選択肢

・依頼受付日時
  7月××日
・依頼人名
  無科 継夜
・依頼人連絡先
  ???
・依頼内容
  ×××を封じる呪符の回収
・特記事項
  に代行し狗巻棘が受諾
 深淵に沈んでいた意識が、骨の髄まで震えるような轟音を聞いた。遥か彼方から響いたそれは、棘の眠りをたちまち奪い去ってしまう。

 気を失うように眠りに落ちていた棘が、鉛のように重い目蓋をこじ開ける。なぜか空に向かって育つはずの草木が左に向かって伸びていて、視界が傾いていることに遅れて気づく。自らが地面に倒れこんでいることを認識した瞬間、棘は霞んだ視界の端に喪服めいた三つ揃いを見た。

 ゆっくりと視線を移動させれば、細い葉巻きを咥える茶髪の青年と目が合った。黒衣の青年はタブレット端末を片手に濃い紫煙を吐き出すと、混沌の色を孕んだ三白眼で起き抜けの棘を深々と穿った。

「目は覚めたか?」

 いまだ脳を侵す睡魔を押しのけるようにして、棘の意識が一気に覚醒する。勢いよく上体を起こすと、転がり落ちるように第一声が口を突いた。

「高菜っ!」
なら無事だ。邪魔になるから眼鏡に任せてきたが」

 こともなげに告げると、青年は手元の電子機器に視線を落とした。青年から目を外した棘は、すぐに首を左右に振って周囲を確認する。

 見渡す限り広がる鬱蒼と茂る草木の隙間を縫うようにして、白い光が差し込んでいる。どうやらすでに太陽がのぼっているようだ。

 どれくらいの間、眠り呆けていたのだろう。時刻を確かめるためにスマホに手を伸ばそうとしたものの、を助ける最中に投げ捨てたことを思い出した。棘は再び青年に鼻先を向ける。その視線は青年の手に握られた電子機器へと注がれていた。

「すじこ」
「時間?午前八時ちょうどだ」

 棘は自らが完全に寝入っていたことに愕然とした。との合流を最優先事項に決めるや即座に立ちあがり、青年に鋭い声を放った。

「いくら」
「まあ待て、あと少しで読み終わる」
「いくらっ」
「喧しい。犬のほうがまだ賢いぞ」

 熱のない口調に棘は声を詰まらせ、不満をぶつけるようにきつく睨みつけてやった。やがてタブレット端末を抱えた青年は先導を切って歩きだした。緩やかな斜面をやや危なげな足取りでおりていく。苦い紫煙を吸いこみながら、棘はそのあとに続いた。

 どれだけ腹が立とうとも、今はこの青年についていくしかなかった。この山のあらゆる場所からと似た気配が感じられるし、棘のすぐそばにいる青年の呪力があまりにもと似通っているせいでのもとへ自力で辿り着ける気がしない。おそらくそれをわかっていて、この青年は棘の案内役を買ってでたのだろう。

 とはいえ、その速度は運動神経抜群の棘からしてみれば緩慢というより他ない。獣道を走ることに慣れていないのか、はたまた運動神経が悪いのかはわからないが、一刻も早くに会いたい棘はじりじりと焦燥を募らせていく。

 青年を担いで走ることも検討しはじめたそのとき、青年が棘のほうをちらりと振り返った。その口元には悪戯っぽい笑みが宿っている。

「お前がよく眠っていたおかげで朝から興味深い論文を読めた。今日はきっといい日になる。感謝しておかねばと思ってな」

 およそ呪霊の口からでたとは思えぬその言葉に、気づけば棘は苛立ちも忘れて問いかけていた。

「こんぶ」
「アメリカの天文学者がつい先週発表した論文だよ。マルチバース理論について熱心に語っているんだが、あまりの熱意に心を動かされてしまった。やはり論文はこうでなくてはつまらない。ところで呪言師、お前は呪霊が他の惑星で生きていくことは可能だと思うか?そもそも呪霊が大気圏にでることについてどう考える?」

 滑らかに紡がれたのはあまりに突飛な質問だった。目を瞬いた棘の歩く速度がやや落ちる。

 呪いが宇宙へ行く?――この男はまさか宇宙飛行士にでもなりたいのだろうか。棘が答えにまごついていると、青年はやがてかぶりを振って続けた。

「俺の知る呪霊どもは地球に固執している輩ばかりだ。夢がない。浪漫もない。まったく嘆かわしいね。既知の大地より未知の空。俺が支配するならこの宇宙そのものがいい。人間の湧いた腐った惑星なんぞ、太陽にでも近づけて燃やし尽くしてやるのに」

 言葉が途切れた瞬間を見計らい、「おかか」と棘は会話に参加した。振り向いた青年に向かって深緑から覗く太陽を指差したあと、数字の“五”を表すように手のひらを大きく開いてみせる。

「ツナ、いくら、こんぶ」
「なんだ呪言師、よく知ってるな。その通りだ。一説によれば地球は五十億年後には膨張した太陽に飲まれて消滅するという。奴らめ、いずれなくなる矮小な星の支配を夢見てどうするつもりだ?」

 揶揄するように邪悪な笑みを含むと、青年が視線を前方へと戻した。

「呪霊が表立ってどうこうせずとも人間は勝手に滅ぶだろうよ。それにあの五条悟も人の子、そんなに邪魔なら老いて死ぬまで待てばいい。百年だぞ?たった百年で勝率が変わる。ならば宿儺様にすがるまでのこともない。結局生き残った奴が勝者だ、何故そうも“今”にこだわるのか理解に苦しむね」
「……すじこ」
「いやなに……俺と彼らでは求めるプロセスが違うというだけさ」

 鷹揚に首を振った青年は、ひどく真面目くさった口調で話題を閉じた。棘にはよくわからなかったし、そもそも最初からなにかを伝えようとしているわけではなさそうだった。はっきりと理解できたのは呪霊にもいろいろあるらしいということだけだった。

 歩くたびに揺れる癖の強い茶髪を見つめる。棘のほうへと流れてくる苦みのある紫煙を、必要以上に吸いこまないよう呼吸を調整しながら。

 この呪いは間違いなく変だ。おかしい。呪いのくせに科学にも詳しいし、人間である棘を殺さないどころか、むしろ会話を楽しんでいる節すらある。とはいえ他の惑星で暮らす可能性を探るような異端だからこそ、“あれ”を祓いたいと言った棘の言葉に耳を貸したのだろうけれど。

「それで?」

 濃い紫煙を吐き出した青年の言葉の意味を、思案に耽っていた棘はすっかり掴み損ねた。無言を貫いていると、再度問いが投げかけられる。

「あいつと会ってきたんだろう。協力は得られたか?」
「しゃけ!」
「だろうな。上出来だ」

 意外にも柔らかな声音を付け足し、青年はその場で足を止めた。懐から新しい葉巻を取りだしつつ、怪訝な表情を浮かべる棘に視線を注いだ。

「先に確認しておきたい。あいつになにをしろと言われた?」

 棘の肩が大げさなほど跳ねた。次第に赤らんでいく顔を見られぬよう砥粉色の頭を伏せると、ひどい熱を帯びた首を左右に何度も振ってみせる。

「……お、おかか」
「なにも?……いや、そんなはずはない。あいつひとりでどうにかできる話ならはすでに“あれ”の呪縛から解放されているはずだ」
「……おかか」
「そうやって隠したくなるほど後ろめたいことなんだな」

 白刃よりもずっと鋭い声音が棘から逃げ道を奪い去る。それでも言いたくなかった。棘が“なにも言われていない”と繰り返すと、ため息を落とした青年はさらに低い声で告げる。

「言え。さもなくば協力は白紙だ」
「おかかっ」

 強情な姿勢を崩すには充分すぎる脅しに、棘はより深く俯く他なかった。熱くなった両の手でこぶしを作り、短く切った爪が食いこむほどきつく握りしめる。

「黙るな呪言師。時間は有限だ。さっさと答えろ」
「……ナ……ヨ」
「おい、お前だけに聞こえる声で話してどうする」
「……マ、ヨ」
「男だろう、はっきり言え。縊り殺されたいのか」
「……ツ、ツナマヨッ」
「…………は?」
「ツナマヨッ!」

 顔を真っ赤にした棘が地面に向かって叫ぶと、青年が勢いよく噴きだした。火を点けたばかりの新しい葉巻が口からこぼれ落ちる。

とセックス?!」
「おかかーっ!」

 耳を貫くその単語はたちまち棘の膝を折った。その場にしゃがみ込んで頭を抱え、まるで芋虫のようになった棘を子どものように指差しつつ、青年は八重歯を見せて大爆笑している。腹が立つほど楽しそうな笑い声に羞恥が込みあげて仕方がない。

 やがて噎せる声が聞こえて、棘は笑いすぎだと腹の内で青年をなじった。こうなることがわかっていたからコイツには絶対言いたくなったのに。顔から火を噴きそうだったし、きつく食いしばった奥歯が痛い。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。棘はもはや泣きそうになりながら、眠りに落ちる前の記憶をたどりはじめた。



* * *




「早速で悪いけど本題に入るよ」

 満開の桜を背にした女は早口で口火を切ると、子どもになった棘の目を見据えて真摯に告げた。

「君に選択させてあげる」
「しゃけ」
「彼女を救う方法はふたつ。呪術師にならない人生か、それとも呪術師として生きていく人生か」

 棘は深くうなずきながら、指を立てて説明する女の言葉に耳を傾ける。

「まずは前者。イザナミと出会わなかった人生、つまり一般人として生きていく人生ね。特異点である虎杖悠仁、及び両面宿儺との邂逅は避けられないだろうけど、呪術界に足を踏み入れることはないよ。学生結婚する可能性が高いかな、仕事も育児も楽しそう」
「こんぶ」
「……ごめんね。相手は君じゃなくて、幼馴染の彼」

 女は申し訳なさそうに目を伏せた。髪を耳にかけながら口元に苦い笑みを刻む。

「君は彼女と出会うよ。だって棘くんにとってちゃんは運命だから。でも、それは彼女が結婚したあとの話。大人になった君は今の君と同じように初恋を捧げて、なにも伝えられないまま失恋する。彼女の幸せのために」
「……しゃけ」

 わかる気がする、と棘は小さな声で相槌を打った。「あくまで可能性の話だけどね」と付け足した女は、気を取り直すように再び双眸に真剣な光を灯した。

「次に後者。イザナミと出会ってしまった人生。今の延長線をたどるように、君や呪術界と深く関わりながら生きていく人生だね」
「たかな」
「大丈夫なわけないよ。現状、因果律の収束先は彼女の明確な死――ようするに、ちゃんが死ぬ確率は九割を超えてる。正直これといった勝ち筋の見えない選択肢だよ」

 困り果てた様子で肩を落とすと、女は深刻な声音で続けた。

「一番簡単なのは君たちの出会いをリセットする方法。でも今のままでどうにかしたいって言うなら君の協力が必要不可欠になるし、たぶんきっとそれだけじゃ足りない。確率をあげていくための作業をしていかなくちゃいけないと思う。棘くん、どっちにする?少しだけなら時間はあるから、考えてもらっても――」
「おかか」

 考える時間を与えられずとも、答えはすでに決まっていた。幼い棘の瞳に光が宿る。それは絶望からはうんと遠い、春の日差しにも似た穏やかな輝きだった。

「こんぶ」

 呪術師のを助けたい。棘は女の目を見据えて、きっぱりと笑顔で答えてみせた。

 これからもずっとと一緒にいたい――棘は決してそんな身勝手な理由からその選択肢を選んだわけではなかった。

 棘はどうしてもの生き様を否定したくなかったのだ。昼間は術師としての仕事や真希たちからのしごきをこなし、夜は塾に通って就寝間際まで机に向き合っている。空いた時間は“窓”の活動にあて、人助けをしながらを認めようとしない上層部に対して自らの有用性を示そうと必死にもがき続ける。

 ただ、狗巻棘と生きるために。一人前の呪術師として生きていくために。

 女の言うように、一般人に戻ればきっとは幸せになれるだろう。添い遂げる相手がだれであろうとかまわない。寂しいし悔しいし思うところは山のようにあるけれど、がちゃんと幸せならばそれでいい。それが棘の結論だが、この棘の願いは今のに対する侮辱に他ならなかった。

 が選んできた道を――の積み重ねてきた努力を踏みにじることだけは、絶対にできなかった。

「こんぶ」

 ちっちゃな手を握りしめて、棘は同じ言葉を繰り返した。それは覚悟だった。今のを絶対に助けるという明確な意志。女のかんばせに花が咲いたような笑みが広がる。

「よく言ったね、男じゃん。じゃあ手伝ってもらうよ」
「しゃけっ!」

 しかし元気よくうなずいた棘はすぐに耳を疑うことになる。満面の笑みで紡がれた言葉があまりにも突飛すぎて。

「今から二十四時間以内に彼女を抱いて。愛の言葉をたっぷりささやきながら、ね?」



* * *




「供犠としての価値を徹底的に落とし、尚且つ呪言で現世に縛り付けるつもりか。呪言のことは俺も考えていたが……“純潔”か。それは盲点だったな。いや、それにしても……ふ、ふふ」

 堪えきれない笑いの混じった声が聞こえる。棘は笑いたいなら笑えと半ば投げやりな気持ちで熱を孕んだ顔を腕で覆った。あまりに荷が重いということは自分が一番よくわかっている。棘は視線を持ちあげると、「腹が痛い」と呟く青年をじっとりとした目で睨みつけた。

「……おかか」
「童貞には可哀想だが、今考えうる限り最も勝算の高い方法だよ。ああいうものは大抵“純潔”を好む。そのうえ自分の土地で自分の女を犯されてみろ、それはもう最悪の気分だ。時間稼ぎには充分だし、は確実にこの土地から逃げられるだろうな」

 付け加えられた説明に、棘の片眉が持ちあがる。

「こんぶ」
「お前が寝ている間に地滑りが起きた。それも豪雨が降ったわけでも地震が起きたわけでもないのに、突然な。あの様子では道路はおろか鉄道も駄目だろう。を絶対に逃がさないつもりなんだろうよ」

 棘が眠りの淵で聞いた轟音は地滑りの音だったのだろう。青年は腕を組むと、羞恥の朱が差したままの棘を怜悧な視線で真正面から穿った。

「すべてを鑑みたうえでの結論だが、今が“あれ”から逃げられる確率は二割だ」
「……ツナ」
「高い?そりゃそうだろ、確率は多く見積もっているんだからな。正直に言えば一割……いや、一割もないな。次にが眠りに落ちるまでにこの山から脱出していなければ、俺たちの負けだ」

 焦った様子もなく淡々と告げて、棘にも理解できるよう最優先事項を口にする。

「まずはこの山から脱出すること。“あれ”を祓うのはそのあとだ」

 棘はまだ熱を孕んだ視線を右往左往させると、小さな声で意を決したように言った。

「ツナマヨ」
「そうだな。を抱けるというなら確実にこの山から出られるだろう」
「……いくら」
「なにせ条件が悪い。俺はお前が二十四時間以内に可能だなんて微塵も思ってないからな。別の方法をいくつか考えている。少し待て」

 あんまりな言い草だと思った。食ってかかろうとすれば、青年は冷めた表情を浮かべる。

「別に童貞を馬鹿にしてるわけじゃないし、お前が不能だと思っているわけでもない。呪言師、お前本気でわかってないのか?」
「……おかか」
「俺はが無事だと言っただけで、が無傷だとは一言も言ってないんだよ」

 棘の赤い顔から音を立てて血の気が引いた。まさかと唇を震わせる棘に、青年は真面目な視線をよこした。

「ああそうだ。千切れた腕も穴の開いた腹もそのままだ」

 病人のように青ざめた顔から目を逸らし、青年が説明を加えていく。

「手術は成功。すでに意識は戻っているし、今は眼鏡とともに地滑りの様子を見に行った。傷が開くからやめろって俺の忠告も無視してな。ただあれは気丈に振る舞っているだけで、まだ相当痛いはずだぜ?」

 そこで言葉を切ると、青年の口元がゆがんだ嗤笑で吊りあがった。それは寒気のするような悪魔の笑みだった。

「そんな状態の女と事に及ぼうなんて考えられるなら、俺はお前の愛を疑うよって話だ」