呪い

 覚醒はすぐに訪れた。感覚のその全てがわたしの手中に落ちるまで、一秒も要しなかっただろう。

 何度も瞬きを繰り返しながら目蓋をこじ開けたとき、左の頬にひやっとした固さを感じた。頭の左側を下にして床にうつ伏せになっているという認識は、すぐに手に入れることができた。

 うう、と小さく唸ると、視界に影が落ちてきた。視線だけで確認すれば、そこには見覚えのある男がいた。

「おはよう、

 老婆に五条悟と呼ばれていた男だった。長い足を折ってわたしを見下ろしている。黒い目隠しは付けたままだった。逆立った短い銀髪が部屋の照明を受けてきらきらしていた。

「……えっと、五条さん」
「そう、五条悟。記憶力いいんだね、覚えていてくれてうれしいよ。地面にキスをしたまま話をするっていうのもなんだし、まずはそこから起き上がろっか」

 その提案に小さく頷いた後、両手を冷たいタイルに押しつけるように体を起こした。目覚めたばかりだというのに、起き抜け特有のあの倦怠感はなかった。流れる動作で床の上にきっちりと正座した。

 そこはわたしが処刑された部屋だった。一面に貼られていたはずの気味の悪い札は壁から一枚残らず剥がれ落ち、床の上に散乱していた。しかもそのどれもがビリビリに千切られている。

 わたしを縛っていた縄も言葉を奪っていた口枷も足元に転がっていて、それらも札と同様に引き千切られていた。無事なのは五条さんが腰かけようとしている椅子だけだった。

 異様な光景だった。金属製の口枷が千切られた断面を見つめながら、いったい何が起こったのだろうと不審に思った。

 記憶を遡った瞬間、はっとした。腹を触り、肩を触り、わたしは愕然とした。外れた肩にも股関節にも、刺されたはずの腹にも、焼けつくようなあの痛みはなかった。

 加えて奇妙なことに、白の着物は腹の部分を中心に赤く黒ずんでいるというのに、どこにも破れた形跡がなかった。

 これはあの夢の続きだろうか。だとしたら、この強い現実感はいったい何だろう。

 確かめるようにわたしは両手で頬をペタペタと触った。温かい肌の感触が手のひらに伝わってくる。椅子に腰を落とした五条さんがわたしを見下ろしていた。

「わたし、死んだはずじゃ……」
「うん、死んだよ」

 彼のあっさりとした答えに、わたしは素直に納得した。驚きはなかった。むしろ生きていると言われるほうが目を剥く自信があった。

「ここは死後の世界ですか?」
「ちょっと。僕のこと勝手に殺さないでくれる?ほら、この通り超ピンピンしてるからね」
「……じゃあ、わたしが幽霊になったとか?」

 非常に懐疑的ではあるものの、残された可能性はそれだけだった。しかし五条さんはやんわりと否定した。

「近ようでいて、まったく違う。君は“呪い”になったんだ」

 また“呪い”かとわたしは顔をしかめた。それがいったい何であるのかを尋ねる前に、五条さんは話の続きを口にしていた。

「もう君は人間じゃない。完全に人間を逸脱してしまった。今の君の姿は“呪い”を見ることができる人間にしか捉えられないし、触ることもできない。つまり、見えない人間からしてみれば、君はもう死んだも同然なんだよ」

 五条さんはそこで言葉を区切った。会話の速度はそれほど速くなかった。おそらく気を遣ってくれているのだろう。頭が取っ散らかっているわたしがうまく飲み込めるように。

 彼の顔を視界に留めつつ、理解を示すために小さく顎を上下させた。説明が続くのかと思いきや、五条さんはそこで小さく首をかしげた。

「どうしてあの山で“ちぎり祭り”が行われてたか、は知ってる?」

 わたしは眉をひそめた。まるで見当もつかなかった。人の手足を千切って神に捧げる祭りなんてどう考えても狂っているから。

 わからずに黙り込んでいると、五条さんが代わりに答えてくれた。

「あの山は昔から天災被害が多くてね。日照りが続いて雨が降らないことなんてしょっちゅうだったし、かと思えば大雨で作物が根から腐ってしまうことだって多々あった。地震で山崩れが起きたり、川が氾濫したりね。今は衛星から気圧の配置や雲の動きがわかるけど、当時はそんなものなかったからさ……そういうことが続くと、人って“神様”のせいにするんだよね。ほら、人間って何でも理由を付けたがる生き物だから」

 五条さんは呆れたように肩を落とした。彼の言葉をまとめるように、わたしは尋ねた。

「怒った“神様”を鎮めようと……“ちぎり祭り”を?」
「そうだよ。でも“ちぎり祭り”だけが特別ってわけじゃない。自分たちの手には負えない何かに供物を捧げる。その代わり、大人しくしてもらったり、逆に手を貸してもらったりする。そういう考えって大なり小なりどこにでもあるもんだからさ」
「効果ってあるんですか?」
「もちろん。そういう“契約”だからね」

 そう言って五条さんは頷いた。“契約”の二文字を頭の中で反芻しながら、質問を重ねる。

「天災を鎮めるために、あの山ではずっと誰かが殺されてきたんですか?」
「そう、千年以上前からずっとね」

 わたしは膝の上に視線を落とした。両手を深く絡めて、絞り出すように呟いた。

「わたしも、そのために……」
「本来ならそうなるはずだった」

 突然差し込まれた強い声に、わたしの両肩が大きく跳ねた。怒鳴られそうな気がして五条さんとうまく目を合わせられなかった。

「君がすり替えたんだ。“ちぎり祭り”の目的を」

 しかし続いた声は穏やかで、むしろ端々から楽しそうな空気が溢れていた。

 恐る恐る顔を上げると、五条さんの口元には笑みが宿っていた。興味深いとでも言うように。

「人間を捧げる“儀式”は他にもいくつかあってね、そのためだけに子どもを産み育てる一族も存在したんだ。自分の子供を捧げるのは嫌でも、元よりそのための人間なら罪悪感も薄れるだろ?その一族は育てた子供や若い娘を供物として各地に送り届け、血生臭い“儀式”をずっと支え続けていた」

 五条さんが言葉を切ってわたしを見た。待ちきれないといった様子で唇をすぐに開く。

「その“贄”の一族の末裔が、……君なんだよ」

 “贄”という言葉の響きにわたしの心臓がドクンと大きく脈打った。

「“贄”っていうのは“儀式”のためだけの存在だ。“儀式”を完璧に行うための供物だ。僕ら呪術師や普通の人間とはまるで違う」
「違う……」
「簡単に言うとね、“呪い”は“贄”の願いを疑わないんだよ。“贄”の願いが契約書みたいなもので、“呪い”はそこに判子を付くだけなんだ」

 五条さんはわたしをまっすぐ見据えた。

「“贄”が捧げられるとき、つまり死ぬとき、普通はこう願うんだ。雨を降らせて下さい、川の氾濫を抑えて下さい、穀物が実るように手助けして下さい、とかね。でも君はそうしなかった。何も知らなかった君は死ぬ直前、“神様に連れていかれる”……“ちぎり祭り”のあの言い伝えのことばかり考えていたんじゃないかな?」

 その問いかけに言葉を失った。死の間際、わたしはずっと神様のことを考えていた。

 確認するように五条さんを見た。笑顔を浮かべた彼が大きく頷いた。

「だから呼んだんだ、“神様”を。そういう“契約”の元にね」

 五条さんが嬉しそうに声を発していた。何がそんなに喜ばしいことなのか、わたしにはさっぱりわからなかった。いつまで経ってもわたしの頭は理解に結びつかなくて、この現状に関する疑問の解決を優先させることにした。

「神様って……」
「ああ、言っておくけど紛い物だよ。その正体は“呪い”だ。老婆を見ただろう、その本体さ。紛い物とはいえ、なまじ千年以上も神として祀られていたんだ、それなりの箔はついている。こういう“呪い”は厄介なんだよ。祓うことはほぼ不可能だ」

 うんざりした様子で五条さんは言うと、空気を切り替えるように両手を叩いた。

「“儀式”が終わればそこで試合終了!……のはずだったのに、君がそうなってしまったせいで“呪い”はあの山にも帰らず、ずっと君のそばにいる。神として君を黄泉に連れていくという“契約”を果たすために」

 わたしはぐるりと部屋を見渡した。四角の部屋にいるのはわたしと五条さんの二人だけで、他には誰もいなかった。疑問を汲み取った五条さんが、わたしの足元をちょいちょいと指差した。

「そこにいる」
「どこですか?」
「君の影の中だよ。部屋をこんな有り様にしたのもそいつだ」
「スーツの男の人達は?」
「ああ、呪術師?幸か不幸か全員無事だよ。おそらくビビらせて追い出すためにこんな幼稚なことをしたんだろうね」

 どういう経緯でこうなったのかは定かではないけれど、もし目の前でホラー映画さながらに札が破られたり縄が千切られたりしたら、さぞや恐ろしいだろうなと思った。わたしだったらきっと号泣して、その場で動けなくなってしまうだろう。

 これを幼稚だと言い切った五条さんは、もっと凄惨な現場を何度も見てきたということだろうか。

「それなりの呪術師がこの程度で逃げ出すなんてどうかと思うよ。まあ呪力の規模が半端なかったみたいだし、そっちにビビっちゃったのかな。あ、そいつさ、自分の“契約”にしか興味がないみたいなんだよね。こっちが話しかけても全然反応しなくて、困ってたら先に君の目が覚めたってわけなんだけど……何か声とか聞こえる?」
「……何も聞こえないです」
「おかしいな。君を連れていけなかったから拗ねてるのかも」

 全てに理解が及んだわけではない。けれど自分が何か途方もないことをしてしまったということだけは、薄っすらと理解できていた。

 わたしは身を強張らせた。こっぴどく叱られるんだと思ったから。

 けれども五条さんは優しく尋ねるだけだった。

「どうしてそうなったのか、わかるかい?」
「え?」
「まだ君がこうして話せていること、それ自体が異常なんだよ」

 何を答えても許してくれそうな声音に、体の強張りが次第にほどけていった。緊張で狭まっていた喉が広がった後、目の焦点を五条さんに合わせた。

 わたしは両手を軽く擦り合わせつつ、ぽつぽつと言った。夢でのあの浮遊感をなぞるように。

「狗巻くんの声がして」
「棘の声?……間違いなく?」
「はい。“逝くな”って声が何度も聞こえて、それで……」
「……そう。なるほどね」

 五条さんは納得したように呟き、意味深な笑みを浮かべた。それだけだった。それ以上は何も追及して来なかった。彼の中で何かが繋がったのだろうなと感じた。

 とはいえ小言のひとつも口にしないのは、何か裏があるのではないか。わたしは取り返しのつかないこと――それもおそらく五条さんや狗巻くん達にとって非常に迷惑になること――をしてしまったのだから。

「ごめんなさい」

 わたしはその場で深く頭を垂れた。迷惑をかけた自覚がないと思われるのが嫌だった。それに叱られる前に謝罪しておけば、少しでも受ける叱咤が減るかもしれないとも思った。

「え、何?それって何に対しての“ごめんなさい”?」

 それはわたしに対する皮肉かと思って顔を上げると、五条さんは奇妙なものでも見るような目でこちらを見ていた。どうやら本気でそう思っているらしい。

「謝るのはこっちのほうだ。いや、でも君にとっては結果オーライなのかな。とにかく君は何も悪くないから謝らなくていいよ」
「でも……」
「誰かのせいにしたいなら棘のせいにして。そもそも君を逃がし切れていればこんなことにはなってないからさ」

 五条さんの言葉にわたしは大きくかぶりを振った。必死で逃がそうとしてくれた狗巻くんを拒絶したのはわたしだ。狗巻くんは血を吐くほど体を張ってくれたのだ、彼こそ何も悪くなかった。

 五条さんに何と言うべきか思索していると、

「はい、この話はもうおしまい。責任感の強そうな君が自己嫌悪を語り出す前に、さっさと本題に移ろう」

と、彼はそう前置きをしてから切り出した。

はこれからどうしたい?」

 思いもよらない質問に、わたしは何度も瞬きを繰り返した。“呪い”になってしまったわたしの手に、再び選択権が戻ってきたことが信じられなかった。

「選ぶ権利は君にある。“呪い”として殺そうにも、そこらにいる呪霊とは格が違いすぎて祓えない。器の体も奪われてしまったし、こちらとしてはまったく打つ手がない。上の連中はお手上げ状態、つまり君の思うままにできるってわけさ。“神様”と心中するもよし、ここで一生引きこもるのもよし、“神様”と一緒に暴れ回るってのもありだね。全ては君の自由だよ」

 喜びや解放感よりも戸惑いが先に立っていた。にこにこ笑っている五条さんから、当惑した視線を赤黒い膝の上に移動させる。膝の上に置いた両手を拳にして強く握りしめた。

 果たしてそれは、本当に“自由”と呼べるのだろうか。

 わたしはもう人間ではないのだ。五条さんの言葉を信じるなら、わたしを知覚できるのはごく限られた人間だけだという。

 ということは、もう学校に通うことはできないし、大学に行くこともできないし、就職して普通に働くことも難しい。友達としゃべることも、コンビニでの買い食いすらも、今のわたしには無理だろう。

 わたしが思い描いている日常の“自由”、その全てが不可能だった。

 “自由”ではなかった。わたしは“自由”になりたかった。人間ではなくなった姿で与えられる範囲では満足できない。わたしにとってはあまりにも狭すぎるから。

 選択権はわたしに委ねられている。ならばもう仕方ないと自分を納得させる必要はない。与えられた“自由”で選ぶ選択肢は、たったひとつしかあるまい。

 向こう側が透けていない手の甲を見つめながら、わたしは尋ねた。

「人間に戻れますか?」

 答えはすぐには返ってこなかった。ゆっくり顎を上げると、五条さんが口をポカンと開けていた。そこまで呆気に取られるほどおかしな発言をしたつもりはなかったので、少しショックを受けてしまった。

 五条さんが大声を上げて笑い出したのは、そのすぐ後だった。彼はひとしきり笑うと、わたしの顔をまじまじと見つめた。

「いやあ、意外と冷静だね。逆境には強いタイプかな?そのほうがこっちとしては都合がいいんだけど」
「……あの、戻れますか?」
「それ本気で言ってる?本当に人間に戻りたいの?」
「できれば……」

 口ごもると、五条さんは首を横に振った。

「残念だけど、戻る方法はわからない。まず前例がないし、誰も知らないんじゃないかな。体さえ取り戻せれば可能かもしれないけど、体を持ち去った当の本人は影の中でだんまりだからね」
「……そうですか」

 なんとなく予想はしていたものの、はっきりと言葉で聞くとその分ショックも大きかった。肩を落としたわたしの頭上に、「でも」と強い声が降ってきた。続く言葉を聞き漏らさぬよう、耳に神経を集中させた。

「戻る方法を一緒に探すことはできるよ」

 顔を上げれば、五条さんがわたしをまっすぐ見据えていた。これだけ会話を重ねても漂う胡散臭さは未だに拭えない。けれど、彼が嘘をついていないことは明白だった。この人なら信用してもいい、わたしはそう思った。

 迷いはなかった。謝罪したときよりも深く、わたしは腰から体を折った。

「よろしくお願いします」



 部屋から出ると、扉のすぐそばに狗巻くんが立っていた。砥粉色の頭は垂れ気味で、鼻まで制服にすっぽりと隠れていた。

 灰色の壁にもたれかかっていた彼は、わたしの姿を認識するや否や、素早く壁から背中を離した。それからわたしを上から下まで視線でなぞった。まるで初めて会ったときのように。足元に広がる薄暗い影をしばらく見つめてから、わたしの顔に目をやった。

 狗巻くんと視線が絡んだのは一瞬だった。その瞳はすぐに申し訳なさそうに明後日の方向を向いた。

 わたしに続いて部屋から出てきた五条さんが、わたしの肩を軽く叩いた。

、呪術高専に通うことになったから。絶対人間に戻ってやるんだからっ!……ってドラマの主人公みたいにすっごい息巻いてるから、棘もよかったら手助けしてあげてね」

 事の深刻さがまるで伝わらない非常に軽い口振りだった。しかも話がかなり盛られていた。

 わたしは五条さんの軽薄な顔を二度見した。そこまでやる気に満ち溢れていない。人間に戻るとは言ったものの、自分に何が起きているのかまだ把握できていない部分も多い。どこにどんな風にやる気を出せばいいのかもわかっていないのに、そう話を盛られては困る。

 しかしわたしが否定する前に、狗巻くんは強く頷いてしまった。

 顔を覆いたくなる気持ちを持て余していると、五条さんが誰もいない廊下を進んでいった。振り向きながら大きな声で言った。

「ちょっとそこにいて。お偉方に説明してくるよ」

 ぽつんと取り残されたわたしは狗巻くんを見つめた。視線には気づいているはずなのに、彼は俯いたままでわたしと視線を交わそうとしなかった。

 きっと責任を感じているのだろう。しかしここでこの気まずい空気をどうにかしておかなければ、ずっとこのままのような気がした。

 会話の取っ掛かりを見つけようと狗巻くんをじっと観察し、そういえばとわたしは口を開いた。

「喉、大丈夫ですか?」

 狗巻くんが顔を上げた。やっと視線は絡んだものの、彼は目を瞠っているだけだった。急に胸の辺りがすうすうして、もつれるように言葉を続けた。

「もしかして、喉が潰れて声が出ないとか」
「おかか!」

 わたしの声に上塗りするように、否定の言葉が発せられた。わたしの眉間に力が入った。

「本当にもう大丈夫ですか?」
「しゃけ」
「よかった。ずっと心配だったから」

 言うと、狗巻くんの瞳が大きく揺れて、また地面に落ちた。会話はぷつりと途切れて、押し黙ってしまった狗巻くんに何を話せばいいのかわからなくなった。

 わたしは壁と同じ色をした天井に手を伸ばして、規則正しく並んだ蛍光灯に透かせてみた。夢の中とは違って、向こう側はまったく見えていない。

「わたし、“呪い”になってしまったそうです。……でも、実感があんまり湧かないんですよね」

 彼は黙っていた。わたしは続けた。この重い空気を何とかしたい一心で。

「死ななかった――あ、もう死んでるんだっけ……消えなかっただけ幸せだな、幸運だなって思っていて。この際だし“呪い”としての第二の人生を思いっきり楽しんじゃおうかな!それもありかも?!なーんて……」

 五条さんを見習った軽口のせいで、ますます気まずい空気が流れていた。狗巻くんの長い前髪で顔が見えなくなっている。心優しい狗巻くんがこんな空気の読めない話に乗ってくれるわけがなかった。もっとよく考えればよかった。わたしは深く反省した。

 それでも話し続けるしかないような気がして、両手をパチンと合わせた。

「そういえば、さっき五条さんがわたしも呪術高専に通うって言ってましたね。わたしも藁人形に五寸釘を打つんでしょうか?不謹慎かもしれないけどちょっとワクワクします。それって呪いたい人がいなくてもできるのかなあ……あ、そうだ!狗巻くんは何年生ですか?わたしは」
「おかか」

 狗巻くんがわたしをまっすぐ見た。しゃべり続けるわたしをさえぎった狗巻くんの表情は沈痛なものだった。見ていられないとでも言いたげな顔に、わたしは頬を緩めて眉を下げた。

 赤の他人であるわたしのことを自分のことのように捉え、一緒に傷ついてくれているのだろう。

「狗巻くん」

 呼ぶと、狗巻くんの肩が僅かに強張った。わたしを直視できないのか、視線が再び右往左往した。

 どうしたらわかってもらえるだろう。こうなったことは確かに驚くべきことではあるけれど、そう悲観するほどのことでもないと思う。戻る方法を探し尽くしたわけではないし、試し尽くしたわけでもないし、答えを握っている“神様”はただ黙っているだけなのだから。

「狗巻くんのせいじゃないです。むしろ、感謝しているくらいで」

 狗巻くんの目を見据えながら言った。視線から逃れようとする彼を射るように見つめる。

 あたふたと逃げ回っていた視線がようやくわたしと深く絡んだとき、わたしは笑顔を浮かべた。彼に気を遣ったわけではなかった。自然とこぼれ落ちた笑みだった。

「何度も助けてくれてありがとう」

 ずっと言いたかったことだった。一緒に逃げてくれて、必死で守ってくれて、助けに戻って来てくれて、それから――わたしを引き留めてくれて、本当にありがとう。わたしは彼にずっとそう言いたかったのだ。

 狗巻くんの目が大きく見開かれていく。わたしは一歩前に踏み出して、一驚の残る顔を覗き込んだ。

「それで、狗巻くんは何年生ですか?三年生?」
「……おかか」

 否定の言葉とともに頭が真横に揺れた。骨張った右手がわたしの目前に突き出され、人差し指と中指がゆっくり立ち上がった。数回瞬きを繰り返した後、わたしは喜びの声を上げた。

「同級生だ!」
「こんぶ」
「わたしも二年生なんだ!うれしい!同じクラスになるかな?どうだろう?」
「しゃけ」
「本当?!」

 廊下で大はしゃぎするわたしにつられるように、狗巻くんがやっと笑った。少し眠たげな笑顔に胸が温かくなった。陽だまりの中にいるような感覚さえ覚えた。彼と同級生であるという事実より、彼の笑顔を見られたことのほうがずっとずっと嬉しかった。

 わたしは狗巻くんに手を差し出した。ともに逃げるためではなく、ともに同じ時間を過ごしていく仲間になるために。

「改めてよろしくね」
「すじこ」

 重ねられた狗巻くんの手は優しくて温かかった。そのぬくもりを少しでも長く覚えていたくて、わたしはその手を確かに握り返したのだった。

第一章 了



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