間奏
「――棘っ!棘ってば!」
己の名を呼ぶその声が引き金となり、棘の意識は勢いよく弾けた。はっとなって声のしたほうを見れば、呆れ顔のパンダがすぐそばに立っていた。
「何回呼んだと思ってるんだ」
「……こんぶ」
パンダは座りこんだ棘を見下ろして、大きなため息を吐いた。わざとらしい仕草に棘の体が少し強張った。申し訳ない気持ちが込み上げたが、目は逸らさなかった。何か言われるのなら全て受け止めようという覚悟はできていた。
棘は何か用があるらしいパンダをじっと凝視した。聞く準備が整ったことを示すように。するとパンダは言い聞かせるみたいに告げた。
「悟からの伝言だからよく聞けよ。今日の実習は俺とお前のペアだ。祓うのは二級呪霊を一体と、そいつと共生してる三級四体。詳しいことは車の中で、いつも通り伊地知に訊くようにってさ。もうすぐ時間だから準備しとけ」
「しゃけ」
はっきりと頷いた後も、棘の視線はパンダに向けられたままだった。察したパンダは少し呆れた様子で付け足した。
「残りの面子は留守番だと」
「……ツナマヨ」
「あんな状態で実戦に連れ出せるわけないだろ。センスがないというか運動音痴というか……あれじゃあ戦闘はからっきし駄目だな」
そう言いながら、パンダが遠くを見ていた。その目線を追うように棘は顔の向きを変えた。ほんの数分前まで棘の意識を独占していた少女の姿が目に入った。
「それにしたって見惚れ過ぎ。さすがに気づかれるぞ」
「こんぶ、ツナ、すじこ……」
棘は小さな声でぼそぼそと言い訳を並べた。棘のそばに座っている憂太が、笑いながら肩をすくめた。
「二人のときは無理だから仕方ないよね」
助け船を出した憂太に同意するように、棘は何度も首肯した。穴が開くほど見つめたところで、今の
は棘には気づかない。気づいたとしてもすぐに意識は逸れてしまう。数少ないチャンスを逃すことはできなかった。
棘の真剣な眼差しの先で、真希と
が特訓をしていた。真希は得物として竹刀を、
は薙刀代わりの長い棒を手に、広い演習場で向かい合っていた。とはいえ素人目にもわかるほど、圧倒的に
が劣勢だった。
が呪術高専に来てはや一ヶ月半。呪術師としての実戦の前に少しは体を鍛えておいたほうがいいだろうという五条の判断により、真希の厳しい指導の下、
は日々特訓を受けていた。しかし
は武術の覚えが相当悪いようで、面白いくらいに上達していなかった。
真希が首を振って合図をすると、
は駆け出していった。走ることは普通にできているし、同年代女子と比べれば速いほうだろう。しかし武術となると話はまるで別だった。
そもそも距離感が掴めていないのか、振るった棒先は真希にまったく到達していなかった。
真希は顔色ひとつ変えず一歩踏み出すと、竹刀を頭上に大きく掲げた。相手がパンダや憂太ならば迷わず振り下ろされていただろうが、そうしないのは真希の優しさだった。
は慌てたように棒を握り直して、軌道を変えて再び大きく振るった。しかしそれは竹刀の動きを制限する役目も、真希を牽制する役目も果たすことはなかった。ただ
自身の腰回りをがら空きにしただけだった。
狼狽えたまま棒を振るったせいで、
の軸足は心許なかった。真希が竹刀で
の横っ腹を軽く叩いただけで、
は体のバランスを崩し、地面にべしゃりと倒れ込んでしまった。
は悔しそうに立ち上がったものの、その場で地団太を踏むと、「やっぱり向いてないよ!」と悲痛な叫びを上げた。まるで癇癪を起こした幼子のようだった。そして拗ねたようにその場に腰を下ろしてしまった。
いつものことだった。棘は無意識に笑みをこぼした。
は真希に手を差し伸べられても応じなかった。かぶりを振って不満を主張している。どれだけ時間をかけても、毛ほども本気を出していない真希に手も足も出ないのがよほど悔しいのだろう。
棘はそんな
が可愛くて仕方なかった。普段はどこか余裕が感じられる
だが、真希との特訓のときだけはまるで子供のようだったから。くるくると変わる表情は見ていて飽きることがないし、
への愛おしさが募るばかりだった。
パンダが棘の隣にどかっと腰を落とした。
「進展は?」
「……しゃ――」
棘は頷こうとして、やめた。すぐに大きくかぶりを振って、望んだ結果には至っていないことを表現した。
「おかか」
「ふうん」
と鼻を鳴らすと、パンダがひどく意味ありげな表情を浮かべた。棘は何となく嫌な予感がして、慎重にパンダを見つめ返した。
しかつめらしい顔になったパンダが訊いた。
「毎週二人で観光してるのに?」
「しゃけ」
「昼休みは二人で観光情報誌見ながら行き先決めてるのに?」
「しゃけ」
「門限ギリギリで帰ってくるのに?」
「……しゃけ」
「なんならこの間は門限過ぎて、翌日悟に叱られたくせに?」
「……しゃけ」
「放課後もずっと一緒にいるのに?」
「……しゃけしゃけ」
「最近結構っていうか、かなり仲良いのに?」
「……しゃ、しゃけっ」
「それでも進展がない、付き合ってないって?」
「しゃけ!」
「絶対何か隠してるよな?」
もう限界だった。訝しげなパンダから目を背けて、助けを求めるように憂太を見た。憂太は垂れた目元に笑みを宿すと、何かに気づいたように鼻先を棘から移動させた。
「
さん」
額から汗を流した
がこちらに駆けてくる。パンダは
に手を振った。棘はパンダの意識が逸れたことに安堵しながら、
をじっと見つめた。
「もう駄目。全然うまくならないよ」
ふくれっ面の
は棘達の前で足を止めた。両膝に手を添えながら体を丸めて、荒い呼吸を何度も繰り返した。
棘は自らのすぐ近くに置いていた
のフェイスタオルを差し出した。淡い桃色のフェイスタオルには、可愛らしい黒猫の刺繍が施されている。
「ツナマヨ」
「ありがとう」
は笑顔でフェイスタオルを受け取ると、こぼれる汗を丁寧に拭った。
それは二人で丸の内を散策したときに見つけたものだった。フェイスタオルの割にはずいぶんと値段が張っていたのだが、キラキラした眼差しで見つめる
が可愛くてつい買ってしまったのだ。後日、喧しい五条には案の定というべきか、「それ貢がされてるんじゃない?」と言われたが至極どうでもよかった。
は訓練のとき、必ずこのフェイスタオルを愛用している。
のお気に入りらしく、毎日洗ってもすぐに乾いてふわふわなのだと笑っていた。それだけ気に入ってくれたのなら格好を付けてプレゼントした甲斐があるというものだし、洗い替えを買っておけばよかったかという気にすらなる。
呼吸が整ってきた
は憂太に尋ねた。
「乙骨くんって真希ちゃんから一本取れるんだよね?」
「うん。でも、ずいぶん時間がかかったよ」
「それでもすごいよ。わたし、運動神経悪いから一生無理かも」
眉を下げる
に向かって、棘は水の入ったペットボトルを差し出した。
はそれを受け取ると、蓋を開けながら小さく笑い声を上げた。
「狗巻くん、なんだかマネージャーみたいだね」
するとパンダがにやにやと笑った。ペットボトルを傾けて喉を潤す
に目をやったまま、棘の肩をポンポン叩いた。
「喜べ。
の専属だぞ」
その言葉に一瞬びっくりしたが、棘は
に少しでも好意を示したかった。こくこくと何度も頷けば、
は柔らかく微笑んだ。どきっとした。すぐに平静を装ったから、
に気取られることはなかった。
が振り返って、真希に大きく手を振ってみせた。
「真希ちゃんもう一回!」
「あ?!今日はもうやめるって言ってなかったか?!」
「わたしの専属マネージャーに少しでもいいところを見せたい!」
「はあ?!」
真希の素っ頓狂な声が演習場に響き渡る。
はペットボトルとフェイスタオルをまとめて棘に手渡した。それから、いたずらっぽい少年のような笑みを浮かべた。
「ちゃんと見てて。惚れさせてみせるから」
弾ける炭酸水のような爽やかさを残して、
は駆け出していった。
瞬きすら忘れた。全てを奪われていた。棘の感覚の全てが
のものだった。
棘の肩がびくっと震えたのはそれから数秒後だった。勢いよく立ち上がると、
「明太子っ!」
と、腹の底から大きな声を出した。
轟いた棘の声援に
が体ごと振り向いた。
は笑いながら、右手をまっすぐ棘のほうに伸ばした。そのまま手を振るのかと思いきや、
の行動は棘の予想の斜め上を行っていた。
の手が親指と人差し指を立てたまま、ゆっくりと握られていく。人差し指の先端は棘を狙っていた。まるで銃のように。
狙いを定めて片目を閉じると、それからばんっと撃ち抜いた。棘は目を大きく見開いた。心臓を貫かれて、息の根が止まったような気がした。
軽く上を向いた人差し指を構えた
が、赤い舌をちろりと出した。
「ありゃ致命傷だな」と、笑いを堪えるように真希が言った。「ここからが本番だから」と答えつつ、
が真希と向かい合う。二人は真剣な眼差しで再び訓練に戻ってしまった。
棘は撃たれた心臓に手を当てて、きつくTシャツを握りしめていた。
反則だった。どんな呪術よりも質が悪いと思った。膝からくずおれそうになるのを堪えるので精一杯だった。
「僕達、何を見せられてるんだろうね……」
「付き合ってないのか?これで?冗談だろ?」
憂太とパンダの呆れた声ではたと我に返り、棘はその場に素早く座った。そして激しくかぶりを振った。パンダの呟きに答えるように。
「おかか」
俯きながら、フェイスタオルを丁寧に畳んだ。
の汗で薄っすらと湿った生地に、ちょっとどぎまぎしながら。
「おかか……」
棘は蚊の鳴くような声で否定の単語を口にした。棘の本音が滲む声音に、パンダと憂太が顔を見合わせる。放っておけないと思ったのか、パンダが同情するように言った。
「キスとかすれば?さすがに伝わるだろ」
がばっと棘が顔を上げた。何度も目を瞬かせるその様子に、パンダと憂太は小さく笑った。
「あ、その反応」
「もう何かあったんだね」
棘の頭が重く落ちていく。黒いネックウォーマーに深く顔を埋めると、膝を抱えてまっすぐ前を見据えた。真希に竹刀で太ももを叩かれている
を見つめる。
パンダのお膳立てでスカイツリーを見に行って以来、棘は
と毎週出かけるようになっていた。
が行きたいという場所に行って、あてもなく散策し、美味しい物をひたすら食べるだけだった。
多くの制限の中で、二人は色々なものを見て回った。
が一般人に認識されないせいだった。電車での移動は混み具合によって臨機応変に対応したし、食事はその場で買い食いできるものに限定されていたし、入場料を払う必要がある場所に足を踏み入れることはなかった。
がひどく嫌がったから。
正直なところ、周りに怪しまれないようにするのは骨が折れた。棘は他人にどう思われてもよかった。
が気にするから、仕方なく合わせてはいるが。
は気の済むまで写真を撮り、棘はそんな
を見るのが好きだった。
「人間に戻ったら、まとめてSNSにアップするんだ」
と言いながら張り切っている
を見ると、胸がじんわりと温かくなった。それと同時にひどく落ち着かない気持ちになった。
の心が、自分に向いたままなのか不安になるせいで。
初めて二人で出かけた日、棘は
の心が自分に向いていることを悟った。ここで死ぬのではないかと思うくらい緊張しながら、棘はその場の空気に流されるようにキスをしたというのに、
との関係は進まなかった。
が望まなかった。だから、棘は人間に戻ることを第一に考えている
を尊重した。
しかし不安は大きくなるばかりだった。呪術高専に出入りする若い呪術師達が時間の経過とともに
に慣れ始め、気さくに話しかけるようになっていた。人当たりのいい
は笑顔で対応し、年の近い男の術師と話を弾ませている姿を高専内で何度も見かけた。
限りなく怒りに近い感情が、棘の内側で巻き起こっていた。抱いたこともない感情に狼狽したし、自分では上手くコントロールできない感情であることに大きな苛立ちを覚えた。
平静でいられるはずがなかった。二人で出かけたその帰り、棘は決まって
にキスをするようになった。自らへの想いを確かめるように。
の心が自分のものであるかを確認するために。
帰りの電車の中や人の少ない最寄り駅、高専へ至るまでの細い山道。場所はどこだってよかった。キスができればそれで。微笑みながら棘を受け入れてくれる
に安堵したいだけだった。
本当は言葉でぐちゃぐちゃに縛りたかった。安心したかったから。処理できないほど渦巻いた感情を抱えたままで、ぐっすりと安眠できるはずもない。
全てが
に掻き乱されていた。辛かった。苦しかった。人を好きになるということはもっと穏やかなものだと思っていたから、棘はひどく戸惑っていた。
好きだと言いたい。付き合ってくれと言いたい。
が自分の恋人であることをはっきりさせたかった。
との関係を縁取る明確な言葉が欲しかった。
しかし、それを告げることは呪言師である棘にはできなかった。呪うことになってしまうから。
見知らぬ術師と話し込んでいる
を見かけ、嫉妬でイライラしていたとき、たまたま出会った五条に言われた言葉があった。
「棘、気を付けて。愛ほど歪んだ呪いはないよ」
もう呪ってしまいたかった。自らに縛り付けたかった。
の心がどこにも行かないように。たとえ歪んでいたとしても、それでも。
棘は目を伏せた。
を好きになるんじゃなかったと思った。それと同じくらい、
を好きになってよかったと思っていた。心は収拾がつかないくらい、取っ散らかっていた。
複雑な感情を抱えていることを察したパンダが、気遣うように言った。
「もう付き合ってるってことでいいんじゃないか?それじゃ駄目なのか?」
「……すじこ」
「人間に戻ったらって……じゃあどうするんだよ。待つのか?人間に戻った
が告白してくれるまで。そんなモヤモヤした状態でずっと」
棘が小さく頭を縦に振った。真希と楽しそうに訓練している
を見つめながら。
「それでいいの?」
「しゃけ」
憂太の問いかけに棘は再び頷いた。すると憂太は棘をそうっと覗き込んだ。
「
さんは僕らとは違う。ここを辞めて日常を取り戻したとき、それでも術師である狗巻君を選ぶかどうかはわからないんだよ?」
「遠距離になるし、棘相手じゃ連絡だって上手く取り合えないしな」
「それって、狗巻君が本当に後悔しない選択なの?」
棘はネックウォーマーの下で奥歯をきつく噛んだ。顎に強い負荷がかかる感じがした。
二人に言われなくとも、そんなことはとっくに理解していた。だったらどうしろと言うのだろう。使用できる言葉に制限のある棘が告白できるはずないことを、この二人は嫌というほど知っているだろうに。
黙り込んだ棘に気を遣ったのか、パンダと憂太は何も言わなくなった。言いたいことだけを言って、その道を示してくれない二人にとても腹が立った。
棘は
をじっと見つめた。自らが苦しむことになるとわかっていても、
の意見は何を差し置いても尊重したかった。だからこれが最善なのだと自分に何度も言い聞かせた。
キラキラした笑顔を浮かべる
が眩しくて、ざわついた気持ちを誤魔化すように、棘はそうっと目を伏せた。
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