女子寮
一軒家が立ち並ぶ住宅街は静かで、かすかに聞こえてくる生活音も和やかなものだった。わたしは下っ腹を押さえた。どこからか漂ってくるカレー特有のスパイシーな香りに、なんとなく腹が空いたような気がして。
血染めの着物は駅のトイレで脱いだ。トイレの姿見鏡に映るわたしは、さながらお化け屋敷に現れる女の幽霊のようだった。これで照明が暗かったりちかちかと点滅していたりすればもっと雰囲気が出るだろうなと思いながら、お気に入りの花柄のワンピースに着替えた。
重たい着物から解放されたわたしの足取りは軽くなるはずだった。しかし住宅街から漏れる淡い光はわたしに現実を叩きつけて、ひどく空しい気持ちにさせた。
いつもであれば同じ橙色が灯る家にいるはずだったのだ。母の好きなロールキャベツを作っていかもしれないし、ネットのレシピサービスを見ながら新しい料理に挑戦していたかもしれない。あの日常にしばらく身を置けないことを考えれば、物悲しくなるのは仕方のないことだった。
押し寄せる空っぽな気持ちを追い出すように、狗巻くんに話しかけ続けた。事故とはいえ電車の中であんなことをしてしまったというのに、彼はわたしの言葉に優しく相槌を打ってくれて、ずいぶんと気が紛れた。とはいえ狗巻くんは真面目なので、ふざけた会話には微塵も乗ってくれなかったけれど。
五条先生が現れたのは、駅から歩き始めて十分以上が経過した頃だった。
決して広いとはいえない歩行者専用道路が交わるその中心に、目隠しをした長身の男が立っていた。白い街灯の下に一人立ち尽くしているその姿は、不審者として通報されて然るべきという感じがした。
五条先生は幸運にも通報される前にわたしたちと合流し、わたしを送り届けた狗巻くんを瞬間移動させた。
わたしは五条先生を睨みつけた。
「どうして電車で来いなんて言ったんですか?瞬間移動させてくれれば交通費だって……」
「空間転移ね。一見とても便利だけど、意外と複雑な発動条件があってさ。今だって棘一人を飛ばすので精一杯だったんだよ?」
彼は困ったように肩をすくめたが、いまいち信用に足りない言葉だった。わたしが疑いの眼差しを向けると、話題を変えることで彼は追及の目から逃れた。
「訊きたいことは色々あるだろうけど、今日はひとまず休もうか。もう夜も遅いしさ」
「でも、わたしは眠らなくてもいいって」
「僕が眠りたいんだ。面倒な仕事をたくさん片付けてきた帰りで、もうくたくたなんだよ。だからいいよね?それとも僕をもっと疲れさせようって魂胆?」
わたしは口を閉じた。ずるい言い方だと思ったし、自分の身勝手さに腹が立った。しかしそれは五条先生の予想通りの反応だったらしく、彼は満足気な笑みを浮かべるだけだった。
キャリーケースを片手に五条先生が歩き出した。わたしは住宅街を見渡しながら訊いた。
「呪術高専ってどこにあるんですか?」
「ここからもっと離れた場所だよ」
思わず眉をひそめると、五条先生がわたしの足元を見つめた。それからあっさりと告げた。
「そんなものを連れて敷地内に入ってきてみなよ。間違いなく攻撃されるだろうし、そういう前例だってちゃんとあるからね」
つられるように地面に目を落とした。塗装されたアスファルトに浮かぶ影は、五条先生の影と何の違いもなかった。わたしの影だけ濃いわけでも、動いているわけでもない。何か気配を感じるわけでもない。
そこに“神様”がいるということ自体が本当なのかどうか、正直疑わしくなってきていた。ただわたしには確かめるすべがないので、五条先生の言葉や狗巻くんの態度を鵜呑みにするしかないのだが。
顔を上げると、邪悪な笑みを浮かべた五条先生と目が合った。
「ってなわけで、今から呪術高専に向かいます」
「今の話とうまく繋がってない気がするんですけど……」
「だったらどうするの?いつまで経っても入れないよ?」
訊き返されたわたしは押し黙った。こうして事前に教えてもらうほうが、まだ親切なような気がした。
歩きながら五条先生が何かをわたしに差し出した。
「はい、これ。学生証ね」
横からぬっと現れた学生証を両手で受け取った。
狗巻くんに見せてもらった学生証とまったく同じデザインで、高校の学生証に使われていた顔写真が流用されていた。
この写真を撮った頃のわたしは、今よりも化粧が下手だったのであまり気に入っていない。なんなら前髪の長さも気に入らないし、顔がはっきりわかるようにと前髪をセンターパートにされたことを根に持っているくらいだ。五条先生がどうやってこの写真を手に入れたかは定かではないが、できれば撮り直してほしかったというのが本音だった。
わたしの目は顔写真に留まったままだった。顔写真の左上部に付いている漢字が、狗巻くんと異なっているような気がして。
太く囲われた円の中に“特”とはっきり書かれていた。しかもその文字の横には小さく“(仮)”の文字が添えられている。
何のことかわからなくて、わたしは訊いた。
「この“特”と“カッコカリ”って何ですか?」
すると五条先生は宙に目を彷徨わせて、ぽつぽつと言った。
「あー……うん、その意味ね。特別扱いって意味だよ。特別に入学を許可しますって意味の“特”で、“(仮)”は……そうだな、人間に戻ったら退学しますって意味の“(仮)”ってこと。わかった?」
その場で意味を考えて話しているのは明らかだった。わたしは念を押すように尋ねた。
「本当ですか?」
「たとえ嘘だったとしても何も気にしなくていいよ。むしろこの場で忘れてもいいくらいだ。どうせそんな物差し、これからは何の役にも立たないし」
ぼそりと呟くと、五条先生は学生証を指差した。安心させるように穏やかに言った。
「とにかく、術師に襲われたらそれを見せればいいから」
納得などできなかったが、彼はわたしとの会話を完全に切り上げていた。これ以上問い詰めたところで無駄だろう。わたしは渋々頷いて、ワンピースのポケットに学生証をするりと入れた。
五条先生が闇夜の下で胡散臭い笑みを浮かべた。
「それじゃあ行きますか。呪術高専へ」
歩行者専用道路から明るい大通りに出た五条先生は、慣れた様子でタクシーを拾った。タクシーメーターは料金を加算し続けたが、長距離割引が適用される前にわたしたちはタクシーから降りた。
呪術高専は東京とはまるで思えないような深山の中にあった。
そこは夜に飲まれて真っ暗で、呪術高専へと至るまでの細い坂道には街灯のひとつもなかった。遠目に見えるぼうっとした光は、呪術高専の建物からの光らしかった。
なかなか夜目がきかなくて、わたしは五条先生の後ろをぴったりついて歩くしかなかった。キャリーケースの転がる音が静寂をかき消していて、辺りが暗くても怖気はそれほど襲ってこなかった。
無言で歩きながら、わたしはタクシーでの会話を頭の中で反芻していた。
東京都立呪術高等専門学校東京校は、日本にたった二校しか存在しない呪術教育専門機関のうちの一校だった。
もう一校は京都に存在していると聞いて、京都校のほうが優秀そうだなと思った。物の怪や怨霊の歴史が深いのは京都だし、妖怪を題材にした物語は何かと京都が舞台になりがちだ。かの有名な陰陽師も京都で活躍していたはずだった。
どちらが優秀なのかは訊かなかった。五条先生なら東京校だと即答しそうだったし、身内は徹底的に贔屓しそうな人だと思ったから。
呪術高専は表向きには私立の宗教系高校の扱いを受けているそうだ。教育だけではなく多くの呪術師に対して任務の斡旋やサポートも行っているという。
呪術師にとっての活動拠点のようなものかと理解した。しかもその拠点は文科省や内閣の管轄ではなく完全に独立した行政機関だというのだから、わたしは心底驚いてしまった。かつての陰陽寮の流れを汲んでいるそうで、いうなれば呪術師は天皇陛下お墨付きの国家公務員のようなものらしかった。
「インチキな職業じゃないよ。僕らの給料は税金から支払われているし、意外かもしれないけど福利厚生もバッチリだ。ただ働き方改革にはもう少し時間がかかりそうかな。上は保守派の死に損ないばっかりだからさ」
質問は明日にしてと言った割に、五条先生は律儀に答えてくれていた。単にタクシーの乗車時間が長くて暇だっただけかもしれないが、前もって情報を得られるのはわたしにとって幸運だった。自分がこれから身を置く場所のことは、少なからず把握しておきたかったから。
しばらく歩き続けると、夜目にもわかるほどの大きな建物が見えてきた。わたしは修学旅行で行った京都を思い出していた。あれはもしや五重の塔だろうか。荘厳な木造建築物がそびえ立っていて、全容がとても気になった。早く夜が明ければいいのにと思った。
呪術高専の敷地は非常に広大で、緑の隙間から垣間見える建物は目を瞠るくらい立派であるのに、その出入口である門はとても簡素なものだった。時代劇で見るような城門の造りによく似ていた。
「強力な結界を張るには、これくらいがちょうどいいんだよ」
と言いながら、五条先生は中に入っていった。呪いであるわたしは侵入を阻まれるのではないかと一瞬身を構えたが、何事もなくすんなりと敷地内に足を踏み入れることができた。
緑の多い敷地内には、武家屋敷のような和風建築の建物が点在していた。灯りが点いている建物もあれば、そうでない建物もあった。
江戸時代にタイムスリップでもしたようだった。きょろきょろと視線を彷徨わせながら五条先生についていくと、彼は四階建ての建物の前で足を止めた。
並んでいるその二棟の建物だけが洋風の建築様式で、完全に周囲から浮いていた。
「ここが寮だよ。女子寮は目の前のこっちだから、間違えないようにね」
五条先生はそう言うと、わたしにキャリーケースを預けた。
「学長との面談は明朝八時から。十分前に僕とここで待ち合わせだ。遅刻しちゃ駄目だよ?」
「はい。その面談って」
「
はどうして呪術高専に来たの?」
声を遮るように投げかけられた問いに、わたしは一瞬たりとも迷わなかった。五条先生の目隠しの奥を射るように見据えて、深く息を吸い込んだ。
「体を取り戻して、人間に戻るためです」
「それがはっきり言えるなら大丈夫だよ」
わたしが頷いたのを確認すると、五条先生がポケットに手を突っ込んだ。
「今夜はこのまま女子寮でゆっくり休んで。
の部屋は二階西側の角部屋だよ。それからこれも渡しておくね」
と言いながら、淡いローズゴールドのスマホをわたしに手渡した。
「何かと不便でしょ?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。スマホ代は給料から天引きにするから、しっかり働いてね」
わたしはポカンと口を開けた。
「……拒否権なんてないじゃないですか」
「じゃあ踏み倒す?別に僕はそれでも構わないけど、
は許せない性格でしょ?」
五条先生がこの僅かな時間で、わたしの性格も弱みも把握していたことが少しだけ恐ろしかった。退路を断たれたわたしが小さく首肯すると、彼は愉快そうな笑い声を上げた。
「アルバイトだとでも思って頑張ってよ。普通のアルバイトより遥かに割はいいと思うし、何の修行もつけずに行かせやしないからさ」
そう言い残して、五条先生は颯爽と去って行った。立ち止まることも振り向くこともなかった。
わたしは女子寮の扉を開いて、そうっと中に入った。
電気は点いているものの、人の気配はしなかった。洋風な外観とは異なり、内装は和風寄りの造りになっていた。
二階へ続く木製の階段を探し当てると、重いキャリーケースを両手で下げながら一段ずつ上がっていった。
長い廊下に出たところで、スマホに入っていた方位磁石アプリを立ち上げて方位を確かめた。知らない土地に来たせいで方角の感覚が狂っていたから。
わたしは廊下を右に進んで、角部屋の前に立った。西側の角部屋はここだろう。迷いなく扉に手をかけたが、開かなかった。
押したり引いたりを繰り返してみたものの、どうやら鍵がかかっているようだった。そういえば鍵を渡されなかった。むきになったわたしは、ガチャガチャと取っ手を鳴らした。当然ながら、扉が開くことはなかった。
部屋を間違えたのだろうかと思ったそのとき、鍵が開く金属音が耳に届いた。
中には誰かがいたようだった。顔から一気に血の気が引いていった。迷惑極まりない行為をしてしまったことを恥じたし、怒らせてしまったのではないかと怖くなった。
焦燥感に駆られながら、開く扉を避けるように足を移動させた。
部屋の中からぬっと顔を出したのは、墨を垂らしこんだような髪を持つ少女だった。
Tシャツにハーフパンツというラフな格好で出てきた彼女の黒髪は、びっしょりと濡れすぼっていた。今しがたまでシャワーでも浴びていたのだろう、垂れた水滴が首に巻かれた白いタオルに染み込んでいった。
目鼻立ちのくっきりとした少女は扉を開けたまま、
「は?」
と低い声を漏らした。
彼女の長い睫毛が上下したが、視線が絡んでいるような感じはしなかった。呪術師には呪いが見えるという。妙な違和感を覚えながらも、わたしはその場で頭を下げた。
「ごめんなさい。部屋を間違えました」
言い終える前に、彼女は勢いよく部屋の中に戻ってしまった。どうしたのだろうと疑問を抱く暇すらなかった。扉が閉まるより早く、その足音が戻ってきたから。
バンッと勢いよく扉が開いたかと思うと、視界の先で何かが光ったような気がした。
一瞬だった。何も見えなかった。何が起こったのかもよくわからなかった。
気づいたときにはもう、わたしの命は脅かされていた。彼女は殺意のみなぎった視線を向けながら、その手に持った薙刀でわたしの首を狙っていたのだ。
首元に刃の切っ先が押しつけられて、喉だけでなく体中の筋肉が硬直していた。呼吸は自然と浅くなっていた。その鋭い圧迫感に全ての神経が集中していた。
「何でここに呪いがいるんだよ。しかもこの感じ、間違いなく“特級”だよな?どうやってここのセキュリティをかいくぐってきた?お前の狙いは何だ?」
地べたを這うような声に、わたしは目を見開いた。彼女の尖った視線はわたしの目を真正面から射抜いていた。
少女のハーフリムの黒縁眼鏡に、自身の前髪から垂れた水滴がついている。つい先ほどまで彼女は眼鏡をかけていなかった。もしかして極度の近視でわたしを認識できていなかっただけだろうか。
五条先生の言葉が脳裏に浮かび上がっていた。学生証の入ったポケットに手を伸ばそうとすると、鋭利な先端がわたしの喉元を押す感触がした。
「動くんじゃねえよ。質問にだけ答えろ」
殺意に濡れた声が廊下に響き渡った。呼吸することすら忘れるほどの恐怖が、わたしを頭から喰らい尽くした。
五条先生は攻撃されると言っていた。その意味をようやく理解した。この身をもって。脳がやっと状況を把握したのだろう、遅れてわたしの体が末端から震え始めた。
怖かった。このまま殺されると思った。わたしは目を大きく見開いた。そうでもしないと今にも涙が溢れそうだったから。
「呪術高専に通うことになった……
です」
わたしの声は震えていたし、薄っすらと涙に濡れていた。少女はきつく眉根を寄せた。
「証拠は?」
わたしは恐る恐る学生証を取り出し、彼女の前に突き出した。奪うように受け取った彼女は、すぐに薙刀を持っていた左手を下ろした。大きなため息をひとつ吐き出すと、呆れたように肩を落とした。
「呪われた奴の次は呪い本体かよ……」
突き返された学生証に目を落とすと、みるみる視界が滲んだ。目から涙が溢れて止まらなくなった。
学生証にぽたぽたと涙が落ちて、わたしはひどく焦った。堪えていた恐怖が押し寄せてきているだけで、泣きたいわけではなかった。しかし涙はどんどん溢れていった。
彼女が濡れたままの後頭部を掻いた気配がした。
「いきなり悪かったな……けど、ここは私の部屋だぞ」
わたしが頷いた拍子に、溢れた涙が床に数滴落っこちた。
「本当にごめんなさい……二階の、西側の角部屋だって聞いたから……」
「はあ?!あの馬鹿目隠し、わざとやりやがったな!」
それは絶叫だった。大きく肩をびくつかせたわたしが顔を上げれば、彼女が申し訳なさそうに眉を下げていた。
「あー……なんだ、お前は何も悪くねえ。騙されただけだ、あの野郎に」
少女は言い終えると薄く笑った。少しでもわたしの気持ちを落ち着けようとしているようだった。
「禪院真希。二年だ。突っ立ってないで中に入れよ。詫びに茶の一杯くらいは出すからさ」
通された広い一室には物が少なく、きっちりと整理整頓されていた。
温かい緑茶を口にする頃には、わたしの涙は引いていた。ローテーブルの真向かいにあぐらで座っている真希ちゃんが、タオルで髪を拭きながら納得したように言った。
「――で、“呪い”になったわけか」
彼女が緑茶を煎れている間に、わたしはこれまでの経緯をかいつまんで話した。
自分でも完全に理解しているわけではない内容だったから、あちらこちらに話が飛んでしまった。時系列だってぐちゃぐちゃだった。しかし真希ちゃんは最後まで根気強く聞いてくれた。
ティッシュで濡れた頬を拭って頷くと、真希ちゃんは神妙な様子で言った。
「それ、ほとんど“神降ろし”じゃねえか。お前、本当に今まで何も見えなかったのか?」
「あの化け物のこと?見えなかったし、呪いになってから見たのも一回だけだよ」
言うと、真希ちゃんが怪訝な顔をした。それから確かめるように訊いた。
「どうやってここまで来た?馬鹿目隠しに運んでもらったのか?」
「ううん。東京までは狗巻くんと電車で、そこからは五条先生とタクシーで」
「……妙だな。そいつが
の視野に制限でもかけてんのか?」
彼女の鋭い目線はわたしの足元に向けられていた。わたしは首を傾げた。
「どういう意味?」
「地方より東京のほうが呪いは多いだろ。見てねえほうがおかしいんだよ」
「そうなの?」
続けて尋ねれば、真希ちゃんは顔を引き攣らせた。頬の筋肉がぴくぴくと痙攣していた。
「お前、呪いが何かは知ってんのか?」
「気味の悪い化け物のことでしょ?」
「そうじゃねえ。どうやって生まれてくるかって話だ」
わたしは素直にかぶりを振った。“呪い”の詳細について、まったく聞かされていなかったから。
「自分の正体も知らねえのかよ……職務怠慢にもほどがあんだろ、あの馬鹿教師」
真希ちゃんは忌々しげに吐き捨てると、わたしとまっすぐ目を合わせた。大切な話が始まる予感がして、わたしは背筋を伸ばした。そして彼女がゆっくりと口を開いた。
「いいか。呪いは人間の負の感情が集まってできたものだ。悲しいとか憎いとかそういう感情だな。呪いは人を襲う。日本での怪死者や行方不明者の数、お前知ってるか?年間平均一万人前後だ。それだけの数の人間が、呪いによって殺されている」
「そんなこと、ニュースには……」
「なるわけねえよ。呪いと遭遇すれば最後、死体が残ること自体少ねえからな。しかも死体はぐちゃぐちゃな場合がほとんどだ。誰の死体かなんてわかんねえほどにな」
わたしは湯呑みを強く握りしめた。
「わたしは、人を襲いたくなんてないよ」
「
はそう思ってても、そこにいるそいつがどう思ってるかはわかんねえぞ」
真希ちゃんはわたしの足元を指差した。その通りだった。“神様”がどう思っているかはわからなかった。あの満員電車の中でも大人しくしていたのだから、人を襲うことなどないと思いたいものだが。
「地方より東京のほうが呪いの数が多いのは、単純に人口の問題ってこと?」
「そういうことだ。だから見てねえほうがおかしいはずなんだけどな」
そう言いながら真希ちゃんが眼鏡を外し、ローテーブルの上に置いた。
「かけてみろ」
言われた通りにした。眼鏡に度は入っていなくて、伊達眼鏡のようだった。
「何か見えるか?呪具の残穢くらいなら見えてもおかしくねえんだが」
「何も見えないよ」
「もし何も見えなかったら眼鏡は外してくれ」
わたしが外した眼鏡を真希ちゃんに差し出すと、彼女は困ったような顔をした。
「悪いな、それ置いてくれねえか。私には見えねえから」
眼鏡をかけ直した真希ちゃんが、わたしに笑いかけた。
「私はこれがなきゃ呪いが認識できなくてさ」
「それじゃあ最初に扉を開けたとき、びっくりしたでしょ?本当にごめんね」
「いい、気にすんなって。寮だからって油断してた私が悪い。相手がお前じゃなきゃ死んでたかもしれねえし」
真希ちゃんは自虐的なことを言ってから、考え込むように顎を触った。
「
も呪術師になるんだろ?」
「うん。そう聞いてるよ」
「呪いが見えねえのは問題だな。どうやって殺せって言うんだ」
「殺す?」
不穏な言葉が聞こえたような気がした。思わず訊き返すと、真希ちゃんが深く頷いた。
「呪いを祓って殺すのが呪術師の仕事だからな」
そこで言葉を切って、彼女は立ち上がった。湿ったタオルを片手に、脱衣所のほうへと歩いていった。
「
、今日はここに泊まっていけ。空いてる部屋ならいくらでもあるけど、どこ使えばいいかわかんねえし、寝込みでも襲われたら洒落になんねえだろ」
「ありがとう」
それからわたしはお風呂を借りた。髪を乾かして脱衣所から出てくる頃には、真希ちゃんはわたしの分の布団を敷き終わっていた。
わたしが布団に潜り込んでスマホを触り、面倒な初期設定を全て完了させたとき、薙刀の手入れを終えた真希ちゃんがベッドに深く座った。
「そういや、棘と一緒に来たって言ってたな」
画面から顔を上げれば、彼女は気遣うような目線をわたしに寄越した。
「ちゃんと意思疎通できたか?アイツ、おにぎりの具しかしゃべらねえからさ」
「おにぎりの具だったんだ……」
狗巻くんの単語選びの基準にはずっと疑問を抱いていたが、それがやっと理解できてすっきりとした。しゃけ、おかか、ツナ、ツナマヨ、こんぶ、すじこ、明太子。思い返してみれば確かにおにぎりの具だった。
納得しながら、わたしは再びスマホに目を落とした。
「狗巻くんっていい人だね。優しいし、親切だし、気も遣ってくれるし……他人のこと、よく見てると思う」
真希ちゃんが部屋の電気を消した。暗くなった部屋の中で、わたしのスマホの画面だけが眩しく光っていた。
「棘、彼女いねえぞ。何なら初恋もまだじゃねえかな」
「……どうしていきなりそんな話?」
「なんだ。てっきり棘のこと好きなのかと思ったから」
わたしは瞬きを数回繰り返して、明るく光る画面を指でスワイプさせながら言った。
「“呪い”に好かれたって、迷惑なだけだよ。ましてや狗巻くんは呪術師なんだから」
真希ちゃんは何も言わなかった。布団に潜り込む音が聞こえただけだった。わたしはしばらくスマホで調べ物をして、それから静かに眠りについた。
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