間奏
「棘、ちょっと」
五条がそう言いながら教室にひょっこり顔を出したのは、昼休みもそろそろ終わろうかという頃だった。
昼食を食べ終わった棘は、垂れ目の少年と机を挟んで話していた。今日は呪術師としての仕事がないため、いつも通り呪術高専で午後からも鍛錬を行う予定にしている。とはいえ、こうして昼休みに同級生と話し込んでいる姿は普通の高校生と何も変わらなかった。
棘は五条に鼻先を向けた。彼は半開きの扉から頭をぬっと突き出して、ちょいちょいと手招きしている。廊下に出てこいということだろう。
悪い話だろうなと直感的に思った。教室にいるたった三人の同級生の前でも話せないような内容となれば、おそらく昨日の出来事に深く関係した悪いニュースだ。
おおかたの予想はついていた。棘の内側に陰鬱な気持ちが立ち込めて、全身が鉛のように重くなった。
できれば聞きたくなかったが、五条の手は棘を急かしていた。椅子をずらして渋々立ち上がると、棘は五条に駆け寄るように廊下に出た。
棘が後ろ手できっちりと扉を閉めたのを確認すると、五条は言った。いつもと変わらない口振りで。
「あの子の秘匿死刑が決まったよ」
棘の瞳は翳ったが、それは一瞬のことだった。すぐに表情が元に戻って、理解を示すように頭が軽く上下した。わかっていたことだったから。
深い暗闇の中に
が飲み込まれ、“帳”と“領域”は霧散するように消滅した。棘は体を取り戻せなかったのだと思ったが、そのあとすぐに彼女は五条によって発見されたのだった。
幸運なことに、
の体の無事だった。しかし不幸なことに、闇に飲まれた影響なのか、
は山に巣食っている呪いの一部をその体に取り込んでいた。
つまり、“呪い”になってしまったのだ。
結果として
は捕縛された。“呪い”として祓って殺すために。
秘匿死刑が決定するのは時間の問題だろうと覚悟していた。
棘は決して納得したわけではなかった。
は何も悪くなかった。ただ巻き込まれてしまっただけだった。そんな理不尽があっていいものかと強い憤りを覚えた。しかしその理不尽は“呪い”による他の怪死者や行方不明者と何ら変わりはなかった。
呪術師である限り、呪言師である限り、呪術規定は遵守しなければならない。それは規定だからというわけではなく、その理不尽から人々を守るためだった。
ここで祓っておかなければ、他の怪死者や行方不明者が出るかもしれない。
がどれだけ心優しい人間でも、“呪い”になればそうではなくなっている可能性は充分にあり得るのだ。
死ななくてもいい人間が理不尽に死んでいく可能性が僅かでもあるなら、
は“呪い”として祓わなければならなかった。
だから棘は自分の本心に沈黙を強いた。
を助けてほしいと懇願したい気持ちが沸き上がるたび、必死で押し殺した。どうしようもなかったのだと言い聞かせながら。
「案外あっさり納得するんだね」
棘の様子を見た五条はそんな感想を漏らした。嫌味のように聞こえたが、おそらく本心からそう言ってるのだろう。もっと反対するかと思ったのに。言葉に隠された五条の本音には気づかなかったふりをして、すぐに棘は尋ねた。
「すじこ」
秘匿死刑はいつ執行されるのか、という問いだった。死刑になるなら残った亡骸に手を合わせたかった。それくらいはさせてほしかった。
を悼んでやりたいという純粋な気持ちもあったが、助けられなかったという罪悪感を少しでも拭いたい弱さもどこかにあるからだということを、棘はよくわかっていた。
「今日。というか、今から。いや、もう始まってるかも」
五条はテンポよく答えた。棘が大きく目を見開く。そんなに早く執行されるものなのだろうか。棘の疑問を汲み取るように、五条が肩をすくめた。
「一部とはいえ取り込んだ呪いが呪いだからね、臆病な老人たちが事を急いたんだよ。本当に馬鹿だよね、本質がまるで見えてない。そのせいで選択を見誤ったことにも気づかずに」
最後に付け足された言葉は棘を揺さぶるには充分だった。その先を促すように視線を送ると、五条は口元に小さく笑みを浮かべた。
「儀式はまだ終わっていない」
棘は自分の耳を疑った。その意味を噛み砕く前に、五条は話を続けていた。
「どうしても気になったから調査を依頼したんだ。あの子は“贄”の一族の末裔だよ」
彼は棘の反応を待たず、滑らかに事実を叩きつけた。
「僕とは戦わない、でもあの子は見逃せない……もっと早く気づくべきだった。儀式を途中で終わらせるつもりなんて端からなかったのさ。だからあれの目的は
を取り込むことじゃない。贄である
を確実に殺すことだ」
「……ツナ!」
「そういうこと。“贄”が死ぬことで完成するんだよ、あの“儀式”は」
ため息をひとつ落とすと、五条は気だるげに後頭部を掻いた。
「ちょっと見くびってたね。あれが呪術規定を知ってるなんて思ってもみなかった」
「こんぶ」
「ああ、わざとだ。理解した上で自らを取り込ませた。呪いになれば規定に則って確実に殺せるだろ?しかも彼女が呪いである以上、呪具による死刑……槍で刺されて血塗れになるからね。ええっと、着物が赤くなったら、だっけ?」
「しゃけ」
「あの場には僕も棘もいたし、手順通りに事を運ぶのは不可能だと思ったんだろう。だから彼女を秘匿死刑にすることで儀式を完成させようとしている。執念深いというか何というか」
そのとき何かが振動するような低音が聞こえた。五条は素早くポケットに手を滑らせた。どうやら彼のスマホの音だったらしい。
通知を確認した五条は白々しく言った。
「……うーん、間に合わなかったみたいだ」
くっくっと愉快そうな笑みが漏れ聞こえた。五条がその口元を歪めていた。
猜疑心を丸出しにしながら棘は声を張った。
「おかか!」
「何のこと?僕は棘にいの一番に知らせなくちゃと思っただけだよ?」
絶対に嘘だと棘は思った。呪いの思惑に勘付いた時点で動いていれば、確実に間に合っただろう。
浮薄な五条の笑みを睨む棘の頭に、ふと疑念が沸いた。
この男、もしや最初から気づいていたのではないか。
が暗闇に落ちたとき、五条はただ見ていただけだった。「いきなりのことで驚いちゃって」とあの後五条は言っていたが、それは本心からの言葉だったのだろうか。
が捕縛されたときも五条は反対しなかった。同じように秘匿死刑が決まった憂太は助けたのに。憂太と
の違いは何だというのだろうと棘は怒りに近い疑問を覚えたが、もしその判断が意図的なものであったのだとしたら。
疑いが確信に変わり始めていた。
そもそも拘束している“呪い”の“余計な真似”を止められなかったこと自体、本来あり得なかったのではないか。
他の誰かであればいざ知らず、五条悟は呪術師として間違いなく最強なのだから。
五条が呪いに加担していたのだと今さら気づいたところでどうにもならない。最強を冠する呪術師はせせら笑った。
「ちょっと痛い目を見たほうがいい。そうすれば次はもっと慎重になるだろ?僕の言葉にだってもう少し耳を貸すようになるかもしれない」
棘は五条をますます強く睨みつけた。殺気立っている棘の様子に、五条は不思議そうな顔をする。
「何でそんなに怒ってるの?……ああ、体を取り戻せたのにって?」
「しゃけ!」
「今回みたいなことは初めての経験だからさ、どうなるのかちょっと興味があったんだよね」
「おかか!」
「ごめんごめん。棘には悪いけど、もう体なんて残ってないよ。残された家族にとってもそのほうがいい。ずたずたに刺し殺された娘の死体なんて見たくないはずだろ。理由も話しづらいしさ」
「おかかっ!」
「え、あの子の心配?だってあれ、危険じゃないし。確かに狡猾だけど、ただ儀式を完璧に行いたいだけのプログラムみたいなものだ。普通の呪霊とは違って無差別殺人には関心がないし、第一本体はまだあの山にいる。被害だってそこまで――って、あれ?」
五条のよく回る舌がピタリと止まっていた。彼の目はスマホに落ちている。
そういえば話している最中にスマホが震える音がしていた。何かあったのだろうかと棘が五条の手の中のスマホを見つめた途端、再び低い振動音が聞こえた。
五条が額に手を当てた。彼の口角は上がっていた。いつもの軽薄さはなかった。純粋な喜悦がそうさせているようだった。見たこともないおもちゃを与えられた子供のようだと棘は感じた。
いつもとは違うその様子に違和感を覚えたとき、とうとう五条は言葉を発した。およそ棘には理解できない言葉を。
「……あの子、いったい何を呼んだ?」
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