「こういうことには、もう、慣れっこですので……」

 悟くんのパワハラにより貴重な休日がなくなった伊地知さんは、指で眼鏡のブリッジを押さえながら、すっかり諦念に染まった掠れた声音を絞り出した。悟くんはそろそろ訴えられて然るべきだと思う。

 いくらお洒落に気を遣っているとはいえ、わたしの欲しいものは大型のドラッグストアであれば大体が揃う。あまりお兄ちゃんの負担にならないよう、少ないお小遣いでお洒落を楽しんでいたせいだろう。術師として給料を貰うようになった今もそれは変わらなかった。

 胸が痛くなるほどの憂いを含んだ伊地知さんの黒い後頭部を見つめつつ、わたしは一瞬躊躇ったのち、そうっと声を掛けた。

「ごめんなさい伊地知さん。ドラッグストアのあと、百円ショップにも寄ってもらって良いですか?」

 助手席に座る悟くんが間断なく疑問を口にする。

「なんで百均?」
「化粧水とか色々買いたいから」
「え、嘘だろ。、化粧水って百均の使ってんの?」
「うん。安いからいっぱい使えてお得だよ?」
「いや~肌質もあるんだろうけど、でもやっぱそれって年齢が一番大きいよね。若いって無敵だよ。今度会ったら歌姫に言ってやろ」

 何か良からぬことを企む悟くんから視線を外し、わたしは後部座席により深く背中を預けた。その自然な動作の合間から左隣を盗み見る。恵くんは窓枠に腕を乗せて頬杖をつき、一切の感情が凪いだ白群の双眸を窓の外へ送っていた。

 車に乗り込んでからというもの、彼はずっと無言だった。そのうえ誰とも視線を合わそうとしない。ただ、シートベルトを付けた直後に掠め取られたわたしの左手は、彼の右手と深く繋がったままだった。

 後部座席の空いた真ん中を、恋人繋ぎになった手が堂々と陣取る。視界の端にそれがちらつくたび、膝を擦り合わせたくなるような面映ゆさが身体を廻った。

 模範的な安全走行の普通車が大通りの赤信号で停止する。左手に呪術高専最寄りの大型ドラッグストアが見えている。車が再び走り出した。スマホに打ち込んだ買い物リストからふと目を上げると、目的地であるはずのドラッグストアがあっという間に後方へ流れていくのが見えた。

「……えっ」

 しかし通り過ぎてしまったことにポカンとしているのはわたしだけだった。伊地知さんはさも当然という様子で車線変更し、迷う素振りを微塵も見せず車を右折させる。いつもなら何か文句のひとつでも言いそうな悟くんも、今は暇そうな様子でスマホに目を落としたままだ。

 状況が理解できず目を瞬いていると、繋がった手に少しだけ力が加わった。釣り込まれるように視線を送れば、恵くんはこちらを一瞥することなくやや躊躇いを含んだ声音で言う。

「……と、先に行きたいところがあって」
「うん。どこへ行くの?」
「行けばわかる」

 市街地を走り続けた車がようやく停車したのは、とある自治体病院の玄関口だった。地域医療を担う大きな白い建物をくすんだ窓から眺めやる。

「……どうして、病院?」

 芽吹いた疑問とともに首をひねるわたしの左手から、恵くんのそれが名残惜しむように離れていく。すぐにシートベルトを外す乾いた音がふたつ、耳朶を打った。恵くんと悟くんが流れる動作で扉を開き、車から降りていく。

 呆然としていると右隣から夏の熱気を感じた。首を向ければ「、早く降りて」とまるで付き人のように悟くんが座席の扉を開いている。頷いたわたしは素早くシートベルトを外し、促されるまま車を降りた。

 日影になったアスファルトを踏んでもなお、状況がうまく把握できなかった。恵くんはといえば、窓を半分ほど開けた伊地知さんに対し「せっかくの休みに無理言ってすみません」と小さく頭を下げている。ということは、この病院へ来ることが彼の目的で間違いないのだろう。

 わたしは駐車場へ向かう黒い車に軽く会釈して、玄関の自動扉をくぐり抜けていく恵くんと悟くんのあとを追った。

 地域に根差す総合病院とはいえ、休日のロビーは閑散としていた。各種受付と清算窓口の多さが病院の規模を物語っている。ロビーを横切る恵くんの背中に、わたしはおそるおそる質問を投げた。

「……恵くん、どこか病気なの?」

 彼は何も答えなかった。代わりに振り向いた悟くんが黒い目隠し越しにわたしを見つめる。その雰囲気にいつもの浮ついたそれはなく、半ば反射的に身が強張った。

「……悟くんは何か知ってるんだよね?」
「もちろん。恵はね、今年の春頃からそれはそれはもう深刻な病に罹っててさ……硝子の反転術式でも治せないような、とにかく厄介な大病なんだよね……」
「えっ、それ大丈夫なの?!どんな病気?!手術が必要とか?!」
「恵の病名は“恋”……命にも関わる不治の病だよ……」
「…………悟くん、わたし怒るよ?」

 下らない冗談に付き合っている暇はないと悟くんをきつく睨め付ける。しかし悟くんは悪びれた様子もなく首を戻した。恵くんはわたしたちの会話など一切無視して、俯き加減のまま律動的な足取りでエレベーターホールへ向かう。エレベーターのボタンを押した彼は、首をやや後ろへ向けて悟くんを見上げた。

「……五条先生」
「はいはい、僕の付き添いはここまで。約束通り、恵の邪魔は一切しないよ。伊地知と一緒にその辺にいるから、終わったら連絡して」
「ありがとうございます」

 一礼した恵くんに続いてエレベーターに乗り込むと、軽薄な笑みを刻んだ悟くんがひらひらと手を振った。やがて無機質な扉が閉まり、腹の底に響くような低音とともにエレベーターが動き出す。気まずい沈黙が大きな箱に充満していた。彼は無言を貫いたまま、操作盤の前にじっと立ち尽くしていた。

 ゆっくりと扉が開くと、恵くんはわたしに先に降りるよう視線だけで促した。扉の向こう、廊下の壁に設置された大きな院内案内図の前まで歩を進める。円を描いて繋がる廊下から、枝葉を伸ばすように広がるいくつもの四角い区画。どうやらここは入院病棟らしい。

」と落ち着き払った声音で名を呼ばれ、わたしは我に返る。廊下を歩く恵くんから一歩下がって後に続いた。彼は一体どこへ向かっているのだろう。ずっと気になっているものの、おいそれと尋ねられるような空気ではなかった。

 曲がり角の向こうからやって来た四十代半ばほどの女性看護師が、やや驚いた様子で立ち止まる。

「あら?恵くん、今日も来てくれたのね。外、暑かったでしょう」

 親しげに話しかけられた恵くんはその場で足を止めた。にこやかに笑んだ看護師が矢継ぎ早に言葉を継ぐ。

「今日はいつもより体調良さそうよ。何となくだけどね」
「……そうですか」
「ね、恵くんの後ろの可愛い子、誰?津美紀ちゃんのお友達?」
「いえ、違います。は、俺の……俺の、彼女です。……急いでいるので、失礼します」

 やや間を挟んで丁寧に会釈すると、恵くんは看護師の脇を抜けて廊下を進んでいく。付き合っていることをあっさりと認めた彼の態度に、わたしは驚きを隠せなかった。

 恵くんは責任感が強くて優しい人だけれど、無愛想でちょっと素直さに欠けたところがある。だから、まさかそんなふうにわたしを扱ってくれるなんて、思ってもみなかったのだ。

 何度も目を瞬くわたしに、看護師は「愛されてるわね」と悪戯な笑みを寄越した。廊下を数歩進んだ先で、足を止めた彼がこちらを振り返っている。感情の読めない白群の瞳がわたしを促していた。わたしは看護師に深々と一礼して、彼のもとへ歩を急いだ。

 恵くんはさらに進んだ先でようやく足を止めた。消毒液の匂いが微かに漂う殺風景な廊下に並ぶのは無機質な引き扉だ。どれもこれも全く同じ様相だった。違うのは割り振られた部屋番号だけで、入院患者の名を記したようなプレートはどこにも見当たらない。とはいえ、今はプライバシー保護の観点から患者の名を出さないことも多いらしい。

 無骨な右手が引き戸の取っ手に伸びる。しかし銀色のそれを掴んだまま、彼はしばらく微動だにしなかった。ゆっくりと息を吐く気配がした。葛藤を拭うように引き戸を開くと、どこか冷たい白群の視線でこちらを撫で付ける。わたしはその怜悧なかんばせから目を外し、足音を立てぬように病室へ入った。

 しんと静まり返った清潔な病室は個室だった。こぢんまりとした部屋の奥、右側の壁に頭を付けるようにベッドが置かれている。その脇のサイドチェストに乗った白い花瓶には、白やピンクをした薔薇の花々が丁寧に活けられていた。花弁はどれも艶やかで生き生きとしている。きっとまだ真新しいものだろう。

 それは突然後ろから鈍器で殴打されたような衝撃によく似ていた。電池が切れたように立ち止まったわたしを置いて、彼はひとりベッドのほうへ迷いなく向かった。わたしは戸口から全く一歩も動けなかった。空調の効いた病室の大きな窓から差す真夏の太陽光は、白いレースカーテンで淡く遮られている。

 白群の視線がベッドの上で仰向けで眠る、髪の長い痩せた少女の姿をなぞった。

「伏黒津美紀――俺の姉貴だ」

 抑揚に欠けた平板な声音が静かに耳朶を打った。ベッドの脇に立ったまま、彼は少女の青白いかんばせを見下ろして淡々と説明を付け加える。

「姉貴って言っても、血は繋がってない。俺が小1のとき、俺の父親と津美紀の母親がくっ付いて蒸発した。津美紀は俺の義理の姉だ」

 そこで言葉を切ると、彼は壁際に寄せられていた丸椅子を片手に掴んだ。煤竹色の髪をしたその少女――津美紀さんが横たわるベッドの傍らにそれを置き、わたしを見つめながら「」と優しく名を呼ぶ。

 小さく身を強張らせたわたしはすぐにかぶりを振った。一体どんな顔でそこに座ればいいのか、全くわからなかった。

 恵くんは深く俯いたわたしを辛抱強く待っていた。ここでずっとこうしていてもただ時間だけが過ぎていくことはわかっていた。けれど、どうしても足が動かなかった。冷たい霊安室での記憶が脳裏に浮かんでいた。夏祭りの直前に聞いた家入先生のどこか気だるげな声だけが耳の奥で響いていた。縋るように告白した恵くんの双眸がわたしから呼吸を奪っていた。

 何もかも、ぐちゃぐちゃだった。少しでも気を抜けば、すぐに泣いてしまいそうだった。

 病室の白いタイルを踏む乾いた足音が響き、わたしの眼前で止まった。彼の手がわたしの肩に伸び、しかし宙を掴んでゆっくりと落ちる。彼は平板な響きで言った。

「……悪い。嫌なことに付き合わせた。出よう」

 わたしは再びかぶりを振った。弱々しいそれが今の精一杯だった。この部屋からは出られない。否、出たくないというのが本音だった。心の最も柔らかい部分を曝してくれた彼に、今ここで真正面から向き合わなければ後悔するというたしかな想いだけが、わたしをこの部屋に繋ぎ止めていた。

「つらいなら無理しなくていい」
「……ううん、無理じゃないよ。無理じゃない、けど……」

 こちらを気遣う彼にそっと左手を差し出す。淡く開いた手は微かに震えていた。察した彼はわたしの手をすぐに優しく握りしめると、ひどく緩慢な足取りでベッドへ向かう。「大丈夫か」と問う声は泣きたくなるほど優しくて、恵くんに大切にされていることをはっきりと理解した。

 ベッドに横たわる津美紀さんには薄い布団が掛けられていた。長い睫毛が伏せられた整ったかんばせ、その額には血を垂らし込んだような赤い呪印が刻まれている。額の中央で左右対称になったそれは馴染みのある梵字でもなければ、霊符に謹書する類のそれでもない。言葉では形容しがたいような、まさしく“呪われている”状態を示すような、ひどく複雑で不気味な模様だった。

「……呪われてるの?」
「ああ。ずっと寝たきりだな」

 彼は淡々と答えた。わたしは繋いだ手を強く握りしめながら、質問を重ねていく。

「……いつから」
「俺が中学三年になってすぐ」
「……どうして」
「さぁな。正体も出自もわからない呪いだ。ただ全国に同じような被呪者が複数いる。時間があるときは俺なりに調べてるし、もちろん高専にも調べてもらってるが、これといって有力な情報は全く何も」
「……お姉さんの呪い、解ける?」
「それは……正直なところ、わからない。解けたら良いんだけどな」

 事実をただ情報として口にする彼は、一体どれほどの後悔と自責を経て今に至っているのだろう。

 わたしが唇を横一文字に引き締めると、彼は「ずっと黙ってて悪かった」と言った。けれど返す言葉を何も持ち合わせていないわたしは、ただ小さくかぶりを振って彼の言葉を否定する他ない。彼はわたしと結ぶ手をするりと恋人繋ぎに変えると、指を深く絡めながら心に溜まったその澱を滔々と吐き出していく。

「霊安室でに初めて会ったとき、俺と似てると思った。中三のときの――津美紀が呪われてすぐの俺を見ているようだった。さんに血の繋がりがないことがわかって、ますます似てると思った。こんなことがあるのかと、自分でも驚いたくらいだ」

 視線も寄越さず語る彼の怜悧な横顔を見やる。薄い唇は淀みなく吐露を続けた。

「正しく復讐したいって言うの気持ちは痛いほど理解できた。呪った相手がわかっているなら、俺ものようになったかもしれないとさえ思った。だから復讐するために術師になることを選んだを……どうしても、放っておけなかった」

 そこで一旦言葉を切ると、恵くんはこちらに目を送った。澄んだ白群には柔らかな光が滲んでいる。

「……を好きになったのは、完全に想定外だったけどな」

 その口端にはどこか自虐的な笑みが薄っすらと浮かんでいた。わたしは足を左へ半歩出すと、身体をそのまま真横に移動させる。やや傾けた頭を彼の腕に預けるようにして、一番尋ねたかった質問をとうとう口にする。

「……どうして今まで何も教えてくれなかったの?」
「俺がと似た境遇だって言ってどうなる?それがにとって一体何の慰めになった?俺はさんを見殺しにしたんだ。の気持ちがわかるなんて口が裂けても言えるわけねぇだろ。……まだ死んでないだけ、津美紀はマシだ」

 付け加えられたその言葉に、わたしの頭が深く垂れ下がる。甦った夏祭りの記憶が胸をずたずたに切り裂いていた。浅い呼吸を繰り返すことさえ苦しかった。取り返しのつかないことをしたのだと今さら気づいても遅かった。

「ごめんなさい」
「……?」
「わたし、津美紀さんのこと何も知らないのに、恵くんにたくさんひどいこと言った。無神経なことばかり言って、恵くんをたくさん傷つけた。本当に、本当にごめんなさい」

 身を縮こませて頭を下げるわたしに、「何でそこでが謝んだよ……」と困惑したような低音が落ちてくる。恵くんの身体がわたしから少し離れ、心臓の辺りがひどく痛んだ。

 無神経なことばかり言った。きっと今もそうだ。嫌われたに違いないと下唇をきつく噛んで地面を見つめ続けるわたしを、しかし恵くんは正面から抱きしめる。曲線を描く背中を優しく撫で付けながら、当惑した感情を含んだ声音で言い聞かせていく。

は何も悪くねぇからな。むしろ謝るのは俺のほうだ。ずっと黙ってたことも……さんのことも。だからそういうの、頼むからやめてくれ」
「……でも、わたし」
「知らなかったなら仕方ねぇだろ」

 きっぱりと言い切って話を終わらせようとする彼に、わたしは最後にもう一度だけ「ごめんなさい……」と謝罪の言葉を告げた。恵くんは黙り込んだわたしの背中をしばらく擦り続けたあと、感情の読み取れない静かな声色で訥々と言った。

「多分、もう俺に嫌気が差したと思う。無理に優しくしなくていい。ちゃんと正直に言ってほしい。……今すぐ、別れるから」

 躊躇いを含んで耳朶を打ったその言葉に、わたしは彼の腕の中で小さくかぶりを振った。唇が震えそうになるのを必死に堪え、普段と変わらぬ出来るだけ明るい声音を装ってみせる。

「別れないよ?でも、津美紀さんとふたりにしてほしいかも」
「……わかった」

 ひとつ頷くと、彼はそっと身体を離した。深く俯いたままのわたしの手を解放し、事もなげに尋ねる。

「飲み物買ってくる。何が飲みたい?」
「……じゃあ、紅茶。甘いのがいいな」
「紅茶の、甘いのだな。わかった。何かあったらすぐ連絡しろ。この病院は高専と連携してるし、外には五条先生もいる。何もねぇとは思うけど、一応、念のため」
「うん。ありがとう」

 暮夜の静けさを纏った足音が遠ざかり、やがて引き戸が閉まる孤独な音だけが病室に響いた。顔を覆ったわたしの唇からひび割れた嗚咽が漏れる。もう立っていられなかった。その場に膝から崩れ落ちると、肩を震わせながら声を殺して滂沱する。

 恵くんがここにわたしを呼んだ理由。呪われた津美紀さんのことを隠すことなく全て話した理由。家入先生と交わした会話が再び脳裏を過ぎった。

「私は世間一般の高校生らしい恋愛は無理だろうと言っただけだ」
「えっと……あの、先生の言っている意味が、よく……」
「君は伏黒という男をずいぶん甘く見積もっているようだから。アレは絶対に面倒臭いぞ?断言してもいい」

 甘かった。わたしは彼の想いを甘く見積もっていた。家入先生の言う通りだ。彼のことが好きだと告げたわたしの想いに、彼はただ応じてくれただけだと思っていた。

 好きだという気持ちは同じでも、わたしと彼ではその質や量は全く異なっていて、例えば彼の想いを“1”だとするならばわたしのそれは“10”、もしくはもしく“100”だろうと、この病室に入る瞬間までそう信じ込んでいた。

 ――違う。多分、逆だ。

 途方もない勘違いに強く打ちのめされていた。涙は堰を切ったように流れ続ける。引き戸を開く気配がして、こちらを見下ろす白髪男を濡れそぼった声音できつく詰った。

「……悟くんも黙ってたなんて、ひどいよ」

 視線を合わせるように膝を折り畳んだ悟くんのかんばせは、溢れた涙のせいですっかり滲んでいた。わたしに鼠色のハンカチを差し出すと、呆れ返った様子で深く嘆息する。

「恵って本当に馬鹿だよね。付き合った翌日に普通こんな状態の家族に会わせる?恋愛経験ゼロにしたって、ちょっと考えればわかるでしょ」

 受け取ったハンカチを握りしめるわたしの髪を指で梳きながら、普段と変わらぬ軽薄な口振りで言葉を継いだ。

「僕はやめとけって止めたんだよ?でも恵はどうしてもって聞かなかった。恵はのためじゃなくてさ、自分のためにを津美紀に会わせたかったんだよ」
「……恵くんの、ため?」
「“と別れられる今のうちに津美紀のことを話しておきたい。これからもっと先にそう言われても、あっさり手放してやれる自信がどこにもないので”――だって」

 視界の解像度がさらに落ち、僅かに開いた唇から呻き声にも似た嗚咽が溢れる。涙で濡れた顔にハンカチを押し付け、くぐもった声音を喉奥から押し出した。

「恵くんがそんなに本気だなんて、知らなかった」
「……そう」
「正しく復讐したら、全部忘れたら……ちゃんと鱗の呪いを道連れにしたら、恵くんと別れるつもりで、わたし――」

 その先はもう言葉にならなかった。胸を蚕食される鈍い痛みが思考を鈍らせていた。恵くんから向けられた強い思慕の情が、全てから逃げようとするわたしを雁字搦めに縛り付ける。この世に大きな未練がないからこそ迷いなく選べた選択肢が、指先から遠のいていくようだった。

「恵もさ、恵なりに腹括ったんだよ。つーか括らなきゃ樹の妹と付き合おうなんて思わないでしょ」
「……」
「どうすんの。恵、の人生まできっちり責任取るつもりみたいだぜ?」
「……」
「恵は全部話したのには黙ったままなんて、僕はちっともフェアじゃないと思うけどね」

 言うと、悟くんは立ち上がった。黙し続けるわたしの頭を大きな手で優しく撫で付ける。

「ま、これからどうするかは恵とふたりでゆっくり考えな。悠仁が戻ってくるまで、まだ時間はあるから」