プロローグ

「いつだって魂は肉体の先にある」

 よく通る、とても滑らかな声だった。色褪せた歩道橋の欄干に一人ぽつんと腰かけた青年は、むき出しの素足をぶらぶらさせていた。

 浮世離れした雰囲気を持つ、線の細い青年だった。青年の肌は血が通っているのか疑わしいほどに青白く、皮膚と皮膚を繋ぎ合わせたような縫い目が至るところに走っている。ただその顔つきは無邪気な子どもそのもので、危機感が大きく欠落しているように見えた。

 ちょっとした思いつきで、それもどうなるのか知りたかったからという純粋な興味本位で、車の行き交う道路に躊躇なく飛び降りてしまいそうな――好奇心だけが先走ったある種の危うさを青年はその身の内に宿していた。

 だというのに、誰も青年を気にも留めていなかった。歩道橋の下を走り抜ける車の運転手も、その脇の歩道を歩く背広の大人も、青年の真後ろを駆けていく小学生すらも。

 まるでそこには元より何もいないかのように。

「肉体の形は魂の形に引っぱられる」

 歌うように続けながら、青年は右手の親指と人差し指でおもむろに円を作った。色の違う左目だけを器用に閉じると、望遠鏡でも覗き込むような仕草で、その輪っかを白い右目にぴったりとあてる。

 骨ばった指が作る円の遥か向こうには、黒い制服姿の二人組がいた。深緑に染まった街路樹が立ち並ぶ歩道を、二人で談笑しながら歩いている。

 一方は気だるげな空気を纏った少年で、もう一方は大人しそうな少女だった。

 視線を交わす二人の距離は近く、互いの手はぴったりと優しく結ばれている。少女の歩幅に合わせているのだろう、少年の歩く速度は緩やかだが、だからといってそこに不満を覚えている様子はなかった。熱心に何かを話す少女の声に、楽しそうに耳を傾けている。

 穏やかな空気が流れていた。季節はもう本格的な夏に向かっているのに、過ぎ去った初春を思い出させるほどの。

 もちろん青年の目的は初々しい学生カップルを遠目に盗み見することではない。青年の眼中に収まっているのは、どこにでもいそうな少女一人だけだった。

「あんな化け物を飼っておいて、それでも人の形を保てる魂か……俺に近い術式?いや、それにしては……ねえ、何をどうしたらああなるの?」
「面白いだろう?」

 青年の問いに答えたのは、黒いパーカーを着込んだ胡散臭い男だった。あまりにも突然のことだった。そこには青年以外誰もいなかったはずだし、そもそも音ひとつ、小さな風の一吹きさえなかったはずだった。

 何の前触れもなく姿を現した男は、もったいぶるような動きで欄干に頬杖をついた。歪んだ笑みを浮かべながら。

「彼女は正真正銘ただの人間だよ」
「でも非術師じゃない、そうだろ?だったらなんで呪いが見えてないわけ?」
「そうじゃない。見えないのではなく、見る必要がないんだ」
「……なんだ。夏油の仕業か」

 青年が鋭い視線を男に向ける。

「あれの材料なんてそこら辺に転がってるものじゃないよね?どうやって集めた?違うな……いったいどこから呼んできた?」

 次々と重ねられていく質問に、とうとう男は肩をすくめてみせた。畳み掛けるように青年は男を強く促した。

「知ってるなら話してよ」
「さて、何をどこから話せばいいのやら」
「夏油」

 青年の呼び掛けをするりとかわして、男は少女を見つめ続ける。

 男の視線の先で、少女は柔らかく笑っていた。ほんの数ヶ月前に味わった地獄など、まるでとうの昔のことのように。

「彼女は選んだだけさ。今の肉体の形を、今の魂の在り方すらも。真人、君と同じようにね」


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