07

 四角に切り取られた朝の透青が並ぶ教室を見渡すや、黒に塗り潰したサングラスの向こうで、青よりもなお蒼い碧眼が落胆混じりの不機嫌な色を色濃く孕んだ。やや粗暴な所作で扉を閉めた五条悟は、家入硝子へと焦点を定めながら開口一番に尋ねやった。

は?今日も休み?」
「うん、体調不良だって。聞いてないの?」

 心底不思議そうなその問いに、悟は思わず眉根を寄せた。秋霖の過ぎ去った旻天めいた双眸を明後日の方向へ逸らしつつ、白磁の麗貌に苦い表情を滲ませて後頭部を掻いた。

「……ずっと避けられてんだよ。しかも着拒までされてるし」
「何それウケる。どうせ五条のせいでしょ?に何したの」
「別に何もしてねーよ」

 口ではそう言ったものの、しかしに着信拒否されて然るべき心当たりはもちろんあった。調査任務の帰り、あのラーメン屋での会話を皮切りにの口数がうんと減ったとなれば、他人の機微には疎いほうである悟だろうとさすがに予想は付いた。

 の心の最も柔らかい部分を、我が物顔で踏み荒らしたこと。それもにとって忌むべき因縁の相手である“五条悟”自身に踏み込まれ、あまつさえ身の上を語ることを余儀なくされたのだ。態度を変えずに接し続けられるはずもないだろう。とはいえ、そんなことを硝子相手に白状できるほど、悟の矜持は微塵も安くないのだが。

 無理に暴いたつもりはなかった。無論、を傷つけてやろうなどという魂胆も。しかし悟の意図せぬところで“剔抉”の二文字に変わったことは明白だった。悟は苦虫を噛み潰したようなかんばせで席に着くと、硝子を一瞥することなく素っ気ない調子で質問を重ねた。

「……その体調不良って何?仮病じゃないよな?」
「嘘ついて登校拒否してるってこと?やっぱりに何かしたんだ?」
「だから何もしてねぇって」

 揶揄するような硝子の指摘に、自然と悟の声音がざらついた。「それ、“した”って言ってるようなもんじゃない?」と愉快げな響きが続き、悟は苛立ちを示すように小さく舌打ちした。思わぬところで声を荒げてしまったせいで、ひどく居心地が悪かった。

 机に頬杖を突いて「おもしろ」と口端を吊り上げた硝子は、数秒の沈黙を置いて勿体ぶった語調で悟の質問に答えた。

「生理痛」
「……は?」
が休んでる理由、生理痛だって。なんでも、痛み止め飲んでも起き上がれないくらい酷いらしいよ」

 胡乱げに片眉を持ち上げた悟は、硝子に蒼穹の視線を送った。

「生理痛?に生理なんかあんの?」
「……どういう意味?」

 確かめるようにそう問いかけた硝子の声音は、抑揚に失せた氷点下の響きに様変わりしていた。デリカシーに欠けた発言を厳しく責める黒瞳を認めるや、すぐに悟は「変な意味じゃなくて」とかぶりを振って否定してみせた。

 依然として納得いかない様子の硝子に対して、悟はの子宮を居城とする特級呪物について掻い摘んで説明した。悟の簡潔明瞭な言葉が途切れると、硝子は至極当然のように言った。

「その呪物って呪力をどうこうするものなんでしょ?子宮内膜の増殖を抑える効果がないなら普通に生理は来ると思うよ。むしろ異物を入れてるからこそ痛いのかも。もっと労わってあげなよ」
「誰が労わってないって言ったんだよ」

 付け加えられた硝子の責め句に悟は苦い顔をした後、気を取り直したように軽薄な口調で切り出した。

「硝子、産婦人科医探してくれない?凄腕の産婦人科医を、出来れば一週間以内に」
「取り出すつもり?“労わる”の意味履き違えてない?」

 信じられない様子で殊更目を細めた硝子の言葉を、しかし悟は素知らぬ表情で聞き流した。何を言っても無駄だと察した硝子は嘆息をひとつ落とすに留まる。悟は年季の入った黒板に視線を転じると、脳裏で記憶を遡りながら言った。

「おそらく意図的なもんだろうけど、子宮と癒着はしてなかった。あれなら非術師の医者でも問題なく取り出せるはずだ。いじめを放置されるほどが毛嫌いされてる以上、上層部の息が掛かった医者や呪医には任せるのは危険だろ」
「言いたいことはわかるけど、そもそも癒着なんてどうやって確かめたの?」

 すると悟は唇を不吉な弦月の形に吊り上げ、にやついた顔の真横まで持ち上げた両手の指をうねうねと不規則に動かしてみせた。

「そりゃ、もちろん触って」
「うわ、セクハラじゃん。そんなことするから着拒されるんだよ、わかってる?」

 語尾にハートマークでも付いていそうな悟の猫撫で声に、硝子は心底げんなりした表情を返した。やがてしかめっ面を弛緩させると、オニキスにも似た明眸で悟を穿ちながら白い手のひらをずいと差し出した。

「ん」
「なに」
「まさかタダで探せなんて言わないよね?」

 激しい糾弾めいた台詞に悟が反応するより早く、硝子は催促するが如く手のひらを軽く上下させて続けた。

「タバコ。1カートン」
「はぁ?やだよ。つーか俺まだ未成年なんだけど。未成年」
「夏油と隠れて酒盛りしてたくせによく言うよ。後でコンビニでの見舞いの何か買うんでしょ?ついでに買って来てよ」
「ちょっと待って。なんで俺が見舞い行く前提になってんの?」
「だって五条、のことかなり好きじゃん」

 まるで躊躇のない断言が耳朶を打つや、悟はすぐさま顔を歪めて嫌悪感を露わにした。

「そういう雑な決め付けやめてくれる?別に好きとかそんなんじゃねーから」
「この期に及んで否定なんて見苦しくない?」
「あ゙?事実じゃないことを否定しただけだろ。暇だからって何でもかんでも色恋に繋げんなよ」

 揶揄う硝子を憤懣に塗れた声音で貫くと、悟は噴いた苛立ちを拭うことなくそっぽを向いた。硝子は細い顎を少し持ち上げて教室の壁時計を見つめた。朝のホームルームが始まるまでもう少し時間があった。

の特級呪物、本気で取り出したいならちゃんと信頼関係は築くべきだと思うよ。着拒なんて論外でしょ」
「……わかってるっつーの。着拒着拒言うな」

 観念したように低く呟いた悟は机に突っ伏し、何か言葉を探すようにしばらく口篭もった。

 硝子の言うことはもっともだった。着信拒否までされた現状ではを“口説き落とす”ことなど到底不可能だろう。だからと言って硝子の提案に乗るのは悟としては非常に癪だったが、しかしそれ以外に効果的な手段が何ひとつ思いつかないのも事実だった。

 拗ねた壺口のまま、悟は脳裏で話題を遡った。そして首だけを硝子のほうへ向けて、不貞腐れたような調子で短く尋ねた。

「……見舞いの何かって、例えば」
「それくらい自分で考えなよ」
「言い出したのお前だろ。ていうか、生理痛で苦しんでる女の欲しいモノなんて男にわかると思う?」
「まぁそれもそっか」

 納得した様子で頷いた硝子は、屈託ない笑みと共に「ん」と再び繊手を差し出した。青よりもなお蒼い碧眼が催促の手のひらを確かに捉えた。その思惑を察した悟のかんばせは微かに強張っていた。

「……硝子、まさかとは思うけど」
「うん。その“まさか”だよ」

 硝子は浮かべた微笑に邪悪な何かを垂らし込むや、至極当然のように続けてみせた。

「1カートン追加ね」



* * *




「……メンドクセ」

 半ば無意識に口を突いた愚痴が鼓膜を叩くや、眉間に深い皺を刻んだ五条悟は緩やかに歩速を上げた。使い走り同然の面倒事などさっさと済ませるに限る。色素が欠乏した白髪頭のずっと後ろで、二限目の授業開始を告げるチャイムが軽やかに鳴り響いていた。悟は黒いスラックスのポケットに手を突っ込みながら、澄んだ旻天が見下ろす曲がりくねった山道を黙々と下った。

 呪術高専から最も近いコンビニを目指して歩くこと十分、ポケットの奥底で眠る携帯が微かな振動と共に着信を知らせた。電話の相手は簡単に予想できたものの、しかしそこに一縷の可能性を捨てられない悟は携帯に手を伸ばし、そしてすぐに落胆した。

 からの着信ではないことなど、最初からわかっていたのに。それでも期待した自分に呆れながら、未だ震える携帯をポケットへと滑らせた。数学の授業をすっぽかしたことに対する夜蛾の怒りには気づかなかったことにして、悟は乾いた土瀝青の上をしばらく歩き続けた。

 やがて拓けた視界の先に一軒のコンビニが現れた。一体どれほどの集客を見込んでいるのかと首を傾げたくなるほど無駄に広い駐車場に足を踏み入れる。

 車が一台も停まっていないのは、決して珍しいことではなかった。東京都内とは全く信じ難いほど、色濃い緑に覆われた筵山麓のこのコンビニを利用する客の半数以上が、呪術高専の関係者だと聞く。とっくに授業が始まったこの時間帯、コンビニに立ち寄る人間がいないのは無理もないような気がした。

 少しばかり反応の悪い自動ドアを潜り抜けるとほとんど同時に、悟は蒼穹を溶かした六眼を大きく瞠った。

 店には悟の他に客はいないし、視界の中央に捉えたレジにも店員の影はなかった。呪力という呪力を微細に解析する、五条家の“血”に最も愛された者にのみ顕現する稀有な瞳が映し出した情報を辿るように、悟はやや足早に店内を進んだ。

 ものの数秒も経たぬうちに見つけた。店のずっと奥、飲料コーナーの前で品出しをしている店員の背中に思わず唇を震わせた。

「……は??」

 しかし悟の網膜に映るのは、今時まるで流行らない牛乳瓶めいた分厚い眼鏡を掛けた、黒く長い三つ編みの地味な少女ではなかった。象牙色に脱色した長髪を高い位置でひとつに結い上げた、艶めかしい黒縁眼鏡の美女だった。

 上体を屈めてペットボトル飲料に手を伸ばした女は、悟の気配に気づいたように視線を寄越した。しかしそれも僅か半瞬のことで、男の目を惹く蠱惑的な美貌をすぐに陳列棚へと戻して作業を続けた。

 はたと我に返った悟は大股で通路を進むと、女の背後からその細面を覗き込んだ。六眼が導き出した答えを確かめるように口早に尋ねた。

だよね?」
「違います」

 束髪の店員は間断なくかぶりを振った。この女が着るだけで妙に洒落て見えるコンビニの青い制服、その胸元に付けられた名札には“九十九由基”と印字されていた。黒いサングラスの向こうで蒼い明眸に胡乱な色が走った。

「九十九由基ぃ?」
「はい、九十九です。だから人違いです」
「お前な……本物の九十九由基が海外プラプラしてるからって……」

 呆気に取られた悟の責め句から逃げるように、女は冷め切った表情でレジへ向かった。「……お会計ですよね」と呟いた声音には、深い諦念が確かに滲んでいた。

 人が生まれながらに持つ呪力は唯一無二で、指紋や虹彩と同様そう易々と偽装することなど出来ない。蒼穹の六眼が映し出す情報がいかに正確無比であるかを誰よりも知るコンビニ店員――は、自らが“詰み”であることを充分に理解していた。だからそれ以上の言い逃れはしなかった。

「こんなとこで何してんの?」

 華奢な背中を追うようにレジに引き戻った悟が問うと、は流行を無視した華やかなかんばせに苦い色を走らせた。の口から答えが欲しい悟がレジ台に両手を突いて上体を前のめりにさせれば、観念したようには鼻先を逸らして小さく嘆息した。

「……見てわかりませんか?アルバイトです」
「身分偽って、授業サボって?」

 間を置くことなく重ねられた質問には黙した。軽薄な表情を浮かべた悟は、退路を奪うようにさらに質問を続けた。

「そんなに金に困ってんだ?」
「……それもありますけど、ここなら廃棄のお弁当がたくさん貰えるので」
「あーそういうこと」

 深山に囲まれた呪術高専からさほど遠くない立地条件で、健啖家であるが節約に選ぶ方法としてはコンビニのアルバイトが最適解だった。多くの顔見知りが利用する最寄りのコンビニといえど、のあまりに劇的な変化を見破ることを可能にするのは悟の六眼くらいのものだろう。

 悟は小首を傾げながら純粋な疑問を声に乗せた。

「平気なの?消費期限切れなんか食べて」
「はい、平気です。人より胃腸は強いですから。毒には耐性がありますし、わたしが生まれた時点で発見されていたものであればほとんど体内で解毒できます。腐った物を食べたくらいでは死にません」
「いやそれ強いってレベルじゃねーだろ」

 呆れ返った語調と共に大袈裟に肩をすくめると、悟は蒼穹の視線をの背後に這わせた。豊富な種類の煙草が規則正しく並んだ陳列棚を眺めやって言った。

「タバコ買いたいんだよね。えーっと、13番を2カートン」
「未成年への販売は法律で禁止されています」

 が抑揚に欠けた機械的な口調で淡々と告げれば、悟は同情を誘うようないじらしい表情で食い下がった。

「どうしてもダメ?」
「どうしてもダメです」
「硝子が待ってんだよ。頼むよ」
「無理です。未成年と知りながら販売した場合、五十万円以下の罰金に処せられます」
「そこを何とか」
「何ともなりません」
「あっそ。じゃあお前が授業サボってバイトしてること、夜蛾先生にチクるけど」

 一転、悟が酷薄な表情で熱のない言葉を吐いた途端、の顔色ががらりと変わった。象牙色の髪の下で険を孕んでいくかんばせを見つめたまま、悟は悪戯好きの猫のように喉を鳴らしながら嗤笑を浮かべた。

「“生理痛”なんて男が踏み込みにくい理由でズル休みしちゃって。そのうえ身分まで詐称して学業じゃなくてコンビニのバイトに精を出すなんてね。こんなこと知ったら夜蛾の奴、きっとものすごく悲しむだろうな?いや、もしかすると監督不行き届きで処罰されるかも。だってがやってることは立派な詐欺罪だからね。となれば、おそらく減給だけじゃ済まない。次期学長って話も一瞬でパーだ。、お前のせいだよ?どうすんの?」

 畳み掛けられる非難の数々に、は頭を垂らして俯いた。先刻とは打って変わって、悟はにこにこと浮ついた微笑を湛えての返答を待っていた。やがては肺に溜まった空気を吐き出すように、自信に欠けた細い小声をゆっくりと押し出した。

「……わかりました。後でわたしが買っておきます。明日高専で渡しますので、それで許してください」

 刻んだ笑みに満足げな色を加えた悟は、取り出した黒の財布から一万円札を引き抜くと、「釣りは取っといて。好きなものでも食べてよ」と言いながらキャッシュトレーにそれを置いた。ひどく複雑な表情で紙幣に印刷された偉人の顔を見つめるに、悟はいつもと変わらぬ軽薄な調子で問いかけた。

、バイト終わんの何時?」
「……十一時ですけど」
「ってことはもうすぐ終わるんだ?だったらがバイト終わるまで立ち読みでもして待ってるよ。でさ、そのまま俺と昼メシ行かない?俺の奢りでこの間のパフェ、リベンジしようぜ」

 悟の提案に喰い付いたが「パフェ!」と目を輝かせたのは、しかしながらほんの束の間のことだった。思案顔のが小さくかぶりを振ると、悟は眉根を寄せて不満たっぷりに尋ねた。

「何?奢りでも俺と行くの嫌?」
「そうじゃなくて」

 間髪入れずに否定したはひどく残念そうに肩を落とした。

「わたしのバイトが終わるの、夜の十一時なんです。お店、もう全部閉まってると思いますよ」