05

「あー……ラーメン食いたい」

 中型バイクの後部座席に跨る五条悟が半ば無意識に吐露したそれは、しかし決して突として湧いた衝動ではなかった。悟は蒼穹を溶かし込んだ明眸を微かに濁った雨空へ投げながら、黒漆に濡れた車体により深く体重を預けていく。全身から力を抜くようにして。

 熱々の麺類が食べたかった。選択肢はいくつかあったが、悟が数分の熟考のうえに導き出した答えが“ラーメン”だった。

 無論、の同伴は決定事項である。となればこの食事はデートと言えなくもないだろうし、全く意識しなかったと言えば嘘になる。

 行きつけのあばら屋めいたラーメン屋よりも、もっと女子が喜びそうな場所――例えば渋谷や原宿といった小洒落たカフェのパスタランチにでも誘うべきなのだろうが、悟としてはどうしてもラーメン屋に行きたかった。今はそういう気分だった。

 青に点灯した信号機の下を悠々と通過し続けていた黒塗りのバイクが、ようやく赤信号を捉えて白線前で緩やかに停止した。悟はの細い腰に両腕を廻してきつく抱き付くや、その白磁めいた美貌を寄せながら、鼻にかかったような甘ったるい媚声で我儘に訴えた。

、俺ラーメン食べたい」
「……はい?」
「ラーメン食べたい。ラーメン」

 怪訝な反応を返したに対し、悟は調子を崩すことなく繰り返した。しかしは猫撫で声を出した悟をちらりとも一瞥しなかった。未だ止まぬ篠突く秋霖と道路を行き交う車やバイクの唸るようなエンジン音だけが、情緒を含んで煙る雨景に撹拌していた。

 悟の苛立ちが沸騰するまで数秒も要さなかった。との間に横たわる沈黙を蹴り飛ばすように、悟は半ば怒号する勢いで大声を張り上げた。

「昼メシ!ラーメン食いたいんだけど!」
「……はぁ。そうですか」

 小さな溜息をつくような、のまるで気のない相槌に悟はかっと牙を剥いた。

「ちょっとちょっと!今の流すところじゃなくね?!“えっ、五条くんお昼まだだったんですか?”とか“じゃあ何ラーメン食べに行きましょうか?”とか、会話の膨らませ方なんて無限にあるでしょ!」
「ないです。無限どころかひとつもないです。というか別に膨らませたくもないです。むしろ萎ませたいくらいです」
「もっと俺に興味持って?!」
「ポアンカレ予想より難しいことを言いますね……」
「あ、それって確か去年証明が認められたよね?ペレルマンはマジですごいよ。ハミルトン・プログラムで問題だった葉巻型特異点を取り除くんじゃなくて、最初から“存在し得ない”ことを証明したんだから。俺も論文読んだけど、局所非崩壊定理も標準近傍定理も天才だけが到達できる世界っつーの?そもそも時間を逆転させたリッチフローで多様体を――じゃねーよ!俺が無限に話膨らませてどうすんだよ!」
「知りませんよ」

 抑揚に欠けた響きには微かに疲弊の色が滲んでいた。己が鼻先を僅かながら後方へ投げたは、凍り付いた瞳の端で不満げな様子の悟をきつく睨み付けた。

「そんなことより、あまりくっつかないでもらえますか?正直かなり鬱陶し――いえ、重大な事故にも繋がりかねませんので」
「今鬱陶しいって言おうとしなかった?!うわ〜悲しいな~!悟君傷付いちゃうな~!」
「うるさいな……」
「あ゙?お前小声でうるさいって言っただろ。ばっちり聞こえてんだけど?」
「聞き間違いだと思います。五条くん、耳鼻科寄りますか?さっき看板見ましたよ」

 の口から冷然と放たれた嫌味に、悟はその白いかんばせを大袈裟なほど歪めてみせた。腰の位置をさらに前へと滑らせると、自らの巨躯を隙間なくに密着させつつ、わざとらしく唇を尖らせる。

「あのさぁ、俺のこと嫌いだからって酷くない?青信号ばっか選ぶなんてさすがにどうかと思うよ」
「……何の話ですか?」
「もう今さらそういうのいいから」

 悟は虚言を弄する道化師めいた響きで、またも知らぬ存ぜぬを貫くつもりらしいをやんわりと窘めた。口を噤んだの退路をひとつ残らず奪うように、悟は滔々と根拠を説明していった。

「行きと帰りで通ってる道がほとんど違うことに、俺が全く気づかないとでも思った?最初は近道でもしてんのかなって思ったけどそうじゃない。俺がバイクに乗ってから、信号の色は何故かずっと“青”だ。往路で前もって計測しておいた時間をもとに、信号が“赤”に変わるタイミングを全て計算して復路を選んでる。バイクの速度、信号が変わる時間、信号から信号の距離、前の車との車間、横断歩道を渡る歩行者の歩速、その他諸々――当然それには膨大な計算を要するだろうけど、にとっちゃポアンカレ予想よりずっと簡単なんだろ?」

 解いた者には100万ドルの賞金が与えられるという、数学における七大未解決問題。天才たちが遺した七つの難題の中で唯一証明されているのが、位相幾何学の定理のひとつであるポアンカレ予想だ。とはいえ、数学に興味がなければおよそ知ることのない単語であることは違いなかった。

 肯定以外の返答を許さんとばかりに詰問されたは、しかしながら前方を見つめたまま不思議そうに小首を傾げた。悟の位置からは窺い知れぬ明眸が、未だ赤を示し続ける信号機を映しているのは明白だった。

「今ちょうど赤ですけど」
「だってそういう言い訳は必要だよね?」
「単に運が良いだけです」
「あーはいはい。そういうことにしておいてやるよ」

 ようやく信号が青に変わり、バイクが滑らかに加速を始めた。数多の数学者が挑んでは敗れた世紀の謎をが口にしたのは、おそらく故意だろう。あの会話の流れで“ポアンカレ予想”などと言い出すのはどう考えても不自然だった。

 あれは悟の知識量を量るための発言だったし、即座に意図を汲んだ悟はの思惑通りペラペラと知識をひけらかしてやったわけだが、が抱くその真意がいまいち掴めなかった。今日何度目かも知れない、悟を試すような行動に妙な引っ掛かりを覚える。

 噴いた疑念に対する解はが握っているものの、だからと言って簡単に口を割るはずもないだろう。悟は運転手を務めるを見つめた。こうもべったりと密着しているにもかかわらず、呪術高専が所有する普通二輪の重心は微塵もぶれることはなかった。

 悟はの腰廻りを確かめるように、さらにぎゅうっと強く抱きしめた。しいて筋肉質というわけではないの躯体から、自らを構成する肉体の使い方を完全に熟知している人間なのだと察する。ただ単に運動神経が良いというより、あらゆる“動き”に対するセンスがずば抜けていると表現したほうが、よっぽどしっくりくるかもしれない。

 それが先天的なものか後天的なものかはさておき、悟の興味を惹くには充分だった。能ある鷹は爪を隠すと言うが、はまさにその爪を切り落とそうとしているのだ。

 やはりこのまま隠遁させるにはあまりにも惜しい。となれば、何が何でも“口説き落とす”他ないだろう。

 数秒思考を廻らせた悟は、形の良い唇にひどく邪悪な笑みを孕ませた。

「道案内するから一緒にラーメン食いに行こうぜ。あ、ちなみにコレ上司命令だからね?四級術師殿」
「パワハラ上司め……」

 重さを感じるほどの湿度を含んだ生ぬるい風に乗って、の小さな悪罵が聞こえた。悟は思わず噴き出した。あのマンションを出てからというもの、何となくだがとの距離が近くなったような気がしていた。剥き出しになったが時折顔を出すような、そんな――

「それは五条くんの奢りですか?」

 突として耳朶を打った問いに、悟はたちまち意識を引き戻された。「え?」と少し乾いた響きで訊き返せば、はわざとらしく感情の抑えた声音で淡々と告げた。

「大変有能な上司である五条特級術師ならすでにご存知かと思いますが、特級術師に比べて四級術師は薄給なんです。それはそれはもう薄給なんです。コンビニのアルバイトのほうがずっと稼げるくらいなんです。とてもじゃないですが、外食なんてする余裕はありません」

 虚を突かれた様子で悟は何度も瞬きを繰り返し、やがて素直な感想を口にした。

って意外と図々しいんだね」
「そうですか、わかりました。ではこの話はなかったことに――」
「ハイ奢りますっ!奢らせていただきますっ!」

 抑揚に失せた台詞を食い破る勢いで遮れば、は小さく肩を震わせた。堪え切れずに漏れ出したらしい吐息には、確かに笑みが混じっていた。悟はすぐに胡乱な表情を滲ませた。

「……なに」
「いいえ。何でも」

 言うと、一瞬こちらを振り返ったが茶目っぽく微笑んだ。

「五条くん。わたし、東京の美味しいラーメンが食べたいです」

 たったそれだけの言葉と仕草で、悟の心臓は面白いほど跳ねていた。網膜に灼かれた悪戯な微笑はすでに記憶野に太い根を張っている。そう簡単には取り除けないほど奥深く、髄の髄にまで。

 甘露にも似た高揚と緊張が同時に全身を廻っていた。予感がした。けれど今はまだ、その予感には気づかないふりをしておきたかった。もちろん認めたくないという小さな矜持のせいでもあるが、その事実がを“口説き落とす”という本来の目的を、全く別のそれにすり替えてしまうような気がしてならなかったのだ。

 依然廻り続けるひどく厄介な予感にはしっかりと蓋をした。悟はその予感がいつか消え去ることを願っていた。けれど、きっと次に蓋を開けたときには目も当てられない状態になっているだろうという強い確信を覚えていた。

 予感の証明を拒む胸中を他でもないに気取られぬよう、悟はいつもと変わらぬ軽薄な口調で堂々と言った。

「もちろん。期待してくれて良いよ?」