逃走

「おったおった」

 ひどくしわがれた声だった。

 わたしが振り返ると、腰の曲がった白髪の老人がいた。痩せこけて骨と皮だけになっている。まるで何も食べていないかのような姿に思わず声を飲んだ。

 瞬きするより早く、狗巻くんがわたしと老人の間に体を滑り込ませていた。立ち塞がるように。壁になるように。その黒い背中からは肌を刺すほどの緊張感が漂っている。

 老人がぎょろりと血走った目をわたしに向ける。しかし焦点は定まっておらず、どこを見ているのかわからなかった。

「はあ……やっと見つけた。呼んでんのにいつまでも来ぉへんし……探したんやで」
「……ツナ」
「あんたとちゃうわ、あんたはいらん……欲しいんは、その子や」

 老人がそう言いながらわたしを指差した。細い指はがたがたと小刻みに震えている。

 わたしはふと疑問を抱いた。しわがれているとはいえ、老人の声はやけにはっきりとしていた。痙攣するように振動している喉から出ているわけではなさそうだった。

「さあ行こか……神さんが待ってるで」

 言葉に合わせて口は開いているし、動いている。けれど、その声がいったいどこから発されているものなのかが掴めない。

 だって、かさついた声が耳のすぐ後ろから聞こえるのだから。

 本能が警鐘を激しく打ち慣らしていた。尋常ではない。これは普通ではない。呪術の単語が脳裏を駆け巡る。老人がこちらに一歩踏み出した。柔和な笑みを浮かべているものの、ぎらついた瞳は一片も笑ってなどいなかった。その奥にあるのは虚無だった。

 得体の知れない恐怖が足元から這い上がってくる。毛穴という毛穴から汗が一気に噴き出すのがわかった。

 逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。

 頭では理解しているのに、足がすくんでいた。喉が引き攣って声が出ない。老人がまた一歩前へ足を出そうとしたとき、

「――捻れろ」

 空気を引き裂くような低い声音が、わたしの頭をぶん殴った。わたしは体をびくりと痙攣させる。

 わたしの意識を叩いた声音が狗巻くんのものだと理解した次の瞬間、にわかに信じがたい光景を目に焼きつけてしまった。

 老人の細い首が捻れていったのだ。べきべきと骨が割れる音を立てながら。

 老人の頭が瞬く間に本来の可動域からは考えられない方向を向いた。赤く充血した目を引ん剥いたまま。

 ひっと喉が小さく鳴ったとき、わたしの手首は狗巻くんに掠め取られていた。

「ツナ!」

 走って。そう言われた気がした。一目散に駆け出した狗巻くんの足は陸上選手のように速く、引っぱられるわたしは何度も足をもつれさせかけた。

 狗巻くんの声が響いた途端、老人の首が冗談のように捻れていた。ならばあれは狗巻くんの仕業なのだろうか。彼は呪術を勉強していると言っていた。あれが呪術だというのか。おっかないどころか、あまりにも危険すぎやしないか。

 上下に揺れる視界の中で、狗巻くんの背中を見つめた。走っても走っても彼は速度を落とさない。

 確かめるように後ろを振り返ると、首が捻れたままの老人が走って追いかけてきていた。首はあらぬ方向を向いているのに、両手を前に出してまっすぐこちらへ駆けている。

 戦慄した。ぞわりと肌が粟立った。わたしは口を空いた左手で押さえて、すぐに前を向いた。涙がにじんで、視界が薄っすらとぼやけていく。

 待ちぃや。
 逃がさん。
 ちぎらなあかん。
 帰さへんからな。

 耳のすぐ後ろからぶつぶつと声が聞こえる。感じたことのない恐怖にとうとう涙が溢れた。

 あれは人間じゃない。わたしに理解できたのはそれだけだった。

 怖気づいたせいでわたしの速度が落ちたのだろう、ぐんっと手首を引っぱられた。狗巻くんがわたしに視線を送りながら、「ツナマヨ!」と大きく叫んだ。

 焦燥に駆られた声だった。わたしの喉がひゅうひゅう鳴った。

 わかってる。わかってる、けど。

 涙で前が見えない。鼻の奥が湿っている。うううう、とわたしの口から低い声が漏れた。わたしは泣いていた。それでも走り続けるのをやめなかった。やめられなかった。

 呻きながら走っていると、手首を掴む狗巻くんの手がするっと手のひらに移動した。わたしの手を包み込むように優しく握られる。

 温かかった。心をほぐしてくれるようなぬくもりがあった。もう少し頑張って、そう言われているような気がした。

 こみ上げそうになる弱音を奥歯で噛み砕いた。優しいその手を握り返すと、狗巻くんはさらに加速した。

 狗巻くんに置いていかれないよう、わたしは懸命に足を動かす。呼吸がどんどん荒くなる。体が火照ってひどく熱い。循環する血液が沸騰しているようだった。溢れた涙は額から噴いた汗とともに後方へ飛ばされていった。

 口の中がひどく乾いていた。鼻呼吸が口呼吸に切り替わっているせいだった。水気を失って粘ついた唾液を飲み込もうとしたとき、すぐ真横から葉が擦れる音がした。

 間髪入れずに狗巻くんが息を吸い込む。

「――触るな」

 ぬっと伸びた白い手が大きな音とともに弾かれた。安堵したのも束の間、今度はまっすぐ前から中年の男が走ってきた。血走った目がわたしを捉えて離さない。

 狗巻くんは走る勢いそのままに、左に曲がって草木をかきわけていった。ジーンズに木の枝が引っかかって折れた。軽い痛みが走ったけれど気にしてなどいられなかった。四方八方から人の気配がするせいで。

 祭囃子とは逆の方向に走ろうとしているのに、つま先が向く方向はどういうわけか祭囃子が聞こえるほうだった。浮かれた音は徐々に大きくなっている。

 どうやら相手にうまく誘導されているらしい。追っ手から逃れようと方向転換をするたび、狗巻くんが苦しい顔をしている様子が、わずかながら伺うことができたから。

 それでもなお走り続けていると、山中にちらほらと家屋が見えてきた。祭りの行われている集落に近づいている。橙色の灯りがより鮮明になっている。

 このまま祭りに近づくのは相手の思うつぼだろう。思惑通り呪術をかけられてしまう。

 退路を見出そうと首を振る狗巻くんの後頭部を見つめる。せっかくこんなに逃げたのに、すべてが徒労に終わってしまう。

 わたしは肩で息をしながら狗巻くんに提案した。

「隠れませんか」
「おかか」
「だってこのまま走っても……」

 その先の言葉は喉の奥に押し込めた。本当にそうなってしまうような気がして。

 狗巻くんは周囲を見渡して、意を決したようにわたしを振り返った。わたしは小さく頷く。すると彼は近くに建っていたボロボロのあばら家に向かって駆け出した。

 時代劇で何度か見たことのある造りだった。狗巻くんがまっすぐ走っているということは人の気配がないのだろう。どうやら廃屋らしい。

 木の板を繋げただけの扉は大きく開け放たれていた。誘い込まれているような気がしたけれど、今さら足を止めることなどできなかった。

 駆け込んだその勢いでわたしは頭からべしゃりと転んだ。手をつくより先に、泥を固めた地べたに鼻をぶつけた。走る痛みに顔をしかめる。

 狗巻くんは建てつけの悪い扉を強引に閉めたあと、うずくまったままのわたしに手を貸してくれた。引っぱり上げてもらいながら体を起こして、あばら家の中をぐるりと見渡す。

 とても狭い家だった。天井の至るところにクモの巣が何十にも張り巡らされているし、大きく破れてしまった襖が床に倒れているせいで、狭い部屋は足の踏み場を完全に失っている。

 ひどい荒れようだったけれど、幸い人の気配はなかった。狗巻くんと顔を見合わせる。

「ちょっとだけここで休憩しましょうか」
「しゃけ……ツナマヨ」
「息が整ったら、すぐにでも」

 長居はできないと言う狗巻くんにそう答えて、わたしはその場で深呼吸を繰り返した。膝がガクガクと震えていた。滅多にしない全力疾走のせいなのか、怖気のせいなのかわからなかった。

 酷使した肺を大きく膨らませながら、壁に目をやる。壁になっている木の板と板の間の小さな隙間から、部屋を照らすように橙色の光が差し込んでいる。

 淡い橙色をじっと見つめて、ふいに違和感を覚えた。あばら家のすぐ外に灯りなんて灯っていただろうか。そんな疑問が浮かび上がったとき、

「お嫁さんや」

 真後ろからたどたどしい声がした。慌てて振り向く。

 わたしと閉めた扉の間に小さな女の子が立っていた。日本人形のような容貌の幼子だった。黒い着物姿の幼子は丸くて黒い大きな眼でわたしを見上げている。

 真横にいる狗巻くんが再びわたしの手を取った。横目に見える彼の表情は険しく、口元のジッパーに指を引っかけていた。

 幼子は狗巻くんに視線の矛先を向ける。

「もうわかってるやろ。無駄やって」

 幼子の口から聞こえてきたのは老いた男の声だった。驚くわたしに目を戻すと、幼子は不思議そうに小首をかしげた。

「どこ行くん?お祭り、行かんでええの?」

 わたしの眉間に力が入った。その声には確かに聞き覚えがあった。霧の中で迷っていたあのとき、何度もわたしを呼んだ声だった。

「みんな……みぃんな、待ってんのに」

 幼子の表情が途端に曇る。今にも泣き出しそうな雰囲気だった。

 狗巻くんがわたしに視線を送っている。逃げよう。しかしわたしは彼の提案に背いて、その場で体を少し屈めた。幼子と目線を合わす。幼子の言ったことがどうしても気になっていたから。

「みんなが、誰を待ってるの?」
「あんたを待ってんのや」
「わたし?」

 狗巻くんがわたしの手を少しだけ強く握りしめたのがわかった。わたしはずっと引っかかっていたことを口にした。

「何のお祭りなの?」

 幼子の目蓋がぱちぱちと何度も上下する。

「ちぎり祭り知らんの?なんで?」
「ちぎり祭り?」

 見たことも聞いたこともない祭りの名前だった。わたしが首をひねると、「おかか」と張り詰めた声が降ってきた。見上げれば、彼は幼子を射殺さんとばかりに睨みつけていた。

 こちらの身がすくむほどの殺意だった。狗巻くんは“ちぎり祭り”について何か知っているのだろう。その上で幼子を敵とみなしているのだ。

 幼子がふふっと笑った声が聞こえた。視線を戻して、わたしは息を飲んだ。無垢な声とは裏腹に、邪悪な笑みが浮かんでいた。白くて小さい歯をむき出しにしながら、

「神さんと結婚するんやろ。ええなあ、ええなあ、綺麗なおべべ着せてもろて」

と口を開いたまま幼子がわたしを指差す。

 急に肌がひんやりと冷たくなった気がした。なんだか悪寒がする。熱を逃がさぬよう体を縮こませようとして、わたしは大きく目を見開いた。

「えっ」

 素っ頓狂な声が聞こえた。それはわたしの声だった。ラフなパーカーとジーンズ姿だったはずなのに、わたしの服はいつの間にか白い着物に変わっていた。腰を圧迫する帯までもが白かった。

 喉がひゅうっと鳴った。逃げようと足に力を込めると、土の冷たさが直に伝わってきた。わたしは裸足になっていた。

 一気に力が抜けて、尻から地面にすとんと落ちた。

 意味がわからなかった。いったい何が起こっているのか、皆目見当もつかなかった。これも呪術だというのだろうか。

「――消えろ」

 狗巻くんがそう言った途端、幼子の体が霧散した。わたしは呆然と眺めていることしかできなかった。

 限界だった。涙も出なかった。自分の身に降りかかっているすべてが受け入れられなくなった。キャパオーバーの横文字が頭に浮かぶ。立て続けに理解の範疇を超えた出来事が起きているせいで。

 脳が強い拒絶反応を示している。その証拠に手がガタガタと震えていた。足にまるで力が入らない。必死に押し込めていた恐怖が下から這い上がってくる。

「うあ、あ……あ」

 意味を持たない声を漏らすわたしの耳のすぐ後ろから、幼子の無邪気な笑い声が聞こえてくる。わたしはますます呻いた。甲高い声が骨の奥にまで響いて、頭痛を引き起こしていた。

 狗巻くんが片膝をついてわたしを抱きしめた。わたしの頭を掻き抱いて自分の胸に押しつける。

「おべべが赤ぅ赤ぅなったら、連れていかれるん。あんたは」
「――失せろ」

 彼が幼子の言葉をかき消す。げほっ。乾いた咳が耳元で聞こえた。喉の調子でも悪いのか、唾液で喉を潤そうとする音が後に続いた。

 いきなり耳が圧迫されて詰まったような感じがした。拾う音の輪郭がぼやけていく。現実感がいっぺんに抜け落ちた。幼子の不快な笑い声も、狗巻くんの苦しそうな呼吸音も、すべてが分厚い膜を隔てた向こう側の出来事のように感じた。

 わたしは何をしているのだろう。自分だけが苦しいような顔をして。

 目頭がかあっと熱くなった。狗巻くんは何度も髪を撫でてわたしを落ち着かせようとしていた。彼の心臓の音に耳をすませると、耳を覆っていた膜が弾けるように消えていった。

 目蓋に力を入れて、涙を含んだ睫毛を持ち上げる。

「逃げよう」

 はっきり言ったつもりだったのに、わたしの声はひっくり返っていた。髪を撫でつける手が止まる。

 わたしは顔を上げて狗巻くんをまっすぐ見据えた。

「逃げよう!」

 今度はちゃんと声が出ていた。自らを奮い立たせるための言葉だった。頬を伝う涙を手のひらで乱暴に拭う。

 狗巻くんは頷いてわたしの手を優しく握った。ここに来たときのように。

 勢いよく扉を開けるとそのまま山の中へ駆け出した。耳の後ろから幼子の嘲る声がする。

「無駄やのに。神さんに連れていかれんのに」

 下手な芝居のようにわたしの肩が跳ね上がる。それでもつま先で地面を捉えると、湿った土を力強く踏みしめた。

「ええなあ、ええなあ、ええなあ」

 無邪気な幼い声がこだまする。体はまだ震えていた。目から涙が溢れていた。けれど繋がれた手がわたしから恐怖を少しずつ引きはがしていった。

「……ごめんなさい。頭が真っ白になって」

 鼻の詰まった涙声で言うと、狗巻くんがわたしに視線を寄越した。小さく笑っていた。まるで安心させるように。

「高菜」
「うん……たぶん、もう大丈夫です」

 草を踏む音が遠くから聞こえる。追っ手が来ているようだ。そのしつこさに恐怖よりも苛立ちが上回り始める。早く諦めてくれないものか。どうしてそこまでわたしにこだわるのだろう。他の人間では駄目なのだろうか。

 そういえば、とわたしは狗巻くんに尋ねた。

「赤くなるって……さっきのあれ、いったいどういう意味ですか?わたし、どこに連れていかれるんですか?」

 けれども答えは返ってこなかった。質問の仕方が悪かったからではない。狗巻くんはあえて沈黙を選んだのだ。

 わたしの手を握る力は強くなっていた。重なった手のひらにはべっとりと汗がにじんでいる。わたしのものではない。狗巻くんの手汗だった。

 ――呪い殺したい人でもいるんですか?

 ついさっき自分で言った言葉が頭の隅から隅まで巡っていた。わたしは繋いだ手に力を込める。胸が締めつけられて呼吸が浅くなる。下唇をきつく噛みしめた。

 ――おべべが赤ぅ赤ぅなったら、連れていかれるん。
 ――神さんに連れていかれんのに。

 赤はおそらく、血の赤のことだ。つまりこの白い着物が血で染まったら、神様に連れていかれるという意味だろう。

 捕まれば、わたしは殺される。殺されて神様に連れていかれるのだ、死者の国へ。

 狗巻くんが必死で逃げようとしている理由がやっと理解できた。いつまでもこんなところにいられない。逃げなければ。早く逃げなければ。

 しかし状況は悪くなる一方だった。慣れない着物のせいで動きづらいし、何より足が開かなくて速度がそれほど出ないのだ。そのせいで途切れることなく襲ってくる追っ手との距離は開くどころか縮まるばかりで、狗巻くんはずっと呪術で妨害し続けている。

「――触るな」

 狗巻くんが空いた手で喉を押さえた。わたしは眉をひそめる。さっきからどうも彼の様子がおかしい。げほげほっ。ごほっ。絶え間なく咳を繰り返している。

 ポケットに手を突っ込んで、何かを取り出すのが見えた。口元に手が運ばれる様子だけが薄っすらと確認できた。咳は少しだけ治まって、おそらくのど飴か何かを口に含んだのだろうなと思った。

 喉を押さえたままの狗巻くんはとても苦しそうだった。

 咳喘息だろうか。もともと気管支が弱いのかもしれない。これだけ走って荒い呼吸を続けていれば悪化もするだろう。

 狗巻くんのためにも少しでも早く逃げ切りたくて、わたしは足をより大きく前に出した。

「――捻れろ」

 げほっ。ごほごほごほっ。狗巻くんが一際激しく咳き込んだ。乾いた咳ではなかった。何かが絡んだような、湿っぽくて音の大きな咳だった。

「狗巻くん?」
「……こんぶ」

 制服の首元を引っぱり上げながら、彼はこちらを見た。鼻まで隠れているせいで見えているのは目だけだった。

 目元には柔らかい笑みが刻まれていたけれど、わたしと目を合わせていたのは一瞬だけだった。狗巻くんはすぐに前を向いて俯きがちに咳き込んだ。また湿っぽい咳が連続する。平気そうには見えなかった。

「狗巻くん、大丈夫?」
「しゃけ」

 返ってきた声は掠れていた。前方から追っ手が複数人駆けてくる。一人、二人……四人。わたしの心配をよそに、狗巻くんは前だけを見ていた。

「――爆ぜろ」

 追っ手がまとめて勢いよく爆散した。追っ手だったものがぼとぼと落ちるのが遠目に見えて、うっと吐き気が込み上げた。気を逸らすように狗巻くんの後頭部に視線を移動させる。

 砥粉色の頭が揺れている。狗巻くんの咳はますます激しくなっていた。

 こんなに走っているのに、どうして逃げ切れないのだろう。

 賑やかな祭囃子をさえぎるように、湿った咳が聞こえる。狗巻くんが息苦しそうに喉を押さえていた。

 げほげほげほげほっ。むせたかのように彼が激しく咳き込んだとき、わたしの頬にべちゃりと何かが付いた。生ぬるかった。空いた手で頬を擦ると、指先が赤く染まっていた。

 誰のものかは明白だった。

 わたしは動揺していた。時間が止まってしまったと錯覚したほどに。血の付いた手を爪が食い込むくらい強く握りしめた。

 きっと呪術を使い続けたせいだろう。何のリスクもなしにこんな危ない術が使えるはずがない。咳き続ける狗巻くんをじっと見つめる。わたしの心が静寂に包まれていく。

 狙われているのはわたしだ。わたしがいなければ狗巻くんは逃げ切れるかもしれない。

 決断は早かった。繋がれた狗巻くんの手を力いっぱい振り払って、その場で足を止めた。湿った地面の生ぬるさが足の裏に広がった。

 狗巻くんが振り返る。隠す余裕がなかったのか、真っ赤に染まった口元が露わになっていた。口からこぼれた血液が顎を伝っている。拭ったときに付いたのか、鼻先まで血で汚れていた。

 狗巻くんの目はわたしの頬に釘付けになっていた。血を拭ったほうの頬だった。彼はすぐに首を横に振って、わたしに向かって手を伸ばした。

 察したのだろう。わたしが手を離した理由にも、これから何をしようとしているのかにも。

 わたしがゆっくりと後ずさると、草が擦れる音がした。差し出されたままの手を見つめる。

 狗巻くんが血を吐く羽目になったのはわたしのせいだ。それでもわたしを見捨てるつもりのない彼に大きな安心感を覚えていた。手を差し伸べてくれるその優しさに自然と笑みがこぼれた。

 だからこそ、わたしはその手を取ることはできないし、取ってはいけないと思った。

 これ以上、狗巻くんがわたしのために傷つく必要など、どこにもないのだから。

 狗巻くんが口を開こうとした。制止の声が聞こえる前にわたしは腹の底から叫んだ。

「逃げて!早く走って!」

 悲鳴じみた絶叫だった。強引にかき消したのだ。わたしの中の怖気も躊躇も丸ごと全部。

 わたしは身を翻して追っ手のほうへ脇目も振らず駆け出した。狗巻くんが最後にどんな顔をしていたのか、それすらもわからないまま。


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