初任務 -前-

「準一級って……言ったくせに……」

 悪態をつく声は、がたがたと震えていた。まるで凍てつく寒空の下に放り出されたかのように。

「五条先生の馬鹿……伊地知さんの阿呆……」

 全身から冷たい汗がどっと湧いていた。激しい戦慄に襲われているせいだった。しかし、わたしは足を止めることができなかった。僅かな勇気をかき集めてでも、体を動かさねばならなかった。

 か細い呼吸の音が途切れず聞こえていることだけが、唯一の救いだった。わたしは気を失った狗巻くんの肩を担いだまま、懸命に足を前へと進めていた。

 たった一人の女の力で、高校生とはいえ常日頃から体を鍛えている男一人を担いで歩くのは、やや無理があった。わたしの息はすでに大きく乱れている。けれども今はその無理を通す以外に方法はなかった。

 狗巻くんが無意識の闇に落ちて、もう数分が経っていた。彼は決死の思いで退路を拓いてくれた。わたしのために。わたしをあいつから逃がすために。自らのことは置いて行けと言った。自分はどうなってもいいから逃げろと、わたしを力いっぱい突き飛ばしたのだ。

 青白い唇から垂れる血液が、リノリウムの廊下にぽたぽたと赤い染みを作る。あいつに目印を与えているのだと理解していても、狗巻くんを置いて逃げることはできなかった。

「うわっ」

 つま先が床の窪みに引っかかって、上半身がつんのめった。狗巻くんの体がずり落ちそうになって、わたしは足を踏ん張って何とか堪えた。肩を担ぎ直すと、再び大股で歩き出した。

 早く逃げなければならなかった。あいつに追いつかれたら、それこそ終わりだった。伊地知さんは“逃げる”か“死ぬ”かだと言っていた。

 死ぬわけにはいかなかった。こんなところで死にたくなどなかった。残された選択肢は逃亡のみだったが、それすらも完遂できるかどうかわからなかった。

 顔を出した弱気に蓋をするように、まっすぐ前を見据えた。視界が涙で歪んでいる。奥歯を噛み締めて、逃げることだけを必死で考えようとした。

 廃校舎の窓から見える景色は、黒一色に染まっていた。喉奥から込み上げる絶望の色と同じだった。下りたままの“帳”が憎くてたまらなかった。

 己を鼓舞するように、失神している狗巻くんに語りかける。

「狗巻くん、ごめんね……もうちょっとだけ……頑張って」



――かくて、時は四時間ほど遡る。



「しばらく“無科家”のことを調べてみようと思うんだ」

 昼食を食べ終えたわたしは資料室にいた。呪術師の家系図や術式などの蔵書が集められた一角で、体を屈めて目当ての資料を探していた。

 細い紐で束ねられた分厚い資料をやっと発見した。「あった」と呟きながら体を起こして、机に向かう狗巻くんに目をやった。

「こんぶ」

 椅子に腰かけている狗巻くんが、顔を上げていた。彼はわたしには到底解読できない古い書物を読んでいた。今読んでいるのは、各地に存在していた生贄を用いた忌まわしい儀式について記された書物らしかった。

「“呪い”や“儀式”のほうは古い文献が多いし、そっちは狗巻くんに任せようかなって。だからわたしは“無科家”のほうを調べるね。何か出てくるかもしれないし」

 午後からの授業は実習だったが、声をかけられていたのは乙骨くんだけだった。一級呪霊を二体、たった一人で祓うそうだ。

 残されたわたしたちは、午後からの時間を自由に使うことができた。わたしは少しでも早く人間に戻りたかったから、資料室にこもることにした。狗巻くんも手伝ってくれることになった。ちなみに真希ちゃんとパンダくんは特訓に励むらしい。

 狗巻くんが小さく首を傾げた。

「ツナ」
「ううん、五条先生じゃないよ。猪野さんがアドバイスしてくれたの」

 答えながらもう一度体を折り曲げて、“術師家系図(壱)”と書かれた分厚い紙の束を両腕で抱えた。ずいぶんと重かった。五キロの米が入った袋を運んでいるような気分だった。

 よたよたと歩き出すと、慌てて立ち上がった狗巻くんが紙束を持ってくれた。実際は強引に奪われたので、この表現は正しくないかもしれないが。

 家系図を机にドンと置いた後、彼は不思議そうに訊いた。

「すじこ」
「黒いキャップを被った男の人だよ。会ったことないかな」
「おかか」
「年上なんだけど年下っぽい感じがする人で……すごく面白いし話しやすいの。話の流れで相談してみたら、“贄”に焦点を当ててみるのは?ってアドバイスをくれて」

 そこで言葉を切って、資料室の四角い窓に近づいた。わたしは空に視線を送った。抜けるような青空が広がっている。洗濯物や布団を干せばよかったと後悔するほど、天候に恵まれていた。

「ツナマヨ」

 聞こえてきた狗巻くんの声は、どこか冷めていた。わたしは浮かぶ雲を数えつつ答えた。

「等級?確か二級だったと思うけど。どうして?」
「明太子」
「うん、狗巻くんは準一級だよね。ちゃんと覚えてるよ。それがどうかしたの?」
「……おかか」

 不貞腐れたような声だった。言ってはいけないことを言ってしまったと思った。けれど彼の言わんとすることがわからなくて、わたしは焦燥に駆られた。

 狗巻くんに顔を向けようとしたとき、わたしの視線がちょうど一点に定まった。瞬く間に意識が逸れていた。狗巻くんのことが二の次になるほどの衝撃だった。

 資料室の二階の窓から、外を歩く少年の姿が見えていたのだ。彼が着用しているのは間違いなく、黒い烏のような呪術高専の制服だった。

「狗巻くん!」

 わたしは窓の向こうを見つめたまま、狗巻くんを手招きした。

「あの子が例の伏黒恵くん?」
「しゃけ」

 目線の先にいるのは黒髪の少年だった。しかしこの角度から確認できるのは後ろ姿くらいで、肝心の顔は見えなかった。ただ、その背格好は何となく俳優の刀祢樹に似ているような気がした。

 真面目くさった顔で、わたしはぼそぼそと呟いた。

「こっちを向け……こっちを向け……」
「……こんぶ」
「念じれば叶うかもしれない」

 その言葉通り、わたしの邪な願いが届いたのだろう、彼はふいに後ろを振り返った。そして顎を上げてわたしたちを視界に入れた。

「わっ!こっち見た!」

 わたしは反射的に手を振った。

 どこか孤独を感じさせる少年だった。くっきりとした目鼻立ちは目を引くものの、その切れ長の瞳は厭世的な感じがして、望んで人を遠ざけているような気がした。鋭利な印象を与えるのに冷たさを感じさせないのは、放っておけないと思わせる独特の空気感のせいだろうか。

 伏黒くんは小さく会釈をすると、そのまま歩き出してしまった。

「パンダくんの言う通りだ。髪型が違うだけの刀祢くんだった」

 小さくなっていく背中から、なかなか視線が外せなかった。

「やばい……好き。格好良すぎ」

 無意識に本音がこぼれ落ちていた。

 顔が整っている度合いで言えば、高専内では五条先生が一番だろう。誰に訊いてもそう答えると思う。しかし、わたしは伏黒くんの顔のほうが好きだった。単に好みの問題だった。

 だらしなく頬を緩ませていると、

「おかかっ」

と尖った声が唐突にわたしを現実に引き戻した。苛立ちがたっぷりと含まれている声音だった。

 確認するより早く右手の自由を奪われ、指の間にするりと骨張った指を差し込まれた。絡みついてくる指は熱を持っていた。

 目を向ければ、ひどく不愉快そうな狗巻くんがわたしを睨んでいた。こちらを射ぬかんとする鋭い瞳に浮かぶのは、激情に似た何かだった。

 狗巻くんは空いた手で、首元のジッパーをつまんだ。じじじとジッパーとともに降りていく指に、どきっと心臓が大きく脈打った。顔の下半分が露わになって、わたしの体の奥深くで熱が疼くのを感じた。

 わたしは狗巻くんを見つめ返した。じっと観察するように。

 口元を覆う服装のせいで一見わかりにくいのだが、狗巻くんは顔が整っている。いつも少し眠そうな薄茶色の瞳はとても大きくて存在感があるし、繊細さを感じさせるパーツが多いから可愛らしい顔立ちに分類されると思う。

 伏黒くんの顔とはまるでタイプが違っていた。しかし、その気怠げな顔が今一番好きな顔だと言ったら、狗巻くんは一体どんな表情を見せるのだろう。事あるごとに見惚れている事実に、彼はどこまで気づいているのだろうか。

 わたしは強く握られた手に目を落とした。妬いた狗巻くんに、少しでも気持ちを返したかった。

「狗巻くんってずるいよね」
「……こんぶ」
「そうやって口元見せられると、ドキドキするし……ちょっと期待する。……キス、してくれるんじゃないかって」

 手を握り返しながら笑った。呆れたように。

「これじゃあパブロフの犬だよ。馬鹿みたい」

 言い終えてから、急に恥ずかしくなった。顔に熱が集まる感じがして、伏せた頭を上げられなくなった。顔を覗こうとする狗巻くんから逃げるように、わたしは首をひねった。

「ツナ」
「やだ」
「ツナマヨ」
「やだ。見ないで」
「おかか」

 ひときわ優しい声が聞こえた。髪を撫でつけられる感触がして、少しくすぐったくなった。

 視線を向ければ、狗巻くんが口端をふっと緩めた。それから声を出さずに、唇をパクパクと動かした。ゆっくりと、丁寧に。

 可愛い――彼の薄い唇は、確かにその音を形取っていた。

 ますます顔が熱くなった。今にも火が出そうだった。わたしは足を前に踏み出して、狗巻くんの肩に額を押しつけた。顔を見られたくなくて。

 彼はわたしの髪を撫で続けた。髪を梳かれる感覚に心地よさが伴い始めた。

 狗巻くんはわたしの彼氏だよね?――そう訊きたかった。この不確かな関係を縁取るために。しかし彼は呪術師で、わたしは呪いだ。殺すべき相手との関係が知れたら、きっと迷惑になるに違いなかった。狗巻くんに迷惑をかけたくなかった。人間に戻ることが何より先だと思った。

「ツナマヨ」

 確認するような声音に、わたしの肩が震えた。しなくていいのかと問われていた。小さく首を横に振ると、狗巻くんの指がわたしの顎をすくった。すぐに壊れてしまいそうなものを扱うような、ひどく優しい手つきだった。

 赤面した顔を見られるのは恥ずかしかったが、その先に待っているものを手に入れるほうがずっと大切だった。不確かなものを、一瞬でも確かなものへ変えるために。

 狗巻くんの顔が近づく。彼の大きな瞳には欲を含んだ熱が浮かんで、かすかに揺れていた。体の深いところで何かがじわりと広がる感じがした。

 わたしがぎゅっと目蓋を閉じたそのとき、

「ちょっと二人とも。ここは調べものをするところであって、乳繰り合うところじゃないんですけどー?」

 場の空気を破壊する、飄々とした声が響き渡った。二人揃って顔を向ければ、本棚にもたれかかった五条先生がひらひらと手を振っていた。

 あまりのことに、何が起こったのか上手く把握できなかった。笑顔を浮かべる五条先生を見つめ続けること数秒。全てを理解した瞬間、羞恥で眩暈がした。穴があったら今すぐにでも入りたかった。

 手を離そうとしたのに、狗巻くんは力を緩めなかった。五条先生を睨むその顔からは嫌悪感が滲み出ていた。殺意に近い感情のようにも捉えられた。

 五条先生は口をへの字に結ぶと、すぐに大声を上げた。

「こら棘!何その露骨な顔!僕だって邪魔がしたくてしたわけじゃないからね?!」

 それはその通りだろうなと思った。いつも非があるのは五条先生だが、今回ばかりは何も悪くなかった。どう考えても、時と場所を選ばなかったわたしたちが悪かった。

 項垂れるわたしをよそに、狗巻くんはその表情で不満を表現していた。五条先生はため息を吐き出し、困ったように肩をすくめた。

「この間、門限を破ったときは言わなかったけどさ」

 そう前置きをして、わたしたちに真剣な顔を向けた。

「恋愛ってすごく楽しいものだと思う。周りが見えなくなるくらいね。だからこそ節度が必要なんだ。節度を守るからこそ長く夢中になれるし、お互いを大切にできるんだよ。僕の言ってる意味、わかるよね?」

 わたしは深く頷いたが、狗巻くんは目を伏せただけだった。

 五条先生は右手を手刀の形に変えると、狗巻くんの砥粉色の頭をストンと優しく叩いた。

「君がしっかり自制しなさい。男なんだから」
「……しゃけ」
「はいっ!呪術高専が誇る人生経験豊富なナイスガイ、五条悟先生による為になるお説教はここまでっ!」

 元気よく言い切ると、五条先生は満面の笑みで続けた。

「さて。急で悪いんだけどさ、今から二人で実習に行ってもらうよ。の初任務だね。頑張っておいで」

 急な話に瞬きを繰り返した。呪術高専に入学して一ヶ月半が経過していたが、日々の特訓も空しく、わたしはこれといって何も体得できていなかった。

 実戦はもっと先の話だと思っていたから、不安が一気に渦巻いた。顔にまで出ていたのだろう、狗巻くんが励ますように言った。

「高菜」
「……うん。頑張る」

 五条先生が狗巻くんに視線を移動させた。

「祓う相手は準一級。苦戦する相手かもしれないけど、そこはほら、好きな子に良い所見せられると思って頑張ってよ」
「しゃけ」

 狗巻くんは頷いたが、どこか納得いかない様子だった。

「すじこ」
「僕もかなり食い下がったんだけど、これが精一杯だった。これより下の等級にはできないって言われちゃった。カッコカリでも特級だから仕方ないとはいえ、上の連中も相当意地が悪いよね。さっさと死ねばいいのに」
「しゃけしゃけ」
「僕だって不本意さ。力及ばずでごめん」

 謝罪した五条先生に、狗巻くんはすぐにかぶりを振ってみせた。

「おかか。明太子!」
「うん、棘ならそう言ってくれると思った。だから組む相手は憂太じゃなくて棘にしたんだ。のこと、死んだって守ってくれるでしょ?」
「しゃけ」
「あ、これは比喩だよ。死ぬのは絶対駄目だから」
「しゃけ!」

 狗巻くんが頷くと、そこで会話が途切れた。わたしはそうっと手を挙げた。意見を主張するために。

「学生証の“特”って、やっぱり“特別”って意味じゃなかったんですね?」
「何も気にしなくていいって言ったでしょ。ほら、急いで準備して」

 急かされてしまい、込み上げる不満は飲み込む他なくなった。納得できなかったが、五条先生相手に文句を言うだけ無駄であることは、この一ヶ月半で嫌というほど学んでいた。

 出した資料を片付けて、指示された黒塗りの普通車に乗り込んだ。

 運転席に座っていたのは、ひどく痩せた若い男だった。やつれたと表現したほうが正しいだろうか。頬は薄っすらとこけていて、眼鏡の奥の瞳に生気は宿っていなかった。

 呪術師は人手不足と言っていたし、想像を絶するような過酷な労働を課されているのかもしれない。可哀想だなとは思ったが、だからといって口に出して労うことはしなかった。何となく。

 男の名は伊地知潔高といった。伊地知さんは模範的な安全運転で車を進ませながら、実習内容を説明した。

「今回の目的地は、高専から少し離れた場所にある廃校です」

 呪術高専の補助監督である彼の仕事は、現場に術師を送り届けたり説明をしたり、結界を張ったりすることらしい。つまり呪術師のサポート役だった。

「今朝、準一級に相当する呪霊が一体確認されました。周辺の避難誘導はすでに終了しています。狗巻準一級術師、並びに特級術師(仮)には、即時この呪霊を祓って頂きます」
「カッコカリは付けるんですね……」
「特級扱いとはいえ、行使できる権限は一級術師相当のものですので」
「一級術師とは違うんですか?」
「違います。与えられる任務には特級クラスが含まれます」
「……それってちょっと損ですね」
「ちょっと?……大損だと思いますよ。特級なんて、私達からすれば“逃げる”か“死ぬ”かですから」

 小さな声で付け足すと、伊地知さんは静かになってしまった。会話を拒む空気を感じ取って、それ以上の彼との会話は諦めることにした。

 わたしは代わりに狗巻くんに話しかけた。緊張を少しでも和らげるために。

「等級のこと、確認してもいい?」
「しゃけ」

 呪いにはその強さによって等級が与えられていた。上から特級、一級、準一級、二級、準二級、三級、四級の順だった。呪いと同等級の術師が任務に当たることがほとんどだった。

「今日祓う呪いは準一級だから、狗巻くんは普通に祓えるってこと?」
「しゃけしゃけ」
「じゃあ安心だね。後ろから応援する!」

 わたしが言うと、狗巻くんは笑って頷いた。何もできないわたしが前に出るのは、きっと邪魔になるだけだろう。狗巻くんの迷惑にならない位置で大人しくしていようと心に誓った。

 目的地である廃校舎に到着したのは、空が橙色に色付き始めた頃だった。紺と橙が混じり合う光景をぼうっと見つめていると、伊地知さんが言った。

「逢魔時ですね。どうかお気を付けて」

 伊地知さんが左手を顔の前で掲げて、ゆっくりと唱えた。

「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」

 広い空の中心から黒い液体がどぷっと噴き出した。それが地面に向かって流れ落ちていくと、夕暮れ時だったはずの世界はたちまち夜に包まれた。

 それは“帳”と呼ばれる結界の一種だった。呪術師を隠す役目を果たすだけではなく、呪いを炙り出す効果も持ち合わせているという。

 狗巻くんが迷いなく校舎の中に向かっていった。わたしも薙刀を片手にその後に続いた。「何もないよりマシだろ」と真希ちゃんが貸してくれたものだった。

 足を踏み入れた校舎内は、とても暗かった。天井に設置された蛍光灯が、ひとつも点いていないせいだった。

 夜目が効かないわたしのために、狗巻くんはゆっくり進んでくれた。

「ツナ」

 廊下を歩いていた狗巻くんが、急に足を止めた。誰もいない教室の中を指差しながら、わたしを見ていた。わたしは確認するように目を瞬かせた。

「そこに何かいるの?……準一級?」
「おかか」

 狗巻くんの指が“三”を示した。そこには三級の呪いがいるらしいのだが、わたしの目には何も映っていなかった。

「やっぱり何も見えないよ」

 わたしが呪いを確かに見たのは、彼と喫茶店に行ったときの一度きりだった。この一ヶ月半もの間、呪いの影すら見ていない。真希ちゃんに眼鏡を借りて人の多い新宿に赴いたこともあったが、狗巻くんには見えている呪いがわたしにはまったく見えなかったのだ。

 狗巻くんは眉をひそめた後、心配そうな表情を見せた。

「高菜」
「準一級も見えなかったらどうしよう」
「明太子」

 励ますような声に、自然と笑みがこぼれた。準一級術師の狗巻くんがいるのだから大丈夫だろう。こんなに心強いことはなかった。

 首肯しようとした瞬間、体に微弱な電気が走るような感覚がした。

 違和感を覚えて振り返れば、わたしたちが歩いてきた廊下のずっと向こうに何かがいた。

 とても大きな影だなと思った途端、何の前触れもなく夜目が効き始めた。寸前まで暗闇に目が慣れなくて足元すら覚束なかったはずなのに。

 疑問を抱いたのはそこまでだった。わたしの背中に怖気が走ったせいだった。

 その影は男のように見えた。大男だった。身長は二メートルを優に超えているだろう。遠目からでもわかるほど、その巨体はとことん鍛え抜かれていた。毛髪は一本もなかったが、赤い瞳は横並びで三つも付いていた。その瞳にあるのは虚無だけだった。

 既視感を感じた。見たことがあると確信していた。その暗い瞳は、確かあの山で――

 わたしと目が合うと、男はにたりと下卑た笑みを浮かべた。赤い糸でじぐざぐに縫われた唇が開いて、そこから何かが溢れていた。唾液だった。粘ついた液体が口からこぼれて、男の体をべったりと濡らしていた。

 途方もない恐怖で悲鳴を上げそうになった。しかし薙刀を強く握りしめることで堪えた。呪術師としての役目を果たさなくてはならない、その思いのほうがずっと強かった。

 戦う意思を奪うほどのおぞましさに、体が細かく震えていた。それでも、わたしは空元気に問いかけてみせた。

「あれは、人じゃないよね?」


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