06

「醤油ラーメンに味卵とチャーシュー追加、炒飯大盛り、餃子三人前、それからチャーシュー丼に豚骨ラーメンと塩ラーメン。あ、この三つは醤油ラーメンの替え玉の後にまとめてお願いします」
「……、遠慮って言葉知ってる?」

 普段の余裕を失ったように表情筋を引きつらせた五条悟は、強張る喉奥からかろうじてその質問を押し出した。耳朶を打った料理の羅列は一人分の食事量を優に超えている。正気を疑うのも無理はなかった。

 長い年月と共にすっかり黄ばんだ四人掛けのテーブルを挟んだ正面で、ひどく真剣な面持ちのが手書きのメニュー表から視線を持ち上げた。青よりもなお蒼い碧眼に狐疑を宿す悟と目が合ったその瞬間、辺りが華やぐような花笑みを滲ませながら優しく告げた。

「さすが五条くん、太っ腹です。素敵です」

 予想だにしない突然の褒め言葉に、悟はうっと息が詰まった。まるで心にもない見え透いた嘘とはいえ、初めて見せる満面の笑みで滑らかに口にするものだから、悟は結局それ以上何も言えなくなってしまった。

 呪術高専の最寄り駅すぐの寂れた商店街に店を構えるラーメン屋は、その外装も内装も、お世辞にも綺麗とは言い難い有り様だった。

 あばら家に見えるほど老朽化した建物は大雨のたびに雨漏れしているし、店内清掃はもちろん為されているのだろうが、月日をかけて積み重なった汚れが至る所にこびりついたままだ。加えて手狭な店内のせいで、それが余計に目に付いた。

 清潔感とはかけ離れた空間だった。間違っても、気になる女子を初デートで連れてくるような場所ではなかった。こんな汚いところに誘うなんてと幻滅されるのがオチだろう。

「以上で?」と注文を取る店主に問われたは、しかし意外にも楽しげな表情だった。ひどく汚れた外観を見ても「風情があって良いです」と知ったような顔で頷いていたし、黄ばんだ壁に貼られたメニューを仰いで「どれにしよう……」と宝石箱を見つけた子どもにも似た表情で、ひとりうっとりと惚け続けていた。

 温厚さを感じさせる物腰柔らかな態度故か、女子にモテにモテた悟の親友ほどではないにしろ、神が丹精込めて作り上げたとしか思えぬような類稀な容姿を持つ悟もまた、異性からかなりモテるほうだった。

 来る者拒まず、去る者追わず。惚れた腫れたは面倒だし、何の後腐れもなく適当に遊べればそれでいい。そのときの気分で相手をとっかえひっかえすることなど悟にとって日常茶飯事だが、それでものような反応を見せる女は初めてだった。

 特殊な環境に長く身を置いていたことが影響しているのかもしれない、そんな憶測を脳裏で結んだ直後だった。が手に持っていたメニュー表を悟に差し出しつつ、「五条くんはどれにしますか?」と小首を傾げた。悟は思わず目を瞬いた。

「えっ、俺?」
「驚くようなところですか?」
「……いや、今の、俺のも含めた分だと思ったんだけど」

 言うと、牛乳瓶めいた分厚いレンズの向こうに一瞬、胡乱な色が走ったような気がした。“は?何言ってんだコイツ”と言わんばかりの、どこか猜疑心にも似た非難の情を確かに捉えた悟はしまったと冷や汗を掻いた。

 噴き出した焦燥は胸の内だけに留め、精一杯の自然な感じで平静を装った。そしてメニュー表を受け取るどころか目を這わすこともなく、悟は店主に向かって端的に注文を告げた。

「炒飯大盛りと餃子一人前」
「ラーメンじゃないんですか?」
「気分じゃなくなった」

 小さく肩をすくめた悟から目を外すと、は「よろしくお願いします」と恰幅の良い店主に軽く頭を下げた。用を失ったメニューをテーブルの脇のスタンドに立て掛けるを目の端で捉えたまま、頬杖を突いた悟は厨房に向かう店主の背中を追った。

 店が最も混み合う昼食時を過ぎたせいか、悟とを除いて客はひとりだけだった。アルファベットのLを描くカウンター席は七席あって、出入口から遠く離れた壁際の席で痩せた中年男が黙々と炒飯を食べている。悟とが座るテーブル席は二卓だけだが、昼の混雑時には相席を求められることも少なくなかった。

 悟は視界の中央にを置いた。待ち切れない様子のは食い入るように厨房を見つめている。予想の遥か斜め上を行くの食い意地に若干引きながら、念のため確認しておくことにした。

「あんなに頼んで食い切れんの?」
「余裕です」
「お前どんな胃してんだよ……」
「でも、今日一日分の食事ですから」

 至極当然のように返されたその言葉に、悟は耳を疑った。

「それマジで言ってる?……じゃあ朝メシは?」
「食べてません。ちなみに昨日の夜もです」
「なんで」
「節約です。わたし、お金が全くないので」
「……が薄給なのって四級だからじゃなくて、上からの嫌がらせで天引きされてるだけじゃないの?」

 様子を窺いながら疑念を口にすれば、は唇を横一文字に結んで沈黙を返した。悟は「図星かよ」と険しい表情で吐き捨てるや、今年度から非常勤ながら人手不足の京都校で教鞭を執り始めたという、和装を好む女術師のかんばせを脳裏に描いた。

「歌姫も見て見ぬふりって」
「歌姫先輩のことだけは悪く言わないでください」

 無数の氷針を沈めたようなひどく攻撃的な響きが、悟の鼓膜を強く叩いた。秋霖の中で聞いた形ばかりの制止とはまるで違う、あまりに感情的なそれに悟は僅かに眉を寄せた。

 はっと我に返ったは視線を落とすと、膝の上で作った両の拳をきつく握りしめた。

「……歌姫先輩はわたしを見かねて、非常勤講師の仕事を引き受けてくれたそうです。わたしなんかを庇うために。静かに暮らしたいっていう、わたしの夢を叶えるために」
「だからって卒業前に殺されたら何の意味もねぇだろ」

 これは悟の推測だが、は四級術師の俸給から本来学生が引かれるはずのないものまで天引きされているのだろう。授業料だとか寮費だとか雑費だとか、上層部が何かと理由を付けてから給料を取り上げているのは、健啖家であるを飢えさせるためだ。そうやって体力をじわじわと減らした上で呪霊祓除に赴かせ、あわよくば“不慮の事故”としてを処分したいのだろう。

 とはいえ、かの殺人鬼の如く平穏な暮らしを望むは、上層部の予想に反して相当しぶといようだが。

 おずおずと躊躇いがちに悟へと視線を戻したは、その場で小さく頭を下げた。

「ゴチになります」
「はいはい。俺に興味持ってくれんならどれだけ頼んでくれたって良いよ」

 表情を弛緩させて言うと、悟はすぐに身を乗り出すようにして弾んだ声で続けた。

「俺ね、女の子からは口を揃えて“意外!”って言われるくらい甘い物が大好きなんだけど――」
「すみませーん!この期間限定海老餃子も追加でお願いします!一人前――あ、やっぱり二人前、いや三人前でっ!」
「だから俺に興味持って?!」
「えっ……五条くん、どれだけ頼んでも良いって言った……」
「あぁうん。言った。言ったね。確かに言ったけど」
「“けど”、何ですか。前言撤回とか嫌です。暴れますよ」

 不穏な脅し文句と共に不服そうな目を寄越したに、悟は我慢できずに噴き出した。唇をへの字に曲げた子どもっぽいその顔が、何だかひどくいじらしく見えたせいで。

 はますます顔をしかめたが、悟は否定するように顔前で軽く手を振った。しかし一度首をもたげた衝動は治まらず、己が口から溢れる爆笑がしばらく耳朶を打ち続けた。

 誰かの前でこんなに笑ったのは久しぶりだった。最後に腹を抱えて笑った記憶を辿ってみれば、今年の晩春、つまり術師にとっての繁忙期が始まる少し前まで遡らなければならなかった。

 今年の夏は特に忙しかった。こんなとき決まって隣にいた親友と会話を交わす機会が、めっきり減ってしまうほど。悪友とも呼ぶべきあの男が大笑いしている姿はおろか、どこか胡散臭い穏やかな笑みすらも見たような記憶がなかった。

 未だ拭い切れぬ後悔が冷静さを呼び戻したが、途方もないそれについて悟が思考することはなかった。べったりと漆黒に濡れたサングラスの向こう、白く長い睫毛に縁取られた蒼穹の六眼はだけを見ていた。

 悟は悪戯好きの少年めいた軽やかな洪笑を鎮めると、それをすぐに浮付いた笑みにすり替えて言った。

「これは提案なんだけど、このあと近くの美味いパフェも俺と一緒に――」
「行くっ!行きますっ!行きたいですっ!五条くんの奢りなら何店舗でも何十店舗でも喜んでお付き合いしますっ!」
「いや、そんなに食えねーから」

 嬉々とした花笑みを結ぶに、悟は肩をすくめながら呆れた声を返した。自分でもはっきりわかるほど頬が緩んでいた。「東京の美味しいパフェ……」とひとり満面の笑みをこぼすにつられたことにして、悟はしばらく蒼い瞳の端でのそれを記憶野に強く灼き付けていた。

 やがて、四人掛けのテーブルはが注文した料理で埋め尽くされた。とてもではないがひとりで食べ切るような量ではなかった。苦虫を噛み潰したようなひどく歪んだ顔で、悟は低く呻いた。

「フードファイターかよ……」
「あげませんよ」
「いらねぇよ!見てるだけで胸焼けするっつの!」

 ぎゃんと吼えた悟から素っ気なく視線を外すと、は丁寧な所作で両手を合わせて「いただきます」と小声で呟いた。醤油ラーメンを箸で掴み上げるや、熱を孕んだどんぶりに顔を近づけていく。

 突如、の動きがぴたりと止まった。やや伏せたかんばせを緩やかに持ち上げたを見やるや、悟は再び肩を震わせて笑った。の明眸を不明瞭に隠す分厚い眼鏡が、熱々のラーメンから立ち昇る湯気のせいですっかり白く曇っていた。

「……五条くん」
「それじゃあちょっと食べづらいよね?」

 苛立ちを露わにするに、悟は底意地の悪い嗤笑を返した。今時まるで流行らない瓶底眼鏡は、が小さな嘆息をひとつ落とす間に、ひどく不安定な白を跡形もなく失った。

「……これが目的でラーメンに拘ったんですね」
「そういうこと。この店、いつ来ても空調効きすぎでちょっと寒いんだよね。だから熱いラーメンは必ず湯気が立つ。どうすんの?そのまま食べる?」

 悟の揶揄に肩をすくめると、はすぐに観念した様子で眼鏡を外した。数回の瞬きののち、視界の中央に悟を収める。ようやく露わになった明眸を目にした悟は、大袈裟なほど顔を歪めてみせた。

「げ。コンタクトしてんの?」
「六眼恐るべし、ですね」
「関係ねーよ。この距離で見ればさすがにわかる。しかもそれも呪物だろ?子宮のほうをフェイクに使ったわけか」

 はゆっくりと首肯した。「ってことはそっちが本命?」と間断なく続けられた質問に小さく笑みを返すと、本来の色を隠す異物に覆われた瞳を湯気の立つラーメンへ落としていく。

「呪いが見える人間はそうでない人間に比べて“目”に呪力が留まり易い。しかもこの分厚い眼鏡のせいで、五条くんは眼鏡を覆う余計な呪力の残滓も見てしまう。呪物を隠すには充分です。意外と簡単に騙せるものですね」
「うわ~ムカつく~……まぁでも簡単って言っても、六眼がどこまで視えてどこまで視えないか、その仕組みを完璧にわかってなきゃ到底不可能な芸当だよ。、なんでそんなに六眼に詳しいの?」

 しかしは悟の問いを堂々と黙殺し、待ちかねた様子で醤油ラーメンを食べ始めた。そう簡単には秘密を明かすつもりはないらしい。たとえここで詰問したところで徒労に終わるに違いないだろう。

 今は潔く諦めることにした悟は、軽薄な笑みと共に別の問いを投げかけた。

「どう?美味い?」
「はい。とっても美味しいです」
「そっか。それなら良かった」

 形の整った薄い唇が不吉な弦月の形に吊り上がった、まさにそのときだった。「ご馳走様」と低い声がカウンター席のほうから聞こえた。食事を終えた中年男はその場に小銭を置いて席を立つと、凄まじい勢いでラーメンを食べ進めるを苦い顔で見つめた。

 隙間なく料理が並んだテーブルの脇を通り過ぎようとして、しかしながら男はその場で足を止めた。ひどく険しい表情はそのままに、戸惑いを過分に含んだ小声でそっと話し掛けてきた。

「姉ちゃんよく食えるね、ここのラーメン」
「……え?」
「いや、かなりマズイだろ。それ」

 頭上から降ってきた男の言葉に、はぽかんとした。まだ何か言いたげな男はさらに言葉を継ごうとしたが、白磁の美貌に軽薄な笑みを貼り付けた悟が「彼女、呆れるくらいの馬鹿舌で」と間に入って会話を強引に終わらせた。

 男が足早に立ち去ると、は羞恥と怒りが綯い交ぜになったような赤い顔を悟に向けた。華奢な肩を微かに震わせながら悟を強く詰った。

「……五条くん」

 本日三度目となる怒りを含んだその呼び掛けに、悟はひどく満足げな微笑を浮かべた。唇を横一文字に結んでこちらをきつく睨め付けるの顔は、嘘偽りのない剥き出しのそのもので、正直言って堪らなかった。これはちょっと癖になってきたかもしれない。

「この店で美味いのは炒飯と餃子だけだよ。ラーメン屋のくせにびっくりだよね。でもさ、だって“なんか怪しいな〜”とは思ってただろ?俺、さっき結構致命的な言い間違いしたし」
「……“俺のも含めた分だと思ったんだけど”」
「あーやっぱ気づいてたんだ。聞き流してくれたらラッキーとか思ったんだけど、お前相手にそうはいかないか。そう、のあの注文は間違いなくお前の分だけだった。が俺の分を含めていたなら絶対ラーメンを二人分注文していたはずだ。そもそもラーメン食べたいって言い出したのは俺だしね」

 が注文したラーメンは、醤油ラーメン、豚骨ラーメン、塩ラーメンの三種類だ。その中のひとつを悟が食べると考えることも可能だが、は豚骨ラーメンと塩ラーメンを“醤油ラーメンの替え玉の後にまとめて”持ってくるよう注文している。つまり、端から悟の分のラーメンはの計算に入っていなかったわけである。

 炒飯と餃子以外食べるつもりのなかった悟にとってみれば、の口にした大量の注文で充分に事足りるわけだが、とはいえ“悟がラーメンを食べる”と思い込んでいたにしてみれば悟の発言は違和感以外の何物でもなかっただろう。

 ごく些細な言い間違いだ。言い間違いと捉える人間のほうが少ないかもしれないほどの。

 しかし、現にあのときは引っ掛かりを覚えた様子だった。“気分じゃなくなった”と言って誤魔化しはしたが、が小手先の嘘で騙されてくれるような可愛い女ではないことを、すでに五条悟は嫌というほど理解しているつもりだった。

「“あ、しくったな”と思って冷や汗掻いたけど、さすがにそこまで疑ってこなくてほっとしたよ。食には素直ってこと?」

 けろっとした顔で尋ねた悟に対して、は何も言わなかった。麺も具もなくなったラーメンどんぶりを両手で持ち上げると、悟を一瞬きつく睥睨したのちスープを勢いよく飲み干していく。すぐに弾かれたように悟が制止した。

「ちょっと、替え玉どうすんの。スープ飲んだら駄目でしょ」
「……あ」

 はたと我に返ったはほとんど空になったどんぶりを寂しそうに見つめた。悟は苦笑混じりに嘆息すると、蒼い視線を厨房へと転じた。

「すいません、さっきの替え玉の注文取消しで。普通の醤油ラーメンに変えてもらえます?」
「……五条くん?」

 虚を突かれた様子で何度も目を瞬くに、悟は茶目っぽい笑みを差し出した。

「今日は好きなだけ食っていいよ。全部イケメン特級術師五条悟の奢りだから。でもその代わりと言ったら何だけど、俺の質問にはできるだけ答えてくれる?答えたくない質問は遠慮なく黙秘してくれて構わない。どう?悪くない取引だと思うけど」
「……わかりました」
「じゃあ早速。その馬鹿舌、遺伝子操作の影響だよね?」

 取引が成立した途端に告げられた、まるで仮借ない悟の質問には無言で瞠目した。たっぷり数十秒の沈黙を挟むと、やがて「……はい」と掠れた小声で頷いた。

 悟は「食いながらで良いよ」と前置きして、自らが頼んだ炒飯を口に運びながら問いを重ねた。

「遺伝子工学で人為的に生み出された人間ってことで合ってる?俺の見立てでは軍事用として秘密裏に開発された、呪術特化の生物兵器なんだけど」
「……軍事用の生物兵器?わたしが?」

 やや裏返った声で言うと、は肩を震わせて愉快げに笑い始めた。予測に反するその態度に困惑した悟は、顔をしかめて左右に首を振ってみせた。

「……あのさぁ、俺、結構真面目に言ってんだけど」
「ごめんなさい、そういう意味じゃなくて。五条くん、さっきマンションでわたしの術式について言ってましたよね?迎撃型の術式だ、って」
「うん。言った」
「仮にわたしが迎撃型の術式を持った軍事兵器だとして、もし現在の核兵器と同じように核抑止の効果を見込むなら、その術式では“核の傘”には少し物足りないとは思いませんか?抑止も兼ねた戦争用の生物兵器を本気で創るつもりなら、もっと実用的な――それこそ無下限呪術のような、攻守を兼ね備えた術式を備えて然るべきではないですか?」
「……それはまあ、うん、確かに」

 一切の淀みなく、軽やかに悟を論破したは気を取り直したように言った。

「話を戻しますが、わたしの視覚や聴覚、嗅覚などに問題はありません。でも、味覚と痛覚だけは人よりずっと鈍いです。特に味覚は酷いと思います。物が腐っているかどうかも判別できないので」
「だから“美味しいラーメンが食べたい”なんて言ったんだ?美味いって演技すればいいだけだもんな」
「はい。人との食事はそれなりに気を遣う必要がありますから」
「ふーん。じゃあなんで味もわかんねぇのにそんなに食うの?」
「食べることが大好きなんです。味は正直どうでも良くて」
「なるほどね。よく言うもんな、“食べることは生きることだ”、って」

 餃子を頬張る悟の言葉にはひどく曖昧に笑うと、店主が運んできた追加の醤油ラーメンを会釈と共に受け取った。一体いつの間に完食したのか、の炒飯と餃子の皿が取り除かれ、ようやくテーブルに少し余裕が生まれる。悟は冷水の入ったグラスに手を伸ばしながら尋ねた。

「マンションで見たガキの死体……俺のクローンについて何か知ってんだよな?」
「……あれは模擬戦闘用の“人形”です」

 悟はグラスの縁に唇をくっ付けたまま碧眼を瞬いた。不味いはずのラーメンを平然と食べ進めるに、訝しむような掠れた声音を寄越した。

「そこは黙秘するかと思ったんだけど」
「わたしが今ここで口を閉ざしても、おそらく意味はないはずなので」

 がひどく素っ気ない口調で答えるや、悟は会話を遡って質問を重ねた。

「あのクローンが模擬戦闘用ってことは、まさかお前……俺を――五条悟を殺すために生み出された人間だ、とか言うつもり?」
「いいえ、逆です」

 抑揚に欠けた声音と共に小さくかぶりを振ると、は物憂げな表情で僅かに目を伏せた。湯気の立つ醤油ラーメンをじっと見つめながら、悟ではなく自分の中の誰かに告解するように唇を開いた。

「あの計画は――“紅”計画は、“最強”である五条悟のバックアップを作るためのものでした」

 耳朶を打ったその言葉に、悟はきつく眉を寄せた。

「……俺の、バックアップ?」
「わたしはそのために遺伝子操作された人間、五条悟に殺されるためだけの“人形”です。わたしを殺すことで、Quod Erat Demonstrandum――“Q.E.D.”、五条悟が五条悟であることの証明が完全に終了するんです」

 によって滔々と紡がれた言葉は、悟から普段の平静さを奪うには充分だった。あまりに突飛な話に思考が追い付かなかった。悟は身を乗り出して問い質した。

「は?ちょっと待て。何のために俺のバックアップなんか」

 戸惑う悟を遮るように、は無表情のままに長い舌をべっと出した。その中央に刻まれているのは髑髏を模したような黒の呪印だった。

「ごめんなさい。それを喋ると舌が焼き切れます」
「用意周到なことで」

 冷静さを取り戻した様子で悟はイスに深く腰掛け直すと、青よりもなお蒼い六眼でを真正面から穿ちながら、何か考え込むように長い指を顎に添えて問いを紡いだ。

「ちなみにお前が先?それとも俺が先?……普通に考えて俺が先だよな?」
「五条くんがこの時代に生まれることは、宇宙開闢の瞬間から決まっていたことです」
「あーなるほど、決定論ね。ってことはが先に生まれたんだ。そりゃそっか。お前、大型バイクの免許持ってるって言ってたもんな」

 鷹揚に頷いたは、悟と視線を交わすことなく説明を続けた。

「人間のどの遺伝子が術式と関係しているのかは未だ不透明です。そのうえ、全く同じ遺伝子配列でも術式が発現するとは限らない。無下限呪術を持って生まれる五条くんは本当に稀でした。この世にふたつと存在しない六眼に至っては言うまでもありません。六眼と無下限呪術の組み合わせを持つのは“オリジナル”だけ――結局、“紅”計画は失敗に終わったんです」

 そこで言葉を切ると、は細麺に絡まったチャーシューをそっと一枚摘み上げた。スープが滴り落ちるそれを宙に固定したまま、全ての感情が凪いだような虚ろな表情で呟いた。

「……あのとき、全部終わらせたはずなのに」

 しかしそれは無意識に溢れた言葉だったのだろう、勢いよく弾かれたようには顔を上げた。右往左往する視線だけに狼狽の色を滲ませると、やがて口元に小さく苦笑を刻んで先の発言を誤魔化すように言った。

「わたし、毎日たくさん殺してたんですよ。“コピー”の五条くんのこと」

 はそれきり口を閉ざした。悟が何を話しかけても返事はなく、黙々と料理を口に運び続けた。

 次第に悟も口を閉じた。この空気の中、をパフェに誘っても断られるのは目に見えていた。半ば掻き込むようにして炒飯と餃子を平らげた。冷め切った餃子の油っぽさがやけに口に残って、ただ不快だった。