「明日から伏黒の部屋で寝起きすることに決まったから」

 反省文を書く手を止めて、わたしは部屋に戻ってきた野薔薇ちゃんを見上げる。一片の隙もなく告げられた言葉の意味が脳内でうまく繋がらない。虚を突かれたように何度か瞬きを繰り返すと、ブラウントパーズの明眸を見つめて小さく首を傾げた。

「……えーっと、野薔薇ちゃんが?」
「何でそうなるんだよッ!に決まってんだろッ!」

 間髪入れず飛んできた鋭利な怒号に身が竦んだ。不愉快極まりない様子で瞳孔を開く野薔薇ちゃんに「そうだよね、ごめんなさい……」と頭を下げつつ謝罪を口にするや、すぐに表情を改めてかぶりを振ってみせる。

「でもそんな必要どこにもないよ。わたし、明日からもこの部屋で寝起きするからね」
「……やっぱりそれ本気なの?」
「うん、本気だよ。心配してくれてありがとう」

 口端に笑みを作って頷くと、わたしは書きかけの反省文に視線を戻す。“今後このようなことがないよう、五条先生にはよく言い含めておきました。”――結びへ向かうための次の文章を頭の中で練り始めたとき、野薔薇ちゃんの大きな嘆息が耳朶を打った。

 どこかわざとらしいそれに誘われるように顎先を持ち上げれば、腰に手を当てた野薔薇ちゃんが非難の色を湛えた視線でわたしを深々と貫く。

「あのね、これはのためじゃなくて伏黒のために言ってんのよ」
「……恵くん?」

 わたしは半ば反射的に胡乱な瞳を返した。どうして恵くんの名前が出るのだろう。夏祭りの間に誰かがわたしの部屋に這入ったこととは全く無関係なはずだ。眉を寄せるわたしを諭すように、野薔薇ちゃんが強い口調で開陳する。

「よく考えてもみなさいよ。呪物が置かれてた虎杖の部屋、その隣に住んでんのは一体誰?そもそも次に狙われるのがだって絶対に言い切れるの?今日の嫌がらせはに対してだったけど、恋人になった伏黒が標的になる可能性だって充分に考えられるでしょ」
「……それは……たしかに、そうかも……」

 もっともな言い分にわたしは目を伏せる。鱗の呪いは何度も“I miss you.”と記した意図不明のメッセージカードを残し、失くなったと思っていたお兄ちゃんの腕をわたしに堂々と寄越してきたのだ。伊地知さんを装って恵くんに連絡したことさえあると言う。わたしへの嫌がらせのために、彼に害を為そうとしても何らおかしくはないだろう。

 隣で眼鏡を拭いていた真希先輩がわたしを窘めるように言った。

「ここでがぐっすり寝てる間に恵が殺されるほうが嫌だろ?」
「嫌です!それだけは絶対に嫌です!」

 張り上げた声の大きさに誰よりも驚いたのはわたしだった。真希先輩は小さく笑むと、肩を縮こませたわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫で付ける。

「だったら大好きなカレシの傍にいてやれ。恵もそれでいいって言ってんだから」
「……はい……わかりました……」

 彼の身に何か起こるほうが嫌だと、全ての言葉と感情を喉奥へ押し込める。甘い雰囲気も何もなく、ただ必要に迫られて決まっただけに全く気乗りしない。恵くんはわたしが明日からお邪魔することに関して一体どう思っているのだろう。迷惑がられていなければいいのだけれど。

「どうして今日じゃなくて明日からなの?」
「まさかそのクソダサい恰好のまま伏黒の部屋で過ごすなんて言わないでしょうね?」
「付き合ってる健全なカップルが同じ部屋で寝起きして何も起こらねぇと思ってんのか?あの恵が聖人君子なわけねぇだろ」

 そういうことかと合点がいった。わたしは視線を落とし、悟くんに貰ったお土産のTシャツを見つめる。

 パジャマとして使用しているそれには数々のUMA――つまり多種多様な未確認生物を可愛くデフォルメしたイラストが散りばめられている。絶妙にダサいけれど悟くんに押し付けられたお土産の中ではまだマシな部類に入る。“USAGI”と書かれた謎のウサギTシャツと同じくらい多用しているものの、色気に欠ける恰好には違いなかった。

 恵くんは優しくて聡明で、わたしよりもずっと理性的な人だ。けれどわたしたちは恋人になったのだ。同じ部屋で寝起きして、何も起こらないとは言い切れない。

 わたしの隣に腰を下ろした野薔薇ちゃんと真希先輩の顔を順番に目でなぞる。わたしは頭を深々と垂れて素直に助けを請うた。

「……言いません。選ぶの、手伝ってください……」

 というわけで、素早く反省文を書き上げたわたしはスマホではなく画面の大きなタブレット端末を手に取った。三人で覗き込むならタブレットが最適だろう。ウェブブラウザを表示させると、野薔薇ちゃんがやや驚いた様子で言った。

「タブレット持ってたのね」
「ううん、これ高専からの支給品だよ。野薔薇ちゃんも同じの貰ったでしょ?」

 問いを付け加えたわたしが目を送れば、野薔薇ちゃんの表情がみるみる凍り付いた。真希先輩が氷塊を落とし込んだ声音で名を呼ぶ。

「……野薔薇」
「……わかってますよ」

 掴んでいたタブレットが野薔薇ちゃんにあっという間に掠め取られる。真希先輩は鋭い緊張の走った眼差しをこちらへ寄越した。

「こんなもの私も野薔薇も貰ってねぇからな。多分パンダたちもだ。誰から貰った?」
「……高専に来た日、事務の村内さんから」
「村内?……その人、たしか先月末付で高専辞めたわよね?」
「うん。ご家族の介護があるから、って……でもちょっと急な退職だったみたいで、引き継ぎもあんまりできてなかったって新田さんが言ってたよ。わたしもちゃんと挨拶できなかった。だっこ紐の件でお世話になったから、何かお礼したかったんだけど……」
「キナ臭ぇな。念のため私のほうで調べとく。で、どうだ野薔薇」

 長方形の画面に細い指を滑らせていた野薔薇ちゃんは、真希先輩の問いに対しかぶりを振った。

「ヤバいストーカーアプリとかは別になさそうですけど」
「もう消したあとなんじゃねぇか?部屋入ったついでに」
「だとしたらお手上げですね。私じゃそこまで調べらんないし」
「このまま伊地知に渡すのもアリだが――」

 そこで言葉を切った真希先輩の唇が不敵な曲線を描く。野薔薇ちゃんに目配せするや、滑らかなその繊手がタブレットの短辺を掴んだ。野薔薇ちゃんは掲げたタブレットをそのまま真希先輩の眼前に向ける。

「そんじゃ真希さんお願いしまーす」
「しっかり持ってろよ」

 言うや否や、真希先輩が僅かに身をよじった――ように見えた。凄まじい衝撃音が鼓膜を激しく叩いたときには、野薔薇ちゃんが持っていたタブレットはすでに木っ端微塵だった。細かな金属片や部品が床に飛び散り、真希先輩の固く握りしめられた右拳が宙に固定されている。どうやら正拳突きでタブレットを完膚なきまでに破壊したらしい。全く目で追えなかった。

「さっすが真希さん!さぁ、最高に可愛い部屋着を選ぶわよ!」
「ネットで注文しても明日には届かないんじゃないの?」

 野薔薇ちゃんに疑問を投げつつ、床に散らばった金属片を丁寧に集めてゴミ箱へ注ぎ込む。ゴミの分別が頭を過ぎったものの、ここまで粉々だとどう扱えばいいのかよくわからない。明日恵くんに訊いてみようと思っていると、真希先輩がさも当然のように答えた。

「目星だけ付けておいて、明日野薔薇に買いに行かせればいいだろ」
「そういうことよ!」
「お願いしても良いの?」
「この釘崎野薔薇に任せなさい!」

 わたしたちは日付が変わるまで可愛いルームウェアを吟味し続けた。最終的には野薔薇ちゃんが大好きなブランドの新作を買うことが決まり、「誰が触ったかわかんないような下着を着けるな」ときつく睨まれ、結局下着の調達までお願いすることになった。野薔薇ちゃんに手渡したのは一万円札を三枚。何だかとても素敵な福袋を予約したような気分だった。

 野薔薇ちゃんはベッドで、真希先輩とわたしが床で眠ることになった。ひとりで大丈夫だと言い張ったのだけれど、ふたりは許してくれなかった。

 恵くんが鱗の呪いに狙われるというのは、きっと半分本当で半分口実なのだろう。単にわたしの身を案じてくれているのだ。思うところがないわけではなかったけれど、わたしは何も言わずにふたりの優しさを素直に受け止めることを選んだ。

 天井灯の消えた暗闇の中に、ふたり分の静かな寝息が撹拌する。頭が冴えていてなかなか寝付けなかった。今日は色々ありすぎたせいだろう。

 わたしは身体を起こし、スマホを片手に部屋を出た。簡易キッチンの脇に置かれた冷蔵庫を開いて飲料水の入ったペットボトルを取り出し、透明なグラスにそれをたっぷりと注いでいく。冷蔵庫に背中を預けるようにしてその場で膝を折り、冷えた水を飲みながら片手でスマホを素早く操作していった。

“なんと!恵くんの恋人に昇格しました!”

 誰かにメッセージを送るには非常識な時間だったものの、わたしは相手が起きているということをよく知っていた。どうやら映画三昧の日々が夜型生活の原因になっているらしい。案の定メッセージを送った相手――虎杖くんからすぐに返事が返ってくる。

“マジ?!おめでとう!経緯が気になり過ぎる”
“聞いてほしいからまた遊びに行く!”

 そこから数回やり取りをして、わたしはメッセージアプリを閉じた。法要のことが頭を過ぎり、グラスの水に口を付ける。いつまでも流れることのない不安を小さく吐露した。

「……読経どうしよう」

 経文を見て経を読むだけとはいえ、宗派によって読み方はさまざまだ。木魚や太鼓といった打ち物で拍子を取らなければならない場合もある。お兄ちゃんの法要はどうにでもなるとして、虎杖くんのおじいさんの法要だけはおざなりにしたくなかった。

 ここは呪術高専だけれど、神仏との感応を重んじる呪術師の数は少ない。神仏と感応して術を展開するわたしのようなやり方は時間と手間がかかるし、何より“古臭いから”と言って今の術師は全く好まないそうだ。読経に精通した術師は探せばいるのかもしれないけれど、すぐに応えてくれるインターネットに尋ねたほうがうんと早くて手間もかからなかった。

 ウェブブラウザを立ち上げ、検索エンジンに“お経 練習”と検索ワードを入力する。画面に表示された検索結果を目でなぞっていると、とあるウェブサイトの文章に視線が止まる。

「……あ、コレかな?“一緒にお経を唱えてみませんか”」

 青い文字をタップし、そのウェブサイトにアクセスする。シンプルながら見やすいそのページに書かれた説明を、蚊の鳴くような小さな声でぽつぽつと読み上げていく。

「もっとお経を身近に感じてみませんか……どんな宗派にも対応します……無料通話アプリを用いたリモートでの指導も可……」

 白いページに浮かぶ魅力的な言葉たちに心惹かれ始める。料金に意識が向き始めたそのとき、赤い太文字で記された四文字にわたしは目を瞠った。

「しかも初回無料っ」

 完全に喰い付いたわたしはウェブサイトを真剣に読み進めていく。

「えーっと、講師の先生は……え?これ、なんて読むんだろう……なつあぶら、すぐる?」

 目を滑らせた先に再び講師の名が記され、今度は丁寧に読み仮名が振られていた。“夏油傑”と書いて“げとうすぐる”と読むらしい。珍しいその名前の隣には顔写真が載っている。

「この人が、夏油傑先生……」

 聡明さを感じさせる柔らかな笑顔が特徴的な、とても優しそうな人だった。わたしはその写真をしばらく見つめて、下唇をきゅっと噛む。

「……ちょっと顔が好み、かも」

 恋人である恵くん然り、この夏油傑先生然り、理知的な目元の男性が好きなのかもしれない。そういえばお兄ちゃんも理知的な目元だなと思いつつ、ページの最下部までゆっくりと読み進める。応募フォームの下には赤い文字で“大人気講座のため抽選です”と注意書きが記されていた。

「一応、申し込みだけしてみようかな」

 応募フォームに名前や年齢、電話番号などの必要事項を明記して、抽選に当たることを祈りながら送信ボタンを押した。もう一度夏油傑先生の顔写真を見つめ、やっぱり顔立ちが好みだなと改めて思った。とはいえ、恵くんのかんばせのほうがずっとずっと好みだけれど。

 グラスに残った水を一気に飲み干したわたしは、眠る真希先輩の隣にそうっと寝転がると、きつく目蓋を閉じた。眠気は意外とすぐにやってきて、意識はいつの間にか黒く塗り潰されていった。



* * *




 覚醒したスマホが恵くんからの着信を高らかに知らせたのは、野薔薇ちゃんと真希先輩が起床して数分後――つまり朝八時を過ぎたころだった。

 ふたりよりもうんと早く目覚めたわたしは朝食作りに取り掛かっていた。今日は休日で食堂が閉まっている。ふたりのために何かお洒落で簡単な朝食を作ろうと、お兄ちゃんが何より得意だったトマトとモッツァレラチーズのブルスケッタを選んだ。

 イタリア中部の郷土料理だというそれは前菜やおつまみとして有名だけれど、お兄ちゃんは朝食としてよくそれを作ってくれた。ニンニクが使われているもののお兄ちゃんは真面目くさった顔で、「モッツァレラに含まれる豊富なたんぱく質は臭いの元となるニンニクのアリシンと結び付いて臭いを抑制する。だから気にせずいっぱい食べな」と蘊蓄を披露しながらわたしにそれを食べるように勧めた。

 細かく刻んだトマトとバジルとモッツァレラチーズ、そしてオリーブオイルに塩コショウ。これらを混ぜ合わせたものを、こんがり焼き目の付いたバゲットにたっぷりと盛り付ける。絶対に忘れてはならないポイントは、香ばしく焼き上がったバゲットに生のニンニクを丁寧に擦り付けておくことだ。

 ブルスケッタが乗った白い皿に熟れた巨峰とマスカットを可愛らしく添えていると、まだ眠そうな野薔薇ちゃんが引き戸を開けて簡易キッチンにやってきた。「何コレ映える!美味しそう!」と声を弾ませたあと、着信音を奏でるわたしのスマホをずいと差し出した。

「伏黒から。ねぇ、コレ何て言う料理?」
「ブルスケッタだよ。イタリアの郷土料理で、お兄ちゃんのスペシャリテ」

 答えながらスマホを受け取ると、僅かな緊張が身体を駆け抜けていった。恵くんの恋人になったのだという自覚に鼓動が少し早くなった。自分のスマホでブルスケッタを激写し始めた野薔薇ちゃんを横目に、「もしもし」と落ち着いた声音で彼の着信に応じる。

「おはよう。朝早くに悪い、起こしたか?」

 鼓膜を叩く怜悧な響きに自然と頬が緩んでしまう。途端に笑みの走った視線を寄越す野薔薇ちゃんから逃げるように顔を逸らし、わたしは声の調子を変えることなく言葉を紡いでいく。

「ううん、朝ご飯作ってただけだから大丈夫。おはよう、恵くん。何かあったの?」

 恵くんから連絡、それも電話でというのは珍しい。何か急用に違いないと思いつつ尋ねれば、彼は「……急な話なんだが」とどこか気まずげに切り出した。

「……、今日時間あるか?」
「いつ?」
「できれば午前中」
「夜蛾学長に反省文提出したあとなら時間あるよ。何か用事?」

 質問を重ねると、彼は数秒の沈黙を挟んで小さな声で言った。

「……今夜から来るんだよな」
「うん、そのつもりだよ。恵くんの迷惑じゃないならね?」
「そんなこと全然思ってねぇけど……ただ、俺の部屋何もねぇから。買い出しは行っておいたほうが良いだろ」
「どうして?お泊まりに必要なもの全部、部屋から持って行くから大丈夫だよ?」
「は?絶対持ってくんな。鱗の呪いがベタベタ触ってんだぞ」

 白刃にも似た鋭利な低音にわたしは思わず口を閉じる。彼の指示は昨夜の野薔薇ちゃんのそれとよく似ていた。

 呪力も残穢も何も残っていない物もあるのに、“触れたかもしれない”というくらいでそこまで警戒するようなことだろうか。たしかにちょっと気持ち悪いとは思うけれど、買い替えるほどのことでもないような気がする。

「とにかく全部新しく買い揃えるからな」
「はーい……」

 とはいえ、反論の余地もなく言い切られてしまえば仕方ない。胸に湧いた不満は全て呑み込んで、わたしは話を進めた。

「待ち合わせ、十時だと遅い?」
「いや、大丈夫だ。じゃあその時間に正面ロータリー集合で」
「了解です。一緒にお買い物行くの、楽しみにしてるね」

 浮き立つ感情のままに言葉を紡ぐや、返ってきたのは重い沈黙だった。呼吸すら躊躇うような全く無言のそれに通話が切れたのかとさえ疑ったものの、しかし恵くんとはまだ繋がっている。時間が止まったようだった。「恵くん?」と小さな声で沈黙を破ると、彼は葛藤を含んだような抑揚に欠けた声音を絞り出した。

「……急に悪い。本当に。また後で」

 言うと、すぐに通話が切れた。わたしは黙り込んだスマホを見つめて首をひねる。恵くんの様子に僅かな違和感を覚えたそのとき、横合いから野薔薇ちゃんがわたしの顔を覗き込んできた。あまりに突然のことに、「ひゃっ」とわたしの口から変な声が出る。

 野薔薇ちゃんはにやにやと笑いながらさらに顔を近付ける。どこにも逃げ場がなかった。

「デートね」
「……ただの買い出しだよ?」
「それでもデートじゃない。伏黒と恋人になって初めてのデート。初デート」

 繰り返し告げられたその単語は、まるで呪いのようにわたしに深く強く絡んでいった。

 ――初デート。恵くんと、初デート。

 野薔薇ちゃんのリクエストでスムージーを作っているときも、ふたりと一緒にブルスケッタを食べているときも、真希先輩と後片付けをしているときも、口臭ケアをこのうえなく念入りに行っているときも、夜蛾学長に反省文を提出したときも、“初デート”の単語が思考の中心に横たわり続けた。ふたりに何度「戻ってこい」と言われたことだろう。気もそぞろな様子に呆れながらも、ふたりは何だか楽しそうにわたしを見つめていた。

 身支度を終えたわたしは姿見の前で姿勢を正した。何事も最初が肝心だ。彼にとって最高の女でいたいからこそ一切の妥協はできない。だからと言って、気合いが入りすぎた恰好では気後れさせてしまうだけだろう。

 悩みに悩んだ結果、野薔薇ちゃんが提案してくれた“女子アナ風全方位モテスタイル”を採用した。ラベンダーに染まったシースルーのブラウスに、繊細なレース地を重ねた白のタイトスカート。足し算はしない。だからこそシンプルで爽やかな印象だけれど、決して手抜きには見えないはずだ。

 ふんわりと巻いた髪を指先で弄いながら、わたしはピンクベージュの唇を引き締める。ああ駄目だ、脈打つ心臓がひどくうるさい。

「……き、緊張してきた」
「大丈夫だよ。後輩の高校生に手を出した計算高い女子大生に見えるから」
「そうそう。骨抜きにした年下男にあらゆる物を貢がせる魔性の女に見えるから大丈夫よ」
「ふたりとも言い方っ!」

 にやにやと笑んだふたりに送り出され、ころんとした小さなボストンバッグを手にわたしは待ち合わせ場所に向かう。少しでも垢抜けたいと常日頃からお洒落には気を配っているつもりだけれど、恵くんの好みをもっと調べておけばよかったと心の中で悔いる。

 ちょっと背伸びしたようなこの恰好が彼の好みではなかったらどうしよう、と考えたところで小さな疑念の種が芽吹く。

 ――そういえば、どうしてわたしは垢抜けたいと思っていたのだろう。

 記憶を辿ってもキッカケが思い当たらない。ただ中学生になったころからお洒落への意識や関心が高まり、去年の年末からずぶずぶとお洒落にのめり込み始めたことだけは覚えている。お兄ちゃんと伊地知さんに貰った今年のお年玉は、新作コスメとちょっと値の張る可愛いワンピースに変わった。中学に入ってできた友だちの影響というわけでもない。それなら一体、わたしは何のためにお洒落をしていたのだろうか。

 正面ロータリーに恵くんの姿が見えて、頭を占める疑問はたちまち吹き飛んだ。先月、食事の帰りに悟くんに買ってもらったローヒールのパンプスが、盛夏の日差しを受けた熱い地面を軽やかに踏む。

「恵くーんっ!」と名を呼びながら手を振れば、全身黒一色の恵くんがこちらに首を向ける。弾むような足取りで彼のもとへ向かえば、彼は足を止めたわたしに呆れたような視線を寄越した。

「別に走ってくる必要ねぇだろ」
「いやいやそれじゃ言葉が足りないよ、恵。走って転ぶと危ない、せっかく可愛い恰好をしてるんだから怪我でもしたら大変だ、ってはっきり言わなきゃ」

 差し込まれた軽薄な声音にわたしは目を瞠る。半ば反射的に振り向けば、わたしのすぐ後ろに長身の白髪男が立っていた。あまりのことに声が喉で突っかかる。

「……お、おはよう、悟くん……どうして?」
「おはよう、。君さ、僕がいなきゃ外出できないってこと忘れてない?それともふたりの初デートを鱗の呪いに水差されるほうが良かった?」

 戸惑いを隠せないまま首を戻すや、さも当然のように恵くんが駐車場に向かって歩き始めた。彼が悟くんを呼んだのだとすぐに察しが付いた。悟くんはわたしの肩を抱くと、駐車場のある方角を指で差しながら高らかに言う。

「さぁ行くよッ!アッシー君伊地知が僕たちを待っているッ!」
「伊地知さん今日お休みじゃ……」
「うん、そう。でも休み返上させたの。僕、運転するのはとふたりのときだけって決めてるし」

 悟くんはあっさりと言った。そして伊地知さんに心底同情するわたしの手を握りしめ、ずんずんと歩を前へ進めていく。先んじる恵くんを追い抜いたところで、後方から苛立ちを孕んだ鋭利な声音が飛んできた。

「……五条先生、それ何のつもりですか」
「何のつもりって、特に深い意味はないよ。家族間で行われるただの親密なコミュニケーションさ」

 わたしと繋いだ手を見せびらかすように高く持ち上げ、悟くんはその唇を弦月の形に吊り上げる。訝しむように白群の双眸がやや細くなった。わたしはボストンバッグを肘に引っ掛けると、きつく眉根を寄せる恵くんに「はい」と手を伸ばした。彼は数秒迷ったものの、「恵くん」と促すわたしに根負けしたように応じる。

 三人で仲良く手を繋いで駐車場へ向かう。この奇妙な状況をようやく受け止めた恵くんが小さな声で呟いた。

「……何だコレ」
「うーん……囚われた宇宙人ごっこ?」

 わたしの言葉に悟くんが勢いよく噴き出し、恵くんの眉間の皺はますます深くなっていった。