出会い

 濃い霧が視界を覆っていた。ほんの数メートル先ですら、はっきり捉えることができないほどだった。青々と茂った草木が薄っすらと透けているくらいで。

 足を止めて、わたしは空を見上げる。晴れているのか曇っているのかもわからない。辺り一面、塗り潰されて真っ白だった。

 わたしはドライアイスを思い出していた。ケーキを買ってきたときの保冷剤として入れてもらったドライアイスを水に浸したら、同じようなもやもやした霧がたくさん沸いて出てきた。

 それとよく似ている。そんなことを考えながら、わたしは再び歩き始めた。

 もう一時間はこの森の中を彷徨い歩いている。

 わたしは今月から高校二年生になった。成績も出席日数も全く不安はなかったから、進級したところで大きな感動は特になかった。ただクラス替えがどうなるのかとか、担任が誰になるのかとか、そういうことはとても気になったくらいで。

 高校二年生になっても、校外学習という仰々しい名前の付いた、何の意味もなさそうな学校行事が行われる。一年生のときは仲良くなるためという名目で山に登り、今回は健やかな心と体を作るためにまた山に登ることになった。

 山ばかりだ。同じ山ではないけれど、もっと別の場所はないのか。どうせまた来年も山に登るのだろうと思うとひどく気が滅入るし、不満は山のように積み重なっていく。

 ただ文句を言いたいだけ言うだけで、ボイコットするほど不真面目でもなかった。何しろこれは学校行事だから出席日数に響く。ということは受験にも少なからず関わってくる。

 学校からの推薦で楽をして大学に行きたいわたしは、仲のいい友達とぶうぶう文句を言い合いながら、並んで山道を歩くことにしたのだった。

 人が難なく登れるくらいの砂利道をひたすら進む。少し角度はついているものの、そこまで急ではなかった。体力にそこまで自信のないわたしでも問題なく登れるし、友達とおしゃべりしながら歩いていると足の疲れもすっかり忘れた。

 山のちょうど中腹まで登ったとき、スニーカーのひもがほどけていることに気づいた。友達がふざけながらわたしと距離を取った。

「ほら、早くしないと置いていくよ」
「ちょっと待って」

と笑いながら、わたしはその場にしゃがみ込んだ。背負ったリュックの重さがずっしりとのしかかる。たくさん水分を摂るだろうと予想して、大きめの水筒を持ってきたのは間違いだったかもしれない。

 ほどけているのは左足だった。黒い靴ひもを素早く蝶々結びにして、大きさの揃った羽を強く引っぱった。ひもがきつく締まる感じが手に伝わる。

 これでもう大丈夫だろう。わたしがぱっと顔を上げると、辺り一面が真っ白に染まっていた。

「……え?」

 間の抜けた声がこぼれ落ちていた。突然のことに頭が追いつかない。

 漂う白いそれが霧だと気づくまで、それほど時間はかからなかった。ここは山だから霧が出ることだってあるだろう。

 けれど、と思う。今しがたまで視界は澄み渡っていたのだ。霧が出るような気配などなかったはずだ。だというのに、知らないうちに霧が一帯を覆い尽くしている。

 理解ができないまま、わたしはよろよろと立ち上がった。

 誰もいなかった。すぐそばにいたはずの友達も、わたしたちを挟むように前後を歩いていたクラスメイトも、姿がどこにも見当たらない。

 頭が混乱していた。うまく状況を飲み込めない。それでも辺りを見渡しながら、わたしは大きな声で叫んだ。霧の向こうにいる誰かに届いてほしいと強く願いながら。

 ねえ誰か。ねえ、誰かいないの。誰か。お願い、誰か返事をして。

 いくら叫んでも返事は返ってこなかった。それどころか虫や鳥なんかの生き物の気配すら感じられなかった。

 そこにあるのは冷たい静寂だけだった。

 急に心細くなって、心臓がきゅうっと小さくなった。首をひねって何度も周囲を見渡す。辺りは見覚えのない景色に変わっていた。山の緑がこんなに濃かった記憶はない。

 ここはいったいどこだろう。もしかしたら、知らないうちに変な道に迷い込んでしまったのかもしれない。

 けれどすぐに、楽観的な予想を覆すような疑問が沸き上がってくる。

 ――靴ひもを結ぶたった数秒の間にどうやって?

 その事実に蓋ができるほどわたしは能天気ではなかったし、それについて深く思案できるほどの余裕があるわけでもなかった。

 とにかく今は皆と合流しなければ。わたしの頭を占めているのはそれだけだった。

 リュックの中にスマホを入れていることを思い出し、急いで背中に手を回して唖然とした。

 リュックがなかった。ごつごつした背骨の感触だけが指の腹に伝わっている。

 降ろした記憶など――どこにもない。

 ひどい寒気がして、両腕で体をきつく抱きしめた。まるで悪い夢でも見ているようだった。

 こういうのを白昼夢というんだっけ。いや、そもそもこれは明晰夢で、わたしは部屋のベッドでぐっすり眠っているだけではないのだろうか。人や持ち物がいきなり消えるなんて、一瞬のうちに景色が変わるなんて、あまりにも非現実的すぎる。

 そんなことを考えていると心が落ち着いてきて、そのせいか余裕も生まれた。余裕というよりは半ば諦めに近かった。だって、体を抱きしめる感覚は現実のものと変わらない。頭のどこかで、これは夢ではないという直感が働いていた。

 わたしは霧の中を進んでみることにした。遭難したときはその場から動くなとどこかで聞いたような気もするけれど、そんなことできなかった。何かしていないと心細さでぐしゃりと押し潰されそうだったから。

 濃霧のせいで方向も方角もわからなかった。数メートル先ですらおぼろげなので、足元に転がる大きな石や急な崖に用心しながらゆっくりと歩いた。

 同じところをぐるぐる歩いているような気がしたし、山の頂上に向かってまっすぐ歩けているような気もした。

 正直なところ、得られる結果はどちらでもよかった。もちろん後者であることに越したことはない。けれど今のわたしに必要なのは目的だった。結果ではなく。

 とりあえず歩いてみよう、それからどうするか考えよう。

 行き当たりばったりの目的は、わたしの不安をずいぶん和らげてくれたのだ。何かよからぬことが、わたしの常識を軽々と飛び越えた何かが起こっているという恐怖を誤魔化してくれたから。

 人がまったく使っていない道なのだろう、膝下まで茂った草を踏みしめながら黙々と進む。ドライアイスに思いを馳せて、怖気を塗り潰しながら。

 ぶくぶくと唸るドライアイスを眺めるのが好きだった。消えてなくなるまで飽きずに見ていられるほど。とはいえドライアイスはケーキのオマケのようなもので、ケーキかドライアイスかと問われれば、間違いなくケーキを選ぶだろう。だってケーキは甘くておいしいから。

 ああ、お腹が空いてきた。

 山頂で食べるはずだったお弁当は、早起きして作ったものだった。今日はいつもと違って昨日の残り物をひとつも入れていない。せっかく外で食べるのだからと気合いを入れて作ったのだ。それを一口も食べられないなんて。

 空腹と落胆がネガティブな思考を引っぱり出してくる。

 このままあてもなく歩き続けることに果たして何か意味があるのだろうか。これだけ歩き続けて誰とも遭遇しないのは、やっぱり何かおかしいのではないだろうか。

 周囲からは相変わらず人の気配も生き物の気配もしない。

 来た道を一度戻ってみようかと思ったそのとき、遠くのほうから人の声が聞こえた。



 たどたどしい女の子の声だった。年端もいかない幼子のような。

……

 何度もわたしの名前を呼んでいる。ゆっくりと丁寧に。クラスメイトと一緒に誰かが探してくれているのかもしれない。

 声がするほうに鼻先を向けると、間を置いてまた声がした。


「わたしはここだよ!」

 わたしは大きな声で答えた。すると、にわかに辺りを包み込んでいた静寂がぷつりと途切れた。虫や鳥の鳴き声が聞こえ始めて、一帯を濁らせていた霧が逃げるように薄くなっていく。

 不思議だなと思ったのは一瞬だけだった。わたしは声がしたほうに向かって駆け出した。行く手を阻むように覆い茂った草木を両手でかきわけると、視界が一気に広がった。

 それと同時に、こちらを射抜く視線を感じてすぐに首を右にひねった。

 そこにいたのは、一人の少年だった。色素の抜けた砥粉色の髪から覗く、ぱっちりと見開かれた瞳。口元まですっぽりと包み込むデザインの黒い制服は、細身の彼には少し大きいせいかどこか野暮ったく見える。

 わたしの視線は制服の胸元で止まった。渦巻き模様の黄金色のボタンが鈍く光っていたから。見たことのないデザインだった。この山の近くの学校に通う生徒だろうか。

 彼は視線だけでわたしを上から下まで確認した。見開かれていた瞳がすぐに気だるげなものへと変わる。彼が首を小さくかしげると、さらさらの前髪が揺れた。

「……おかか」
「おかか?」

 ぼそりと聞こえた単語をなんとなく訊き返してしまった。そんなことより、とわたしは慌てて質問を投げかける。

「あの、この辺りで女の子を見ていませんか?」

 すると彼は眉をひそめた。

「わたし、何度も名前を呼ばれたんです、けど……」

 彼の眉間の皺がどんどん深くなっていった。明らかにわたしの言動を怪しんでいる。

 もしやあの女の子の声は気のせいだったのだろうか。心細すぎて、不安が大きくなりすぎて、都合のいい幻聴を聞いたのかもしれない。

 わたしは自分の置かれた状況を彼に説明するために、頭の中で言葉を選びながらぽつぽつ言った。

「山登りの校外学習中に、皆とはぐれてしまって……ずっと探しているんですけど、見つからなくて……喜多縞高校の生徒を見ていませんか?」
「……ツナ」

 訝しげな様子で彼は言った。

 ツナとはあのツナだろうか。ツナ缶のツナ。マヨネーズと和えておにぎりに入れるとおいしい、あのツナ。ちなみにわたしはパスタに入れるのが好きだ。

 しかしこの話の流れでどうしてツナが出てくるのだろう。うまく意思疎通を図れていないような気もするけれど、やっと出会えた人との会話をまだ諦めたくなかった。

「ここって、S山ですよね?」

 確認するように尋ねると、彼は首を真横に振った。

 今度はわたしが訝しむ番だった。ああそうなんですねと信じられるはずもなく、わたしは念を押すように再度確かめた。

「……本当に?」
「しゃけ」

 芥子色の頭が上下に揺れる。どうして鮭が出てきたのかは置いておくとして、彼は嘘を言っているわけではなさそうだった。

 何かが背中を這いずり回るような感じがした。

 だったらいったいここはどこなのだろう。やっぱりわたしは夢でも見ているのだろうか。

 彼に詳しく問いかけようとした瞬間、どこからともなく声が響き渡ってきた。

「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」

 ついさっき聞いた幼子の声だった。

 声の出所を確かめようと首をひねったとき、いきなり視界に深い闇が落ちた。辺り一帯が真っ暗になった。まるで闇夜の中に突然放り込まれたかのように。

 わたしが状況を把握するより早く、彼が首元のジッパーを指でつまんでいた。足を大きく開いて、腰をやや落としている。まるで何かを警戒している素振りだった。

「こんぶ……」

 緊張の糸がぴんと張った声音が、彼の口からこぼれた。

 わたしには何が起こっているのかさっぱりわからなかった。彼のように警戒するだけの理解にも至っていなかった。ただ周囲が暗くなったことしかわかっていなかった。

 だから彼の発する意味を結ばない言葉を――こんぶ、こんぶかあ、と――頭の中で反芻しながら、何度か瞬きを繰り返すことしかできなかった。

 じゃりっと石が擦れる音がした。彼がより深く腰を落とした音だった。ジッパーがじじじじと小さな音を立てながら降りていく。

 露わになった彼の口端には、不思議な模様が刻まれていた。円だ。丸い、まるで目玉のような。

 次の瞬間、遠くのほうにふわっと橙色が浮かんだ。

 あれは灯りだろうか。ひとつ、ふたつ、みっつ。橙色のぼやけた光が次々に浮かび上がっていく様子が、深い草木の間からはっきりと見て取れた。連なるように、一定の間隔を保ちながら。

 そしてかすかに聞こえてきたのは、賑やかな祭囃子の音だった。いくつもの澄んだ笛の音、そこに重なる軽快な太鼓と鉦の響き。さんざめく人の声も混ざって、祭り特有の陽気で浮かれた空気がここまで漂ってくる。

 さっきまでの静けさが、まるで嘘のようだった。

「……お祭りだ」

 わたしはそう呟いていた。あっちには人がたくさんいる、そう思った。橙色のほうへ足を踏み出そうとしたとき、彼が首を横に強く振った。ジッパーを引き上げながら。

「おかか」

 行くなという意味だろうか。わたしは訊いた。

「どうして?人がいるのに」
「おかか」
「えっと……その理由は?」
「おかか」

 彼は答えになっていない単語を口にして、首を横にぶんぶん振るばかりだった。

 わたしはため息をひとつこぼした。会話を諦めて歩き出すと、並走するように彼がついてくる。彼はまた首を横に振って、わたしを引き留めようとした。

「おかか」
「……今、自分がどういう状況にいるのか知りたいんです。でも、あなたは教えてくれる気がなさそうだから」
「……ツナマヨ」

 彼が足を止めたので、わたしもつられるように立ち止まった。こめかみに手を当てて険しい顔をしている。何かを考え込んでいるようだった。

 わたしの求めている答えが手に入ることを期待したけれど、

「おかか」

と彼はさっきよりも頭を強く振って反対を示しただけだった。

 これでは埒が明かない。わたしの疑問は一向に晴れないし、これからどうすればいいのかもわからない。

 わたしはとうとう匙を投げた。彼との会話は無駄だと結論づけると、再び足を動かした。いつの間にか霧がすっかり晴れている。足元の不安がなくなったことで、わたしの歩くスピードはずいぶん速くなっていた。

 彼は変わらずわたしの隣を歩き続けていた。わたしがまっすぐ前を見ていることをわかっていながら、それでも言葉を止めなかった。

「……おかか」
「一人で行くから大丈夫ですよ」
「おかか」
「ついてきてくれなくて大丈夫です。わたしが行きたいだけだから」
「おかか!」
「だからついてこないでって」
「おかかっ!」

 繰り返される制止の声に、ついにわたしは足を止めた。草木を踏みしめた音はとても大きかった。態度で示さなければもうどうにもならないのだと思ったから。

 苛立ちが沸き起こっていた。その原因を作った彼は困惑したような顔をしている。薄い茶色の瞳がかすかに揺れていた。わたしだけが悪いみたいでますます腹が立った。

 わたしは彼をきつく睨みつけながら言った。

「さっきから“おかか”“おかか”って、そればっかり。どういう意味ですか。何が言いたいのか全然わかんないです。ちゃんと話してください」

 自分でも驚くほど、憤りを含んだ声だった。感情に任せて彼を攻撃する意図しかない言葉を吐いたことに、自分でもひどく戸惑ってしまった。

 彼は大きく目を見開いたあと、気まずそうに目を伏せた。鼻まですっぽり制服に隠れてしまう。前髪が垂れ下がって、どんな顔をしているのかわからなくなった。

 放っておけばいい。そのまま歩き出せばいい。そう思うのに、できなかった。どうしてこんなに怒ってしまったのだろう、そんな後悔のほうがずっとずっと大きくて。

 いたたまれない後悔が溢れた怒りを小さくしていった。変わった制服に顔をうずめたままの彼に、罪悪感を含んだ視線を送る。

 そこまで必死になってわたしを引き留めるということは、彼はおそらく何かを知っているのだろう。けれど、きっと伝えられない事情がある。それすらも話せないような、深く込み入った事情が。

 混乱していたとはいえ、自分のことばかりで彼の事情を汲み取れなかった自分が心底嫌になった。わたしはその場で小さく頭を下げた。

「……言い過ぎました。ごめんなさい」

 彼が顔を上げる気配がした。

「明太子」

 優しい声が聞こえて、わたしはそうっと頭を上げる。彼の眠そうな目元には笑みが浮かんでいて、わたしと目が合うなり頭を小さく左右に振った。

 もう気にするなという意味だろうか。都合よく解釈していないかと少し怖くなりながら、わたしはおずおずと問いかけた。

「話せないのは何か事情があるせいだって、そう思っていいですか?」
「しゃけ」

 彼は柔らかい笑顔で首肯すると、スラックスのポケットに右手を突っ込んだ。そこから取り出した何かをわたしに向かって差し出した。

 受け取ってみれば、それは学生証だった。彼の顔写真と名前、それから学校名が記載されている。

「東京都立、呪術高等専門学校……狗巻、棘」

 わたしが読み上げると、狗巻くんは深く頷いた。もう一度学生証に目を落とし、印字された文字の羅列をじっと見つめる。

「東京の……呪術を勉強する学校に通ってるんですか?」
「しゃけ」
「呪術っていうと……藁人形と五寸釘、みたいな?」

 狗巻くんはこくこくと首を縦に振る。

 丑三つ時、人気のない神社で狗巻くんが白い着物姿で藁人形に釘を強く打ち込む姿が、すうっと脳裏を掠めていった。似合わない。

「……誰か呪いたい人でもいるんですか?」

 その問いに対して、狗巻くんは複雑そうな顔をした。立ち入ったことを訊いてしまったのかもしれない。わたしは焦った。

「すごいですね」

 心にもないことが口を突いていた。狗巻くんは反応に困ったのだろう、うんともすんとも言わずにわたしを見ているだけだった。

 なんとなく気まずくて狗巻くんの目から逃れる。

 科学が進歩し超常現象が真っ向から否定されるこの現代社会において、何という非科学的な、おっかないことを学ぶ学校が存在しているものだと思う。呪いやら幽霊やらをまったく信じていないわけではないけれど、非常に懐疑的であることは事実だった。

 とはいえ誰しもが様々な事情を抱えている。わけもわからずに首を突っ込むべきではないだろう。

 狗巻くんが呪術を学ぶ学校に通っていることと、意味を持たない単語しか発さないことは、何か深い関係があるような気がした。昔から言葉には魂が宿るという。そういう理由かもしれない。

 頭の中で適当な理由をつけていると、狗巻くんがおもむろにわたしを指差した。学生証を返していなかったことに思い至って、すぐさま学生証を手渡す。

 狗巻くんは受け取った学生証をわたしに見せた。それから自分の名前の部分を指差したあと、流れるような動きでわたしを指差した。

 意図がうまく汲み取れなくて首をかしげると、狗巻くんは同じことを繰り返した。今度は狗巻棘の左側に印字された、氏名の部分を指差して。

「あ!……、です」
「こんぶ」

 嬉しそうに狗巻くんが笑みを浮かべる。つられて笑うと、狗巻くんはくすぐったそうに鼻を制服に埋めながら、学生証をポケットの中に滑り込ませた。

 わたしたちの間を流れる空気が少し和やかなものに変わる。

 わたしの意識は再び外へと向かった。絶えず聞こえてくる祭囃子のほうに目をやる。

「どうしても駄目ですか?」
「しゃけ」
「行くと危険だから?」
「しゃけ」

 鮭の単語とともに何度も頭が上下に揺れた。

 狗巻くんと出会ってからの記憶を丁寧に辿っていく。少しわかってきたかもしれない。おそらく“しゃけ”が肯定で、“おかか”が否定だ。加えて彼はわかりやすいように身振りも付け足してくれている。

 わたしは狗巻くんから目を逸らし、足元の細い草を見つめ、それからもう一度彼を見た。

 狗巻くんはわたしの目を静かに見つめていた。わたしの言葉をじっと待つように。

 胸が張り裂けそうになった。

 出会ったときからずっと、狗巻くんはわたしとちゃんと会話しようとしていたのだ。“はい”か“いいえ”の単純な意思疎通しか伝わらないとはいえ。

 何も見えていなかった。見ようとしてなかった。そんな自分を恥じながら、わたしは疑問を頭の中でまとめる。わたしの問いへの答えが、“はい”か“いいえ”で答えられるものかをよく考えながら。

「それって、狗巻くんが呪術の学校に通っていることと、何か関係がありますか?」
「しゃけ」
「ついさっき起こったこと……急に暗くなったこととか、今も祭囃子が聞こえていることは、その呪術が関係していますか?」
「しゃけ」
「お祭りに近づくとわたしが呪術をかけられてしまうから、狗巻くんは止めてくれたんですか?」
「しゃけ!」

 笑顔の狗巻くんから明るい肯定の声が返ってくる。

 やっと会話が成り立った実感があった。狗巻くんの言葉を疑うことなく、真正面から受け取ることができた。それがとても嬉しくて、わたしは思わず顔の前で両手を合わせた。

 祭囃子の音はずっと鳴り響いている。わたしの知っている呪術とはかけ離れているものの、狗巻くんによればこれも呪術だという。

 その呪術がいったいどういう影響を及ぼすものなのかは定かではないけれど、とにかく危険なのだろう。危険だということがわかれば、取る行動はひとつだけだった。

「離れたほうが……逃げたほうがいいですよね?」
「しゃけ」

 今わたしが置かれている状況は未だにわからない。どうしてここにいるのかも、ここがどこであるかも、そもそもこれが現実なのかどうか、それすらも。

 わたしは狗巻くんに視線を送る。不安を覚えているように映ったのだろう、励ますように「こんぶ」と狗巻くんが笑った。くすぶっていた憂いが薄くなっていく。

 狗巻くんと一緒にいれば大丈夫だろうと思ったそのとき、すぐ後ろから草をかきわける音がした。


≪ 前へ  目次  次へ ≫