間奏

 月も見えない暗闇に飲まれた閑静な住宅街の中を、棘とは並んで歩いていた。一定の間隔で設置された街灯だけが、二人の足元を確かに照らしていた。

 電車を降りてからずっと、棘は改造された制服の首元に深く顔を埋めていた。

 体がやけに熱かった。本当に熱でもあるのではないかと思うほどに。実際、肌には薄っすらと汗が滲んでいたし、ひんやりとした四月の外気に当たっているはずなのにいつまで経っても火照りは取れなかった。

「さすが東京!すっごい満員電車だったね!」

 装いの変わったが楽しそうに言った。

 どういうわけか彼女は駅に到着するなり、血染めの着物から軽やかな花柄のワンピースに着替えたのだ。“呪い”になったことで寒さや暑さを感じる感覚器官の一部が失われたらしく、ノースリーブのワンピース一枚でも平気な顔をしていた。

 の柔そうな細い腕が、棘の視界の端でちらついている。無機質な白い灯りに照らされて、ある種の艶めかしさが健康的な肌から滲み出ていた。夜がそうさせているのだと思ったし、棘のうるさい鼓動を更に加速させるには充分だった。

 棘は顔はおろか、視線さえもに向けられなかった。

 どうしては薄着に着替えたのだろうか。厚着というならまだしも。

 何故この状況で追い打ちをかけるような真似をするのか、まったく理解できなかった。に大きな意図などないことはわかっていた。ならばこの行き場のない感情はどう処理すればいいのだろう。棘はを腹の底でなじるしかなかった。

「わたしのことが見えないからって、あんなに押すことないのに」

 不貞腐れたその言葉で、先ほどの出来事が鮮明に蘇ってきた。

 互いの隙間を埋めるような密着感を思い出すだけで、の体の柔らかさをなぞるだけで、頭がおかしくなりそうだった。

 キャリーケースを掴む手に力が入った。

 忘れてと言ったのは、忘れると言ったのは、ではないか。どうしてここで掘り返してくるのか棘には疑問でしかなかった。思わず眉間に皺をきつく寄せた。

 棘はわかっていた。ここまで動揺している自分がおかしいのであって、普通に接しているが正しいことを。

 しかしどうしようもなかった。今すぐ両手で頭を掻きむしって気の済むまで絶叫したいくらい、混沌とした感情を持て余していたから。今も頭はひどく混乱したままなのだから。

「毎日あんな感じなの?朝も夜も」
「しゃけ」
「東京って怖いね」
「しゃけ」
「くっついちゃって本当にごめんね」
「おかか」
「呪術高専まであと少し?」
「しゃけ」

 動じていないふりができているのは声くらいのもので、棘は前を向いたまま機械的な返事を繰り返した。

 顔から一切の表情が消えた棘とは対照的に、は景色を眺めながら楽しそうにしゃべり続けていた。どうしては平気そうな顔をしているのか、棘には不思議でならなかった。

 にとって狗巻棘は恋愛対象外である――そう告げられているようで、空しいどころか絶望じみた感情が広がっていた。

 しかしそんな塞がった気持ちも、の言葉一つでいとも容易く解かれてしまうのだが。

「すっかり夜だね。なんだか悪いことでもしてる気分。そう思わない?」

 呪言師である棘はいつだって夜のような“帳”の中で仕事をしていたから、の言葉には同意しかねた。しかしここで否定することはの気分を下げることに繋がると思った。の笑顔を奪うような真似はしたくなかった。

 棘が小さく頷くと、はいたずらな笑い声を上げた。

「このまま二人でどっか行っちゃう?」

 自分の足が止まっていることに気づいたのは、が数歩先で振り返ったときだった。あまりのことに驚きすぎて、棘は硬直していたのだ。雷にでも打たれたような気持ちだった。

 逸る心臓が大きな音を打ち鳴らしていた。の提案に二つ返事で答えたかった。それ以外の選択など存在していなかったし、頭の中はすでに二人で向かう先のことでいっぱいになっていた。

 しかしながら、その提案が冗談であるということを棘は当然のように察していた。状況を冷静に見つめるもう一人の自分が、同意の言葉を喉奥に押し込めていた。馬鹿なことはするなと諫めるように。

 棘はの顔を凝視するに留まった。が困ったように眉を下げた。

「そんなに嫌そうな顔しなくても」

 の言葉に強いショックを受けた。嫌そうな顔をしたわけではなかった。必死で感情を抑え込んだ結果、なんともいえない複雑な表情になってしまっただけだったから。

 棘は誤解を解きたかったが伝えるすべを持ち合わせていなかったし、は立ち止まることなくすぐに話を進めてしまった。

「冗談だから安心して。そんなことしたら五条先生に怒られそうだし」

 五条に怒られるくらい何だというのだろう。それでもいいとすら考えてしまった自分に心底呆れながら、棘は再び歩き出した。さっきと同じように、の声に耳を傾けた。

「狗巻くんは真面目ぶってるだけって五条先生は言ってたけど、本当に真面目だと思うよ。わたしなら眠らない街を探検したくなるのに」

 棘は決して真面目ではなかった。が反対していなければ無賃乗車も見逃しただろうし、今だってと二人で夜を明かしたいと思っている。

 単に嫌われたくないだけだった。にだけは、絶対に。

「呪いだから補導されることもないし、見られることもないからどこへだって行けるよね。夜、こっそり抜け出してみようかなあ」
「すじこ」

 それは自分もついていくという意味だったが、は肩をすくめて笑った。

「わかってるよ。抜け出さないから」

 棘は下唇を噛んだ。もどかしかった。意味のある言葉がこれほどまでに必要になる瞬間がくるとは思ってもみなかった。

「でも、やっぱりちょっと抜け出してみたいな」

 跳ねるような声が聞こえた。が軽やかに塗装されたアスファルトを踏んでいく。膝丈のワンピースの裾が揺らめいて、棘の視線はいとも簡単に奪われた。

 ひとつ向こうの街灯の下で、笑顔を浮かべたが体ごと振り返った。

「狗巻くん」

 たったその一言で、体が面白いくらいに高熱を帯びた。の柔らかい唇が大きく開かれていく。

「呼んだだけっ」

 自分の言葉に可笑しくなったのだろう、が顔を背けて体を震わせていた。

 眩暈がしそうだった。膝から崩れ落ちそうだった。愛しさが込み上げて堪らなかった。

 心臓の脈打つ音が耳元から聞こえる。肺が押し潰されたように苦しくて、息がうまくできなかった。目を逸らせば楽になれるとわかっているのに、視界の中心には一人で笑い続けるが居座っていて、棘の呼吸を圧迫するばかりだった。

 自分から生まれた感情のはずなのに、自分ではまるで制御できない感情だった。

 その感情の名を棘は知識として知っているだけで、抱いたことは過去一度もなかった。似たような感情なら幼い頃に感じたことはあるものの、当時の棘は呪言の扱いに四苦八苦していて、それが確信に変わる前に全て消えてしまっていた。言葉でその相手を呪ってしまったからだ。

 幼い棘は予感にも至っていない感情を塗り潰すように、小さな背中には収まりきらないほどの罪悪感を背負うことになった。不用意に人を呪わないために言葉を選ぶようになり、意味のなさないおにぎりの具しか発さなくなった棘の周りからは、多くの人が去っていった。

 棘と深い関わりを持とうとする人間の数自体が減ったし、棘自身もそれでいいと思っていた。人を無闇に傷つけるより、ずっと気持ちが楽だったから。

 だから棘は知らなかったし、疑うこともなかった。に対する感情は自責の念から生まれたものだとばかり思い込んでいた。の助けになりたいと思うのも、に笑っていてほしいと思うのも、秘匿死刑を容認したことへの罪悪感からだろうと。

 はじめに違和感を覚えたのは、喫茶店でケーキを食べさせられたときだった。

 から善意の押し売りを受けた棘は、自らの異変を受け止めきれなかった。体が強張って、背中から変な汗が噴き出た。口を開いたの赤い舌にぞくりとして、気づけば口の中にケーキを放り込まれていた。

 味などわからなかった。そのせいで舌に纏わりつくクリームと柔らかいスポンジの触感だけが脳に届いて、少しだけ気持ち悪くなった。

 心臓の音の喧しさに耳を塞ぎたくなりながら、同年代の女子からケーキを食べさせられるような経験がまったくなかったからだろうと棘は結論を出した。単に慣れの問題だと考えたのだ。

 しかし、その感情に対して疑問が芽吹くまでにそう時間は要さなかった。荷物を受け取りに向かったの家で、棘は数枚の写真を見つけてしまったから。が別れた彼氏と撮った写真だった。

 仲睦まじい二人の姿を目に入れた途端、全身が鉛のように重くなった。一歩も身動きが取れなくなった。肋骨の奥から怒りとも悲しみとも嫉妬ともつかない感情が噴き出してきて、吐き気すら覚えた。があの場にいなければ、写真を破いていたかもしれないと思った。

 味わったことのない感情の名前を予感した。しかし勘違いだと信じたかった。初めて抱く感情である以上その可能性は否定できなかったし、いったいいつからその感情を抱いていたのかわからなかったから。もっとわかりやすいものだと信じていたから。

 しかし、母との別れに号泣しているを前にして、棘はおろおろと見ていることしかできなかった。あの“帳”の中では簡単に抱きしめられたのに、たったそれだけが難しかった。

 いきなり抱きしめるなど、馴れ馴れしいのではないか。そんなことをが望んでいるのか。さすがに格好をつけすぎではないだろうか。もし嫌われてしまったら、どうするのか。

 嫌われてしまったら――そう考えた途端、体が引き千切られるような痛みが駆け巡った。

 確信した。自覚した。その感情の名前を認めた。

 棘は完全に負けたように手を伸ばした。泣いているの手を握ること。それが初めての恋に落ちた棘にできる精一杯だった。

 だというのに。

「グリーン車?馬鹿じゃないの?」

 新幹線のデッキでスマホを片手にした棘は、うるさい黙れ死ねと思ったが言葉にはしなかった。五条を殺すために呪言を使うより、を守るために呪言を使うほうがずっと有用だと思ったから。

「何それ、お金持ってますアピール?露骨すぎては気づかないんじゃないかなあ。僕、指定席の分しかお金渡さないよ?」
「しゃけ!」

 浪費癖もない準一級術師である棘の預金残高は増えていく一方だったから、グリーン車のきっぷ代などさほど気にもならなかった。五条が一銭も出さなくとも文句ひとつ言うつもりはなかったし、むしろを快適に東京へ送り届けるほうが重要なことだと考えていた。

「で、東京駅からタクシーに乗るんだ?お金持ってますアピールその二ね」
「おかか!」

 どうしてこの男は気に障ることばかり言ってくるのだろう。恋に落ちた棘が面白くて仕方ないのだろうが、性格が悪いにもほどがある。五条は笑いながら言った。

「棘、電車で来てよ」
「……すじこ」
「お願い。後悔させないから」

 棘は満員電車の中で激しく後悔した。五条の頼みを素直に聞いてしまった自分の愚かさに言葉も出なかった。

 窮屈な車内でが押し潰されないように足を踏ん張った。との距離の近さに目を回しそうになりながらも必死で堪えた。

 しかし幸か不幸か電車は大きく揺れて――

「五条先生!」

 記憶を辿っていた棘の意識を引き戻したのは、やはりの声だった。目を向ければ、十字路の中心にやけに背の高い男が立っていた。

 待ち合わせ場所としてここを選んだのは五条だった。実を言うと呪術高専からはずいぶんと離れているのだが、曰く「いきなりみたいな“特級”が近づいてきたら皆びっくりしちゃうでしょ?」ということらしい。異論はなかった。

 五条は長い足を使って、数歩で距離を詰めてきた。

「遠路はるばるようこそ、
「先生に訊きたいことがあるんです」
「はいはい、呪術師の話でしょ。ちょっと待って」

 を軽くあしらうと、五条は棘に近づいてきた。

「護衛をどうもありがとう、忠実なる騎士様。それとも王子様のほうがお好みかな?」

 くつくつと笑いながら、芝居がかった動作で棘からキャリーケースを奪った。それから、棘にしか聞こえない声量でそっと囁いた。

「ね、最高だったでしょ?」

 その言葉に殺意じみた怒りが爆発しそうになったとき、がかぶりを振った。

「からかうのはやめてあげて下さい。狗巻くんはエイリアンの護送に成功した優秀なエージェントなんですよ」
「エイリアンの自覚はあるんだ?」
「あんなに人がいたのに、誰とも目が合いませんでしたから」
「ほら、言った通りだ。だからタダ乗りしろって言ったのに」
「それとこれとは話が別ですよ」

 はむくれたように五条を睨んだ。棘には決して見せない表情に胸がひどくざわついて、思わず地面に目を落とした。

 そういえばの元彼だという男は、五条に近い軽薄さを纏っていた。はこういう男が好みなのだろうかと疑問を抱いた瞬間、

「狗巻くん」

と、名を呼ばれた。はっとした棘が視線を上げれば、が穏やかな笑みをたたえていた。にやにやと笑う五条と目が合って、棘の強張っていた肩が緩やかに落ちた。

 そうか、己の役目はここまでか。胸が一気に空いていくのを感じた。

「今日は本当にありがとう」
「……おかか」
「おやすみ。また明日」

 優しく言いながら、が手を振った。たったそれだけで穏やかな感情が体の末端まで立ち込めた。五条への殺意すらも消えてなくなっていた。

 棘は小さく会釈をした。途端、視界が大きく変わって、棘の目の前には見慣れた建物が立ち並んでいた。



 棘が暮らす男子寮は女子寮のすぐ隣に位置していた。四階建ての男子寮は一階に談話室などの共有スペースが設けられ、二階から上の階は全て寮部屋という造りになっていた。

 重い足を引きずりながら談話室に進むと、見慣れた人影が目に入った。彼らは棘の気配を感じ取るや否や、顔を棘のほうにしっかりと向けた。

「おかえり、棘。遅かったな」
「転入生の案内って聞いたけど、大丈夫だった?」

 クラスメイトであるパンダと乙骨憂太が棘の労をねぎらうように言った。棘は思わずその場にしゃがみ込んだ。頭を深く垂れた後、長いため息を吐き出した。

 憂太が素早くソファから立ち上がって棘のもとへ駆け寄った。

「だ、大丈夫?!」
「……しゃけ」
「何かあったの?」

 棘は何と答えればいいのかわからなかった。考えあぐねていると、憂太が記憶を辿りながら訊いた。

「その子って、確か女の子だったよね」
「しゃけ」
「まさか彼女か?!」

 突然差し込まれた問いに、肩がびくっと大きく跳ねた。棘は重たい頭を上げた。パンダと目が合って、答えに詰まってしまった。

 は“呪い”とはいえ、可愛くて明るくて優しくて、加えて並々ならぬ芯の強さを持った魅力的な少女だった。関係を素直に否定することはしたくなかった。を取られたくない気持ちのほうが大きかったから。

 パンダや憂太の好みかどうかはわからないが、ここは嘘をついて牽制をしておくべきだろうか。しかし二人がに直接問いただせば嘘だと気づかれてしまうだろう。小賢しい真似などせず、真正面から“に手を出すな”と言ったほうが賢明か。

 棘が悶々と考え込んでいると、

「ほおーん」

と、間延びした声が聞こえた。パンダが棘を見下ろしてにやにやと笑っていた。

「彼女じゃないけど彼女にしたいと」

 パンダが口にした言葉に棘は愕然とした。口をパクパクさせていると、パンダが笑みを深くした。

「棘は全部顔に出るからな」

 そこまでわかりやすい百面相をしていた自覚はなかった。

「棘を差し置いて手を出すなんて絶対駄目だからな、憂太。呪われるぞ」
「出すわけないよ。パンダ君こそ」
「人間には興味ないんだがな」

 パンダの台詞にはっとなった。棘はもつれるように言葉を放った。

「おかか!」

 憂太が目を丸くした。パンダと顔を見合わせて、それからゆっくりと尋ねた。

「人間じゃないの?」
「しゃけ」
「……ってことは、まさか呪い?」

 棘がこくりと頷いた。パンダが途端に苦いものでも食べたような顔になった。

「ここに真希がいなくてよかったな。絶対アイツこう言うぞ。私達が殺すべき相手を好きになってどうすんだ、って」
「あー……違いないね」

 言いにくそうに憂太が同意した。のことを思い出しながら、棘は膝に力を入れて立ち上がった。

「棘?」

 パンダの呼びかけにも答えず、重い足取りで階段へ向かった。

「えっ?!もう寝るのか?!早くない?!その話もっと詳しく聞きたいんだけど!」
「疲れてるみたいだから今日は寝させてあげよう?」

 好奇心を丸出しにしているパンダを引き止めた憂太に感謝しつつ、棘は階段を一段ずつ上がっていった。

「本当に大丈夫なのか、あれ」
「ちょっと心配かな……」

 階下からかすかに聞こえた会話に、腹の底で答えていた。大丈夫なわけがあるか、と。

 自室の扉を開けて、顔からベッドに倒れ込んだ。スプリングが効いているせいで体が軽く跳ねた。

 ベッドに顔を埋めて思いきり叫びたかったが、呪言のせいでベッドや寮が粉々になる可能性は否めなかったので、棘は肺を空にすることで気持ちを落ち着かせようとした。

 顔とベッドの隙間に手を差し込んで、口元を覆う布を強引に下ろした。

 どうしてこんなデザインの制服にしたのだろう。どうして今日に限って制服を着てしまったのだろう。どうしてあのときファスナーを下ろしていなかったのだろう。

 もし制服でなければ、口元が隠れていなければ、と――

 静かになったはずの心臓がまた喧しくなった。棘はかさついた己の唇を触った。布越しに押しつけられた、柔らかい感触を思い出すように。

 棘はベッドにきつく顔を押しつけて、熱を帯びた体が冷めるのを待ち続けた。


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