伏黒恵が建て付けの悪い談話室の扉を開けば、すぐに窓辺に立ち尽くす釘崎野薔薇の姿が目に入った。ラフな部屋着を纏う野薔薇はブラウントパーズの瞳を外に広がる暮夜に置いたまま、「遅かったわね」と険を含んだ凛然とした響きを寄越した。

 どこか緊張感を帯びたその横顔に僅かな違和感を覚えながらも、恵の視線は半ば無意識的に室内をなぞり始める。求める答えを与えるように、先んじて野薔薇が唇を開いた。

ならいないわよ。部屋で真希さんとアイス食べながら反省文書いてるわ」

 滑らかに言うと、野薔薇は窓際から離れた。きまりが悪そうに目を逸らした恵を一瞥もせず、部屋の中央に置かれたソファに腰を下ろして堂々と足を組む。恵に続いて談話室に入ったパンダと棘が野薔薇の向かいに座った。

 野薔薇は閉まった扉の前でひとり佇立する恵を見上げ、その口端を悪戯っぽく吊り上げてみせた。

「良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」

 ドラマや映画ではお馴染みの質問に、恵はやや間を挟んで「……悪いニュース」と答えた。この手の質問はどちらも悪いニュースであることがほとんどだ。それならばより悪いほうを先に聞いておきたかった。

 野薔薇は「だと思った」とわかったような顔で頷くと、ソファの背もたれに引っ掛けていた黒のサコッシュを引き寄せる。

「そんじゃ、お望み通り悪いニュースからね。コレなーんだ」

 茶目っ気たっぷりに問いながら取り出したのは、小さく個包装された淡い水色の何かだった。手のひらサイズのそれはほとんど真四角の形をしていて、僅かながら厚みがあるように見える。

 数秒記憶をひっくり返した恵はその正体を何となく突き止めたが、パンダと棘は依然として不思議そうに首をひねっている。パンダは人間ではないから知識がないのは当然だとして、棘はおそらく目にした機会はあってもそれが何なのかを知らないのだろう。男である以上それを使うことはないはずだし、ドラッグストアなどの陳列棚に並ぶのは野薔薇が手にする個包装ではない。わからずとも無理はなかった。

 野薔薇に促すような視線を送られた恵は、僅かに目を伏せると躊躇いを含んだ唇をこじ開けてぼそぼそと答える。

「……女性の、生理用品だよな?」
「そうよ、生理用のナプキン。ちなみに多い日用の羽付き。ついさっきの部屋から見つかったのよね」

 事もなげに告げられた言葉が耳朶を打ったその瞬間、氷塊が恵の背中を勢いよく滑り落ちたような気がした。大きく瞠目した双眸が再び野薔薇の手元へ向かう。

「“見つかった”ってことは、それのじゃ――」
「検屍室から例の遺体が消えたわ」
「…………は?消えた?」

 小さな驚声を落とした恵に、野薔薇は個包装のナプキンを勢いよく突き出した。

「目ん玉引ん剥いてよーく見ろ。コレにこびり付いた呪力に見覚えは?」
「……今朝の蠱毒?」

 目を凝らしてようやく見つけたその呪力は、間違いなく悠仁の部屋から見つかった蠱毒の呪力と全く同じものだった。恵のかんばせに鋭い緊張の色が走る。

「それがの部屋に持ち込まれたのはいつ頃かわかるか」
「伏黒がの浴衣姿に鼻の下伸ばしまくってる間に決まってんでしょ」
「詳細を付け加えるなら恵がとちゅっちゅしまくってる間だろうな。の口紅が移るほど」
「しゃけしゃけ」
「はァ?!ちゅっちゅってキス?!とキス?!から何も聞いてないわよ!どうせアレだわが私に言えないようなことまでしたんだわそうでしょ伏黒ッ?!」
「パンダ先輩も狗巻先輩も頼みますから今は話をややこしくしないで下さい」

 苛立つ恵が早口に捲し立てた直後、瞳孔を開いた野薔薇が瞬きひとつせずこちらを見つめていることに気づく。あまりの圧に冷や汗が浮かびそうだった。「……否定は、しない」と観念するように小さく言葉を絞り出すと、すぐに気を取り直して落ち着き払った声音を継いだ。

「……話を戻すが、夏祭りに乗じて鱗の呪いが蠱毒を経由して術式を使ったんだとしても、それは今朝お前が壊したはずだろ。どうなってんだよ」
「真希さんが“対を成していたんじゃないか”って。雌雄とか陰陽とか白黒とか、相対するモノっていうのは呪術的な意味合いが強くなるでしょ?ふたつでひとつの呪物だったなら、あのとき私が感じた“繋がりが消えた感覚”にも説明が付く。おそらくもうひとつの蠱毒もこの男子寮か、もしくは女子寮のどこかにあるはずよ」

 どこか物憂げな声音が途切れたところで、恵は思い出したように足を前へ踏み出した。身体を真横へ移動させた野薔薇の隣に腰を下ろすや、感情の凪いだ白群の視線で冷めた顔の野薔薇をなぞる。

「操られた遺体が高専を出た記録は?警備の目は潜り抜けられても、監視カメラまでは無理だろ」
「それが全部消されてるのよね。伊地知さん曰くハッキングされた形跡があるらしいわよ」
「サーバにバックアップはないのか。クラウドサービスとか」
「ちょうど今、伊地知さんが外部の管理会社と連絡を――あ、来た来た」

 しばらくスマホを操作した野薔薇は肩をすくめた。

「……駄目ね。“夜蛾正道”を名乗る人間から連絡があって、今日の録画記録を全て消すよう指示があったからその通りにしたんだって。もちろん夜蛾学長は連絡なんてしてないそうよ」

 黙ってふたりの会話に耳を傾けていたパンダと棘が、やや強張った顔をふたり揃って恵へと向ける。

「鱗の呪いってそんなに頭が切れるのか?」
「こんぶ」
「相当切れますね。呪いのくせに科学にも精通していますし、ただの呪霊だとはとても思えないですよ」

 冷静ながらも小さな針を無数に含ませた声音を返すと、恵は野薔薇に間断なく質問を投げた。

「増えてたのは生理用品だけか?」
「んなワケないでしょ。ティッシュペーパーにメイク落としシート、綿棒、エメリーボード、トイレットペーパー、果てはこういう生理用品まで、細かな消耗品はほとんど全部よ。しかもその全部がお兄さんと暮らしてた頃に使ってた物に変わってる。ここまでヤバいストーカーに狙われてるなんて一言も聞いてないっつの」
「……じゃあ、逆に盗られたものは?」
「ひとつもないわ。ゴミも含めてね。ただ部屋干ししてた下着類が衣装箪笥に片付けられてた。それもと全く同じ畳み方で」

 その言葉に恵の表情が凍り付いたように硬く強張る。足元から這い上がった怖気が恵の内側を蚕食していた。噴いた後悔が両手を固い拳へと変え、恵は奥歯を軋らせる。

 鱗の呪いが夏祭りに乗じて侵入することは予期していたが、まさかの部屋に這入り込むことまでは全く想定していなかった。が今まで部屋の鍵をたびたび失くしていたのは、やはり野薔薇の指摘通り不注意ではないのだろう。

 パンダと棘の不安げな声音が、青ざめた恵の耳朶を打った。

「一番嫌なタイプのストーカーだな……物が増えるのは下着を盗られるより気持ち悪いだろ……」
「しゃけ……」
「でも私が一番気になってんのはそこじゃない。死んだお兄さんの写真立ての前に現金の入った封筒が置かれてたことよ」

 淡々と告げた野薔薇はサコッシュから封筒を取り出し、向かい合うソファに挟まれたローテーブルの上にそれを置いた。下部に銀行名とそのロゴが白抜きになった赤い直線が横切る封筒の空白には、黒いインクで書置きが残されている。

 ――“へ 今夜は好きな物を食べて下さい 樹”

 眉根に縦皺を刻んだ恵が向かいに視線を送れば、パンダと棘が応えるように小さく頷いた。恵は封筒を手に取ると、口折られたそれを開いてゆっくりと中身を滑らせる。汚れも折り目もない真新しい千円札が二枚、恵たちの前に顔を出した。

「すじこ、ツナ、明太子」
「そうだな。コンビニで弁当と飲み物買って、ついでに食後のデザートも買えるくらいのちょうどいい金額だ。しかもお釣りはお小遣いにって言えるし」
「しゃけしゃけ」

 野薔薇は封筒の書置きを食い入るように見つめる恵を横目でなぞる。

が“お兄ちゃんの字だ”って言ってたから間違いないわ」
「……たしかにさんの字だな」
「わかんの?」
「手紙を読んだことがある」
「手紙?誰への?伏黒?」
「………………いや、五条先生」
「なんで五条先生宛の手紙をアンタが読むのよ」
「……良いだろ別に。何でも」

 至極当然の詰問を無愛想に切り捨てると、恵は封筒に目を置いたまま抑揚に欠けた口調で言った。

「これをさんが書いたとするなら、間違いなく四月に書かれたものだな」
「どうして言い切れるのよ」
「この銀行、今年の四月一日に名前が変わったメガバンクなんだよ。俺も同じ銀行使ってるからよく知ってる」

 言うなり、横から伸びた繊手に封筒を奪い取られる。「本当だ。“東京”がない」と呟く野薔薇から視線を外し、恵は「けど妙だな」とすぐに顔をしかめた。

「いくら」
さん、この銀行に口座を持ってないはずなんですよ。さんに不審な金の流れはなかったか、先々月伊地知さんと一緒に夜中まで調べたんで間違いありません」

 首を傾げた棘に説明した恵に対し、パンダは間を置くことなく冷静な声音を向ける。

「樹が死んだのは四月半ばだ。この封筒を手に入れることは不可能じゃないよな」
「でも新品同然の綺麗な封筒です。誰かからもらったものだとは考えにくい。だとしたら口座も持ってない銀行やそのATMへわざわざ行ったってことになりますよね。補助監督なら仕事で行くことはあるでしょうけど、術師だったさんが雑務で銀行に行くことはないはずです。やっぱりおかしいですよ」
「……アンタたちふたりして何が言いたいわけ?」

 置いてきぼりを食う野薔薇がやや尖った口振りで尋ねると、穏やかな表情のパンダが黒い右手を己の顔の前まで持ち上げた。まるで天井を差すように、爪の長い人差し指と中指をまっすぐに立てる。

「考えられる可能性はふたつだ。ひとつは樹の使用していた銀行口座を知らずにただ筆跡を巧妙に真似た第三者、つまり鱗の呪いがコレを書いた可能性。そしてもうひとつは――」
さんが書いた封筒を鱗の呪いが盗んだ可能性。特に後者の場合、鱗の呪いに盗まれること……鱗の呪いに殺されることをあらかじめ予期していたさんが、意図的にこの銀行の封筒を選んで使用していた可能性が高い」

 パンダの言葉を引き取った恵に、眉を上げた野薔薇が身を乗り出して質問をぶつける。

「ってことはダイイングメッセージね!?」
「まぁ有り体に言うとそうだな。この銀行に何かあるのか、それとも行名が変わった四月に何か意味があるのか……何にせよ、本当にさんが書いたものかどうかを調べる必要があるだろうな」

 恵の言葉が途切れたところで、ローテーブルの上に置かれた封筒に健康的な白い手が伸びた。封筒を掴んだ棘は隣のパンダを一瞥すると、空いたほうの手で己の胸を軽く叩いてみせる。

「こんぶ、すじこ、明太子」
「調べてくれるんですか」
「しゃけしゃけ」
「おう、任せとけ」

 深く首肯する棘とパンダに、恵は僅かに逡巡した。伊地知を通して筆跡鑑定を依頼することも考えたが、上層部からの圧力や五条の無茶ぶりなど、多忙と心労を極める伊地知にこれ以上の負担をかけるのは憚られる。それに、頭の冴えるパンダや細やかな視点を持つ棘なら、恵が見つけられなかったものを見つけられるかもしれない。

「少し待ってて下さい」と立ち上がった恵は自室へ戻り、保管していた樹の手紙のコピーを手に、再び談話室の扉を開いた。何か暗号が隠されているかもしれないと念のためにコピーを取っておいたのだが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。

 恵が躊躇いがちに白いコピー用紙を差し出すと、受け取った棘は恵の様子に疑問を持つことなくそれをすぐに開いてみせた。恵の怜悧なかんばせから血の気が引くと同時に、数回瞬きを繰り返した棘が視線を持ち上げる。樹の手紙を指差しながら不思議そうに首をひねった。

「ツナツナ」
「……そうみたいですね。俺も意外でした」
「えっ、樹ってこういうの観るヤツだったのか?嘘だろ?コレ書いたの別人じゃないのか?」

 隣から顔を覗き込んだパンダが驚愕に目を瞠る。「何の話よ」と眉を寄せる野薔薇にかぶりを振ると、棘は「いくら」と真面目くさった顔で質問を重ねた。たっぷりと沈黙を挟んで、恵は諦めたように歯切れ悪く答える。

「…………まぁ、そう、ですね……何かあるかもと思って、一応、その、一位だけ」
「えーなになに?“美脚彼女と同棲せ――”」
「釘崎の前でそれ以上何も言わないで下さいもし万が一の耳に入ったら首掻き切って自害します」
「た、高菜っ」

 抑揚もなく口早に捲し立てた恵の言葉に、棘が身を仰け反って驚いた。軽薄という言葉に服を着せたような男、五条悟の口車に乗って観てしまったとはいえ、この事実がの耳に入れば白い目で見られるのは確実だろう。の恋人になったという夢心地をずっと味わっていたい恵にとって、これは死活問題にも等しかった。

「別にAVくらいで幻滅しないと思うけどなぁ」と頬を掻くパンダと「は?AV?」と耳聡く単語を拾い上げた野薔薇を完全に黙殺し、隣から余計な詰問が飛んでくる前に恵は唇を開いた。

「それで、良いニュースは?」

 尋ねられた野薔薇はどこか暇そうに己の爪に視線を落としていた。一切目を上げることなく、事もなげにあっさりと告げる。

「伏黒、アンタ明日からと一緒に寝なさい」

 耳朶を打った言葉に声を失った。耳の奥で反芻する声音は間違いなくとの添い寝を指示している。「野薔薇、お前天才か?」「しゃけしゃけ」と下世話な笑みを浮かべる真向かいの二年生ふたりには全く触れず、恵は深く動揺した白群の双眸を野薔薇へ置いた。

「…………今何て言った?」
「今夜は私と真希さんでを守るけど、こんなことずっと続けてらんないでしょ?伏黒が責任持って面倒見なさいよ。の彼氏なんだから」

 強い語調で付け足されたその台詞に、反論の意思を根こそぎ奪われる。野薔薇は恵の扱いを充分に心得ていた。の彼氏であるというくすぐったくも過剰すぎる多幸感に満ちた事実を持ち出され、恵は開きかけた唇を大人しく閉じる他なかった。

「それとも何?何をどう触られたかもわかんないような、あんな気持ち悪い部屋でにひとりで寝ろって?」
「……そ、れは」
「男子寮には二級の伏黒、準一級の狗巻先輩、準二級のパンダ先輩がいる。こっちは三級と四級よ?戦力的に考えてを男子寮に置くのが最適解でしょ」

 異論はない。野薔薇の判断が圧倒的に正しい。しかし恵はを部屋に招き入れることに強い抵抗があった。自分の理性を全く信用できないのだ。「大好き。好きすぎてどうしよう」と包み隠すことなく恵への好意を向けるに対し、邪な情欲を抱くなと言うほうが無理がある。

 大切にしたかった。何よりも、誰よりも。一生手が届くことはないと思っていた相手だからこそ。のペースに合わせたかった。しかし恋人になったと同じ部屋でともに寝起きして、それでも一切手を出さないという保証がどこにもない。

 ここ数ヶ月で昂り続けたへの色情に、当のが少しでも肯定の素振りを見せようものなら、恵はを秒で組み敷く自信すらあった。愛おしさが募った故に歯止めが効かず、口紅が移るほどを口付けたのは記憶に新しい。こんな状態でを部屋に入れてしまったら、それこそ――

「恵、お前も思うところはあるだろうが、今は大人しく野薔薇の言う通りにしたほうがいい」

 恵を物思いの淵から引き上げたのはパンダだった。伏せた目をゆっくりと持ち上げれば、深い心配の色を浮かべるパンダと視線が絡んだ。

「こんなことがあったってのに、は部屋で真希とアイス食いながら反省文書いてるんだぞ?どう考えても普通じゃない。とうに覚悟はできてんだろうな」
「そういうこと。もし今の状況での部屋に這入ってくるなら、向こうはに祓われない算段が付いてるってことでしょ?放っておいたら、あの子本当に死ぬわよ」

 首筋に鋭い白刃を押し付けられているような気分だった。乾いた唇を横一文字に結んだ恵に一瞥も与えず、野薔薇はソファから腰を上げて黒いサコッシュを左肩に引っ掛けた。

「今夜中にを泊められるような、広くて清潔な部屋にしておきなさい。特に水回りは手を抜くんじゃないわよ。いいわね?」
「そうそう。俺たちで呪物を探しておくから、恵は部屋の掃除な」
「明太子」

 野薔薇に続いて立ち上がったパンダと棘がにやにやしながら言った。とともに過ごせる喜びよりも戸惑いがやや勝っている。

 しかし決まった以上は徹底的に掃除をしなければと思った。恵は床で寝るとして、が眠るベッドも清潔に整えておくべきだろう。全て洗濯したとして、夜までに乾くだろうか。明日の天気が知りたかった。

 そのとき、混乱に満ちた視界の中に野薔薇の繊手が這入り込んだ。その手には円柱状の白い物体が握られている。頭を殴打した直後のように鈍る思考では、すぐにそれが何かを判別することはできなかった。

「忘れるところだった。コレあげるわ」
「……何だコレ」
「いや見りゃわかんだろ。アロマキャンドルだよ」

 ポカンとする恵に間断なくツッコミを入れた野薔薇は、呆れ返った様子で肩をすくめた。

「鱗の呪いって火が苦手なんでしょ?、こういうの好きだと思うから。喜びなさい、サンダルウッドの香りよ!」
「……サンダルウッド?」

 受け取ったそれを鼻に近づけて匂いを嗅げば、上品な香のようなそれが鼻腔を焦がす。覚えのある香りに白檀だろうかと記憶を辿っていると、勢いよく噴き出した棘が肩を震わせて笑い始めた。恵が寄越した胡乱な視線に、棘は指で描いた小さな円に人差し指を抜き差ししてみせる。露骨なそのジェスチャーが恵にひどく嫌な予感を与えた。

「……ツ、ツナマヨ」
「催淫効果?!」
「あ、それ聞いたことあるな。白檀って男のフェロモンに似た香りがするらしいぞ。良かったな。をその気にさせるには打ってつけだろ」

 白いアロマキャンドルを突き返すより早く、野薔薇はすでに談話室の扉に手をかけていた。「釘崎!」と慌てて放った制止の声も空しく、口端を吊り上げた野薔薇はひらひらと手を振って出て行ってしまった。棘も親指を立てながら「明太子!」と無用の励ましを残し、その背中を追うように続く。

 ひどく気が滅入った様子の恵を振り返ると、パンダは小さく首を傾げて質問を投げた。

「なぁ恵、ひとつだけ質問。お前、夏油に嫉妬してないのか」
「……後から出てきた俺がの思い出に水を差すなんて、図々しいにも程がありますよ」

 それは質問への答えではなかった。しかしパンダはその答えに満足したように悪戯な笑みを浮かべる。「こっちはこっちで動くから、お前はのことだけ考えてやれ」と穏やかな声だけが談話室に残され、恵はソファに深く腰を預けた。アロマキャンドルをローテーブルに置くと、重く長いため息が唇から溢れていった。に会いたくて堪らなかった。

 やがて恵はポケットに手を伸ばし、スマホを取り出した。連絡する相手はすでに決まっている。着信に応じてもらえることを祈りながら、恵は緊張が走る己の耳にそれをゆっくりと押し当てた。



* * *




 全てが寝静まった暮夜の下、切妻造の木門に背を預けるようにして、黒髪の少年はスマホに映し出された浴衣姿の少女の写真をじっと見つめていた。「恵~!」と軽薄な声音が耳朶を打つや、少年は幸せそうにはにかんだ少女から視線を外す。

 スマホをポケットへ滑らせると、半歩前へ出て居住まいを正した。視界の中央には緩慢な足取りでこちらへ近づく、長身の白髪男が映っている。

「ごめんごめん、お待たせ~!」
「……いえ。俺のほうこそ、こんな非常識な時間にすみません」

 少年が謹直に頭を下げると、浮付いた笑みを刻むサングラスの男はかぶりを振った。

「ああ、それは構わないよ。京都校との打ち合わせのことで夜蛾学長の大目玉喰らってたんだけどさ、“恵に呼ばれてる”って言ったらすぐに切り上げてくれたから助かっちゃった。説教にしては長すぎるんだよ、ホント」

 同情を請うように肩をすくめた男は、しかしすぐに表情を改める。その口元には普段と変わらぬ軽薄な笑みが宿っていた。

「それで、こんな真夜中に用って何?僕さ、男と無駄話すんの趣味じゃないんだよね。用件は手短に頼むよ」

 少年は小さく息を吐くと、男をまっすぐ見据えて滔々と告げた。

「今日から義妹さんとお付き合いすることになりました」
「……へぇ。予想はしてたけど、まさか恵のほうから言ってくるなんて意外だな」

 途端に男の声音が低くなり、少年の指先が僅かに強張った。黒いサングラスの向こうの蒼い六眼に肉食獣じみた剣呑な光が走ったことを、少年は見逃さなかった。しかし口振りだけは軽やかに、男は言葉を続ける。

「恵にしてはえらく殊勝な態度だね。義理の兄に気に入られようって魂胆?」
「違います。きちんと報告するのが筋だと思っただけです」
「あっそ。本気になる覚悟はできたわけ?」

 問い質された少年は数秒の沈黙を挟んで顔を上げた。固い拳を作った両手が微かに震える。

「……わかりません」
「は?何それ、どういうこと?僕だけじゃなくて死んだ樹のことまで馬鹿にしてんの?そんな中途半端な気持ちでと付き合うつもりなら――」
「だから」

 強い語調で遮ると、少年は男に真摯な眼差しを向けた。

「五条先生にひとつ、頼みがあります」