黄泉比良坂

 ――

 ずっと遠くのほうで、誰かがわたしの名前を呼んでいた。けれどもすぐに気のせいだと思った。ここにわたしを悼んでくれる人はいないから。

 ――

 感覚に蓋をしようと思った矢先、また同じ声がした。その声の持ち主に心当たりはなかった。

 一昨年亡くなった祖母かとも考えたが、彼女の声はこんなに滑らかで澄み渡る声音ではなかった。優しく穏やかな声は、手招くように何度もわたしの名前を呼んでいる。

 ――

 数回目の呼びかけで、わたしの意識が静寂の奥からゆっくり浮上する。目蓋に透けるように揺れる水面が見えていて、その眩しさにぎゅっと目を閉じる。隙間がなくなればいいのにと思いながら。

 何の予定もない休日の朝に叩き起こされるような気分だった。望みもしない覚醒に戸惑っているその間にも、黙した水底から光を含んだ水面に向かって、体はゆらゆらと浮かび上がっていく。

 ――

 澄んだ声に意識が引っぱり上げられた。目蓋を透過した淡い光にやんわりと刺されて、あやふやだった輪郭が形を持ち始める。五感が現実味を帯びていく。

 ――来たよ。

 わたしが重たい目蓋を開けてみれば、どういうわけか緑の濃い深山の中に突っ立っていた。血に染まった赤黒い着物を着たままで。

 腹に穴が複数空いているのに、その向こうは暗闇だった。あるはずの内臓は見えないし、血も噴き出していない。

 ここが死後の世界だろうか。死者は三途の川を渡るという話をよく聞くが、眼前に広がっているのはこちらを圧迫するように乱立する木々だけだった。

 痛みのない腹の傷をなんとなく手で押さえつつ、状況を把握するために頭を振った。

 閑寂とした空気が漂っていた。生き物の気配は感じられなかった。濁った白い濃霧が辺り一帯を丸々覆い尽くしている。

 知っている。来たことがある。その既視感に目を細めたとき、

 ――来たよ。。来たよ。

と、後ろから澄んだ声が聞こえた。

 勢いよく振り返れば、細い道が霧の向こうへと続いていた。

 大の大人が二人並んで通ることのできる程度の幅で、頻繁に通行が行われているのか、道には雑草がひとつも生えていなかった。そのすぐ脇には背の高い樹木が立ち並んでいて、間を縫って歩くような道になっていた。

 その細道を挟んで、とりわけ幹の太い二本の木が対を成すように生えていた。楠木だろうか。地上から二メートルほどの高さの位置に、太いしめ縄がくくり付けられている。いくつも御札がぶら下がった縄は、太い二本の木を繋ぐように宙を渡っていて、まるで小さな鳥居のように見えた。

 緩やかな弧を描くしめ縄も、一定の間隔を開けて垂れ下がる御札も、ずいぶんと古びていた。

 どこか懐かしさを覚えながらじっと見入っていると、再びわたしの名前を呼ぶ声がした。

 ――

 早く行かなくちゃ、そう思った。脊髄反射だった。誰に呼ばれているのか、どこへ行こうとしているのか、わたしは疑問すら抱かなかった。呼ばれているから行かなくてはならない、理由などそれだけで事足りた。

 突き動かされるようにわたしがしめ縄を潜ろうとしたとき、

「――逝くな」

と、芯を揺さぶるような声がした。それは間違いなく――くんの声だった。

 足をピタリと止めて、わたしは顎に手を当てた。名前をすっかり忘れていた。眠そうな顔も心地いい声もありありと覚えているのに。

 不気味な違和感を拭い去りたくて体ごと振り返ってみたものの、――くんはおろか誰もいなかった。深い霧が周囲の景色を飲み込んでいるだけだった。

 しめ縄を背にしたまま、――くんのことを思い出した。彼との意思疎通に困惑し、人ではない何かから逃げ惑い、寸でのところで助け出してくれたことを。

 わたしの手をずっと離さないでいてくれた。最後まで助けようとしてくれた。優しくて、とても温かい人だった。

 だが回想はそこで終わった。ぷつりと途切れた。今すべきことは過去に浸ることではないと本能が声を上げたせいだった。

 そうだ、わたしには行くべきところがある。

 しめ縄に向かってつま先をぐるりと半回転させ、

「――逝くな」

 次の瞬間、右の手首を何かに掴まれた。戸惑う間もなく手首を掴む力はするりと手のほうへ下りて、わたしの手を優しく握った。こちらを安心させることを望むようなその力加減に、心臓が大きな音を立てていた。

 まるで思い出せと告げるように。

 不安も怖気も全て和らげてくれる温かさ。心細さを払拭してくれる少し眠そうな笑み。言葉以上に確かなものを与えてくれる人。そんな人を他に知らない。忘れるはずがない。

 わたしは思わず声を漏らしていた。

「狗巻くん?」

 ふっと手から体温が消え去った途端、足元から水が湧いてきた。何事かと思った。地面そのものから水が湧き出しているようだった。水位はどんどん上がっていって、あっという間に腰まで到達した。

 どこまでも透明な水だった。どこにも濁りがなかった。揺らめく水面越しに足の爪がはっきり見えていた。

 水温は少し低かったが、体温が奪われている感じはしなかった。そうっと抱きしめられているようだと思った。水位の上昇は止まらない。濃霧を流し、木々を薙ぎ倒し、しまいにはわたしの頭のてっぺんまで飲み込んだ。

 水には悠揚な流れがあった。その水流に乗るように、わたしの体がゆっくりと浮上する。つま先が地面から離れた。水の中にいるのに不思議と苦しくはなかった。どういうわけか呼吸ができていた。

 魚にでもなったのだろうか。頭に疑問を浮かべながら、ついさっきまで立っていた場所を見下ろした。山は忽然と消えていた。今も少しずつ遠ざかっていた。しめ縄がくくり付けられたあの二本の木だけは、水底に縫い付けられたままだった。



 狗巻くんの声が光を纏った水面から聞こえていた。白く光った何かがこちらに向かって降りてくるのが見える。薄い布のようだった。水の中にインクを落としたときのような、滑らかで緩慢な動きだった。

 布のような何かに体を絡め取られた。仰向けに引っぱり上げられる――そう思った瞬間、急に体が重みを増した。浮力が重量に逆らえないのだろう、光る水面がみるみるうちに遠くなっていく。

 首をひねって下を見れば、すぐそばにしめ縄が見えた。

 ああ、早く行かなくちゃ。

 どうして今の今まで忘れていたのだろう。雷に打たれたようだった。布から逃れようとわたしは懸命にもがいた。

 早く行かなくちゃ。早く、早く、早く。

 しめ縄に向かって腕をぐっと伸ばして、

「――逝くな」

 骨の髄にまでガツンと言葉が響いた。白く発光する布が幾重にもわたしの体に巻きつき、そのまま強引に水面へと引き上げ始めた。

 その反動で頭が大きく揺れたとき、急に体が軽くなった。

 わたしの目の先に、もう一人わたしがいた。彼女は目を閉じたまま、背中から水底へと静かに沈んでいく。髪は広がり、揺蕩うように波打っていた。半開きになった口から小さな水泡だけが水面に向かっていった。

 驚愕の声は音にもならず、水中で消えた。彼女は二本の木の間、しめ縄をくぐるようにして、ゆらゆらとどこかへ流されていく。

 わたしは咄嗟に手を伸ばした。視界に映る手の甲は半透明に透けていた。意識が彼女から自分自身へと素早く移動した。

 両方の手のひらを目の前で開いて、すぐに握った。握り拳の向こうが透けて見えていた。手首に絡んだ薄い布がゆったりと漂っている。

 驚く間もなく、背中越しに強い光を感じた。振り返ればすぐそこまで水面が近づいていた。

 あまりの眩しさに目を細める。体を巡る全ての感覚が光によって激しく焼かれて欠落していく。

 焼き切れる前に浮かんだのは、狗巻くんのちょっと眠そうな笑顔だった。


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