満員電車

 新幹線で東京駅まで向かい、そこから在来線に乗り換えて呪術高専を目指すことになった。

 わたしの家から最も近いターミナル駅に到着した頃には、青かった空は焼けたような橙へとすっかり色を変えていた。時間帯のせいだろう、制服姿の学生だけでなく背広を着た大人たちも次々と改札口へ吸い込まれていく。軽快な電子音とともに。

 人の往来を目で追いながら、わたしは駅のきっぷ売り場で思わず叫んでいた。

「無賃乗車なんてできないですよ!」

 通話を見守っていた狗巻くんが、突然つんざいたわたしの怒声に目を丸くした。すぐに寄越される窺うような目線に、沸騰した怒りがみるみるうちに引いていった。

 空いた左手を振って大きな問題ではないことを伝えると、わたしは声を調子を整えながら問いかけた。

「犯罪だってわかってますか?」

 スマホの向こう側にいる飄然とした教師は、あろうことか生徒に不正乗車をしろと犯罪行為を指示してきたのだ。信じられなかった。

 しかも彼はあたかも自分こそが正当であり、わたしの言い分などまるで理解できないとでもいうような口振りで疑問を投げつけてきた。

「どうして?は呪いなんだよ?誰も見てないからいいや、ラッキー!とか思わないわけ?」
「思いません。狗巻くんは見てますし、呪いが見える人に遭遇する可能性だって……」
「ないない。遭遇したって見て見ぬふりに決まってる。って真面目だよねえ、お金も持ってないくせに」

 付け加えられた一言は間違いなく嫌味だった。うっ、と言葉を詰まらせる。それでも何とか一矢報いようと頭を全力で回転させた。

 わたしが眉間に力を込めていると、するりとスマホを奪われた。しかめっ面の狗巻くんがスマホに耳をあてて、

「おかかっ!」

と、電話の相手を強く叱りつけた。彼は鋭く尖った声を容赦なく浴びせ続けた。

「すじこ!……おかか!こんぶ!明太子!」

 狗巻くんは鼻息を荒くして、わたしの右手にスマホを戻した。「ツナ」と券売機を指差すと、制服のポケットから財布を取り出しつつ急ぎ足で向かってしまった。

 話がどこに着地したのかわからないまま、わたしは再びスマホを耳に近づけた。スピーカーから五条先生の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、脱力したせいで肩がすとんと落ちた。

「ねえ聞いてた?怒られちゃったよ。ものすごい剣幕だったね、怖い怖い」
「当たり前だと思います」
「いやあ、君たち本当に真面目だねえ……って言っても、棘は真面目ぶってるだけだろうけど」
「どういう意味ですか?」
「男は格好つけたい生き物だからさ」

 わたしは意味がよくわからなくて、適当な相槌を打つに留めた。五条先生が思い出したように付け加えた。

「あ、のきっぷ代は棘に立て替えてもらって。お金は僕が後で渡しておくからさ」

 スマホを片手に、その場で小さく頭を下げた。

「本当にすみません」
「いいよ。ちゃんと体で払ってもらうから」
「……体で?」
「そう。……カ、ラ、ダ、で」

 五条先生は一音ずつ区切って艶っぽく言った。その語尾は跳ねるように上がっていた。もったいぶるような口調に怖気が走り、この一瞬の記憶を脳内から完全に消し去りたくなった。それほどまでに気味が悪かった。

 しかし残念ながらというべきか、それは今のわたしには聞き逃せない言葉だった。冗談だと切り捨てられる内容ではなかったせいで、鳥肌の立つような声音が頭をぐるぐると回り続ける羽目になった。

 嫌な想像が次々と浮かび上がってきた。東京には色々な街があるという。ならば呪いであるわたしはその物珍しさで見世物にされたり、売り飛ばされてしまったりする可能性もあるのではないか。五条先生はわたしを殺せないと言っていたし、生きたまま腕や足を千切られるのかもしれない。

 この男がそこまでの外道であるとは考えたくないが、完璧に否定できるだけの要素は持ち合わせていなかった。

 訝しんで無言になったわたしに、五条先生は朗らかな声で言った。

「冗談だよ」
「……本当に?」
「当たり前でしょ。には呪術師としてバリバリ働いてもらうって意味だから」

 続けられた言葉は、わたしを驚かせるには充分だった。

「わたし、呪術師になるんですか?」
「あれ?言ってなかったっけ?昨今の少子化や高齢化、それに伴った人手不足の波はこの業界にも押し寄せてきてるんだよ。呪術師は才能が八割の厳しい世界だから、やっぱり母数が減るとどうしてもね」
「人手不足……」
「しかも去年のクリスマスに結構な数の術師が殺されちゃってさ。猫の手と言わず呪いの手も借りたいくらいなんだ。頼りにしてるよ、

 わたしは小さくかぶりを振った。呪術師など無理だと思った。そもそも目的が違う。わたしが呪術高専に通う理由は、人間に戻る方法を探すためだ。呪術師になるためではない。

 しかも彼は今“術師が殺された”と言っていた。多量の血液を吐いていた狗巻くんの姿が脳裏を掠めた。呪術師がいったい何をする職業なのかは定かではないが、死と隣り合わせの危険な仕事であることは理解できていた。

 困惑した。それも激しく。そこで初めてわたしが足を踏み入れた世界について認識した。わたしの考えが到底及ばないような、常識がまったく異なる場所だと気づいた。

 見世物として売り飛ばされるほうがずっとましだと思った。危険が待ち構えている場所にリスクを冒して自ら飛び込む覚悟など、どこを探しても見つかりそうにない。

 口を開こうとしたが、先に放たれたのは五条先生の浮ついた声だった。

「ほら、言うじゃない?働かざる者食うべからず、ってね。まあそういうことだから首を長くして東京で待ってるよ。それじゃまた後で!」

 ぷつっと一方的に通話が切れて、わたしはスマホの画面に目を落とした。

 あまりの出来事に怒りすら湧いてこなかった。何が“そういうこと”なのか、さっぱりわからなかった。五条先生は説明不足に加えて非常に楽観的だった。怒鳴りつけたくなるほどに。

 彼にはなんとかなるだろうと思い込む節があることは間違いないが、もしやそれはわたしが呪いだからなのだろうか。呪いは雑な扱いでもいいだろうという判断なのか。もう死んでいるから危険な仕事をさせても問題ないということか。やはりわたしには人間としての権利はもう存在しないのか。

 悶々と考え込んでいたら、きっぷの購入を終えた狗巻くんが小走りで戻ってきた。

「狗巻くん」
「こんぶ」
「五条先生ってどこまで信用していいのかな」

 狗巻くんは僅かに眉をひそめた後、はっとしたようになった。

「ツナマヨ!」

と言いながら、わたしの手にあるスマホを指差していた。返せという意味かと思い、狗巻くんから借りたスマホを差し出せば、彼は画面に浮かぶ時刻を何度も指で示した。

「ツナ!」
「えっと……あ、新幹線の時間?」
「しゃけ!」

 狗巻くんは頷くと、改札に向かって駆け出した。キャリーケースの車輪が大きな音を立てた。

「え……もっと遅い時間でも――」
「おかか」
「駄目なの?どうして?」
「おかか!」
「……わかった。とにかく急げばいい?」
「しゃけ!」

 わたしは走った。慣れない着物を身に纏っているのに、不思議と体は軽かった。すんなりと走ることができた。村人達に追われたときのことが嘘のようだった。

 灰色のキャリーケースが狗巻くんに引きずられていくのを見つめながら、新幹線の乗り場に向かって駆け続けた。



 新幹線のグリーン車は人もまばらで、とても静かだった。自由席に並ぶ人の列はとても長かったから、この新幹線を利用している人が少ないというわけでもなさそうだった。

 わたしは窓側の席に座っていた。グリーン車に乗るのは初めてだった。自由席よりもうんと割高な分、座席は広々としていて快適だった。

 狗巻くんはわたしのためにグリーン車を選んだ。一般人から認識されないわたしを自由席に座らせるわけにはいかないから。無用なトラブルを回避するためだった。その理由なら指定席でもよさそうなものだが、彼はグリーン車を選んだようだった。もしかしたら、二つの座席を並んだ形では取れなかったのかもしれない。

 必死に走った甲斐もあり、目当ての新幹線に無事に乗ることができた。

 狗巻くんがわたしを急かしていたのは、呪術高専への到着時間を少しでも早めるためだった。五条先生の指示とはいえ、あまり遅くなることは避けたほうがいいという狗巻くんの判断だった。東京には多くの呪いが蔓延っているらしく、遭遇しないに越したことはないそうだ。

 それにはわたしも同意した。喫茶店を出てからは呪いを一度も目撃していないが、できれば出会いたくなかった。思い出すだけで身がすくみそうだ。

 ちなみにこの比較的短い会話を成立させるまでに、新幹線二区間分の時間は要している。

 狗巻くんとの会話は複雑になればなるほど、難度が高くなることがよくわかった。根気強さが必要になるのはもちろんだが、会話時間の短縮に限って言うならわたしの洞察力が大きく関係してくる。彼との会話をより円滑に進められるように、もっと汲み取る眼を養わなければならないだろう。

 次の停車駅は東京駅だった。時間が経つのはあっという間だった。

 浮き立つ気持ちを隠し切れず、わたしは声を弾ませた。

「東京なんて初めてだよ。どうしよう、ちょっと緊張してきた」
「高菜」
「ううん、わくわくしてるだけ。観光する時間ってある?学校がお休みの日とか」
「しゃけ」

 猛スピードで流れていく景色を眺めながら、わたしは東京に思いを馳せた。空には暗い夜が訪れていて、建物や車の人工的な光は細い線を引いて新幹線の窓から消えていった。

「行きたいところ、いっぱいあって。上野に浅草に原宿、お台場、丸の内、銀座でしょ……後は新宿や六本木にも行ってみたいし……」

 知識として知っている地名を見境なく口に出した。両手を使って数え終わったところで、狗巻くんに目をやった。

「ツナマヨ」

 狗巻くんは穏やかに笑って、トントンと自分の胸を軽く叩いてみせた。任せておけというような仕草だった。わたしは意味を受け取り損ねないように注意を払って訊いた。

「案内してくれるの?」
「しゃけ」

 とてもありがたい気遣いだったが、嫌なむず痒さが心臓の辺りで蠢いていた。

 わたしは狗巻くんにずっと迷惑をかけ続けている。荷物の受け取りに付き合わせ、胸を借りて大泣きし、飲食代のみならずきっぷ代まで立て替えさせている。そのうえ観光にまで付き合えというのは、いささか度が過ぎているだろう。さすがにそこまで彼の親切心につけ込むわけにはいかなかった。

 気を悪くさせないよう、わたしは笑って明るく言った。

「ありがとう。狗巻くんが暇で暇で仕方がなかったら、お願いしてもいい?」

 狗巻くんはすぐには答えなかった。しばらく考え込んだ後、こくりと小さく頷いた。



 新幹線は定刻通りに東京駅へ到着した。

 首都東京の総人口は一千万人を遥かに超える。知識として頭には入っていたものの、まるで想像もついていなかった。

 どこを見ても人がいたし、皆が急ぎ足だし、立ち止まっている余裕がなかった。わたしを視認できていない人々に次々とぶつかられたが、彼らは透明な障害物に怪訝な顔をするだけで足を止めることはなかった。

 わたしは溢れる人の多さに目を回していた。人の波に飲まれそうになっていたら、狗巻くんが手を引いてくれたおかげで迷子にならずに済んだ。連絡手段を持ち合わせていない今、迷子になったらわたしはその場でじっと狗巻くんを待つしかないだろう。

 入り組んだ駅構内をひたすら歩き、なんとか在来線に乗り換えることができた。

 しかし、わたしは東京という場所を真の意味で理解できていなかった。

 呪術高専は東京の郊外にあった。郊外から中心部へ通勤や通学をしている人は少なくなかった。それがちょうど帰宅ラッシュの時間帯と重なってしまったのだった。

「東京やばい」

 わたしはすし詰めの電車の中で、小さく感想を漏らした。テレビでしか見たことのなかった光景が目の前に広がっていた。どこを見ても人だらけで、ひとつの車両にいったい何十人が詰め込まれているのか数えてみたくなる。

 身動きひとつ満足にできないほど窮屈だったが、わたしの背中には扉がくっついていて、他の場所に比べれば比較的快適なほうだった。しかも腰に巻かれた固い帯がクッション代わりになっていて、扉の無機質な硬さからもやや解放されていた。

「高菜」

 わたしの声を拾い上げた狗巻くんが言った。狗巻くんはわたしの真正面にいて、わたしを他の乗客から守るように立っていた。認識されなければどういうことになるのか、彼はわたしよりもわかっているようだった。

 扉のすぐそばに備えつけられた銀色の手すりを掴みながら、わたしは静かに問いかけた。

「本当にごめんね。大丈夫?」
「しゃけ」

 電車は次の駅に到着した。しかし、降りる人間よりも乗る人間のほうがずっと多かった。一分でも早く帰宅したい人々が体をねじ込んできて、背中を強く押された狗巻くんの体がわたしに大きく近づいた。

 わたしを認識できない人たちからしてみれば、彼と扉との間にはまだ一人分の空間があるように見えるのだろう。狗巻くんは後ろの人にますます押されて、わたしの頭の横に勢いよく手をついた。大きな音にびっくりして、わたしの肩が大きく跳ねた。

「……高菜」

 狗巻くんの申し訳なさそうな顔が、目と鼻の先にあった。抱き寄せてくれたときのことを思い出しつつ、わたしは深く頷いた。

「全然平気だよ、ありがとう。狗巻くんは?」

 狗巻くんが頭を小さく縦に振って答えた。黒い制服に鼻まで埋め、狗巻くんはわたしの壁に徹してくれた。

 わたしは目だけを下に落とした。着物に染みついた赤い血液の酸化が進んで、すっかり黒ずんでしまっていた。

 ふと不安が頭をもたげた。異臭はしていないのだろうか。五条先生は臭くならないと言っていたが、それは今のわたしの話であり、この血液は間違いなく死ぬ前のわたしの血だ。鉄臭さを帯びた生々しい血の匂いを思い出し、その場ですんすんと鼻を鳴らした。匂いは漂ってこないが、鼻が慣れてしまっただけという可能性もあり得る。先に駅で着替えればよかったかもしれない。

 狗巻くんに血臭のひどい女だと思われていたら――そう考えたところで、わたしはやっと納得した。泣いていたとき、すぐに抱き寄せてくれなかったのはおそらくそのせいだろう。

 すまない気持ちが湧き上がってきたとき、突然電車が大きく揺れた。

 誰も彼もが体のバランスを崩した。あまりの重みに耐え切れなかった狗巻くんがわたしのほうへと倒れ込んできた。体の正面がぴったりと密着し、より強く圧迫されていった。

 わたしのそれほど大きくない胸が着物越しに押し潰される感じがして、セクハラの文字が脳裏を駆け巡っていった。狗巻くんに今すぐ土下座したい気持ちが込み上げてきて、泣きそうになった。

 好きでもない女に胸を押し付けられるのは不快だろう。ましてや相手は呪いだし、加えて血の匂いがひどいとなれば狗巻くんが抱える嫌悪感は相当なもののはずだった。

 不可抗力だ。わたしのせいではない。電車が悪い。満員電車のせいだ。

 なんなら電車で東京まで来いと言った五条先生が悪い。

 五条先生が往路と同様に復路も瞬間移動をさせてくれていたなら、こんなことにはならなかっただろう。瞬間移動なら早いし交通費も浮くし、一石二鳥ではないか。何故出し惜しみをするのか。ケチなのか性格が悪いのか、おそらく後者だとは思うが納得などできない。五条先生もこの満員電車で潰れたパンになったような気持ちを味わってみればいいのに。

 下らない言い訳ばかりが浮かんでは消えていった。はたと我に返ったのは、電車が揺れたことに対する謝罪のアナウンスが車内に流れたときだった。

 とにかく早く謝らなければと思ったとき、耳元で喉が上下する小さな音が聞こえた。わたしの音ではなかった。狗巻くんの喉が奏でた音だった。

 張り詰めた緊張感と確かな体温が服越しに伝わって、わたしの呼吸は僅かに止まった。まるで心臓を鷲掴みにされて、強く揺さぶられているようだった。

「……たか、な」

 声量を抑えたせいで掠れた声が、わたしの耳の表面をそっと撫でた。全ての体毛が逆立つような感じがした。痺れに似た何かが背中を這い上がって、反射的に小さな悲鳴じみた声が喉の奥から漏れそうになるのを必死で堪えた。

 ふっと顔を上げたとき、狗巻くんの顔がすぐ近くにあった。大きく瞠った薄茶色の瞳には、驚いた顔のわたしがはっきりと映っていた。

 キスでもできそうなその距離に、一気に羞恥が込み上げた。顔に熱が集まっていくのが嫌でもわかった。

 わたしが目を伏せようとした瞬間、再び電車が大きく揺れた。

 車両に合わせて頭が動き、まずいと思ったときには遅かった。狗巻くんと真正面からぶつかってしまった。

 制服越しに、キスをしてしまった。

 狗巻くんの目があらん限りに見開かれていくのと、わたしの中に途方もない焦燥が生まれるのはほとんど同時だった。

「ごめんっ!」

 言いながら慌てて頭を後ろに引いたせいで、思いきり扉に後頭部をぶつけた。重い音が頭蓋骨に鳴り響いた後、遅れて強い痛みが襲ってきた。奥歯を噛んで痛みを堪えながら、わたしは深く顔を伏せた。

 やってしまったと思った。最低だし最悪だった。穴があったら今すぐに入りたかった。

 救いがあるとするなら、彼の制服が口元をすっぽりと覆い隠すデザインだったことだ。キスには数えられないと思いたかった。事故とはいえ好きでもなければ人間でもない女とキスをする羽目になったなど、可哀想にもほどがある。

「ごめんね。本当にごめん。忘れて。今すぐ忘れて。わたしも忘れるし、もう忘れたから」

 早口で捲し立てると、頭上から声が降ってきた。上擦った声だった。

「高菜」
「うん、大丈夫だよ……もうすぐ着くよね」

 平気なふりをして、わたしは明るく言った。ひどい目に遭っているのにこちらを心配してくれる狗巻くんの人のよさに、涙が出そうになりながら。

 密着した体から伝わる狗巻くんの体温から必死で気を逸らしつつ、目的地に到着するときを今か今かと待ち続けた。


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