ぬかるんだ泥土を進むような暗晦な足音が遠ざかったことを確かめて、伏黒恵は廊下の曲がり角からぬっと姿を現した。投げた視線の先にあの華奢な背中はない。細く長く息をつくと、布擦れの音ひとつにまで気を払って姉の病室へ向かった。

 通い慣れた病室の戸を開き、塩ビタイルを踏みしめながら歩を進める。津美紀が横たわるベッドに近づいたところで靴裏が甲高い悲鳴を上げた。突として耳朶を打った不自然な音に、足を止めて黒一色のスニーカーを床から離す。恵は訝しげに眉を寄せた。

「……濡れてる?」

 照明灯を微かに反射する水はごく少量だった。軽く靴裏を滑らせて床に引き伸ばしてしまえば、おそらく数分も経たぬうちに蒸発してしまうだろう。恵の眉間に刻まれた皺がさらに深くなった次の瞬間には、謎の水分の正体が脳内で繋がっている。

 ただ情けなかった。己の浅慮がを追い詰めたのは明らかだった。小さなペットボトルを掴む左手に力が加わり、買ったばかりの紅茶の冷たさが輪をかけて伝わる。

 余分な機能はほとんど何も付いていない、ひどく簡素な医療用ベッド。表向きは原因不明の遷延性意識障害として扱われる津美紀の身体に、これといった医療機器は取り付けられていない。しかしその細腕には生命維持のための注射痕が無数に残り、呪われた津美紀の命がかろうじて繋がっている現実を明白に示していた。

 恵は傍らの丸椅子にゆっくりと腰を下ろした。忌まわしい呪印の浮かぶ青白い顔の中、固く閉じられた目蓋に白群の視線を置く。

「……今、津美紀が起きてたら」

 そこで言葉を切り、逃げるように手元に視線を這わせる。過分な糖を含んで濁った紅茶が透明の汗を滲ませていた。

「……あんな可愛い子を泣かせんなって、思い切り引っ叩かれてたんだろうな」

 発した恵本人にしか聞き取れぬほどの小声が自嘲めいた言葉を紡いだ。ペットボトルを両手で握りしめると、やや頭を垂れ下げて唇を横一文字に固く結ぶ。

 津美紀のことだ、きっと一目でを気に入るだろう。極度のお人好しであるの“人となり”に触れたなら尚更だ。「恵にひどいことされたらすぐに言ってね。私が懲らしめてあげるから」と笑顔で言うに決まっているし、恵との間でどんな諍いが起ころうとも恵の言い分に耳を貸すことはないだろう。最強の味方として存分に愛情を注ぎながら、あの五条以上にを甘やかすに違いない。

 勢いよく振り抜いた平手を宙に止めたまま、「恵。今すぐちゃんに謝って」と柳眉を危険な角度に釣り上げる津美紀の姿は想像に容易い。叩かれてもいない左頬が何となく熱を持っているような気がして、恵はそっと目蓋を伏せた。無機質な扉越しに聞いたの声音が耳の奥で響く。

「わたしにはどうしても成し遂げたいことがあります。それこそ命懸けで。大好きな恵くんへの未練はたっぷりあるんですけど……でも、だからと言って、わたしは彼のためには生きられない」

 一切の迷いも躊躇もない覚悟。愛する兄や恋人に依存する生き方を真っ向から否定したの心の強さ。平等に与えられた不平等な現実を前に、それでも絶対に膝は付かないと決めたの誓い。

「……そういうとこが好きなんだって、なんでわかんねぇんだよ」

 絞り出すように独り言ちた恵の声音は、しかしに届くことなく霧散した。



* * *




「ひどい!どうして全部飲んじゃうの?!せっかく恵くんが買ってくれたのに!」
「だって喉乾いてたから。夏が悪いよね、夏が。ていうかたかが紅茶一本でそんなに怒る?」
「恵くんが買ってくれたんだよ?!恵くんが!」
「あーはいはい、わかりました。悟くんが新しいのを買ってあげるからそれで許してよ」
「じゃあバニラクリームフラペチーノにチョコレートソースとチョコレートチップとコーヒーゼリー追加してね」
「それ自販機で買えないよね?」

 先んじて後部座席から下りたは唇を尖らせながら、呆れた様子でひとり炎天を仰ぐ五条に詰め寄った。これには恵も五条と同意見だった。恋人である恵が手渡したものとはいえ、どこでも買えるペットボトル飲料ひとつに何故そこまでこだわるのだろう。

 の不可解な思考に内心首をひねる恵が座席の扉を閉めると、伊地知は運転席の窓を半分ほど開けた。疲労の重なった双眸が恵を見つめている。

「お待たせしました。頼まれていたものです」

 恵はすぐに鼻先をへ向けた。の注意が恵や伊地知から外れていることを念のため確認したあと、差し出された鈍色の鍵に素早く手を伸ばす。

「ありがとうございます。色々と本当にすみません」
「術師の皆さんをサポートすることが、私の仕事ですので」

 そう言って優しく微笑んでみせたのは、まだ子どもである恵に余計な気を遣わせないためだろう。伊地知の人の良さに付け込んでいるようで、恵は少し罪悪感に駆られた。

 夏が来て術師の繁忙期が終わっても、補助監督の細々とした仕事は相変わらず山積みだ。貴重な休日を返上して課された仕事が“高専生の足として運転手を務めること”なのだから、腹の内で思うところは多いに違いなかった。

 申し訳なさが募ったそのとき、一足先にドラッグストアに向かい始めていたが「恵くーん!」と声を張った。応じるように視線を投げれば、伊地知がすぐに唇を開く。

「伏黒くんすみません。消えた遺体のことで、少し」

 声量を落とした伊地知に頷き、恵はに言葉を返した。

「すぐ追いかける!先行ってろ!」
「はーい!」

 は元気よく返事をして再び歩き出す。不意打ちのように津美紀に会わせたというのに、恵に対するの態度は何ひとつ変わらなかった。恵を気遣ってそう見せているだけだろうが、いつもと変わらぬの振る舞いが恵を安堵させたのは間違いなかった。

 がいつも通りだからこそ、恵も同じようにいられた。のそういうところが好きだと改めて思う。

 軽やかにアスファルトを踏むの背をじっと見つめていると、「伏黒くん」と伊地知に名を呼ばれて我に返る。ようやく歩き出した赤子を優しく見守るような生ぬるい視線に居心地の悪さを感じつつ、恵は「何かわかったんですか」と冷たい声音で話を促した。

「少し進展がありまして。警察に協力を仰いだところ、原宿駅近くのコンビニに似た背格好の男がいたと連絡が入りました。発見した警官がすぐに追いかけたそうですが……」
「……殺されたんですね」
「……はい。駅構内の男子トイレで鱗に覆われた遺体が見つかりました。全裸の状態だったことから犯人は服を奪って逃走したと見られていますが、その先の足取りは未だ掴めていません。亡くなった警察官の胸元には、青いカーネーションと例のメッセージカードが添えられていたそうです」
「それ、には――」
「いいえ、まだ何も伝えていません。……というか、伝えるつもりもないですね。今はそのほうが良いかと思いまして」

 言葉を引き取った伊地知に同意の目を送る。ただでさえ昨夜の一件ではさらに腹を括っているのだ。鱗の呪いに関する情報、それも特に人の生死に関わる情報は闇雲に復讐心を煽るだけだろう。

「また何かわかったら教えて下さい」

 そう言うと、恵は首を左側へ向けた。怜悧なかんばせに僅かながら苛立ちが滲む。

 体重を預けるように車の屋根に両腕を置き、道化師じみた軽薄な笑みを浮かべる五条が恵をじっと見つめていた。言いたいことがあるならさっさと言えと視線だけで訴えれば、勿体ぶるように五条の唇が不敵な曲線を描く。

「本気になる覚悟はできたの?」
「はい」
「そっか」

 ひとつ大きく首肯して、五条は両腕の上に顎を乗せた。炎天を浴びた車は高温を帯びているはずだが、最強の術師はその体勢でも全く平気そうな顔をしている。恵の双眸に胡乱げな色が走ったとき、五条は淀みない口調で告げた。

「交流会が終わるまでは許すよ。でもその先は――許さない」

 耳朶を打った言葉に恵は驚いたように眉を上げる。浮付いた笑みを結んだまま何の説明も加えない五条に対し、恵は数秒の間を挟んで自らの考えを口にした。

「……俺の術式が禪院相伝だからですか」
「ご名答」
「……最初からそのつもりで、を五条の養子にしたんですね」

 抑揚に欠けた平板な声音で尋ねれば、五条はその唇を不吉な弦月の形に吊り上げてみせた。

「だって別れさせるには充分な口実だろ?五条と禪院は犬猿の仲。禪院が五条との婚姻を認めるわけがないし、五条にだって禪院を非難するそれ相応の言い分がある」
「……言い分?」
「それこそ成人もしていない嫁入り前の巫覡を破瓜させた――とかね?」

 一瞬で蒼白した恵は言葉を失っていた。しかしすぐに「あ、別に処女じゃなくなったっての感応能力は落ちないと思うよ。のはそういう次元じゃないし」とへらへら笑んだ五条が顔の前で手を振る。

 何の慰めでもなかった。の感応能力がどうであれ、恵を非難するには充分な口実だ。が恵の部屋で寝起きすることが決まった今、たとえ恵との間に何もなくとも“性的な行為は何もしていない”という言葉が周囲に通用するはずもない。そもそも五条の息のかかった医者に破瓜の証明を一筆書かせてしまえば、恵の抗言は何の意味も持たなくなる。

 奥歯を軋らせた恵は眼前の五条を睨み付けた。この男がを奪われることをそうもあっさり認めるはずがなかったのだ。

「覚えてる?本気になるつもりもないならのことは潔く諦めろって言ったこと」
「……はい」
「恵には向いてないからだよ」
「……どういう意味ですか」
「言葉通り、そのままの意味さ。人生の先輩かつ同じ男として断言する。との関係を続けるための努力が、恵には全然向いてない」

 言葉もなく眉をひそめた恵に、五条はどこか憐れむような視線を寄越した。

「君たちはこれからどんどん大人になっていく。価値観が育ち環境が変わり、もっともっと視野が広がっていくだろう。恋愛において基準を得た君たちは、数多の人間関係を紡ぐ中で互いを秤にかけることも少なくないはずだ。今はわかんないだろうけど、君たちくらいの年齢で始まった恋愛が長続きすることなんて、本当に稀なんだよ」
「……長続きするわけがないから、諦めろって言うんですか」
「感応能力が高すぎる故に神罰を受けたが相手だからこそね。恵が後悔することなんて目に見えてる」

 知ったような口で述懐する五条に無性に腹が立った。恵が言い返そうと口を開けば、一拍早く五条はかぶりを振っている。

「だってそういう努力はさ、恵には無理だよ。向いてない。だから潔く諦めたほうが良いよ」

 胡散臭い素振りとは裏腹、その声音に全く温度はなかった。訝しんだ恵は五条を見つめる。義妹であるのために別れを勧めているのではなく、教え子である恵のために口酸っぱく忠告しているようにしか聞こえなかった。

「交流会が終わるまでって言ったのは、その頃には宮中祭祀用の呪符や呪具を作り終えているだろうって僕の予想ね。その前にに死なれるとこっちが困るんだよ、納期遅らせるために宮内庁をはじめとした各所に頭下げんの誰だと思ってんの?夜蛾学長だよ?いや~ちょっと可哀想だよね!だからのモチベーションのためにも、しばらく“恋人ごっこ”は続けてあげてくんない?」

 虚言を弄する道化師じみた口振りに恵は無言を返した。五条の腹の内が全く読めず、気味の悪さすら覚えていた。三日月の形に割れた唇から白い歯を覗かせ、五条は軽薄に笑ってみせる。

「ほら、早く行きなよ。が待ってるぜ?」



* * *




 天井灯が完全に消えてしばらく経つと、恵は鼻孔から漏れる呼吸音を微かに大きくした。部屋の引き戸に背を向けるようにベッドに深く身体を預けながらも、全神経を聴覚に集中させて空気の僅かな揺動すら捉えようとする。

 寝息を意識したそれを数分続けたところで、背後で布擦れの音がした。目蓋を開いて瞳を暗闇に慣らせつつ、部屋の中を忍び足で移動するの把握に努める。

 は壁際の勉強机まで歩を進めると、次いで窓辺を経由して引き戸へ向かった。扉の閉まる気配を感じ取るや、恵は首だけをひねって暗い部屋に視線を這わせる。床に敷いた布団の上に、の姿はない。

 窓際に置かれたアロマキャンドルに照らされ、カーテンの一部分が橙色に染まっている。恵は注意深く上体を起こすと、引き戸の向こうを厳しく睥睨した。

「……あの馬鹿」

 恵だけにしか聞こえない声で悪罵を吐く。最初からこうなることは想定内だった。

 恋人である恵を守るためだと説得され、が恵の部屋での寝起きを渋々承諾したと野薔薇から聞いた。となれば、が馬鹿な真似に出ることなどわかりきっている。だから恵は前もって罠を張っておいたのだ。を真正面から糾弾するなら現行犯で取り押さえる他ない故に。

 わざとベッド近くの床に布団を敷いた。扉の近くまで布団の位置を変えるだろうと予想して。野薔薇に押し付けられた、催淫効果があるらしいサンダルウッドのアロマキャンドルを焚いたのは致し方なくだ。窓際に移動させるかどうかを確かめたかった。を部屋から抜け出させるには寝たふりをするに限る。観察眼の劣るには恵の狸寝入りなど決して見抜けないはずだ。

 しかしこうもまんまと狙い通りに動くとは。ここまで証拠が揃ったうえに部屋の外で眠ることを選んだのだ、今さらすっ呆けることなど不可能だろう。

 窓際につま先を向けた恵はアロマキャンドルに手を伸ばした。カーテンに火が移らぬよう勉強机の上に位置を戻すと、昼間の会話が頭を過ぎり独り言ちる。

「……“恋人ごっこ”」

 遊びのつもりなど毛頭ない。そんな気持ちでと向き合って交際を申し出たわけではないし、そもそも長続きするわけがないという五条の言葉が必ずしも恵とに当てはまると決まったわけでもない。

 しかしあのとき五条に強く言い返すこともできず、全く考えの読めない男への苛立ちを募らせるだけの結果に至ったのは、を幸せにする自信がないからだ。今より不幸にしない自信はあっても、樹が生きていたころのような普通の幸せをに与えられる自信はどこにもなかった。

「……後悔なんて、もう充分してんだよ」

 小さく吐き捨てると、恵は玄関扉を開いた。そして喚き暴れながら部屋に戻ることを拒絶するを力づくで回収し、空になったベッドの上に放り投げる。誤って顔面からダイブさせてしまったのだろう、ぐえっと潰れたカエルのような情けない悲鳴が静かな部屋に響いた。

 呻きながら上体を起こすを視界の中央に捉えたまま、後ろ手で隙間なく引き戸を閉めた恵は天井灯を点けてその場に胡坐をかいた。床に腰を落ち着けたのは玄関からの逃亡を防ぐためでもあるが、ただ単純にとの距離を取るためだった。に対してこれ以上の無体を働く意思がないことを示すために。

 はカーテンの閉まった窓に目を滑らせた。退路を断つが如く、恵は低い声で脅す。

「窓から逃げたきゃそうしろ。鍵開けてる間に首根っこ掴んでやる」

 先んじて釘を差せば、は唇を噛んで俯いた。乱れた髪が垂れ下がり、膝の上に置かれた両手が固い拳を作る。やがては意を決したように首を持ち上げ、恵に向き合うように身体の位置を整えた。そして深々と頭を下げて哀願する。

「……恵くんにこれ以上迷惑はかけられない。わたしのせいで危ない目に遭ってほしくないんだよ。だから、お願いします。わたしを、廊下で寝させてください」

 心の髄にまで訴えかけるようなそれに、しかし恵は深く嘆息するだけだった。そんな言葉に納得してこちらが折れると本気で思っているのだろうか。頭を上げたは一縷の望みに賭けるように、真摯な明眸で恵を見つめたままだ。恵とは異なり感情論で生きるはどうやら本気でそう思っているらしい。

 恵は呆れながら立ち上がると、クローゼットを開いた。視線を落とし、黒のファイルボックスの中で行儀良く並ぶ分厚いクリアブックをまとめて取り出す。

 振り向けば、上体をやや後ろへ引いたが顔前ですぐに拳を構えた。その丸い瞳には怯えの他に、恵への抵抗の意思がはっきりと見て取れる。拘束具か何かを持ち出したとでも考えて身構えているのだろうが、全くの見当違いである。

「……式神使いは術師本人を叩けって悟くんが言ってた。恵くんはわたしが大好きだから、こうなったらわたしはわたしを人質に取るしかないよ。恵くんが式神を使おうと、どんな卑怯な手を使おうと、絶対に廊下で――」

 恵くんはわたしが大好きという自信に満ち溢れた言葉はさておき、わたしはわたしを人質に取るとは一体どういう意味だろう。よくわからない言葉とともに決して屈しない鋼の覚悟を口にするに、恵は無言でクリアブックの束を差し出した。ぱちぱちと目を瞬いたは、恵を見上げて小首を傾げる。

「…………何これ」
「さっき言っただろ。嫌ってほど思い知らせてやるって」

 怪訝そうに眉を寄せたはしばらく恵を見つめていたが、やがて諦めたように分厚いクリアブックを数冊受け取った。「重っ」と言いながら慌てて胸に抱えると、折り畳んだ膝の上に置いて目に付いた一冊をゆっくりと捲っていく。が小さな声を押し出した。

「……これって、鱗の呪いの資料?」
「俺はほど無策じゃねぇ」

 質問の答えとは言えないような言葉を返すと、恵はもう一度クローゼットに戻ってさらに複数冊のクリアブックを引っ張り出した。正座するの傍らに積み上げれば、が大きく瞠目する。

「まだあるの?」
「俺の部屋にあるのはこれで全部だ。あとは伊地知さんに預けてるヤツが三冊あるけど、そっちは新聞と週刊誌の切り抜きばっかだな。“表向き”の行方不明事件として報道されたときのだから、たいした情報はねぇよ」

 ページを捲り続けるが信じられない様子で呟いた。

「……こんなの、いつの間に」
「暇があったら、ずっと。最初はタブレットに保存してたんだが、仙台で科学に強いってことがわかった時点で紙ベースに切り替えた。紙なら盗難すればすぐにわかるし、これだけの量をコピーするのはどうしたって時間がかかる。呪力や残穢、指紋が取れりゃ充分だ」

 昨夜の一件を思えば、ハッキングされる可能性を考慮しておいて正解だったのだろう。は顎を持ち上げると、戸惑いに揺れる視線で恵を見つめる。

「どうして」
「お前な……もう約束忘れたのかよ……」
「……約束?えーっと……ごめんなさい、ヒントください……」

 どうやらあのときの約束は当の本人にはさほど響いていなかったらしい。恵を巻き込まんとするらしいと言えばらしいのだが。恵はひとつ嘆息して、誘導する羞恥に耐えながらぼそぼそと単語を放つ。

「……五月」
「五月?」
「……遊園地」
「遊園地?…………あっ!」
「思い出したか?」
「もう一回とは言わず何度でも遊園地デートしたいね。今度は演技なしでカップルだよ?」

 真面目くさった顔で堂々と脱線したに肩を落とす。降参するようにかぶりを振ったに、恵は目を背けながら答えを与えた。

さんを疑うのは俺がやるって言っただろ」
「……うん」

 小さく頷いたに視線を戻し、目線を合わせて淡々と告げる。の心を抉る言葉をわざと選ぶようにして。

「正しく復讐することが本懐なら勝手にすればいい。廊下で寝たいならそうしろ。けど今のが考えなきゃいけねぇのは俺のことじゃなくてさんのことだろ」
「……お兄ちゃん?」
「状況はまだ何も好転してない。このままじゃさんは“他人に成り代わった呪詛師”のままだ。さんの嘘を受け入れるのか。家族への暴言を赦せるのか。自分のすべきことを見失ってどうすんだよ」
「……」
「理由もなく嘘をつく人じゃない、誰かを傷つける人じゃない、きっと何か理由があったんだと思う――お前、あのときそう言ったよな?この数ヶ月さんのことも調べてきたが、あの人が本当に“シロ”だった可能性はほとんどゼロに近い。術師として生きるうえで、おそらく多くのものを犠牲にしている」

 そこで言葉を切ると、恵は小さく息を吸い込んだ。に最も残酷な呪いをかけるために。自身が発した決意で首を絞めることを選ばせるように。

「死んださんがもし本当に誰かを傷つけていたとして、これから誰が一緒に償うんだよ。自分だって言ったの、だろ」

 家族を殺した鱗の呪霊に正しく復讐する――の覚悟のきっかけになったのが兄の樹なら、を僅かでも思い留まらせることができるのも兄の樹に違いなかった。はゆっくりと目を伏せると、口端に苦い笑みを浮かべる。

「……ずるいね、恵くん。お兄ちゃんの名前を出されたら、わたしが何も言えないの、知ってるくせに」

 そう言って向けられた明眸には非難の色が滲む。恵は視線を交わしたまま無言を貫いた。ここで憎まれるならそれでも良かった。しかしはすぐに柔らかく笑むと、クリアブックを再び捲りながら言葉を継いだ。

「お兄ちゃんのことも調べたの?」
「……の隣のファイル、全部そうだ。けどそれ以上見たいなら部屋で寝ろ」
「うっ……」

 恵の提示した交換条件にが顔を歪める。しばらく何かを考え込むように唇を引き締めたあと、恵の反応を確かめるような不安げな視線を寄越した。

「……鱗の呪いが襲ってこない保証はない。でも、今じゃない可能性のほうが高い。本当に何かするつもりなら、昨日の夏祭りの時点でわたしの身にもっと大きな何かが起きているはず、だよね?」
「馬鹿も多少マシになったな」
「あ、ひどい!これでも悟くんに鍛えられてるんだからね?」

 不満を示すように唇を尖らせたは、ふっと表情を弛緩させた。「……あーあ」と諦念をこぼして正座を崩すや、全身の力を抜きながら傍らに積まれたクリアブックに指を伸ばす。長い睫毛の下の明眸に寂しい色が灯ったとき、ふっくらとした唇が微かに動いた。

「……部屋で、寝ます」
「ベッド使えよ」
「……はーい。その代わり……」
「その代わり?」
「恵くんもベッドで寝てください」

 予想外の指示に恵は目を大きく瞠った。反論するより早く、はきっぱりと告げる。

「わたしは扉側で眠ります。ごめんなさい、それ以上の妥協はできません」

 の選んだ“妥協”という言葉に恵は怯んだ。に部屋で寝てほしいのはもちろん安全のためもあるが、誰より大切にしたい相手だからこそ柔らかいベッドでしっかり休息を取ってほしい気持ち故だった。に無理を強いておいて自分だけ条件を飲まないというのは、何となく卑怯な気がする。

「…………わかった」