瞠若

 突として頭の中に霞が立ち込めたようだった。棘は何も考えられなかった。考えたくなかった。心がの言葉を理解することを脳に固く禁じていた。絶句する棘の手から、氷塊じみたの左手がするりと逃げ出す。そこでやっと棘は状況を飲み込んだ。

 それは一体何の冗談だと問いかけられる空気ではなかった。は頭を垂れるように深く俯き、左手で口を覆いながら嗚咽を殺して号泣している。呼吸が細くなるほど泣いているせいで、小刻みに震える肩が時おり大きく上下する。

 本気なのだと察した。棘がそれに異を唱える余地すらないことも。

 の中ではすでに決定事項だった。どうしていつもそうやって勝手に決めてばかりなんだと悲しみを通り越して怒りすら湧いていた。しかし棘の唇は一向に開かなかった。まるで何重にも縫い付けられているように。

 右腕を切り落とされ脇腹を穿たれた己の身体を、は可愛くないと言った。女の子として見れるわけがないと言った。重傷を負ったは“女の子”としての――否、“狗巻棘の彼女”としての価値を全て失ったように感じてしまったのだろう。たったそれだけのことで。

 棘はそんないじらしいがどうしようもなく可愛くて、堪らないほど愛しくて、それと同時にはらわたが煮えくり返るほどの強烈な憤りを感じていた。

 自分の気持ちをが勝手に決めるなと棘は強く思ったが、心を完全に閉ざしたには何ひとつ響かない確信があった。ここでどんなに言葉を尽くして否定しても、の心はきっと戻ってこない。棘を拒絶するばかりで聞く耳など一切持たないだろう。

 不安を覚えやすいを安心させられなかった自分に、ただ無性に腹が立った。への愛情表現が一時の言葉や態度で終わらぬよう、を絶対に手放したくない一心で、棘なりに色々と考えて行動していたつもりだった。に嫌われないように、ひとり勝手に走り出す感情を宥めるように押さえつけて。

 ああ、こんなことなら我慢なんてするんじゃなかった。

 結局“行動していたつもり”だったのだ。当のに伝わっていなければ何の意味もない。好きなのに。大好きなのに。愛しているのに。あのに選ばれたのはこの狗巻棘なのだと、世界中の人間ひとりひとりに自慢して回りたいほど幸せなのに。

 それこそ、四六時中呪ってしまいたいほどを愛しているのに。こんな一方的な終わり方では、あんまりではないか。

 気づけば棘は泣いていた。処理できない感情が溢れていた。薄茶色の双眸から大粒の涙がこぼれ落ちていく。膝の上に置いた両の拳をきつく握りしめれば、あまりにも力を篭め過ぎて爪を立てた手のひらが血で濡れる感覚がした。痛覚は遠のいている。もうどうでも良かった。生ぬるい涙が頬を滴るに任せて、視線はだけをまっすぐ見据えていた。

 やがて棘の唇からひび割れた苦悶の声が漏れた。次いで鼻水をすする音が続く。異音を拾い上げたがゆっくりと頭を上げた。

「……棘くん?」

 涙で濡れたの瞳と視線が絡んだ瞬間、棘の中で膨大な感情がわっと溢れた。苦鳴にも似た嗚咽が唇の隙間から漏れ出し、が大きく目を瞠る。解像度が落ちた視界の中心にを置いたまま、棘は奥歯を小さく軋らせた。滂沱として伝う多量の涙には虚を突かれた様子だった。

「……どうして?」

 掠れた声音が棘の耳朶を打つ。きっとの頭の中ではあっさりと別れられるはずだったのだろう。“狗巻棘の彼女”としてすっかり魅力を欠いたに棘はすでに愛想を尽かしていて、ただの同情で優しくしていただけだとでも思っていたのだろう。だから棘が別れを拒絶するように泣いていることが、には信じられないのだ。

 棘の涙はたちまち引っ込んだ。憤りを通り越してもはや殺意すら芽生えそうだったせいで。巨大な渦と化した感情をぶつけるように叫びたかったが、それでは話が前に進まないことを冷静な頭が理解していた。

 そもそもは大きな思い違いをしている。棘は持ち上げた右腕で濡れた目元を乱暴に拭うと、涙でぐずぐずに湿った声音を淡々と押し出した。

「……いくら、こんぶ、おかか」
「えっ?……棘くん、それ、どういうこと?」
「いくら、こんぶ、おかか」

 棘はかぶりを振って同じ言葉を繰り返した。“最初からを女の子として見ていない”――と。怪訝な表情を浮かべたを置き去りにして、棘は間断なく声を継いだ。

「こんぶ、すじこ、ツナマヨ」
「……棘く、ん」
「こんぶ!すじこ!ツナマヨ!」
「……ああもう、ずるいよ。どうして、そういうこと、言うのかなぁ……」

 そう呟いたの双眸から堰を切ったように涙が溢れ出す。固く閉ざされていたの心がとろりと溶けたような気がした。棘はおそるおそるに手を伸ばした。弱っているところに付け込むようで一瞬気が咎めたが、この分からず屋にはそれくらいがちょうどいいだろうとすぐに思い直す。

 涙に濡れた頭を抱き寄せれば、は抗うことなく棘に身を任せた。棘の肩に額を軽く押し付けたまま、幸せを噛み締めるように言った。

「生き様に惚れたって言われたの、初めて」

 は大きな思い違いをしている。棘は決しての性別や外見を好きになったわけではない。だからと言って性格を好きになったという表現では物足りない。棘がどうしようもなく惹かれているのはもっと奥深く、たらしめる根源――魂や生き様と言ったほうがずっと相応しい。

 四月のあの日、棘が惚れたのはの生き様だった。全く理解の及ばない状況に置かれても絶望せず、自らの死を顧みることなく棘を逃がしたあの覚悟。あらゆる可能性を模索し自らの目的を完遂せんとするの精神力まで知ったときには、棘はもうに心の底から惚れてしまっていたのだ。

「わたしも棘くんの生き様を愛してる。たまにちょっと心配になるけどね」

 柔らかな声音を聞いた棘はをより強く抱きしめた。今なら言える言葉を明朗に紡ぐ。

「おかか」
「え?嫌だよ。別れるよ」
「い、いくらっ!」

 のひどくあっさりとした解答に棘は激しく狼狽した。いやいやいやそんなわけないだろうと何度もかぶりを振りながら、一心に食い下がって同じ言葉を繰り返す。

「お、おかか」
「別れます」
「おかか。おかかっ」
「別れます」
「お、か、かっ!」
「別れます。もう、しつこいなぁ」

 うんざりした様子では呟いた。棘の顔面から血の気が失せる。今の流れでその返答は正直ありえないのだが。棘の告白に理解を示したが「わたしも本当は別れたくない」と応じて、熱っぽく見つめ合う流れだったはずだ。

 心の距離は縮まるどころか遠ざかった気さえしていた。愕然とする棘に、はどこか拗ねたような口振りで告げる。

「だってわたし死ぬんだよ?棘くんの枷になりたくない」

 棘はから身体を離した。の細い首に輪を描くそれを数秒見つめると、薄っすらと浮かび上がった痣を指差しながら言った。

「すじこ、明太子、ツナマヨ」
「うん、そうだね。死ななくて済むなら絶対別れないよ。棘くんが別れたいって言っても別れてあげないから。だってわたしに“愛して”なんて言って呪ったの棘くんだよ?ちゃんと最後まで責任取ってよね」

 不満を示すように赤い舌を出して悪戯っぽく答えたがたちまち白く滲んで見えた。溢れそうになる涙を隠すように、棘は再びを強く抱きしめる。「そんなに泣くほどわたしが好き?」と茶化すに今は冗談など返したくなかった。「しゃけ!」と力強く答えると、ニコチン依存症の男に告げたのと同じ内容をにも告げる。

「ツナマヨ」
「……“あれ”を祓うの?」
「しゃけしゃけ」

 抜かりないのことだ、“あれ”のことはすでに聞き及んでいるだろう。あの男と同じように無理だ何だと言われても、棘にはを説得する決意があった。訝しむような声音を覚悟したそのとき、

「そっか。じゃあ祓おっか」

と、拍子抜けするほど軽やかな響きが返ってくる。信じられなかった。とて自らの首に輪をかける存在の異質さを理解していないわけではないだろう。棘が相手にしようとしているのは、千年生き続けた呪霊が「呪いの王にも最強にも祓えない」と断言するほどの存在なのだ。

 予想外の反応に驚いた棘が何も言えずに黙りこくってしまうと、は不思議そうに首をかしげる。

「どうしたの?棘くん、祓いたいんでしょ?違うの?」
「……お、おかかっ。いくら、ツナ、明太子」
「わたし、好きなひとのお願いは全部叶えてあげたいタイプだから。こう見えて意外と尽くすんだよ?知らなかった?」

 狼狽する棘に茶目っぽい視線を送るや、すぐには言葉を継いだ。

「“呪いを騙る異形”って無科さんは言ってたけど、結局のところ“あれ”は呪霊と同じように呪力で動いてる。だったら何も見えないわたしにとっては呪霊と何の大差もない。どんな方法であれ、この世界と繋がってる存在なら正直どうにでもなると思うよ」
「高菜」
「もちろん。棘くんのお願いならどうにでもする自信あるし。ほら、愛の力で?」

 冗談めかしたはひどく楽しそうに笑った。だからと言って決して楽観視しているわけではないだろう。はただ諦めていないだけだ。常に最悪の状況を想定したうえで、何十、何百、何千の打開策を用意しようとしているだけだ。

 そういうの生き様が棘は好きで好きで堪らなかった。込み上げた衝動に突き動かされるように、棘はの唇に口付けた。拒絶される心配は後から遅れてやって来たが、は待ち望んでいたように熱っぽく棘に応じる。

 いつまでもそうしていたい感情を抑え込んで、棘はすぐに唇を離した。物足りなさを瞳で表現するの額に己の額を寄せる。がくすぐったそうに微笑んだ。

「わたしと別れないためには、わたしが生きてなきゃ駄目だもんね?」
「しゃけしゃけ」
「ありがとう、棘くん。あ、でも棘くんのことを世界で一番愛してる女は世界で一番諦めの悪い女だってこと、ちゃんと覚えておいてね」
「しゃけ」
「まぁでも、今はここから出る方法を考えないと……」

 打って変わって落ち着いた声色で言うや、眉間に浅い皺を寄せる。たったひとつの方法を除いて、それに皆目見当も付かない棘は素直に首をひねった。

「ツナ」
「出る方法がないわけじゃないよ。一番確率が高いのはイザナミさんに譲渡したわたしの本当の身体を使う方法。“あれ”が欲しがってるのはわたしの全部だから、きっと根本的な解決にはならないけど、ここから逃げるくらいの時間稼ぎはできるはずだよ」

 は棘の手を引いて立ち上がる。戸惑う棘に柔らかな笑みを向けた。

「伊地知さんたちを探しに行こっか」
「……高菜」
「え?」
「いくら、こんぶ、すじこ……ツナ、おかか。高菜!」

 かぶりを振る棘の言葉がの顔色を一変させた。麗らかな春を思わせる笑みがたちまち引き、一切の感情が失せた氷点下のかんばせが露わになる。

「……驚いたな。棘くん、もうそこまで頭が回るんだ」

 寒気がするほど冷たい声音だった。棘が瞠目した直後、声もなく唇だけが僅かに動く。“面倒だな”と紡いだように見えたのは、きっと棘の気のせいではないだろう。

 虎視眈々と謀略を企てる――つまりの聖域とも呼ぶべき領分へ足を踏み入れられたのが相当気に障ったらしい。もしくはすでにの“駒”である棘が“駒”としての役割を放棄しようとしたからか。棘は得も言われぬ空しさを覚えたものの、謀をする人間にとってそれは当然の反応のように思えたから何も言わなかった。

 は棘の命の安全を保障する。にとって計算外の動きをするほうが危険かつ迷惑だろう。今は大人しくするべきだと棘が自らに言い聞かせていると、沈黙に何かを感じ取ったらしいが焦ったように言った。

「棘くんを馬鹿にしたわけじゃないよ。そう聞こえたなら謝るね、ごめんなさい。これからはもっと巧妙に隠しごとをしないとなぁって思っただけだよ。あ、隠しごとをするならって意味ね?」
「こんぶ」
「ないない。棘くんに秘密なんてあるわけないじゃん」

 その白々しい態度に、絶対に何かあるなと棘は確信した。もう何も言わなかったが。は先ほどの棘の言葉をなぞりながら、自らの考えを説明した。

「棘くんの言う通り、イザナミさんに預けた本物の身体を“あれ”に譲渡した時点でおそらくわたしとイザナミさんとの契約が終わる。契約不履行って形でね。そうなればレプリカのこの身体は崩れて、わたしはあっという間に死ぬよ。棘くんの呪言で縛ったとしてもわたしには呪力がほとんどないからきっと半日も身体を保てない。でも棘くんや伊地知さんは助けられるから問題ないでしょ?」
「おかかっ!」

 憤った棘がぎゃんと吼える。少し気を抜くとすぐにこれだ。が生きていなければ駄目だという話をしてまだ数分しか経っていない。当の本人からすれば最も確率の高い方法を選んでいるだけなのだろうが、棘にそれを許容しろというのは土台無理な話である。

 そんなに死にたいのかと棘が睥睨すれば、は困った様子で宙に視線を這わせた。

「駄目って言われてもなぁ、これが一番確実だし……じゃあ他に何か方法があるの?」
「ツナマヨ」

 途方もない羞恥を押し殺し、棘は間髪入れずに口早に告げた。今は躊躇する時間すら惜しいし、変に勿体ぶるほうが逆に恥ずかしくなるだけだろう。は棘の言葉にポカンとなった。しばらく瞬きを繰り返したあと、確認するように問いかける。

「……つまり、わたしとえっちする、ってこと?」
「……しゃ、しゃけ」
「そっか、なるほど。それは盲点」

 意外にもすんなり受け入れると、すぐに棘を気遣う視線を送った。

「わたしは全然いいけど……棘くんはえっと、その、平気?」
「……おかか」
「そうだよね。大怪我した恋人に欲情しろってほうが無理だよね」

 どうも前のめりになれない棘に理解を示したは、数秒の間を挟んで優しく言った。

「棘くん、うしろ向いて」
「ツナ」
「いいからいいから」

 急かされた棘は大人しく背中を向けた――その瞬間、右の手首に固く冷たいものが絡んだ気がした。棘がはっとしたときには甲高い金属音が耳朶を打っている。身動きを取ろうとしたがもう遅い。右の手首が後方へ引かれたのと同時に左手首に冷たい何かが引っ掛かる。先ほどと似た金属音が鼓膜を叩いて、棘はようやく気づいた。凄まじい速さでが手錠をかけたことに。

「おかかっ!」

 拘束された棘が非難の声を上げれば、返事の代わりのように視界が一気に暗くなる。目蓋をきつく覆う布の感触に息を呑んだ。の企みに血の気が引いていく。まさかが用意周到に強硬手段に出るとは思ってもみなかった。棘としてはふたりでどうするかをきちんと話し合いたかったというのに。

 暢気な様子で「片手だとやりにくいね」と拘束の困難さへの同意を求めるに、棘はぶんぶんと首を左右に振って激しく抗議する。

「おかかおかかおかか」
「この手錠と目隠し、無科さんにもらったんだ。必要になるはずだって言われたんだけど、こういうことだったんだね。どう?名付けて“まな板の鯉大作戦”!」
「おかかーっ!」

 叫ぶ棘の身体はあっという間に床に転がった。ちゃんと話し合おうと説得を試みる必死な声など最初から聞こえていないかのように、はちょうど棘の腹の辺りにゆっくりと跨る。飽食した悪魔にも似た邪悪で艶やかな響きがすぐ耳元で聞こえた。

「わたしが美味しく食べちゃうから、覚悟してね?」