その態度も面倒で」
「本当にそれだけかぁー?先月とは態度が大違いだぞ。よく一緒にいるしさぁ」
「本当にそれだけです。そもそも俺がと一緒にいるのは五条先生の命令だから仕方なく……は今も他人です。パンダ先輩が期待するようなことは何もありません」

 遊園地でのあの調査以降、はよく笑うようになった。否、元々よく笑う性格だったのだろう。最愛の兄の死がから本当の笑顔を奪っていただけで。

 恵とある種の協力関係を結んだせいか、はその笑顔を恵にも向けるようになり、いつでも気兼ねなく話しかけるまでになった。先月までのどこかぎこちないふたりを知る者からすれば、一体何事かと思うのは無理もないことかもしれない。

 しかし恵がとの時間を共有するのは五条の命令だからだ。鱗の呪霊に狙われた妹を守ってくれと樹に頼まれたからだ。つまり恵にとって半分は仕事であり、半分は責務である。

 期待外れの結果に終わったパンダは、苦笑を浮かべながら肩をすくめる。

「残念だ。彼女ってのはアレにしても、恵にもやっと友だちができたと思ったんだけどな」
「……友だち?」
「最近のお前、初めて高専に来たときよりずっと楽しそうだからな。恵が笑ってるのなんての前くらいのもんだぞ?」

 一瞬声を詰まらせた恵は、しかしすぐに首を左右に振った。罪悪感の滲む白群の瞳を深く伏せると、自らに言い聞かせるように訥々と告げる。

「俺とが友だちなわけないですよ。俺がに……いや、さんに何をしたのか……パンダ先輩だって、忘れたわけじゃないでしょ」
「……それはそうだけど」

 何かを言いかけようとしたパンダを制するように、顔から一切の表情を消した恵がすぐに唇を割る。

「俺がと一緒にいるのは、五条先生の命令だからです。そうしなければならないからです。そうでなきゃ……一緒にいる理由なんて、ないんですよ」

 抑揚のない無機質な声音で吐き捨てられた言葉に、パンダは「そうか」と小さな声で相槌を打った。そしてへらっと和やかな笑みを作ると、「聞いてくれよ。この間真希がさぁ――」と明るい口振りで話を切り替える。

 気遣われているのは明白だったが、愛想笑いを浮かべられるほど気持ちに余裕があるわけではなかった。小さく相槌を打ちながら、食事を食べ進めるだけで精一杯だ。

 腹のずっと奥のほうで何かが噴き出している。荒れ狂うそれは怒りのような気がした。恵は何故こうも自分が腹を立てているのかわからなかった。

 話し続けるパンダから目を逸らすふうを装って、遠くで笑っているをなぞる。この距離でもまだ近いと思った。自らの行いを忘れたわけではない。から奪ってしまったものを忘れた日はない。自分のような人間は、本来ならの人生に関わることなく生きていくべきだというのに――そう思えば思うほど、無性に腹が立って仕方がなかった。

 パンダの声に耳を傾けながら、恵は味のしなくなった昼食を黙々とかき込んでいった。



* * *




「勉強の前におやつ買いに行こう」
「……は?」

 呪霊祓除の任務を終えた恵は、普段着に着替えたの提案に唖然とした。正門前で恵の帰りを待っていたらしいは、堂々とした態度でさも当然のように言う。

「勉強会と言えばおやつでしょ?」
「いや勉強だろ」

 午後からは街中に湧いた三級呪霊を祓う単独任務だったのだが、連鎖的に出現した別の二級呪霊まで祓う羽目になったせいで、もうすっかり日が暮れている。いつでも安全運転の伊地知をそれとなく急かして帰ってきたものの、勉強を見てやれる時間はそう多くはなさそうだ。

 茶目っぽい笑みを刻んだが恵の制服の袖を軽く引っ張る。

「いいからいいから、ほら行こ!夜のコンビニがわたしたちを待っている!」
「八十点取れなくても知らねぇぞ」
「大丈夫だよ。伏黒くんのヤマ、絶対当たるから!」
「しかも他人任せかよ……」

 勢いに流されるようにして、コンビニへ向かう華奢な背中を追う。一本道の遊歩道には街灯がひとつもなく、砂利を踏みしめる小さな音だけが深い静寂の中に沈む。

 暗がりの中、数歩先を歩くは両手を後ろで組むと、首だけで恵を振り返り悪戯な視線を寄越す。膝丈のワンピースが宵風に靡いていた。

「何が見つかるかな」
「食い意地張り過ぎだろ」
「そっちじゃないよ」

 樹が借りていたという貸し倉庫のことを言っているのだろう。恵は「先に合格点を取れ」と嘆息して、前を向いたの後頭部に質問を投げかける。

「五条先生、本当に何も知らないのか?」
「どうだろうね」

 耳を打った勿体ぶるような言葉に、恵は問いを重ねた。

「何か訊いたのか」
「ううん。でも悟くんにもきっと事情があるんだよ。どうしても言いたくない事情」
「どうしても言いたくない事情って……」

 だがはそれ以上何も言わなかった。決して嘘を吐いているような口振りではなかった。本当に何も聞いていないのだろう。

 五条が何かを知っていて、その秘密を今も守っているというその事実だけで充分のような気がした。恵の知る限り、五条は呪術高専で最も軽薄で胡散臭く信用するに足りない男だが、だからといって生徒を裏切るような真似をする教師ではなかった。生徒を傷つける相手に情けをかけるほど腑抜けた教師でもない。

 上層部にも秘密を漏らしていないということは、おそらくあの“最強”五条悟にとって樹は敵ではない。つまりそれはにとって樹は絶対的な味方であるということと同義だ。その事実がわかっただけでも充分な収穫と言えるだろう。

 遊歩道の傾斜が急なものへと変わる。衝動に突き動かされたかのように、突然の歩速が増した。その歩幅はどんどん大きくなり、砂利の上を跳ねるように急勾配を駆け下りていく。恵は腹から声を出した。

「走ると転ぶぞ!」
「平気だよ!」

 しかし恵の忠告通りというべきか、ものの十秒も経たぬうちにの身体が前のめりになる。何かに蹴躓いたらしい軸足はすでにその役割を完全放棄している。半瞬先を予見した恵が息を呑み、駆け出そうとしたがもう遅い。は顔面からべしゃりと倒れ込んだ。

「おい、大丈夫か!」と恵が急いで駆け寄る。地面に転がったままのが小さな呻き声を上げた。

「痛い……」
「お前な……だから言ったのに……」
「高校生にもなって転ぶなんて情けない……」
「もう高専生だろ。で、怪我は?」
「……ちょっとすりむいた気がする」

 痛みに顔を歪めて立ち上がったの膝を見れば、暗がりでもわかるほどべっとりと濡れていた。嫌な予感を覚えた恵はスマホで素早くを照らす。その瞬間、人工光に目を細めたの顔から一気に血の気が引いた。

「流血?!」

 おそらく、膝が露わになるようなワンピースを着用していたのが悪かったのだろう。転んだ拍子に尖った石か何かで深く抉ったのか、白い肌からだらだらと血液が溢れ出している。

「ちょっとじゃねぇな。まだ医務室は空いてんだろ」

 言うと、恵は背を向ける形での前に膝をついた。「……伏黒くん?」と状況を全く理解していない細い声が耳を打つ。深く嘆息した恵は顎をしゃくった。

「おぶってやる。乗れ」
「……でも」
「いいから。さっさとしろ」
「……うん」

 小さく頷いたは、躊躇いがちに恵の背中に体重を乗せた。の両足を自らの腕で固定すると、恵は顔色ひとつ変えることなく軽々と膝を伸ばしてみせる。少女ひとりを背負っているとは思えぬほどの涼しい顔で、来た道を足早に戻り始める。

 恵の肩に手を置いたが、蚊の鳴くような声でぼそぼそと言う。

「ごめんなさい……」
「本当にな」
「誠に申し訳ございません……」

 何度目かの嘆息とともに恵がふと目を落とせば、の膝からは止めどなく血が流れている。どうやら傷は思った以上に深いらしい。

 “縫合”の二文字が脳裏を掠め、傷痕の残る白い膝を想像してしまった。恵の眉間に深い皺が刻まれる。反転術式の使える家入に診てもらうべきだと即座に判断すると、恵は歩く速度を上げた。

「手当てしてもらったらテスト対策すんぞ」
「えっ、おやつは?!」
「……そんな時間があると本気で思ってんのか?」

 恵に出せる最も低い声で脅せば、がたちまち黙り込んだ。怪我などしなければあのままコンビニに行っただろうが、この状況ではどう考えても無理だろう。

 傾斜の緩くなった坂道を大股で進みながら、そういえばと恵は視線を持ち上げる。たしか部屋に洋菓子の詰め合わせがあったはずだ。クッキーにマドレーヌ、そしてフィナンシェ。地方出張の土産として五条から貰ったものだが、甘い物がさほど得意ではない恵はどうするべきかとひとり持て余していたのだ。

 処分に困っていたからちょうどいいだろう。アレでも食わせておこうと恵が結論を出したとき、が呻くように呟いた。

「神様とか仏様がこっそり耳元で答え教えてくれないかなぁ。そこは両面宿儺だぞ、そこは蘆屋道満だぞ、って」
「無理だろ」

 無数の星々が浮かぶ夜闇の下を歩く。時おりを背負い直しつつ、恵は淡々と問うた。

「陰陽道の祖といえば?」
「え?」
「だから陰陽道の祖だ。答えろ」
「あ、安倍晴明!」
「正解」

 端的に正誤を告げた恵はやや間を置くと、脳内に記された問題文を読み上げるように続けた。

「八所御霊といえば崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文室宮田麻呂の六柱にさらに二柱を加えたものである。その加わった二柱といえば火雷神と?」
「……吉備真備か菅原道真?」
「どっちだ。はっきりしろ」
「え、えーっと、じゃあ……菅原道真!」
「違う、吉備真備だ。菅原道真は火雷神と習合してるだろ」
「そうでした……」

 明らかに落ち込んだ響きに、無意識に口端が緩む。この辺は大丈夫だろうと恵は別の問題を考える。

「次。清和天皇が誕生するきっかけとなった――」
「伏黒くん、やっぱり優しいね」

 すぐ耳元で聞こえた、質問を遮る穏やかな声音。我に返った恵が息を呑んだ。身を乗り出したが恵の顔をじっと覗き込んでいたのだ。どこか茶目っぽい表情を浮かべて。

 否定しようとしたとき、仄かに香る甘い匂いが鼻孔を焦がした。宵風に揺れるの髪から漂っている香りだと気づいた瞬間、変なスイッチでも入ったかのように五感が鋭敏になる。

 駄目だと思ったときにはもう手遅れだった。次に脳が認識したのは、密着した背中に押し付けられた柔らかな感触だった。男である恵には持ち得ないその感触に、たちまち呼吸が止まる。長い睫毛に彩られたの目蓋が、不思議そうにぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 ――考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな!

 心の中で呪文のように何度唱えても、恵の命令は脳髄には届く気配がない。甘い匂い、柔らかな感触、茶目っ気を含んだ優しげな笑み。が異性であることを浮き彫りにし、恵の退路をことごとく寸断している。

 至近距離にあるそのかんばせが、遊園地での記憶を勢いよく引きずり出す。

 口付けした相手を強化させる妙な術式。黒に染まったゴンドラで選択を迫られた恵の頭を支配していたのは、を穢すことなどできないという思いだった。自分のような男がこれ以上を穢してはならないと思ったのだ。

 今思えば当然だろう。姉である津美紀も、先輩である樹も、誰のことも守れなかった自分にそんな権利などありはしない。そもそもから樹を奪ったのは自分だ。呪術師になるきっかけを作ったのも。呪術師にはまるで似合わない、穏やかな日の当たる眩しいところを歩くを自分のような男が触れていいわけが――

 恵はそこで初めて絡んだ思考の糸に対して違和感を抱く。何かが妙だと思った。その違和感を辿ろうとしたとき、

「伏黒くん、大丈夫?」

 その問いかけに恵は意識を引き戻される。もう少しで解けそうだった思考の糸は、さらにもつれて絡まり合う。立ち止まった恵を心配したのだろう、はしきりに首をひねっている。

 恵は逃げるように顔を背けると、嫌悪を垂らし込んだ声音を絞り出した。

「……あんま体重かけんな、重いんだよ。それでなくても重いってのに」
「ごめんなさいっ。でもそこは嘘でも軽いって言ってくださいっ」

 情けない声で言いながらは軽く身体を起こした。甘い匂いも柔らかな感触もあっという間に遠のいていく。代わりに聞こえてきたのは「さぁどんどん来い!」と次の出題を急かす息巻いた響きだった。

 灯りの点いた呪術高専は目と鼻の先だった。恵は問題を考えながら正門をくぐる。何かに違和感を覚えたことなど、もうすっかり忘れてしまっていた。