庶幾

先輩に襲われたい?」

 やや驚きの滲んだ怜悧な声音に、棘は真面目くさった顔で「しゃけしゃけ」と大きく頷いてみせた。

 宵の口を歓迎する男子寮の談話室には、夏休みの宿題を終わらせるために集まった棘とパンダ、そして恵の姿があった。いつもの面子に加え、今夜は棘のスマホを通じて、海外出張中の憂太も会話に参加している。

 なにかと脱線ばかりしているせいで宿題は全く進んでいないものの、棘は別にそれで良いと思っていた。焦りが微塵もないのは、夏休みに入って間もないからではない。なにせ棘には先の全国模試で偏差値72という及第点の結果を残した、とても優秀な恋人が付いているのだ。

 という棘の最終兵器が、進学校でもない呪術高専の宿題に苦戦を強いられることはまずない。仮にあったとしても、最も苦手とする古文くらいのものだろう。を上手く言いくるめて楽をしようという算段はすでに整っているのだ。

 そういうわけで、棘は夏休みの宿題に手も付けず、悩みというほどでもない下らない悩みを吐露しているのだが。

 ――としたい!いっそ襲われたい!

 ずっと堪えていたものを一気にぶちまけるように、棘は頭を抱えて絶叫した。うわーんと大袈裟に駄々をこねる子どもみたいだった。に焦らされ続けたせいだろう、その日の棘はちょっと限界だったのだ。

 まるで深刻さの感じられないそれに真っ先に反応したのは、意外にも恵だった。宿題の手を止めた恵は神妙な顔つきに変わった棘を見つめ、小さく感嘆を滲ませる。

「……へぇ。狗巻先輩って案外そういう性癖――」
「おかかっ!」

 違う。ドMだとか攻められたいだとか受け身が好きだとか、決してそういうことではない。

「すじこ、いくら、こんぶ」
「ははーん」

 棘の意図を汲んだパンダがうんうんと何度も頷いた。

「なるほど。ようはが先に我慢できなくなればいいだけの話だもんな」
「しゃけ。ツナマヨ」
「だから襲われるにはどうすればいいか、って……狗巻先輩、馬鹿なんですか?」

 むぎゅ、と棘は隣に座る恵の顔を両手で挟んだ。

「こーんーぶー」
「俺の顔に嫉妬してもどうしようもないと思いますけど」
「すじこ」
「そもそも顔の造形うんぬんで動くようなひとなら、もうとっくに襲われてるでしょ」
「しゃけ……」

 たしかに、と棘は眉根を寄せながら顎に指を添えた。わざとらしく凛々しい顔を拵えると、訝しむような口調で言った。

「ツナ、いくら、明太子……」

 こんなイケメンと添い寝しておいて、なにもしないなんておかしい。ふつうは棘くん抱いてとオネダリされる展開になって然るべきなのに、一体どうして――悪ノリ全開の棘の台詞に、パンダがにやにやと笑って指摘した。

「恵の次にイケメンだからだろ」
「ツナマヨーッ!」

 ぎゃんと叫んだ棘は、無表情な恵のかんばせをむぎゅむぎゅと両手で何度も挟んだ。「それ地味に痛いんでやめてください」と抗議する恵を数秒見つめるや、雷にでも打たれたように、はっと目を大きく瞠った。

「……こんぶ!」
「なに“名案!”みたいな顔してんですか。俺を殺して一位になろうとしないでください」
「そこで恵を呪い殺すって発想になるのが呪術師たる所以だな」
「しゃけしゃけ」
「呪術師じゃなくて呪詛師の間違いでしょ。というか、刀祢樹は比較対象に加えなくていいんですか?先輩が好きなのは正確には俺じゃなくて刀祢樹ですよ」

 冷静に返した恵から両手を離すと、棘は大袈裟な溜息をひとつ落とした。売れない舞台俳優さながらの下手な演技で肩をすくめ、やれやれとでも言いたげにかぶりを振ってみせる。

「すじこ」
「今度はイケメンじゃなくて世界一の彼氏ですか」
「自称な。自称“世界一の彼氏”」
「おかか。ツ、ナ、マ、ヨ」

 紛れもない事実だと自慢げに鼻を鳴らせば、恵が氷点下の視線を送った。

先輩、狗巻先輩の自己肯定感高めすぎてますね。育て方間違ってるんで今度会ったら注意しておきます」
「おかかおかかおかかっ!」

 恵の言うことはなんでも真に受けるからやめろ。にこれでもかと褒めそやされる最高に幸せな時間を奪わないでほしい。

 惚気混じりにぎゃんぎゃんと大騒ぎする棘の耳朶を、穏やかな声音が柔らかに叩いた。

さんに限って、それはきっと無理な願いだと思うけどなぁ」

 声の主はスマホの向こうにいる憂太だった。棘がスマホに視線を置くと、憂太は僅かな間を挟んで滑らかに続ける。

さんは狗巻君のことを襲わないよ。何があっても」
「いくら」
「世界一の彼氏にもわからないことってあるんだね」

 何もかも見通すような口振りの憂太に、棘は少しだけむっとなった。棘を誘っているとしか考えられない、ひどく思わせぶりな態度を取り続けていることを知らないのだろうか。ふたりきりになると積極性が増すに、憂太の言うような“絶対”などないと思った。

 棘は適当に返事をして、あっさりと話題を変えた。何の収穫もない会話はすぐに霞んで、あっという間に記憶の隅に追いやられた。

 ――忘れ去られるはずだった他愛もない記憶が脳裏を過ぎったのは、あのとき口にした棘の願いがこうして現実になったからだ。憂太の言葉は見事に的を外し、棘の願いがまるっと叶ったわけである。

 とはいえ。

「おかかーっ!」

 まるで夢のような、求めていた展開と言えなくもないけれど、今は状況が悪かった。

「おかかおかか!」

 棘は否定の単語ばかりをしきりに叫んだ。じたばたと藻掻くことも考えたものの、目隠しによって視覚を奪われた今、下手に暴れてに余計な怪我をさせてはまずいという懸念が勝っていた。

 それに、重傷を負ったの腕や腹に誤って触れてしまったらと思うと、生きた心地がしなかった。芋虫みたいな恰好で床に転がったまま、同情を乞うように叫ぶことしかできない。

 棘の頭が持ち上げられ、首と畳との間に柔らかい枕がぐいぐいと差し込まれる。重い頭ではなく首や肩を支えようとする、なんだか違和感のある位置だった。

 左手だけでは上手くいかないのだろうと思うと、いたたまれない感情に飲まれた。目隠しの下できつく目蓋を閉じた棘は、奥歯を軋らせながら己の判断の甘さを呪った。

 に無理を強いる方法を伝えるべきではなかったのだ。ふたりならもっと別の方法に辿り着けるはずだと、棘は懸命にとの交渉を試みようとする。

「高菜!」
「大丈夫、痛くないよ。心配してくれてありがとう」
「いくら!」
「これが確実な方法なんでしょ?わたし、棘くんのこと信じてるから」
「ツナ!こんぶ!おかか!」
「わたしに食べられちゃうの、そんなに嫌?」
「す、すじこっ!」

 のえっち!と棘が叫ぶと、は棘の頬に指を這わせた。

「うん、そうだよ。知らなかったの?」

 それは茶化すような口調とは裏腹、真冬の海にも似たひどく静かな声音だった。はっとした棘は唇を一文字に結ぶ。落ち着き払った響きの中に、決して逃してはならない違和感を見つけてしまったせいで。

 急に黙り込んだ棘の頬に、は何度も優しく触れる。

「あれ、もう抵抗しないの?つまんないな」
「……高菜」
「心配しすぎだよ。でも、その言葉、そっくりそのまま返すね」

 言うと、頬を撫でつけていた細い指が右肩へと下りた。

「まだ痛む?」

 予想だにしない問いに、棘はすぐに反応できなかった。思考を廻らせること数秒、脱臼したことだと思い至る。が差し込んだ枕のおかげだろう、固い畳から浮いているために痛みはほとんどなかった。

さんは狗巻君のことを襲わないよ。何があっても」

 まさかと思った。憂太の言葉が耳の奥で響いている。答えを告げる前に、は棘の上着に手をかけた。呼びかけようとして、やめた。制服のボタンを外したの手は、視覚を奪われたこの状況でもはっきりわかるほど、小刻みに震えていたから。

 白いシャツのボタンまで外してしまうと、は小さな声でぽつりと呟いた。

「痛かったよね」

 ほどではないとはいえ、先の戦闘で棘も少なからず負傷している。簡単に傷の手当てをしてくれたのは伊地知だった。やや大袈裟に包帯を巻かれた己の身体がの目にどう映っているのかなど、想像に容易い。

 まだ強い痛みがあることを正直に言うことも、全く痛くないから大丈夫だと嘘を吐くことも、どちらも簡単だった。けれど、その簡単なことが言えなかった。これ以上、の自責を加速させたくなかった。

 は無言で棘のベルトを外し始めた。さすがにそれはまずいと身体をよじると、は「ごめんね。ちょっと我慢してね」とすぐに謝った。

 罪悪感に満ちた声音だった。ずるいと思った。そんなふうに言われてしまえば、もう何もできなくなってしまう。

 黒のスラックスを奪われ、下着一枚にされる。羞恥よりも恐れが勝っていた。が棘の怪我をどう感じているか、それがただ怖かった。

「膝、どっちも大きなかさぶたができてる。膝立ちになると痛そうだね」

 淡々とした響きが耳朶を打った。あの特級呪霊に勢いよく投げ飛ばされ、受け身も取れず派手にすっ転んだときにできた傷だった。棘が口を閉ざしていると、は棘の喉にそっと触れた。

「ここは?」

 言わずもがな、そこが最も痛む場所だった。時間が経って多少マシになったとはいえ、こうして話しているだけでも傷ついた内側に刺すような痛みが走る。

 重傷を負ったの手前、ずっとなんでもないふりをしていた。怪我を悟られないよう、気を配りながら声を出した。激痛を堪えて、いたって平気な顔で大声も放った。たいした傷ではないと示すために。に余計な心配をさせたくなくて。治療を受けるまで、このまま隠し続けるつもりだった。

 けれど。

「……しゃけ」

 今さら強がったところで何の意味もないだろう。痛みがあることを正直に打ち明ければ、は「そっか」と言った。棘の髪を梳くように頭を撫でながら、穏やかな響きで続ける。

「さっきいっぱい叫んでたけど、大丈夫じゃないよね。痛いことさせてごめんね。こうでもしないと、怪我したところ、絶対見せてくれないと思ったから」

 瞠目する棘の唇に柔らかい感触が落ちてきて、口付けられたことを認識する。は微動だにしない棘の首筋に顔を寄せると、心もとない声音で言葉を継いだ。

「ごめんね。わたし、今の棘くんとはセックスできない」

 正しかったのは憂太だった。わかっていなかったのは棘のほうだった。怪我をした恋人に欲情できないのは、も同じだったのだ。

 は棘の首元に顔を埋め、小さな声で呻いた。

「棘くんを早く病院に連れていきたい。高専に戻って家入先生に一秒でも早く診てほしい。棘くんの怪我が綺麗に治らなかったらどうしようって、そればっかり考えてる」
「高菜」
「……うん、そうだよ。棘くんの怪我は術師として未熟なわたしのせいだって、ずっと責めてる。だって事実じゃん。責めるなってほうが無理だよ」

 棘は首を傾けて、の頭に頬をくっつける。何かと自分を追い込みがちなを少しでも安心させるために。すんと鼻をすする音が聞こえて、棘は縛られたままの両腕を忌まわしく思った。声を殺して泣くを抱きしめたくて仕方なかった。

 術師として未熟なのは棘も同じだった。棘がもっと強ければにこんな大怪我を負わせることはなかっただろう。けれど今そんなことを口にしても、にとっては何の慰めにもならないことはわかっていた。

 棘は辛抱強くの言葉を待った。やがては再び口を開いた。

「……わたしね、すごくうれしかった」
「こんぶ」
「棘くんがわたしとすることを躊躇ってくれたこと。他の方法を探そうとしてくれたこと。今はそれしか確実な方法がないのに、わたしのことを大切に想ってくれてるんだなって、ちゃんと愛されてるんだなって改めて実感した。ありがとう。わたしも大好きだよ」

 わざとらしく音を立てて首筋にキスを落とされる。くすぐったかったけれど、うれしくて仕方がなかった。の調子が戻りつつあることを感じ取った棘は、状況を前に進めるために質問を投げかける。

「すじこ」
「これからどうするって、そりゃ初えっち一択なんだけどな?」
「ツナッ」
「えっ?誰もさっきの前言撤回なんかしてないよ。今も棘くんのこと美味しく食べちゃう気満々だからね?」

 今の棘とはセックスできないと断言したのは、他の誰でもないだ。矛盾した言葉に混乱を覚える棘から身体を離すと、は淀みない口調で告げた。

「だからわたしは今ここで“神様”に願うよ」

 はっとなった棘の身体が即座に強張る。すでにの内側からは莫大な呪力が溢れ出していた。

「大好きな人と気持ち良くセックスをさせてください、って」

 は軽やかに、まるで歌うようにその呪文を紡いだ。

「――我が渇望を己が魂に刻め」
「領域展開――略式・百鬼夜行」