儀式

 深い夜が支配する空には、数え切れないほどの星が瞬いていた。息を飲むほどの光景だった。実際に満天の星を見るのは初めてだった。写真や映像でしか見たことのない世界が目の前に広がっている。目に映る星々のきらめきはどこか冷たかった。

 手渡された提灯を片手に、わたしは集落に向かっていた。石垣でできた細い畦道をゆっくりと歩きながら。

 濃い暗闇のせいではっきり捉えられないが、それでもぼうっと浮かぶ橙の灯りのおかげで、広大な棚田がぼんやりと見て取れた。田植えをしたばかりなのだろう、広い田んぼには背の低い稲が等間隔で並んでいた。

 今は田植えの時期だっただろうか。田植えはもう少し後だったような気がする。そんな疑問が浮かんだけれど、すぐに消えてしまった。どうでもよかったからだ。

 草履を履いた足元を横切る蛙を避けて歩いていると、すぐ前を歩いていた老婆が振り返った。老婆の手にした提灯はわたしのよりも一回り大きい。

「秋にはここが一面黄金色に染まるんです。それはそれは綺麗ですよ」
「そうなんですか。見てみたいです」
「ぜひ神様と一緒に見て下さい。頑張って育てますから」

 言うと、老婆はにっこり笑って前を向いた。ひとつにまとめた長い白髪が揺れた。

 やっぱり死ぬんだなと思いながら、わたしは口を一文字に結んで畦道を進んだ。

 小さな生き物たちが草の間を走る音は、いつまでも絶えない賑やかな祭囃子に埋もれてしまっていた。だからわたしは用心して進む必要があった。老婆曰く、石垣の間には毒蛇が住んでいるらしい。

 噛まれたくはなかった。しかしここで毒蛇に噛まれて死ぬほうが楽だろうか。その毒の程度にもよるだろうが、これから血だらけになるよりは楽に死ねる気がした。一瞬で死ねるなら毒のほうがいいなと思った。思うだけで、わたしは蛇への警戒を怠らなかった。まだ死ぬ覚悟はできていなかったから。

 わたしがのろのろ歩いていても、誰一人として文句を言わなかった。前を歩いている老婆も、後ろを歩いている中年の男も、その男の後ろを歩いている村人らしき人たちも。

 手荒なことをされるのかと身構えていたのに、幸いと言うべきか杞憂に終わった。

 狗巻くんと別れ追っ手に駆け寄ったわたしは、抵抗する意思がないことを示すため、彼らの目の前ですっと座り込んだ。そこからどうすればいいのかわからなかったので、とりあえず頭を垂れておいた。

 しばらく沈黙が流れ、何の反応もないことにいささか焦りを覚えた。恐る恐る頭を上げると、白髪の老婆がわたしと目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた。

「大人しゅうしてくれたらええんです」

 老婆は穏やかに笑った。それから裸足のわたしに草履を履かせ、提灯を持たせ、後についてくるように言った。

 裸足にしたのはそっちなのだから、最初から草履を履かせておけばよかったのに。そう思ったものの、言わずに飲み込んだ。きっと逃げにくくするために裸足にされたのだろうから。

 橙色の提灯を頼りに歩いていると、後ろからぽつぽつ会話が聞こえてきた。内容までははっきりと聞き取れないけれど、癖の強い方言で会話していることはわかった。おそらく関西、それも近畿地方の方言だろう。場所までは特定できないが、ここは近畿の山なのだろうか。

 集落に辿り着くと、至るところに橙色の灯りが浮かんでいた。道に沿うように連なって緩く垂れた灯りの中をひたすら歩いた。山の上にあるという神社を目指して。

 その道中、わたしは異様な体験をした。老婆に連れられて歩くわたしを見た集落の人たちは、道を譲るように脇に移動すると、その場で座り込んでしまった。それどころか、手を合わせて拝んだり、念仏のような何かを唱えたりし始めたのだ。

 またもや時代劇で見たことがある光景だった。記憶を辿りながら視線を送ろうとすると、老婆に強く諫められた。

「見てはいけません。前だけを見るように」

 どうして見てはいけないのかわからなかった。有名人のように手を振ったり笑顔を向けたりしようというわけでもない。生返事をすると老婆が睨んできたので、わたしは言われた通りにした。

 大人や老人だけではなく、幼い子どもまでもがわたしを拝んでいた。

 どこにでもいる普通の学生であるわたしが、この人たちにとっては何らかの信仰の対象になっている奇妙な事実。それはわたしが着実に死に近づいていることを理解させた。充分すぎるほどに。

 背中を這いずるような不気味さは残っていたけれど、不思議と恐怖はなかった。狗巻くんといたときの取り乱しようが嘘のように、心は凪いでいた。

 あのとき叫んだからかもしれないし、ただの強がりかもしれない。あまりにも恐ろしくて麻痺しているだけの可能性も考えられる。なんにせよ、わたしはひどく冷静だった。

 老婆は集落を越えて人気のない道を進んでいった。しばらく歩くと、急な山の斜面に埋もれたような石畳の階段が見えてきた。ずいぶん古いものなのだろう、石段の角は丸みを帯びていたり、ところどころ欠けていたり、大きくひび割れたりしている。

「ここを登ります。もうちょっと辛抱してくださいねえ」

 振り返ってそう言うと、老婆が石段を一段ずつ登り始めた。提灯で足元をはっきりと照らしてから、わたしは膝を軽く持ち上げた。足が入りきらないほど幅の狭い階段を登りながら、老婆の背中に質問を投げる。

「この先に神様がいるんですか?」
「おりません。神様はあなた様を迎えに来るためだけに、ここまでやってくるんです」

 わたしのためだけにご足労を頂くらしい。ありがたいことなのだろう。わたしは質問を続ける。

「いつもはどこに?」
「黄泉の国に」

 これは本当に死ぬなと思いながら足を上げる。這い回る蜘蛛や芋虫を避けつつ、ゆっくりと石段を上がっていった。

 石段を上りきっても、神社は見えてこなかった。老婆を追って獣道を五分ほど進んだ先に、また急な石段が現れた。黙々と階段を上る。これを二度も繰り返した。

 額から汗が吹き出し、息が切れてきたとき、「どうぞ」と老婆に差し出されたのは竹筒だった。ちゃぷちゃぷと音がしている。中には水が入っているらしい。

 どうやって飲むのだろう。筒の真上の小さな栓に気づいたとき、老婆が皺だらけの指で示した。

「そこの栓を引っぱってください」
「こうですか」
「上手上手」

 竹筒に口をつけて傾けると、冷たい水が喉の奥を伝っていく。わたしは目を瞠った。こんなにおいしい水は初めて飲んだ。柔らかくてすっきりとした水だった。何か変なものでも入っているのかと今さら思ったけれど、

「この山の湧き水です」

と老婆がにっこり笑ったので信じることにした。喉が充分に潤うまで水を飲み続けた。

 空になった竹筒を老婆に返したとき、老婆が汗ひとつかいていないことに気づいた。この山に慣れているからというわけではないのだろう。これだけ階段を上っておいて少しの息切れも起こしていないのはどう考えてもおかしい。

 人間ではない老婆の背中を追うように、わたしは再び石段に足を乗せた。

 狗巻くんは無事に逃げ切れただろうか。狗巻くんが逃げるだけの時間稼ぎはできただろうか。あんなに血を吐いていたけれど、本当に大丈夫だろうか。

 狗巻くんの無事を祈りながら石段を上り続けて、ようやく神社に到着した。

 真っ赤な鳥居をくぐると、漂う空気が明らかに変わった。陰気で重苦しく、膿んだような異臭が充満していた。空気が黄ばんでいるような気さえした。

 提灯の灯りがふっと消えて、急に辺りが闇に包まれた。

 空を見上げると、星がすべて消えていた。代わりに血に濡れたような満月がぼうっと浮かんでいた。雲もないのにその輪郭はひどくおぼろげで、瞬きするたびに微妙に位置がずれていた。ピントの合わないカメラ越しに見ているようだった。

 酔いそうになって、わたしはすぐに視線を老婆の背に戻した。

 神社はどんよりと沈んだ空気の真ん中に鎮座していた。社は老朽していた。年月によってではなく、ただ放置されているだけという感じがした。社を覆うように立ち並ぶ木々も暗く、生気が感じられなかった。ここに藁人形を打ちつけたら、さぞや効果が期待できるだろう。

 おどろおどろしい雰囲気の神社に向かうのかと思いきや、老婆はその脇にある細い道を進んでいった。

 その先には山を削って作られたかのような大きな洞窟があった。洞窟の壁には灯りがぽつぽつと備えつけられていた。

 わたしは老婆とともに暗い洞窟を歩き続けた。洞窟の中は静かだった。ぬかるんだ地面を踏みつける草履の足音だけが響いていた。わたしと老婆の足音。いつの間にか、後ろにいたはずの男たちは姿を消していた。

 しめ縄が洞窟の壁を這っている。それを目印にしてしばらく歩くと、広い場所に出た。

 そこにはたくさんの人が壁に張りつくように立っていた。百人は優に超えているだろう。働き盛りの男が大半を占めていたけれど、若い女の姿もちらほら確認できた。

 彼らは微動だにせず、ただまっすぐ、その場所の中心を見つめていた。生きている感じがしなかった。瞬きひとつしないその人形じみた気味の悪い表情に、ぞわりと鳥肌が立った。

 彼らの視線の先には、大きな岩があった。高さはわたしの腰ほどだろうか。横一線に切ったようにその上部は平らで、まるで台のようだった。側面には洞窟の壁と同様にしめ縄がくくり付けられている。

 祭壇だと思った。この台の上で殺されるのだと悟った。

 老婆はすぐそばに敷かれていた茣蓙の上に座るようにと指示した。わたしが正座するなり、

「目を閉じてくれますか」

と言った。抵抗する気はなかった。老婆に従うと、目蓋を触られた。何かを塗りつけられている。少し乱暴な手つきだったが、わたしを傷つけようという意図は感じられない。

「神様に嫁ぐんです、綺麗にせんと」

 どうやら化粧をされているらしい。なんというか、ものすごく儀式っぽい。“ぽい”ではなく儀式なのだろう。すごいなあと感心していると、「動かんといて下さい」と叱られた。

 今度は唇に紅を指される。指の腹でトントンと塗り込まれる感触に神経が集まっていく。

 これから殺されるというのに、不思議なほど穏やかな気持ちだった。

 落ち着き払った様子に誰より驚いているのはわたし自身だった。これは死化粧だろうか、一度鏡で顔を見てみたい。そんなことを考える余裕があることが恐ろしかった。

 死を受け入れているようで。生きることを諦めてしまっているようで。

「ええ塩梅です」

 老婆がそう言いながら、わたしから体を離した。わたしは目を開けて問いかけた。

「綺麗になりましたか?」
「ええ、それはそれは。神様も喜んで下さいます」
「よかったです」
「あちらに仰向けで寝転んで下さい」

 祭壇を指差され、大人しく向かった。縁に両手をついてよじ登ろうとするけれど、着物のせいでなかなかうまく登れない。老婆たちは悪戦苦闘するわたしを見ているだけで、手も貸してくれなかった。

 数分後、着物が乱れてしまったものの、何とか祭壇に登ることができた。

 祭壇はわたし一人が寝転んでもまだ余裕があるほどだった。言われた通り仰向けに寝転がると、老婆によって手と足をそれぞれ太い縄できつく結ばれた。

 棒立ちになっていた人たちが突然動き出して、四本の縄の真横に規則正しく並んだ。わたしの手足から伸びている縄の端は洞窟の壁に埋まっていた。わたしを中心に十字を描くように。

 彼らは揃った動きで縄を掴んだ。両手できつく握りしめていた。綱引きのようだなと思ったとき、背中にじわりと汗がにじんだ。

 嫌な予感がした。虫の知らせというのだろうか、妙な胸騒ぎがする。笑みを浮かべながらわたしを見下ろしている老婆に顔を向けた。

「これって」
「これがちぎり祭りの儀式です」

 老婆はきっぱりと言った。わたしの口から戸惑いを含んだ声が落ちる。

「ちぎり祭りって……」
「あなた様は今から神様と契るんです」
「……契る」
「そうです。これは名誉なことですよ。誰だって成れるもんじゃあないですからねえ」

 その瞬間、四方向から手足がぐんと引っぱられた。手足がピンと伸びてもなお、縄を引く力は弱まらない。鈍い痛みが生まれて、わたしは小さく呻いた。老婆が笑みをたたえたままわたしを見ている。

「そのために手足を千切るんです」
「えっ?」
「それが神様と契る、ということですから」

 一気に血の気が引いていく。ちぎり祭り。“契る”と“千切る”をかけているのか。

 あのとき聞いた幼子の拙い声が耳の奥で再生される。

 ――おべべが赤ぅ赤ぅなったら、連れていかれるん。

 四肢を裂かれて白い着物が真っ赤に染まったら、神様によって黄泉の国に連れていかれる。

 つまりはそういうことだ。しかし今さらわかったところでどうにもならなかった。

 吐き気が込み上げてきて、低く呻いた。絶望に襲われたせいだった。ぐるんと胃がひっくり返っているような気がした。

 吐き気の上から激しい痛みが塗り重ねられていった。うううううう。痛みに堪えるように唸ったものの、長くは持たなかった。左腕の関節がガクンと抜けて、皮膚が伸びていく感じがした。

 熱を持った鈍い痛みがわたしを飲み込んで、視界が白く霞んだ。

「あああああ!」

 泣き喚いていた。喉が焼けそうなくらい叫んでいた。鈍痛のせいではなかった。溜め込んでいた感情が堰を切って溢れ出したせいだった。痛みによって、やっとわたしの中で“死”が現実味を帯びたのだろう。

 涙で濡れた顔をぶんぶん振った。体を大きく揺らして、必死で抵抗した。股関節が抜ける感覚がしたけれど、それでもわたしは絶叫し続けた。

 死にたくない。嫌だ。死にたくなんてない。嫌だ嫌だ嫌だ。そんな死に方まっぴらごめんだ。

 しかし老婆はまったく動じていなかった。こうなることは最初からわかっていたとでもいうように、穏やかな表情のままわたしを見下ろしていた。

 暴れるわたしの頭を慈しむように撫でている。

「やけどこれが大変でねえ、なかなか千切れんのです。せやから、ちょっと切れ目、入れさせてもらいますよ」

 そう嗤う老婆の手には、鈍く光る鉈が握られていた。


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