秘匿死刑

「呪術規定に基づき、、お前の秘匿死刑が決定した」

 黒いスーツ姿の男がそう言うのを、わたしは黙って聞いていた。

 そこは真四角のこじんまりとした部屋だった。壁一面に不思議な紋様がしたためられたお札――護符だろうか――が重なり合うように貼り巡らされている。

 読めるような文字ではなかった。世界史の教科書に載っていた古代の文字に近いと思った。けれど、ひどく不気味な印象を受けた。じっと見つめていたいとは決して思えないような。

 部屋の床にはざらりとした灰色のタイルが敷き詰められている。無機質でとても冷たい感じがしたし、実際わたしの足の裏はとても冷たくなっていた。部屋に空調設備は見当たらず、少しだけ肌寒かった。

 その部屋の中心にぽつんとひとつ置かれた木製の椅子に、わたしは座っている。縛りつけられているといったほうが正しいだろう。

 両腕は麻縄で椅子の背もたれに括りつけられ、両足は椅子の足にそれぞれ固定されている。口には金属製の口枷が嵌められ、行き場を失った唾液が太ももに垂れていた。

 わたしの自由は完全に奪われていた。

 一度だって暴れた覚えはないし、逃げようとはこれっぽっちも考えていないし、そもそも抵抗するつもりなど毛頭ない。

 だというのに、この扱い。この仕打ち。

 完全に人権を度外視したやり方だった。平成も終わろうかというときに、よくもまあこんな時代錯誤なことができるなとむしろ感心する。部屋の四隅には監視カメラが設置されているようだから、今のこの状況が克明に録画されているならば確実に訴えられるだろう。

 狗巻くんのやり方のほうがずっと優しかった。呪術が使えるというのなら、彼のように言葉ひとつでわたしを拘束すればいいのに。

 こんな扱いを受けているのは、わたしが体の中に“呪い”を取り込んでしまったからだという。だからどんな扱いをしてもいいと判断されているらしい。

 考えてみたものの、わたしの体に特段変わったところはなかった。角や牙は生えていないし、化け物の容貌に変わったわけでもない。別に変なものも見えないし、匂いに敏感になってもいない。念じればスプーンが曲がるわけでもなさそうだ。

 つまり、何もかも今まで通りだった。

 体に呪いを取り込んでいると言われても、当の本人にその実感がまったくないのだ。信じろと言うほうが無理がある。

 そもそも“呪い”とは何だ。あの場にいた人間ではない老婆たちのことだろうか。それともずっと聞こえていたあの祭囃子のことだろうか。

 わたしが取り込んだという“呪い”の詳細すら教えられていない。そんな説明もないままに死刑にしますと結論だけ告げるのは、説明不足にもほどがあるだろう。そんなの殺人とたいして何も変わらないではないか。

「聞いているのか。秘匿死刑が決定したと言っているんだ」

 男は苛立ちを隠すこともなくそう続けた。二度も言われなくともわかる。ちゃんと聞いている。人を馬鹿にしているのだろうか。

 ムッとしていると、男が手に持った警棒で自らの太ももを軽く叩いた。

 ここで頷かないと痛い思いをしそうなので、わたしは小さく首を縦に振った。涎が垂れて白い着物に染み込んでいった。

 男がふん、と鼻を鳴らす。苛立ちが急激に加速する。やっぱり訴えてやる。

 死刑だと言われて恐怖が沸き上がってこないのは、とっくのとうに諦めているからだった。

 目が覚めたとき、わたしはすでに拘束されていた。手足ががんじがらめに縛られていて、目隠しまでされていた。

 狗巻くんと五条さんの姿はなかった。とうとう死んだのかと思ったけれど、体に残る鈍痛がまだ生きていることを教えてくれた。

 体をよじって目を凝らしてみても、目隠しの隙間から一片の光も感じられなかった。真っ暗で、窮屈な圧迫感があった。胎児のように丸くならなければいけないほど、狭い場所に押し込まれていた。

 祭壇の下に広がっていた暗闇に囚われたのだろうか。

 そう考えを巡らせたとき、車の低いエンジン音が聞こえてきて、体がガタガタと小刻みに揺れた。車の荷台に積み込まれている、もしくは何か箱のようなものに入れられて車で運ばれている、そのどちらかだろうと理解した。

 暴れる気力はどこにも残っていなかった。色々なことがありすぎて、心も体もひどく疲弊していた。もうどうでもよかった。

 もう眠りたい――わたしにあるのはそれだけだった。目をきつく閉じた。次に目を開けると、わたしは目隠しを外されてここにいた。そうして、今に至る。

「我々には説明義務がある」とスーツ姿の男に言われたとき、ピンと来た。ご丁寧に説明してもらわずとも、男の言いたいことはなんとなくわかった。未だに異常事態に巻き込まれていることが全てを物語っていたから。

 男が説明にもなっていないことを話している間、わたしはずっと足のつま先を見つめていた。

 死にたくなかった。けれども拒否権なんてどこにもなかった。口枷をされた時点で、わたしの意見など求められていないことはわかっていた。

 わたしには、もう何も残っていなかった。生きる権利とか、人としての権利とか、そういうものだけではなく、暴れて抵抗してやろうという気概なんかも完全に消失していた。

 全て無駄だとわかっているからだ。

 事故に遭って死ぬようなものだと自分に言い聞かせる。突然真っ暗になって何もわからないまま死んでしまうより、手足を引き千切られて惨たらしく殺されるより、ずっとずっと幸福なことだと言い包める。

 そうして納得できない心を黙らせ続けて、やっとわたしの心は諦めた。静寂を取り戻したのだ。

 目の前の男への文句を募らせることで、最期までいつも通りであろうとした。平穏な日常の続いた先がたまたまこの場所だっただけ、そう思いたくて。

「では、刑を処する」

 男が宣言するやいなや、部屋の扉から数人の男たちが入ってきた。あまりの早さに大きく目を見開いた。わたしが呪いを取り込んでいるというのは、ずいぶんと切羽詰まった状態であるらしい。男たちの表情は揃って険しかった。

 思い出に浸る時間も与えてはくれないのだなと悲しくなる。

 男たちの手には長い槍が握られていた。磔にでもされるのかと思ったのに、槍の矛先はすぐにこちらを向いた。その全てがわたしの腹を集中して狙っていた。

 手足を引き千切られるよりかは、いくぶんマシか。

 槍の切っ先が腹を刺すところなど見たくなくて、わたしはぎゅっと目蓋を閉じた。部屋の灯りが薄っすらと透けていた。

 狗巻くんは、五条さんは、わたしが死ぬのをどう思っているのだろうか。あの男は呪術規定に基づいて、と言っていた。呪術規定というのはおそらく日本国憲法や刑法のようなものだろう。二人が呪術に関わっている限り、きっと逆らえないはずだ。

 世の中には大きな流れというものがある。流れに逆らえず、飲み込まれるしかないことだって、たくさんある。

 狗巻くんがわたしを逃がそうとしてくれたことも、五条さんを呼んで助けに来てくれたことも確かだった。もうそれだけで充分だった。

 ほんの少しだけ欲を言うなら、わたしが死ぬことを残念がってくれていたらいいなと思う。

 地面を蹴る音が聞こえて、より力強く目を閉じた。次の瞬間、槍が腹を貫いた感覚がした。一度だけではなかった。二度、三度と間を置かずに連続した。

 焼けつくような痛みが暴発して、呻くことすらできなかった。全身の汗腺から汗が吹いていた。逆流してきた血液が唾液と混ざって口から落ちていく。

 ――嫌だ。死にたくない。

 途方もない絶望が押し寄せていた。涙が溢れた。脳裏を駆け巡っていったのはいくつもの言い訳だった。

 わたしがあの山に迷い込んだから。人ではない何かから逃げられなかったから。奇妙な儀式に足を突っ込んでしまったから。呪いを取り込んでしまったから。

 けれど、どれもわたしを納得させるだけの言い訳にはならなかった。

 どうして。どうしてこんな理不尽な目に遭わなくちゃいけないのだろう。どうしてわたしなのだろう。

 わたしがゆっくり目蓋を開くと、より深く槍を刺された。男たちの目に躊躇いはなく、哀れみもなく、どこにもわたしは映っていなかった。ただ処理されている、その事実が心を激しく毛羽立たせた。

 恨み辛みが込み上げそうになって、わたしはぐっと喉に力を入れた。母の言葉を思い出していたからだ。

 ――人を呪わば穴二つ。ほら、昔から言葉には魂が宿るって言うからね……。

 頭がぼうっとしてきた。母には何と伝えられるのだろう。骨はちゃんと届けられるのだろうか。

 働き詰めの母を一人残して逝くのは悲しかった。けれど、もうわたしの塾代を稼ぐために夜勤をする必要もなくなることを思うと、少しは楽になるかもしれないとほっと安堵した。わたしの頬はますます濡れた。

 重たい頭を支える力もなくなって、わたしの首がガクンと落ちる。

 白い着物が真っ赤に染まっていた。あのとき聞いた幼子の声が鮮明に蘇る。

 ――おべべが赤ぅ赤ぅなったら、連れていかれるん。
 ――神さんに連れていかれんのに。

 言葉通り、もう着物は赤く染まっている。ならば神様がわたしを迎えに来てくれるのだろうか。黄泉の国へ連れていってくれるのだろうか。

 しかしその淡い期待はすぐに否定する。儀式は途中で終わってしまったのだと。

 痛みより、怒りより、悲しみより、孤独が勝っていた。たったひとりであるということが、わたしを打ちのめしていた。

 悼んでくれる人に見送られることもなく、わたしはこのまま死ぬ。

 頭の後ろが霞んでいた。意識が朦朧としてきた。思考が停止を始めている。視界には闇が落ちて、もう何も見えていない。体の感覚がどんどん遠くなっていく。血の温度も激しい痛みも、すっかりあやふやだった。

 ――神様。……ねえ、神様。

 ごぼっ、と口から血が溢れる。喉がひゅうひゅう鳴った。

 ――いるなら、せめて迎えに来てよ……。

 体の感覚が途切れた。ありとあらゆるものから解放された感じがした。けれど孤独だけはわたしにぴったりとへばりついたままだった。

 この先にあるのは死だけだ。二度と意識を取り戻すこともない。孤独に苛まれることもない。わかっているのに、わたしは拒み続けた。

 ――ひとりで死にたくないよ……そばにいてよ……。

 縋るような願いが浮かんで、ぱっと消えた。流れ星のように、わたしの意識とともに。


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