買い出しはつつがなく終わった。会計を済ませるころには、口数の少なかった恵くんも普段の調子を取り戻していた。この短時間で己の感情と折り合いを付けてしまうのだから、彼は充分すぎるほど大人だった。

 とはいえ、レジ前で苛立ちを露わにしながら「は?なんでが払うんだよ。おかしいだろ」「買い替えろって言ったの俺なんだから俺が払う」「なんでそこまで頑固なんだよ」「そんなに俺に払わせたくねぇなら五条先生の財布持ってこい」「うるせぇなお前マジでどっか行ってろ」などと、頑として引かなかったところはちっとも大人ではないなと思うけれど。

 日用品と菓子類と飲料水を隙間なく載せたショッピングカートを押す恵くんとともに、駐車場で待つ呪術高専の社用車へ向かう。

 彼は片手を伸ばして半透明のレジ袋を物色すると、すぐに「ん」とこちらへ何かを寄越した。差し出されたそれを受け取り、わたしは何度か目を瞬く。視界に映るのは携帯に最適な、ちょっと酸っぱいパウダー付きのグミだった。

「グミ?」
「……さっき、言い過ぎた」
「さっき」
「……会計のとき」

 滲む羞恥を堪えるように彼はぼそぼそと言った。「可愛い彼女にそんな言い方する?!」と半ば冗談混じりに怒号したわたしの機嫌を取るため、レジ近くに陳列されていたグミを適当に掴み取ったのだろう。形の良い耳がやや赤く染まって見えるのは気のせいではないはずだ。

 ブドウ味のハート型グミを手に歩速を緩めたわたしを置いて、彼はひとり先に行ってしまう。少しずつ離れていく背中を見つめながら、わたしは下唇をきつく噛んだ。

 口喧嘩と呼ぶほどでもない、ひどく些細な言い合いだ。じゃれ合いにも似たそれをわたしは正直何とも思っていなかった。

 けれども、恵くんにとってはそうではなかったのだろう。彼の辛辣な言葉をわたしがどう受け止めてどう感じたのかわからないからこそ、あの下らない応酬をわだかまりにしないためにお詫びの気持ちとしてグミを渡すことにした。

 わたしと仲直りしたいということは、つまり彼はわたしとの関係を続けるつもりなのだ。津美紀さんに掛けた言葉を耳にして、それでもなお。取るに足らない小さなことを気にするくらい、本気で長続きさせるつもりで。

「……恵くん」

 頭の奥が痺れて何も考えられない。浅くなった呼吸が身体の内側で微かに響く。

「ま、これからどうするかは恵とふたりでゆっくり考えな。悠仁が戻ってくるまで、まだ時間はあるから」

 優しく説くような悟くんの言葉が脳裏で撹拌していた。しかし今、自分が決して譲れないところに立っているのも事実だった。譲ってしまえばお兄ちゃんの死を、わたしの家族の死を、一体どう昇華すればいいのかわからなくなる。

 ここで考えても埒が明かないと結論付けると、わたしは目頭の熱さを振り払うようにアスファルトを強く踏みしめた。

 社用車のトランクに荷物を載せる黒い背中に飛び付くや、「恵くん大好き!ありがとう!」とべったり頬を寄せる。「暑いから離れろ」と完全に塩対応な言葉とは裏腹、決してわたしを引き剥がそうとしないところに恵くんの思慕が透けて見えていた。

 彼の背中にぎゅうっと抱き付いたまま、まるで蝉のように「恵くん好き」だの「世界で一番愛してる」だの「わたしの自慢の恋人だよ」だの、止めどなく愛の言葉をぶつけていると、助手席に座る悟くんが首だけで振り返って顔を歪める。

、いちゃつくなら余所でやってくんない?」
「大人の嫉妬は見苦しいよ悟くん」
「してねーよ!」

 ぎゃんと吼え立てた悟くんは午後から一級呪霊祓除の任務があるらしい。百円ショップにも立ち寄ってくれた伊地知さんは、やや急いだ様子でわたしたちを呪術高専まで送り届けると、「頼むよ~僕の代わりに恵が行ってよ~」と駄々をこねる悟くんを乗せたまま来た道を引き戻っていった。

「こんなに持ち込んだら恵くんの部屋がわたしの部屋になっちゃうね」

 ひとまず恵くんの部屋の玄関に置いた荷物の山を見つめ、わたしは思わず苦い笑みをこぼした。必要な物だけ買ったつもりだったのだけれど、まさかこうも嵩張るとは思ってもみなかった。ふたりで食べるだろうからと菓子類を買い込んだのが良くなかったのかもしれない。

 レジ袋からシャンプーやトリートメントを取り出す彼に、おそるおそる声を掛けた。

「ごめんね、狭くなって」
「別に気にしてねぇよ」
「いっぱい買ってくれてありがとう」
「足りねぇ物があったらすぐに言え。買ってくるから」
「うん、ありがとう」

 こちらを気遣う素っ気ない言葉に小さく頷いて、わたしは飲料水の入った段ボール箱を三和土の隅に寄せる。ボストンバッグから呪符を取り出すや、あらかじめ裏面に貼っておいた両面テープを剥がし、玄関扉上部の白い壁に貼り付けようとつま先に力を入れてぐっと背伸びする。

 けれども背の低いわたしでは上手く貼ることができなかった。右手を伸ばしたまま低く呻いて四苦八苦していると、すぐに梵字の浮かぶそれを背後から掠め取られた。振り向けば真後ろに恵くんがいる。長い睫毛に縁取られた白群の瞳が斜め上を見つめていた。あまりの近さに心臓が大きく脈打つ。

「ここに貼れば良いんだな?」
「……う、うん」

 彼は呪符を白壁の中央に難なく貼り付けると、「結界用の札か?」と訝しげな視線を寄越した。わたしは首肯する。

「迦楼羅天の呪符だよ。迦楼羅天は不動明王が背負う火焔そのもの、そして人に害を為す毒蛇を喰べる霊鳥……気休めかもしれないけど、効果があったらいいなって」
が書いたなら効果はあるだろ。いつの間に書いたんだ?」
「実はそれ、秋の宮中祭祀用の呪符なんだ。黙って一枚くすねてきちゃった」
「また反省文だな……」

 呆れ返った様子の恵くんとともに、わたしは荷物の片付けを開始した。

 男子寮の部屋の構造は女子寮のそれと全く同じようだった。ただ恵くんの部屋はわたしの部屋と比べて極端に物が少なく、塵ひとつ見当たらないほど清潔に整えられていた。整理整頓に対する意識の差をまざまざと見せつけられ、何となく負けたような気分になった。しっかり見倣わなくては。

 百円ショップで購入した歯ブラシホルダーを洗面台の鏡に取り付ける。恵くんの青い歯ブラシの隣に、買ったばかりのピンクの歯ブラシを並べた。肋骨の内側にうれしいような面映ゆいような明るい感情がじわりと滲み、風呂場にシャンプーやメイク落としを運び入れていた彼に弾んだ声を投げる。

「なんだか同棲でも始めるみたいでドキドキするね!」
「……しねぇよ。だけだろ」
「えっ、嘘……温度差……ちょっと寂しい……」

 真冬の如く冷え切った語調に眉尻を下げて洗面所を出ようとすると、どこか慌てた様子で「」と呼び止められた。振り返れば、恵くんは気まずげに目を逸らして後頭部を掻いている。ポケットに突っ込んだ手を引っぱり出すや、作った握り拳をわたしの眼前に突き出した。

「……忘れねぇうちに、コレ、渡しとく」
「コレ?」
「絶対失くすなよ」

 念を押して手渡されたのは鈍色に輝く鍵だった。手のひらに収まる小さなそれと微かに赤らんだ恵くんのかんばせを交互に見つめる。一体いつの間に用意していたのだろう。渡された合鍵を指で摘まむと、見せびらかすように彼の眼前に突き付けた。

「カギだ……カギだよ恵くん……」
「ああそうだな。他にどう見えるんだよ」
「どうしよう!ますます同棲っぽいね!恵くんありがとう!ああもう大好き!」
「……相変わらずテンション高ぇな」
「夜以外も遊びに来ていい?!」
「別に良いけど……一応男子寮だぞ、ココ」

 わたしは眉間に皺を刻む彼から両瞳を外し、にやにやしながら貰ったばかりの合鍵を早速キーケースに付けていく。ふと白群の視線を感じて首をひねる。重厚な黒革にイタリアを代表する老舗高級ブランドのロゴパーツが添えられたそれを掲げれば、彼は胡乱げに表情を歪めた。

「……そんなの使ってたか?」
「先週お財布と一緒に悟くんが買ってくれたんだ。毎日持ち歩くからこそ自分の等級に見合った良い物にしなさい、小物ひとつで人から向けられる視線が変わるから、って。すごいでしょ、百均のキーケースから大幅にグレードアップだよ?」
「…………自分の女みたいに着飾りやがって」
「え?……恵くん、今なんて――」
「何でもねぇよ」

 ひどく苛立った様子で口早に吐き捨てた彼に、わたしは眉を寄せながら首を傾げる。突如不機嫌極まりない表情に豹変した怜悧なかんばせを見つめ、恵くんの情緒が未だによくわからないなと胸の内で白旗を振る。悟くんから買ってもらったキーケースをボストンバッグに仕舞い込むや、気を取り直すようにわたしは大きく胸を張ってみせた。

「これでもっと恵くんの彼女面できるね」
「彼女面?……ちゃんと俺の彼女だろ」
「うっ……伏黒恵のその軽率な発言が五条の心をことごとく奪ってしまったのです……」
「何のナレーションだよ」

 時おりそんな茶番を挟みつつ、わたしは恵くんの指示のもと、新たに作り上げた収納スペースを活用してひたすら物を片付けていった。

 途中野薔薇ちゃんに呼び出され、買ってきてもらった可愛いルームウェアと大量の下着を受け取ったり、部屋のどこにわたしの下着類を置くかで彼を困らせたり、「……恵くんどうしよう。釘崎野薔薇セレクト、か、かなり攻めてる……」「その情報マジでいらねぇ……」とひどく気まずげな彼をさらに困らせたりした。

 生活感に欠けた殺風景な部屋が少し賑やかになるころには、窓の外はすっかり橙色に染まっていた。悟くんとの夕食に向かうため、わたしはパンプスに足を滑らせる。“最強”はいつも通り、何の問題もなく無事に任務を終えたらしい。

 こちらをじっと見やる恵くんが小さな声で呟いた。

「……あの人と毎晩飯行ってんだな」
「そうだよ。今夜は中華だって!」

 浮き立つ声とともにボストンバッグを肘に引っ掛けると、躊躇なく扉の取っ手に指を伸ばした。古びたそれを握りしめたまま、腰から振り返って笑みを浮かべる。

「いってきます!」
「……ああ。いってらっしゃい」

 応じるようにやや口端を緩めた彼のかんばせに瞠目したのも一瞬のことだった。わたしは離れがたい気持ちを振り払うように部屋を出ると、逢魔時を迎え入れる静かな廊下を早足で歩き始める。

 背中の後ろで扉の閉まる音がして、思わず足を止めた。朱に染まった廊下に凝然とした黒い影が伸びている。耳のずっと奥で、恵くんの落ち着き払った声音がたしかに響いていた。

 ――いってらっしゃい。

 胸に大きな穴が穿たれる感覚がした。途方もない孤独を呼び込むその穴を少しでも塞ぎたくて右手を当て、掻き抱くようにブラウスをきつく握りしめる。しかしどれだけ指先に力を篭めてみても、胸のそれは決して埋まることはない気がした。

 いってらっしゃい。そんな当たり前の挨拶とともに玄関から送り出されたのは、お兄ちゃんが死んで初めてのことだった。



* * *




 夕食を終えたわたしが呪術高専の正門をくぐったのは午後十時、訪れた暮夜が広大な空を喰らい尽くしてずいぶん経ったころだった。

 帰り際に通った道路沿いの廃ビル内に準一級呪霊の気配を察知し、「術師の仕事は慈善活動じゃないんだけど」と渋る悟くんを説得して祓除に赴いていたらこんな時間になっていた。悟くんがああも難色を示さなければあと三十分は早く帰って来られたはずだし、術師最強を冠する悟くんがその気になれば“絶対術師を殺したい呪霊vs絶対呪霊を祓いたくない術師”という不毛な鬼ごっこの火蓋が切って落とされることもなかっただろう。さらに三十分は帰宅時間を短縮できたに違いない。許すまじ、五条悟。

 鱗の呪い以外の呪霊に術式を使用したくないわたしが、全く無益な鬼ごっこに何とか辛勝したのは日々の修行の賜物だろう。自分の成長をたっぷり褒めてやりたい気分だった。

 派手に転びながら廃ビルを駆け廻ったせいで、ブラウスやスカートはおろかパンプスまで目も当てられないほど汚れていた。疲労を訴える足を懸命に持ち上げ、一直線に男子寮を目指す。ぬるく湿った熱帯夜の空気が肌の上に汗を滲ませていた。やけに静かな寮の玄関扉を抜けると、足音を立てぬよう注意を払いながら階段を上っていく。

 恵くんの部屋の前で立ち止まり、埃を被ったボストンバッグからキーケースを引っぱり出す。貰ったばかりの合鍵を差し込んで開錠し、ゆっくりと取っ手を引いたところで――呼吸が詰まった。あれ?と何度も目を瞬く。

 何故か扉が開かなかった。全身から血の気が引き、思考がみるみる混濁していく。どうして開かないのだろう。どうして。湧いた疑念を拭うようにもう一度引いてみたものの、結果はまるで変わらなかった。

 ひゅうと小さく喉が鳴る。大きな氷塊が背中を滑り落ちていくような、ひどく嫌な予感がした。キーケースを掴む指先が小刻みに震えているせいで、鈍色の先端が鍵穴にうまく入らない。「オン・ギャロダヤ・ソワカ、オン・ギャロダヤ・ソワカ……」と心を落ち着かせるように迦楼羅天の小咒を懸命に唱えていると、痙攣する指の先で軽い金属音が響いた。

 扉の開く気配がして、わたしは咄嗟に一歩後ずさる。開いた玄関扉の向こうにはラフな部屋着姿の恵くんが立っていた。白群の双眸でわたしを認めると、やや間を空けて口火を切った。

「……おかえり。その恰好どうした?」
「めぐ、み、くん……」
「どっかで転んだくらいでそうはならねぇよな……まさか、また何かあったのか?」

 強い緊張感を覚えたように声を低める彼を見つめたまま、わたしは何とか掠れた小声を押し出した。

「…………か、カギ」
「カギ?……ああ、開けてたんだよ。……窓からが見えて」

 言うと、恵くんはきまりが悪そうに目を逸らした。どうやら開錠したつもりが施錠してしまっただけらしい。肩を内側に丸め込んだわたしは、何もなくて良かったと安堵の息を吐いた。早とちりによる羞恥を隠すように、上体を前のめりにさせて彼を揶揄する。

「あ、そんなに早く帰ってきて欲しかったんだ?さてはわたしがいなくて寂しかったんだな?」
「違ぇよ。偶然見えただけだ。馬鹿なこと言う暇あったらさっさと風呂入って寝ろ」

 無愛想に言い捨てるや、恵くんは素早く踵を返して廊下の奥へ消えていく。引き戸を後ろ手で閉めたその背中がやや苛立ったように見えて、わたしは訳が分からず首を傾げる。彼の就寝時間も考えて、もっと早く帰宅するべきだったのかもしれない。明日から気を付けようと反省しつつ、玄関扉をしっかり施錠した。

 入浴を終えて風呂掃除を済ませると、床の上には真新しい布団が一組用意されていた。迷うことなくその上に腰を落とせば、勉強机の上に置いたアロマキャンドルに火を灯していた恵くんが露骨に顔をしかめた。

「そっちじゃねぇよ」
「ベッドは家主が使うべきです。わたしは床で寝ます」

 きっぱりと断言したわたしに彼がすぐさま反論しようと口を開く。わたしは威嚇するように彼を厳しく睥め付け、間断なく言葉を継いでみせた。

「わたしは床で寝ます。異論は認めません」

 収まりの悪い黒髪を掻いた彼は、僅かに開いた唇を不服そうに閉じてベッドに横たわった。敷いた布団をベッドから遠く引き離していると、どこか不満げな響きが耳朶を打った。

「……そんなに離れる必要あるか?」
「恵くんがベッドから落っこちてきたら嫌だなと思って」
「落ちるわけねぇだろ……」

 やがて白い照明灯が消えて暗闇が訪れる。空調の効いた部屋は少し肌寒いくらいだった。布団を首元まで引き上げて目蓋を閉じたとき、恵くんは「」とわたしの名を呼んだ。懇願するようなその響きに「わたくしめは床で充分でございますご主人様」と先んじて言えば、大きな嘆息が返ってくる。

「それどんな設定だよ……とにかくベッド使え。遠慮すんな」
「やだ」
「使えって」
「絶対やだ」
「なんでそうも頑固なんだよ……」

 沈黙が流れる。声もなく大きな欠伸をひとつ落としていると、恵くんがやや躊躇ったような様子で切り出した。

「……津美紀のこと、驚かせたと思う。急に悪かった」
「ううん、教えてくれてありがとう。津美紀さんの呪いを解く方法、わたしも探してみるよ。わたしに協力できることがあるなら何でも言ってね」
「ああ」
「おやすみ、恵くん」
「……おやすみ」

 やがてベッドのほうから静かな寝息が聞こえてきた。視線だけを動かし彼の動向をしばらく警戒する。完全に寝入った彼を起こさぬようにそうっと上体を持ち上げると、わたしは物音ひとつなく立ち上がって忍び足で勉強机に近づく。橙色の火が灯ったアロマキャンドルを窓際の床に移動させ、掛布団を抱えたまま引き戸を開けて簡易キッチンを横切っていく。

 一切の音を立てず玄関扉を開錠し、僅かに生まれた隙間から身体を廊下へ滑らせる。息を殺しながら扉を閉めると、熱帯夜でも冷たいそれを背にするようにして、掛布団を被って廊下に座り込んだ。

「……おやすみ、恵くん」

 膝を胸に抱えて頭を押し付けた――そのときだった。突として背中に鈍い衝撃が走り、上体が前のめりになった。「うわっ」と情けない声がわたしの口から溢れる。

 反射的に振り返れば、数センチ開いた玄関扉の向こうに恵くんが立っていた。ホラー映画さながらの光景に「ひっ」と喉から悲鳴が溢れる。夜目が利かないせいでその表情は窺い知れないものの、一触即発の空気が流れていることだけは理解できた。

「……あ、あの、恵く――」
「お前、俺のこと舐めてんのか」

 言い訳を紡ごうとした声音を遮ったのは、硬く凍結した低い響きだった。一切の感情が凪いだような淡々とした口調が、きつく身体を強張らせるわたしの耳朶を打つ。

「窓際に火を――アロマキャンドルを移動させたのは、鱗の呪いの侵入経路をひとつに絞るため」
「……え?」
「床で寝ることを選んだのはベッドよりも扉に近いから。侵入者の動線上にいればお前が初撃を受ける確率は上がるよな?ベッドから布団を離せば尚更だろ。それにこうやって念のために扉の外で眠っておけば、万が一にも俺に危害が加わることはない。俺が起きる頃合いを見計らって部屋に戻っておけば何も問題ないとでも思ったか?」
「……え、えーっと……わ、わたしには何のことだか――」
「とぼけんな。の浅知恵なんてバレバレなんだよ」

 鋭く尖った氷のたがねで肺腑を抉るような強い語気に、わたしの肩が大袈裟なほど震えた。暗闇に浮かぶ白群の双眸が死魚のように濁っている。混濁した憤怒の視線でこちらを見下ろし、抑揚に欠けた声音で告げる。

「部屋入れ」
「……や、やだ」
「……
「やだ」

「嫌だ!」

 ともすれば止まりそうになる舌を叱咤して強くかぶりを振れば、彼は小さな嘆息を落とした。伏せた目蓋の隙間から覗く瞳には諦念の色が走っている。

「……そこまで言うなら、わかった」

 薄い唇から漏れた声音はひどく静かで、どこか寂しげだった。

 ゆっくりと扉が閉まった――かと思いきや、しかしすぐに開いたそれにわたしは身体ごと押されていた。ずずずと尻が廊下を滑っていく。咄嗟に床に手を付いたものの、力任せに開く扉には全く抗えない。

 身体の位置が変わったときには、激怒を孕んだ重い足音が廊下に響いていた。視界の端に白い裸足が見えて、わたしは慌てて腰を後ろへ引く。

 恵くんは後ずさるわたしの腰に素早く腕を伸ばすと、まるで米俵でも担ぐように軽々と抱え上げてみせた。急に目線が高くなったわたしは、落下の恐怖も忘れて彼の腕から逃れようと四肢をばたつかせる。

「恵くん!恵くん下ろして!」
「下ろすわけねぇだろ」

 下ろせ離せと叫んで暴れるわたしをものともせず、彼は片手で部屋の扉を開いた。かぶりを振って抵抗するわたしを抱え上げたまま、重量と硬度を備えた怒声を淀みなく放つ。

「……嫌ってほど思い知らせてやるよ」

 無慈悲に閉まる扉の音だけが、わたしの耳朶を空しく打った。