再会

「不可逆玖式――“瘴縁一閃”」

 棘の視界に異変が起きたのは、決然と放たれた鋭利な声音が耳朶を打った直後だった。明瞭だったはずの世界はみるみる輪郭を失っていく。急に視力が悪くなったのかと棘は何度も瞬きを繰り返したものの、解像度の落ちた視界はいつまで経っても元通りにはならなかった。

「継夜くんは全部わかってた」

 穏やかな声で口火を切ると、女は丁寧な解説を加えた。ぼやけた視界でもはっきりと認識できるほど、優しげな微笑をたたえて。

「最初からそのつもりだったんだよ。君たちが夏休みにここにくることをわかっていて、わたしと君が出会うこともわかったうえで、前もってちゃんの生命保護権を譲渡した。ちゃんが神様のものだとわたしが因果律を調律できないし、ちゃん自身に権利を返すと意識のないちゃんはただ死ぬしかないでしょう?」
「……いくら」
「“どうして”かあ……似てるからかもね」

 どこか寂しさを含んだ繊細な手つきで、幼くなった棘の頭をそっと撫でつける。

「君がわたしに。ちゃんが継夜くんに」

 女は伏し目がちな棘の双眸をまっすぐに見つめた。女の両瞳には血染めの模様が浮きあがっている。

「あのね、今の君たちに――ううん、ちゃんに必要なのは幸せになる覚悟だよ」

 まるでにわか雨が降り注ぐように、その真摯な声音は棘の中に少しずつ染み渡っていく。

「君のために不幸になる覚悟はあっても、君のために幸せになる覚悟がない。だからね、君は好きな相手を“幸せを選べない人間”にしている自覚を持ちなさい――って、まあコレ盛大なブーメランなんだけどね」

 茶目っぽく笑った女に眉をひそめれば、女は逃げるように目を伏せた。

「……継夜くんが“あれ”に呼ばれたのは、わたしのせいだから」
「こんぶ」
「“あれ”は心の隙間に這入りこむの。そして自らの意思で首を吊るよう誘導する。もしあのとき継夜くんが自分の幸せを信じることができていたら……そうしたら、きっと……」

 その先を濁した女はすぐにかぶりを振った。途端に暗い表情になった棘の砥粉色の髪をぐしゃぐしゃにすると、

「君はわたしとは違う。まだ間に合うよ」

と真面目な顔つきできっぱりと告げる。説得力のある力強い声音が棘の顔に浮かぶ不安の色を少しばかり薄れさせた。「そろそろ時間だね」と呟いて、女は膝を伸ばして立ちあがる。

 解像度を失い続ける棘の瞳は、もう色を捉えるだけで精一杯だった。こんなに近くにいるのに女の表情のひとつもわからない。

 背中越しに咲き乱れる桜の淡い色が綺麗だと思ったときには、抗いがたい眠気に襲われていた。勝手に落ちた目蓋を持ちあげることもできず、膝からくずおれそうになるのを懸命にこらえる。意識が途切れる刹那、女は棘に優しい言葉を残していった。

「どんな運命だろうと絶対に変えられる。棘くんの未来を決めるのは神様でもわたしでもない。棘くん自身だからね」



* * *




「腹は決まったか?」
「……おかか」
「そうか」

 しばらく経っても、棘はなにも決められなかった。山の中でずっと立ちすくんでいた。

 これからどうするべきかを決めるのは棘だった。青年はただ協力する立場にあるだけで、棘の意思をねじ曲げてまで干渉するつもりはないらしい。思考を整理する時間がほしいと言った棘を青年はなにひとつ責めず、広葉樹に背をあずけて紫煙をくゆらせている。

「呪言師、共振って知ってるか?」

 ふいに問いかけられた棘は落ちた視線を持ちあげた。気だるげな瞳を寄越す青年は棘との会話を望んでいるようだった。やがて棘がゆっくりと首を左右に振ると、青年は滑らかに言葉を紡ぎはじめた。

「この世に存在するありとあらゆる物質が固有の振動数を持っている。振動と言っても人間の可聴域を超えた低周波だがな。その固有振動数と同じ振動を与えると物質はより大きな振幅で振動するわけなんだが、使い方次第では物質そのものを崩壊させることも可能なのさ」
「……こんぶ」
「何の話かって?もちろんの話だよ。あの特級呪霊を祓った方法の種明かしでもしてやろうかと思ってな」

 その名に棘の肩がぴくりと跳ねる。視線だけで青年に先を促せば、すぐに求めた続きが返ってくる。

「“落禍無常”――は魂の性質を変える“無科”の術式を用いて、呪霊の持つ固有振動数をお前の声の振動数と一致させた。そして呪霊を共振破壊してみせたんだ。つまりあれは呪術じゃない。れっきとした物理学だ」

 青年は色濃い紫煙を吐きだした。その口元にはいびつな笑みが浮かんでいる。棘は消え入りそうな声で尋ねた。

「……すじこ」
「普通は無理だ。理屈は簡単だが机上の空論、やろうと思ってできることじゃない。人間の声の振動数なんて常に一定ではないし、その振動が必ずしも同じ条件下で発生するとも限らない。気圧、密度、水蒸気圧、比熱に分子量……考えることは山ほどある。加えてその計算は声が呪霊に届くまでの刹那とも呼べる時間で導き出さねばならない。そもそも肉体の固有振動数を上書きするなんて無茶苦茶だ」

 ついには悪戯好きの猫のように喉を鳴らして、青年は愉快げに笑みをこぼした。

「だがはその無理と無茶を通した。物理法則を無視し、あらゆる計算を尽くし、不可能を可能にしてみせた。お前のために。呪霊を殺してお前を生かすために」
「おかか」
「“こんなことしか思いつかなかった”と言ったの言葉を本気で真に受けているのか?――逆だ。ただ攻撃するだけなら方法はいくらでもある。現には核兵器や超音波、果てはプラズマ砲にまで注目していた。だがそれではお前にまで危害が及ぶと考えたんだろう。科学は呪術以上に無慈悲だ、ならば使う人間が選ぶしかあるまい。共振破壊なら振動数が異なるだけで安全だからな」

 棘の視界が白くにじんだ。深く俯いた棘は奥歯をきつく食いしばった。

 自らのせいで、棘が怪我をしないように。決して棘が巻き込まれないように。確実に勝つことではなく、は賭けを選んだ。勝てるかどうかもわからない特級呪霊を相手にして、それでも安全に戦う方法を選択した。他のだれでもない狗巻棘たったひとりのために、自らに無理と無茶を強いたのだ。

「なあ呪言師。これ以上の愛の証明があるか?」

 優しさを含んだその問いかけに、鼻の奥がつんと痛くなる。涙が溢れそうになって、懸命に目を見開いてこらえた。青年は棘に歩み寄ると、強張った肩にそっと手を置いた。

「今度はお前が証明する番だろ」
「……しゃけ」

 棘はうなずいた。顔をあげると、伏し目がちな双眸に決意の火を灯す。

「しゃけ!」

 まだなにも決まっていない。どうするべきかも、どうしたいのかすらも。だがここで悩んでいる時間が惜しいと思った。今すぐに会いたかった。に会えば心が決まる。そんな気がしていた。

 青年は手を離すと、「そのままうしろを向け」と耳元で囁いた。棘は言われるままに腰から上体をひねり、そして瞠目する。

 まだ涙の残る棘の霞んだ視界に入ったのは――の姿だった。伊地知の背からひょこっと顔をだし、疑わしい目つきを寄越している。

「ふたりでなんの話ですか?」
「なに、他愛もない話さ」
「……ものすごーく気になりますけど、そういうことにしておいてあげます」

 どこか不満そうな口振りで言うと、はふっと口端を緩ませた。はサイズの合わない大きな黒いジャケットを羽織っている。おそらく伊地知に借り受けたのだろう。は棘たちのほうへと歩きだした。

 が生きている。喜びが胸を占めたのも束の間、かすかに揺れるその右袖に違和感を覚える。袖の半分から下の質量がすとんと抜け落ちていて、棘は言葉を失った。わかっていたこととはいえ、実際に見てしまうともう駄目だった。が生きていることへの喜びすらも一気に消え失せる。これが現実なのだと無力感に苛まれた。自分の弱さがただ憎かった。

「で、地滑りを見たお前の考えは?」
「そうですね……」

 青年の質問に考えこむように目を伏せて、しかしすぐに顔をあげる。そこに宿っていたのはいつもの穏やかな笑顔だった。目のくらむような笑みがますます棘を追い詰める。

「腹が減っては戦はできぬ。まずは朝ご飯にしませんか?わたし、お腹ぺこぺこなんです」

 いつの間にかすぐそばまで近付いていたが、その左手で棘の右手を取った。泣きたくなるほど温かい熱がそこにあった。が同じ世界で生きていることをたしかに証明するような。

 声を詰まらせたままの棘の顔を覗きこんで、がいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「棘くん、行こ?大女将がね、採れたての夏野菜をいっぱい食べさせてくれるんだって」



* * *




「棘くんまだ怒ってるの?」

 ひどく能天気なその言い草に少しだけ腹が立って、棘は空っぽになったの口にたっぷりと白米を押し込んでやった。欲張りなリスのような有り様になったは、時間をかけて白米を咀嚼し終えると、味噌汁を流し込んでいる棘に不満をぶつける。

「わたしが失血死することなんてちょっと冷静に考えればわかることじゃん。下山には時間がかかるし、こんな田舎に特定機能病院も救命救急センターもあるわけないし、ドクターヘリなんて飛ばなくて当たり前。あれだけ失血した状態で助かるわけないよ?」

 一行は棘とが宿泊していた双葉荘の離れ“桔梗の間”で朝食を食べている。と向かい合わせに座った棘は、配膳された彩り豊かな朝食をと自らの口へ交互に運ぶ。右利きのは左手ではうまく食事ができず、棘が手伝いを申し出たのだ。

 すでに食事を終えた伊地知はふたりの様子を緊張した面持ちで見守り、重度の愛煙家らしい青年は我関せずといった様子で窓辺で葉巻をくゆらせている。棘はの口に今朝採れたばかりだという夏野菜の天ぷらを放りこんだ。

「すじこ」
「そうだね。たしかに命の価値はみんな同じだよ。でも優先順位はあるからね?助からない命より助かる命。災害時のトリアージと一緒だよ。救急車をお願いしたのはわたしの命で棘くんが助かると思ったから」
「いくら」
「わたし、相手が棘くんじゃなくても同じことをしたからね」
「おかか」
「約束はしたよ?でも、もし棘くんがわたしの立場だったらわたしと一緒に死んだ?助かるかもしれないわたしを道連れにした?」

 ずるい質問だと思った。そんなふうに尋ねられればもうなにも言えなくなってしまう。反論の言葉を取りあげられた棘は、ツバメのヒナのように口を開けるを睨みつけることしかできない。

「わかってくれた?じゃあ、これでこの話はおしま――んぐっ」
「しゃけしゃけ」

 打って変わって笑顔でうなずきながら、棘は再びの咥内を白米でいっぱいにする。この減らず口には白米の刑だ。あつあつの白米に苦しめばいい。詰め込めるだけ詰め込んでやろうと棘は早く口を開けろと催促する。拒絶するように首を振るを見かねたのか、伊地知がそっと言葉をはさんだ。

「狗巻くんはさんが平然としているから怒っているんだと思いますよ」

 するとは首をかしげた。心底理解できないという顔で。

「だってもう終わったことですから。これからどうするかを考えたほうが――」
「こんぶっ」

 隙アリッと大袈裟に叫びつつ、わずかに開いた唇の隙間にナスの天ぷらを突き刺してやった。会話を中断したはもごもご言いながら口に入りきらないそれを噛み砕いていく。棘をじっとりとねめつけながら。

 ここまで棘のいいようにされているは珍しい。なんだかちょっと楽しくなってきた。

 次はなにを詰め込んでやろうかと企む棘の目の前に、突然小瓶が差し出された。白い錠剤が半分ほど入っている。気だるげな視線をあげれば、青年がひどく冷めた目で棘を見つめていた。

「薬は必ず飲ませろ」
「ツナ」
「呪術で作った特殊な痛み止めだ。それなりに効く」

 棘が首肯しようとしたそのとき、がひどく楽しそうな顔で会話に加わった。

「嫌です。棘くんにキスしてもらうから大丈夫です」
「い、いくらっ」
「キスにはモルヒネの十倍の効果があるらしいよ?試してみる?」

 艶っぽさを含んだいたずらな笑みを向けられて、焦点がの柔らかそうな唇に固定される。ほんの一瞬のうちに体温が上昇している。すぐに棘は我に返って、平常心を取り戻すように青年から小瓶を受け取った。

「とにかく飲め。いいな?」
「……なにが入ってるかわからないものを?」
「心当たりがあるなら結構。必ず飲んでおけ」

 青年はに強く言い含めると、会話を見守っていた伊地知に視線を注ぐ。

「眼鏡、電波の繋がる場所を探しに行くぞ」
「え、繋がるんですか?外部との連絡は不可能なのでは……」
「繋がる。五条悟には必ずな」

 ふたりが離れを立ち去ったあと、棘とは時間をかけて朝食を食べ終えた。まるで見計らったように食器類が片付けられ、部屋はあっという間に落ち着き払った様相へと戻る。

 は棘の右隣に腰を下ろした。棘のほうからはの右側がよく見えない。

「静かだね」
「しゃけ」

 呪霊によるものとはいえ殺人事件が起きたというのに、これほど閑散としているのは数時間前に起きた地滑りのせいなのだろう。

棘の右手に自らの左手を重ねると、は囁くような小声で切り出した。

「……痛い」
「高菜」
「――って言ったら、キスしてくれる?」

 照れ笑いを浮かべて首をかしげるを見て、棘はたちまち衝動に駆られた。の顔を覗きこむために上体をわずかに屈めた刹那、青年の低い声音が耳の奥で響いた。弱っているにつけ込んでいるようで、それ以上は思うように身体が動かなかった。

 の笑みがぎこちないそれへと変わる。気まずそうに目を伏せて、棘から手を離した。

「……無茶してごめんね」
「おかか……高菜」
「右手、なくなっちゃった。お腹の傷も深くて、大きな痕が残るんだって」
「……しゃけ」

 離れていくの左手を捕まえるように、棘は自らの手のひらで優しく覆う。の手はひどく冷たかった。再会したときに感じた熱が、まるで嘘のように。

 体調が悪くなっているのだろうか。さっき飲ませた薬のせいだったら――そんな心配が頭をもたげた棘の耳を、の静かな声が撫でつけていく。

「目が覚めたとき、生きててよかったって心から思った。今度こそ棘くんといちゃいちゃできるってうれしかった。棘くんはまた怒るだろうなって思ったけど、でもきっとそんなことじゃすまないんだって、気づいちゃって」

 の手は冬空の下に放り出されたかのように、小刻みに震えている。様子がおかしいことに焦燥に駆られた棘がの顔を確認するように見つめ、すぐに呼吸を忘れた。の双眸からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちている。

「……わたし、あとのこと、なんにも考えてなかった。こんな身体じゃ、可愛くない。もう全然可愛くない。正直引くよね。迷惑だよね。女の子として……見れるわけないよね」

 途切れ途切れに紡がれるの言葉にまるでついていけない。一体なんの話だと狼狽する棘の意識を、のか細い声が穿った。

「だからね、棘くん――わたしと別れて」