伏せた目蓋をゆっくりと持ち上げれば、ほとんど乾いた涙が頬の皮膚を微かに引っ張った。

 咽喉の細かな痙攣はすっかり鳴りを潜めていた。縋り付くように目尻に残る最後の一滴を色濃くなった鼠色のハンカチで拭い取る。心臓はまだ少し昂っているものの、泣き疲れた身体を襲う倦怠感には抗えないようだった。

 肺に溜まった空気を全て、僅かに開いた唇の隙間から静かに吐き出していく。タイトスカートの裾を軽く払って立ち上がると、緩慢な動作で丸椅子に腰を下ろした。

 痩せた青白いかんばせに浮かぶ、禍々しいほどの鮮烈な深紅。彼女を蝕む呪印をしばらく眺めやったあと、わたしは自らの両膝の上に手を添えた。強張った指先を丸め込んで握り拳を作ると、静寂に満ちた病室に石でも落とすように、明瞭な語調で言葉を紡いでいく。

「津美紀さん、初めまして。五条と言います。昨日から弟さんと――恵くんとお付き合いさせて頂いています。さっきはお見苦しいところをお見せして、本当にごめんなさい」

 その場で深々と頭を下げ、一呼吸置いて視線を持ち上げる。

「津美紀さんの大切な弟さんとお付き合いしておきながら、こんなことを言うのは自分でもどうかと思うんですけど……わたしは、最初から恵くんと別れるつもりでお付き合いを始めました。お互いにとって……ううん、恵くんにとって“五条”が学生時代のちょっと良い思い出になればいいなって、それくらいの軽い気持ちで……でも、恵くんがまさかわたしなんかにそこまで本気だとは、全く思ってもみませんでした。まだ少し、気が動転しています」

 当然ながら相槌はない。だからこそわたしは胸の内を堂々と明かした。それが誠意だと示すように。

「わたしは恵くんに相応しくない人間です。わたしにはどうしても成し遂げたいことがあります。それこそ命懸けで。大好きな恵くんへの未練はたっぷりあるんですけど……でも、だからと言って、わたしは彼のためには生きられない」

 声に乗せると改めて実感する。ああ、これがわたしの本音なのだ、と。

「彼がどれだけわたしを愛してくれたとしても、彼を生きる理由にはできません。死にたくない理由にもできません。だってこれは、わたしの人生だから」

 自分の人生を他人に預けるような生き方はしたくなかった。大好きなお兄ちゃんが死んで心の支えを全て失ってしまったからこそ。これから先、大好きな恵くんとの記憶を全て失ってしまうからこそ。

「生きる理由も死にたくない理由も、わたしはわたしの中に見つけないといけない。でも、正しく復讐することだけが、今のわたしの全てです。他に優先することなんて何もない。それが今のわたしの本音です。本当に、ごめんなさい」

 謝罪の言葉とともに再び頭を深々と垂れる。上体をやや丸めた姿勢のまま、爪が食い込むほど固く握りしめた拳を見つめながら真剣な声を継いだ。

「矛盾しているかもしれないけど、恵くんの気持ちに応えたいと思うわたしがいるのも事実です。だから――」

 けれどその先は紡げなかった。わたしは大きく瞠目していた。それを感覚したのは完全に不意だった。津美紀さんと自身に全ての意識を割いていたせいで、ずっと気づくことができなかった。

 わたしはそっと首をもたげ、視線だけを隙間なく閉まった引き扉へ投げる。白いそれの一枚向こうに、僅かながら呪力の気配を感じる。ほとんど漏出されないからこそ気づくのが遅くなったし、そこに立っているのが呪いを認識できない人間ではないことをすぐに見抜くことができていた。

 扉の外に立つ“彼”の意識がこちらに集中しているのを感じる。だからこそ、わたしはことさら真摯に唇を震わせた。

「だから少しだけ、わたしに考える時間をください。近いうちに必ず答えを出します。身勝手な我儘を、どうか赦してください」

 淀みなく言い終えると、わたしは時間をかけてゆっくりと立ち上がった。誰も辿り着けない眠りの森に誘われたままの津美紀さんに一礼し、その場から離れて音もなく扉を開く。

 そこにはすでに恵くんの姿はなかった。

 誰もいない廊下を見渡すと消毒液の匂いが鼻腔を焦がした。奥歯を軋らせたわたしは手のひらで額を覆う。

 一体いつから聞かれていたのだろう。核心に触れるような話はしなかったものの、それでもわたしの言葉は彼を深く傷つけるには充分だった。もっと注意を払うべきだったと今さら後悔しても遅い。

 わたしは涙で崩れた化粧を直すため、ひどく重い足取りでお手洗いへと向かった。



* * *




「――ああは言ったものの」

 念のため持ってきておいた化粧品で腫れた目元を整える手を止め、わたしは大袈裟なほど重い嘆息をひとつ落とした。やがて後悔の滲む指先で透明のマスカラを強く握り直すと、手鏡を覗き込みつつそれを丁寧に睫毛へ塗り重ねていく。

「そうやってずっと過保護な兄貴の言いなりで生きてきたんだな」

 侮蔑すら含んだ嫌悪感丸出しの声音が耳の奥で響く。恵くんに痛いところを突かれて以来、自分なりにずっと考えてきたつもりだ。過去と決別するため、何を引き換えにしても正しく復讐すること――それが“これからどう生きるか”という問いに対する揺るぎない答えだったはずなのに。

 透明マスカラの蓋をきつく閉める。マスカラのトップコートとして愛用するそれに視線を落とし、わたしは唇を横一文字に結んだ。

 ――中学生だったわたしは、自分のためではなく最も大切な誰かのために垢抜けることを選んだのだろう。

 お兄ちゃんを殺した鱗の呪霊相手に生き延びられたとして、つまりこういうことなのだ。わたしは最も大切な人のことを何ひとつ思い出せない。そもそも何も思い出せないどころの話ではない。

 明日のわたしが好きなのは、恵くんではないかもしれないのだから。

「……言えるわけないよ」

 掠れ切った声音が微かに緩んだ唇からこぼれ落ちる。わたしが彼に対して告げる言葉全てに重みなどない。たとえ今は本気でも、心の底からの言葉だとしても、わたしの言葉はあまりにも薄っぺらくて到底信用できるものではないだろう。

 もしわたしが恵くんだったら、と思う。明日彼から他の誰かが好きだと告げられて、わたしはそれでも彼を好きだと言えるだろうか。恵くんの恋人だと強く主張できるだろうか。

 いや、きっと無理だろう。顔も名前も全く知らない初対面の人間に、「わたしはあなたの恋人です」と言われても気味が悪いだけだ。付き合っていることを知る周囲が懸命に説明を加えたとしても、何も覚えていない当の本人にとってはただの絵空事だろう。

 わたしが恵くんだったなら、わたしのことを全て忘れてしまった恵くんの幸せを願って、きっと何も言わずに静かに身を引く。誰より優しい恵くんもわたしと同じ選択をするに違いない。

 恋人として過ごすのは姉妹校交流会までの僅かな期間だからこそ、わたしは彼にとって“学生時代のちょっと良い思い出”になれるだろうと、一緒に過ごした時間は楽しくて綺麗な思い出として昇華してもらえるだろうと安易に思っていた。“五条は最高にいい女だった”と回想してもらえるなら充分だ、などと浅い考えのもとで行動していた。

 付き合う時間の長さはもはや関係なかった。これは裏切りだ。わたしという個人に真摯に向き合ってくれた恵くんに対する完全な裏切り。端から死ぬつもりの人間が、全て忘れてしまう人間が、自らの浅はかな欲に手を伸ばすべきではなかったのだ。

「どうして別れるって言えなかったんだろ……」

 深く項垂れながらマスカラを化粧ポーチに戻すと、次いでブランドロゴが繊細に彫り込まれたリップを取り出す。別れを切り出すならあのときだったはずだ。「……今すぐ、別れるから」と彼自らきっかけを口にしたときが絶好の機会だったのに、けれどわたしは頷くことを躊躇った。別れるという選択が彼を傷つけるからではなかった。

 恵くんの幸せを度外視して、わたしはわたしのために別れないことを選んだのだ。わたしに心を明け渡してくれた彼を絶対に手放したくないと思ってしまったから。正しく復讐するその瞬間まで彼の心を繋ぎ止めておきたかった。わたしのものにしておきたかった。それが下した決意の枷になることなど露ほど考えもせず。

「つーか好きな女に一度や二度忘れられたからって“はいそうですか”ってあっさり離れるような男なんか最初から選ぶな!“何度だって惚れさせてやる”って息巻くくらい気概のある男を選べ!わかったか馬鹿!」

 いつか聞いた野薔薇ちゃんの怒号が意識野で撹拌する。わたしはピンクベージュのリップを丁寧に塗り直していった。大きな鏡に向き合えば、まるで覇気のない表情のわたしと視線が絡んだ。けれども薄い皮膚の一枚下では、強い雨風に晒された小舟にひとりしがみつく漂流者のような、どうしようもない孤独感が満ちている。

「……そこまで愛される資格も覚悟もないくせに」

 きつく睥睨して悪罵を吐きかけると、化粧ポーチをボストンバッグに詰め込んでお手洗いを後にする。パンプスの奏でる小さな足音が、長い廊下に横たわる静寂を霧散させていった。姿勢を正して病室の扉をゆっくりと開けば、すぐにやや丸まった黒い背中が視界に入る。

 わたしが瞠目すると同時に、丸椅子に腰かけていた恵くんが上体をひねるようにして振り返った。こちらを見つめる怜悧なかんばせには安堵の表情が滲んでいる。彼は何かを言いたげに小さく口を開いたものの、躊躇った様子で即座に唇を結んでしまった。

「お手洗いに行ってて……何も言わずにごめんなさい」

 勝手に病室を出たことを謝罪すれば、恵くんは無言でかぶりを振って立ち上がる。感情の読めない顔で歩を進め、手に持っていた280ml入りの小さなペットボトルをこちらに差し出した。

「……コレで良いよな?」
「うん、ばっちりだよ!ありがとう!」

 ごく自然に声を弾ませながら甘みたっぷりのミルクティーを受け取り、わたしは半ば反射的に手の中のそれに目線を落とす。冷たいはずのペットボトルはすっかり生ぬるくなっていた。

「悪い」と小さな声音が耳朶を打ち、誘われるように鼻先を持ち上げた。恵くんはばつが悪そうに目を逸らすと微かに唇を開いた。

「……ぬるくなってんの、俺がずっと握りしめてたせいだ。悪かった……買い直してくる」

 そう言ってわたしの脇を抜けて戸口へ向かおうとする彼を慌てて引き止める。

「いいよいいよ、全然飲めるから気にしないで!それに冷たすぎる飲み物は美容に良くないって言うし!ありがとう恵くん!」

 捲し立てるように言えば、彼の足が止まった。一向に視線を合わそうとしない彼に、わたしの言葉はおそらく最初から聞かれていたのだろうと確信する。自分は本気だったのに、相手に“最初から別れるつもりで付き合いました”などと陰で言われてショックを受けないはずもない。

 気まずい空気が立ち込めていた。わたしに訊きたいことも言いたいこともあるだろう。しかしそれでは立ち聞きを白状することになる。だからといってわたしから言及すれば、彼の盗み聞きに対して非難の指を差すようなものだ。互いに口を噤む他ない状況がひどく重苦しい空気を作り出していた。

 四月に逆戻りしたように明るい表情を取り繕いながら、ペットボトルの蓋を開けてミルクティーを一口飲む。常温のそれはやけに甘ったるく感じた。「すっごくおいしいよ」と小さく笑いかけると、恵くんはたっぷりの間を挟んで唇を開いた。

「……そろそろ買い出し行くか。五条先生も暇じゃねぇだろうし」
「うん」

 ベッドに横たわる津美紀さんの顔を覗き込んで、「また来ますね」と微笑とともに別れの挨拶を済ませる。今度ここに足を踏み入れるときはきっとわたしひとりだろう。津美紀さんに告げた約束を胸の内で反芻しながら、わたしは静かに引き扉を閉めた。