間奏

「――わかりました。そういうことでしたら喜んで協力します。それが綱渡りと同じでも。どれだけ危険でも」

 白み始めた空の下で、わたしは懐に入れていたカードケースからペールピンクの名刺を取りだした。それを恭しく片手で掴むと、眼前に立つ陰気な雰囲気を纏った青年に向かって丁寧に差しだす。青年は名刺を受け取りながら、口端を弦月のように吊り上げてみせた。

「カッコカリのくせにか?」
「カッコカリでも期待通り働きますよ?」

 拗ねたような口調でそう言えば、青年はくつくつと喉を鳴らした。

「お前ならそう言ってくれると思ったよ。このことは呪言師には――」
「絶対に言いません。他のだれにも口外しないとお約束します」

 言葉の続きを引き取ったあと、わたしは淀みない声音で「こちらの条件を呑んで頂けるなら」と付け足す。名刺をダークスーツの内ポケットに仕舞うと、青年は代わりのように取り出した細い葉巻に火を点けた。

「そんなに呪術師でいたいのか。贄だ無能だと迫害されるお前にとって、術師の立場はさほど良いものでもないだろうに」
「わたしが棘くんを守りたいんです。その役目をだれかに任せることはできませんから」

 深淵を溶かしたような双眸を見据えて、きっぱりと告げた。すると青年は紫煙をくゆらせ、飽食した悪魔にも似た歪な嗤笑を浮かべる。

「実に良い眼だな。好いた男に仇なす者は神だろうが悪魔だろうが地べたに這い蹲らせんとするその眼――命を賭す覚悟がそこらの術師とは大違いだ。五条悟はお前をイカレていないと言ったが、お前の場合はそれでいいんだよ。呪霊を見ることより呪霊への恐怖を捨てるほうがずっと危険だと俺は思うね」

 その言葉にわたしは目を瞬いた。

「……もしかして、呪いへの恐怖がなくなれば、呪いが見えるようになるってことですか?棘くんたちと同じように?」
「ああ。お前は見たいものだけを見ているからな」
「じゃあ、その恐怖への耐性を身に付ければ」
「それだけはやめておけ」

 氷針を含んだ素っ気ない響きが耳朶を打つ。一縷の希望を見出していたわたしに、青年は冷然と忠告を続けた。

「目的のためなら一切の手段を選ばず、自分のことすらひとつの駒として扱う――それがお前の長所でもあるが、ここにお前の前例がいることをゆめゆめ忘れるな」
「前例?」
「呪霊や死に対する恐怖があるからこそお前はまだ人間でいられる。善悪の境界線を見失わずに済む。恐怖を失くしたとき、お前は“”という呪いに成り下がるだろうよ」

 目的のために道を踏み外している自覚がないわけではなかった。だからこそ、わたしはすべての言葉を失くしたようになにも言えなくなった。

 人間と呪霊の間に横たわる境界線。わたしにとってそれは見えないということであり、恐怖に値する非科学的な存在だということだ。その境界線が薄れたなら、きっと最善を尽くすための選択肢は大幅に増えるだろう。そこに“常識”が伴っているかは別として。

 ぐうの音もでないわたしを満足げに見やると、青年は紫煙を吐きだしながら問うた。

「だがそんな身体で修羅の道に飛び込むつもりか?」
「……意地悪を言いますね」

 かろうじて掠れた声を押しだせば、青年は滑らかに踵を返した。盛夏の気配が漂う早朝の深山を緩慢な歩みで進みつつ、軽くこちらを振り返って問いを重ねる。

「何故俺がここにいるのかは訊かないんだな」
「棘くんが喚んだから、ですよね。今度は棘くんになにをするつもりですか」
「おいおい、そう怖い顔をするなよ。誓って俺は呪言師の敵じゃない。あの男の覚悟を見てみたいだけさ」

 虚言を弄する道化師のような口振りを信用しろというほうが無理だろう。その陰気なかんばせに穴が開きそうなほど強くにらみつける。しかし青年は視線をいとも容易くいなすと、特に迷う様子もなく伊地知さんが待機している場所へ向かった。

「待たせたな、眼鏡。終わったぞ」

 青年の低い声音につられ、ひと際大きな広葉樹のそばで佇立していた伊地知さんが視線を寄越す。「やはり外部との連絡が取れません」と肩を落とした伊地知さんに、青年は「想定内だ。気に病むことはない」といたって冷静な言葉を返した。死魚のように濁った双眸がこちらを射抜いた。

「さて、お前はどうする?」
「さっきお話した通り、伊地知さんと一緒に地滑りの様子を見に行きます」
「動けば傷が開くと思うがな」
「棘くんが無事に逃げられるならどうでもいいですよ」

 こともなげに答えると、青年は無言で首肯した。心はすでに決まっていたし、なにが起きようとその決意が揺らぐことはありえなかった。けれど伊地知さんだけはわたしの決断にかぶりを振った。信じられないという顔をして。

「どうしてですか?無科さんと一緒に行けばすぐ狗巻くんに」
「……行きたくないです」

 自分でもびっくりするほど、か細い声だった。皮膚を一枚剥がした先で、身体中のなにもかもが不安に揺れているのだとはっきりわかる。呪霊よりも死よりもずっと恐ろしいことが待っているような気がした。

「行きたくない?」
「嫌われるから行きたくないです」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「あるんです」

 氷塊を沈めた声音は伊地知さんを怯ませた。目を瞠る伊地知さんから焦点を外し、わたしは新しい細い葉巻を咥えているニコチン依存症の青年に問いを投げかけた。

「右手もお腹も反転術式で戻らないんですよね?」
「無理だな。お前に限って反転術式は万能じゃない。“イザナミ”に願うなら話は別だが」
「……こんなことで願うわけないじゃないですか」

 苦笑とともに目を伏せると、両手をきつく握りしめる。強がりだった。“こんなこと”ではないことを、自分が一番よく知っていた。

「わたし、もう可愛くないんです。全然可愛くない。きっともう女の子として見てもらえない。絶対引きます。間違いなく。だから、行きません」
「俺ひとりで行くが、それでいいんだな?」
「はい。わたしはその間に、いつ棘くんに“別れて!”って言われてもいいように心の準備をしておきますので」

 わたしは精一杯の作り笑いで青年の背中を見送った。いつの間にか隣に立っていた伊地知さんが、今にも泣きそうな顔でわたしを詰った。

さんは馬鹿ですよ。大馬鹿です。狗巻くんが、さんのことが好きで好きで仕方ないあの狗巻くんが、さんを嫌うことなんて絶対にありえないのに」
「でもね伊地知さん、人間の感情に“絶対”はないんですよ。わたしたちが感情と呼んでいるものはすべて電気信号によるものです。シナプスがどんな神経伝達物質を受け取るか。そこに神秘的な要素はなにもありません。神経伝達物質が変われば百年の恋だろうと一瞬で終わってしまうんですよ」

 無機的な声音で口早に紡いだそれは、間違いなくわたしへの言葉だった。心も身体も途方もない不安に食い荒らされたわたしを落ち着かせるための慰め。恐怖におびえるわたしを立ち上がらせるための励まし。わたしがどうなろうとも、棘くんが生きていればそれでいい。

 伊地知さんは取り縋るように口を開いた。

「それを言うならさんも――」
「わたしはもう呪われてますから」

 にへらと無邪気に笑ってみせれば、伊地知さんは鼻先を逸らして言葉を失ったように唇をきつく閉じた。そして「行きましょうか」と言って歩きだしたわたしのうしろを黙ってついてくる。たくさん心配をかけているのだろうと思った。けれど、どんな言葉をかけられてもわたしの決意が変わることはない。

 この魂を一片残らず蝕むのは、きっと世界で一番幸福な呪詛だ。この呪詛のためなら神も呪霊も例外なく地べたに這い蹲らせてみせる。そう、わたしなりの“呪術”で。

 覚悟を証明するための大掛かりな計画が、ついに始まろうとしていた。