男子寮に帰ってきたばかりの伏黒恵が目にしたのは、背の高い箱に詰め込まれたフレームプールだった。部屋の玄関扉に立て掛けられた射的の景品を引き寄せ、箱の側面に印刷された夏らしい商品写真をしばらく見つめる。

「き、際どいのだってちゃんと着るから遠慮なく言ってね」

 恥ずかしげに顔を赤らめるが脳裏を過ぎり、耳にこびり付いたその言葉が恵の意思とは無関係にあられもない姿を想起させる。しかしそれは半瞬にも満たなかった。

 表情を引き締めた恵は袂から取り出した鍵で即座に扉を開錠し、フレームプールを玄関の壁に立て掛けて下駄を脱いだ。部屋に入って流れるような動作で浴衣を脱ぐや、衣装箪笥から適当に目に付いた黒いTシャツとジーンズを引っ張り出して素早く身に纏う。

 スニーカーに足を滑らせ瞬く間に部屋を出ると、恵は急ぎ足で夏祭りが開催されていた表参道へ向かった。別れ際、から不意打ちに落とされた口付けの感触が、まだ唇の上に薄っすらと残っている。

 今は身体を動かしていたかった。もしくは頭を空っぽにして取り組める何かを探していた。そうでもしなければのことばかり考えてしまうのは明らかだった。付き合って早々これかと、己の短絡さに呆れや情けなさを通り越してもはや哀しみすら湧く。

 暮夜に連なる橙色の灯りの下、業者の人間とともに屋台の撤収作業に専念するパンダと棘の姿を見つける。恵はさらに歩速を上げると、屋台骨を解体するふたりに声をかけた。

「パンダ先輩、狗巻先輩。俺も何か手伝います」

 その場にしゃがみ込んで作業していたパンダと棘が揃って恵を見上げる。ラフな出で立ちとなった恵を視界に入れるや、パンダは恵の背後を確かめるように目線を動かした。まるで誰もいないことがおかしいとでも言いたげに、小さく首を傾げる。

はどうした?」
「帰しました」
「“帰りました”じゃなくて、“帰しました”か。うん、恵お疲れ。あのファム・ファタル相手によく頑張ったな。もちろん耐え忍ぶ方向で」
「しゃけしゃけ」

 棘とともに労いの言葉をかけたパンダは、積み重ねた鉄骨をロープでひとつに縛り上げながら言った。

「じゃあ棘と一緒にコレ運んでくれるか?」
「わかりました」

 恵と棘は大きな丸太と化した鉄骨をふたりで持ち上げると、運搬用の大型トラックが停まる正面ロータリーまで移動を始める。麻縄のロープを掴む恵の手に筋が浮いた。数店分の屋台骨がまとめられているせいだろう、なかなかの重量だった。

 ふたりの先を歩くパンダはといえば、ほとんど同じ量の鉄骨を肩に乗せて軽々と運んでいる。首だけで後ろを振り返り、棘を通り越してさらに後方の恵へと視線を投げた。

「あのさ恵、ずっと言おうかどうか迷ってたんだけどな」
「はぁ。急に改まって何ですか」

 恵がひどく気のない返事を返せば、パンダの口端がもはや邪悪なほどに吊り上がった。

の口紅、かなり移ってるぞ?」

 耳朶を打った予想外の台詞に、恵は全身が弛緩するほどひどく動揺した。我に返ったときにはすでに遅く、緩んだ手から滑り落ちた鉄骨が足の甲に凄まじい衝撃をもたらしている。「い゙っ!」と言葉にならぬ濁った苦鳴が漏れ、あまりの痛みに思わず上体が前のめりに折れ曲がる。長い鉄骨の片側を持つ棘が目を瞠った。

「高菜」
「……だ、い、じょうぶ……です」

 身を案じる棘に何とか絞り出した返答を返すと、痛みに乱れた呼吸を整えつつ落下した鉄骨をゆっくりと持ち上げた。幸い足の骨が折れた様子はないが、脈打つような鈍痛が広がっている。ひどい打撲傷には違いないだろう。

 痛みを堪えて歩き出しながら、空いたほうの手の甲で唇を乱暴に拭う。白い肌には提灯の橙色を反射する瑞々しい朱が乗り、柑橘とハーブを混ぜ合わせたような爽やかな香りが鼻腔を掠めていく。

 恵はもう一度強く唇を拭ってから、白と黒の毛むくじゃらな背中に文句を投げ付けた。

「何でもっと早く言ってくれないんですか」
「バレてないだろうから良いかなと思って。俺はお前らと違ってかなり夜目が利くからアレだけど、には絶対わからなかったはずだし大丈夫だろ」
「そういう問題じゃないんですよ」

 きつく眉を寄せれば、パンダが恵を振り返る。にやにやと下卑た笑みを浮かべながら、あからさまに声を弾ませた。

「で、結局どうなったんだ?口紅が移るほどとアレやソレをした伏黒恵クン?」
「それわかって言ってますよね?」
「おかか」
「狗巻先輩も白々しいですよ」

 呆れたように鋭い声音を放つと、恵は僅かな間を挟んで明朗に答えてみせた。

と付き合うことになりました」
「こんぶ、明太子、ツナマヨ」
「俺からです。普通に付き合ってほしいって言っただけですけど」

 はぐらかすことなく淡々と事実を述べる恵に対し、パンダと棘が胡乱げな視線を送る。耐えかねた恵は眉間に深い皺を刻んだ。

「どうせパンダ先輩たちのことだから、俺が答えなきゃに直接訊くつもりですよね。それが嫌なんで仕方なく答えてるだけです。何か文句ありますか」
「文句なんてひとつもないけど、恵にしてはやけに素直だなと思ってさ。に訊かれちゃまずいことでもあんのか?」
に訊かれるとまずいっていうより、俺が正直に答えなかったことをに言われたくないって感じです。がそれをどう捉えるかわからないんで」

 付き合うことになったとはいえ、恵との間に横たわるものは依然として変わらない。樹の死も、伏黒恵が抱える一生の咎も、五条が果たさんとする復讐も。

 加害者と被害者。歪に捻じ曲がった恋愛関係に違いないからこそ、恵の言葉や態度を意図せぬ方向へ受け取られることを避けたかった。恵が抱くへの感情について、には僅かでも不安を与えたくなかった。

「……のこと、もう傷つけたくないんですよ」

 もう充分に傷つけた。一生償っても償い切れぬほどに。わかっていて、それでもの傍にいたいと願ってしまった。身勝手な感情の拠りどころを求めてしまった。身の程知らずの未来に焦がれた覚悟は、とっくのとうに出来ている。

のこと大好きだな」
「否定はしません」

 抑揚に欠けた声音であっさりと答えながら、恵は棘とともに大型トラックの荷台に鉄骨を載せた。すぐに来た道を引き戻る恵を、パンダと棘は両側から挟み込んだ。歩速を合わせつつ、必要以上の至近距離からその澄ました顔を覗き込む。ひどく下世話な視線が恵を撫で付けていた。

「付き合ったら次は決まってんだろ」
「しゃけしゃけ」

 にやにやと笑んだふたりは揃って左手の親指と人差し指と繋ぎ合わせて円を描くや、その丸い穴に右手の人差し指を突っ込んでみせる。目を覆いたくなるほど露骨なジェスチャーに、恵の心はたちまち無になった。

 死んだ魚のような昏い瞳で黙殺すれば、パンダと棘は恵を真ん中に数時間前の記憶を辿り始める。

「それにしてもの押しがすごかったな。恵好き好き大好き愛してる!って感じで、いつも以上に明るくて表情も豊かだった。アレで落ちないヤツはいないだろ。誰だってあわよくばって思うだろうし、現に恵は完全に落とされてる」
「ツナマヨ」
「念のために否定しておきますけど、別に俺はそういうことが目的でと付き合ったわけじゃ――」
「いや、でも落ちなかったヤツはいるのか。俺たちが知る限りではひとりだけ」
「しゃけ」
「………………は?」

 恵は自分が何を言いかけていたのかを完全に忘れていた。パンダと棘の言葉はそれほどの衝撃を恵に与えたし、すぐに詳細を促すための鋭い視線がふたりに対して穿たれていた。

 付き合うことになったとはいえ、今までのの恋愛遍歴が気にならないと言えば全くの嘘になる。一度尋ねようとしたこともあったが、振り絞った問いはには聴こえておらず結局何も知ることはなかったから。

 突として不機嫌極まる恵から視線を外したパンダと棘は、言葉もなく互いの顔を見合わせる。僅かな沈黙を挟んで、ゆっくりと唇を開いた。

「恵と付き合い始めたし、もう時効だと思うから言うけど……、多分フラれてるんだよ。去年の年末から年明けにかけて、おそらくこの間のどこかで」
「すじこ、おかか、高菜」
「俺も棘と同じで、詳しいことは何も知らない。でも妹以外の女子に全く興味のなかった樹が“失恋をバネにすると女の子はあんなに綺麗に変わるものなの?”って真面目な顔して真希に訊いてたから、が失恋したのは間違いないはずだぞ」
「しゃけ」

 恵の胸を見境なく蚕食する黒い汚泥じみた感情はすでに動きを止めていた。代わりに妙な胸騒ぎが恵を襲っている。ひどく不快な感覚が背中を上下していた。横一文字に結ばれる唇は薄っすらと青ざめていたが、恵は噴いた動揺を微塵も表に出すことはない。ただ冷え切った視線とともに疑問を投げかけてみせた。

「……どうして時期までわかるんですか?」
「真希に訊いてたのは正月が明けてしばらく経ったころだからな。逆算すればその辺りだろ」

 先ほどより血の気の乏しい恵の顔に、これといった表情は浮かばない。しかしそれはパンダには取り繕った態度に見えたらしく、新しい玩具を見つけた悪戯っ子のように目を輝かせる。

「やっぱり気になんのか?の失恋」
「そうですね。正直かなり気になります。パンダ先輩の言う通り、俺も“アレで落ちないヤツはいない”と思ってるんで」
「へぇ、恵も過去の男に嫉妬とかするんだな」

 揶揄するようなその言葉に、恵はぴたりと足を止めた。砂利を踏んだ小さな音が耳朶を打つ。その場で振り返ったふたりが浮ついた笑みを刻んでいた。

「お?図星か?」
「ツナツナ」

 恵は薄暗い足元へ視線を落とし、感情の凪いだ声音で言葉を紡いだ。

「……絶対にそうだと決め付けるわけではないですが、俺が知っているは恋人のいる相手にあんな態度を取るような人間じゃないことはたしかです。というか、そもそも初めからそういう相手を好きになるとは思えません」

 抑揚に欠けた口調で語り始めた恵にふたりは怪訝な目を送ったものの、すぐに同意を示すように小さく頷いてみせる。

「そうかもな」
「しゃけ」
「完全に脈ナシの相手にしつこく迫るような人間でもありません。告白なんてもってのほかです」
「まあ、それはたしかにな」
「……しゃけ」

 恵は垂れ下がった頭を持ち上げた。自らに置かれた胡乱な瞳には頓着することなく、ここにはいない誰かを相手取るようにまっすぐ前を見つめる。

「それでもは振られて失恋した。となれば考えられる可能性はひとつだけです。その相手には“を振らなければならない”もっともな理由があったから」
「もっともな理由?」
「――成人した大人」

 間髪入れずに声を継ぐと、恵は再び歩き始めた。大きく目を瞠るふたりの間を抜けて、薄暗い参道を進む。

「成人した良識ある大人なら、どれだけ好意を向けられようと女子中学生に手を出そうとは考えないはずです。青少年との淫行は犯罪なので。それに相手が成人なら“綺麗になって見返したい”と考えるの気持ちも頷けます」
「おかか」
「ちょっと待て恵、お前何の話して――」
「去年の年末って、ちょうど新宿と京都で“百鬼夜行”が起きましたよね?がクリスマスイブに失恋した可能性はありませんか?」

 氷点下の響きに遮られたふたりはその気迫にたじろいだ。の失恋話がいつの間にやら恵の中で何か大きな話にすり替わっていることをようやく察する。恵のあとを追いながら、情報を整理するようにゆっくりと言った。

「百鬼夜行が起きたクリスマスイブに失恋」
「こんぶ」
を振った相手は成人した大人」
「ツナマヨ」

 その瞬間、ふたりの顔に硬い緊張の色がありありと浮かび上がった。

「……まさかその相手って、夏油傑か?」

 パンダの引きつった小声に、恵は表情ひとつ変えず小さく頷く。

「呪術テロを起こすような呪詛師にごく一般的な良識があるとは到底思えませんけど、淫行のただ一点においてはそうだったと仮定して話を進めます」

 が分別のない大人に誑かされていたとは微塵も考えたくない。そうであってほしいという心からの希望も含めた前置きをして、恵は落ち着き払った口調で言った。

「毎年夏休みと冬休みは夏油によく会ってたってが言ってました。それには今もおそらく夏油の死を知りません」
「……驚くところが多すぎてもうどこから突っ込めばいいのかわからんが、死んだことを知らないなら失恋の相手で間違いないだろうな」
「しゃけ」

 その瞬間、鋭い雷に打たれたかの如くパンダが震える唇を割った。

「ってことは樹も――」
「はい。おそらくさんも夏油に会っていたはずです」
「樹あの野郎やっぱり真っ黒じゃねーか!ちょっとくらい信じてやろうと思ってたのに!」
「おかか!」

 樹は呪詛師だった――高専関係者全員に一斉に知らされたその情報をなぞるように、パンダと棘が揃って声を荒げる。とはいえ、樹に対する敵愾心などは露ほど感じられない。それは恵と同じように、今も樹を深く慕っている証拠だった。

「盆だからって帰ってくんな!」「いくら!」と憤慨するふたりを気に留める様子もなく、恵は話を前へ進める。

さん、夏油について何か言ってませんでしたか?」
「いや、何も聞いてないぞ。百鬼夜行のときですら何も言ってなかったよな?」
「しゃけしゃけ」
「なんでじゃなくて樹をそこまで気にするんだよ」

 不審そうに声を低めたパンダに、恵は霜の下りたような隙のない言葉を返した。

「……これは俺の予想ですが、おそらく正攻法では鱗の呪いは祓えません。を溺愛するあの五条先生がこの期に及んでもまだ祓除していないのがその証拠です」
「でもは正しく復讐するつもりだぞ」
「そうですね。きっと誰が何を言っても聴かないし、このままだとは確実に死にます。それを阻止するためにも、今は鱗の呪いについて少しでも情報が欲しいんですよ」
「“樹”を知ることが鱗の呪いを知る近道ってことか」

 そう言ってパンダは納得すると、胸の前で深く腕を組みながら首をひねる。

「仲間である夏油の指示でに近付いたとか?」
「仮にそうだとするなら目的としては弱くないですか。赤の他人と十年間も“家族ごっこ”なんかします?」
「たしかにな。高専に潜り込んでスパイとして活動するだけならの“家族”になる必要はないし、夏油に何か弱みを握られて“樹”になったのだとしてもあそこまでを溺愛する理由もない。そもそも恵を庇って死ぬなんてあり得ないわな」
「……はい。だからさんと夏油は単なる仲間ではなく、利害の一致で協力関係にあったと考えるほうが筋が通ります」

 しばらく会話に耳を傾けていた棘だったが、間が空いた頃合いを見計らって己の顔の横で小さく右手を挙げた。白群の双眸で棘を撫で付けるや、真剣な響きを伴ったおにぎりの具が恵の耳朶を打った。

「すじこ、こんぶ、ツナマヨ」
「俺もそう思います。が夏油を好きだったことを五条先生が知らないはずがない。があの人に相談を持ちかける可能性は充分に考えられますから。五条先生、夏油とは一切接触してなかったんですよね?」
「おかか」
「となると、五条先生は故意にと夏油の接触を見逃していたことになります。五条悟、夏油傑、樹の三人には何か共通の目的があったと考えるのが妥当です」
「いくら」
「――を守ること。もしくはに関する何らかの目的」

 一切の淀みなく告げると、棘は「ツナ」と僅かに眉根を寄せた。恵の予想を聞き出そうとする棘に、恵は立てた仮説をゆっくりと声に乗せていく。

「俺は樹自ら五条先生と夏油に協力を仰いだ可能性が高いと思ってます。戸籍を偽ってまでに近づいたのは、家族を皆殺しにされた復讐のため。の傍にいれば、鱗の呪いを殺すことが叶うから」
「復讐?」
「仮に樹の正体を刀祢樹だとする場合の話です」

 淡々と説明を付け加えた恵に対し、パンダは訝しむようにかぶりを振った。

「だとしたら、刀祢樹はが鱗の呪いに狙われてることを最初から知ってたってことになるよな?」
「そうですね」
「それはさすがにちょっと変じゃないか?鱗の呪いは神出鬼没、呪う相手の条件すらわからないうえに、残穢を辿ることも不可能なんだろ?それならなおさらと刀祢樹はどこで知り合ったんだよ。ふたりは赤の他人だし、は東京に住んでて、刀祢樹は仙台だ。接点なんてどこにもない」
「……例えば修学旅行とか」
「修学旅行で五歳かそこらのと道端でばったり出くわすか?男子中学生が幼女と出会って何があったってんだ。ラノベでお馴染みのボーイミーツガールだとしても、ちょっと無理がありすぎだと思うけどな」

 パンダはそこで言葉を切ると、どこか呆れたように爪の長い指で頬を何度か掻いた。

「あのな恵、お前の“こうであってほしい”って希望をまるで正しい推理みたいに思わないほうがいい。そうやって頭から決め付けてると、本当に知りたい真実は遠ざかっていくだけだと思うぞ」

 言い返せるだけの言葉が何もなかった。今語った恵の推論は全て希望に過ぎなかった。そう思えば思うほど、自分が核心から遠く離れた場所にいる気がして空しかった。それでも、語った言葉の一部は真実を掠めているのだという確信はどうしても捨てられなかった。

 唇を横一文字に結んだ恵がきつく眉根を寄せたとき、ジーンズのポケットに押し込んでいたスマホが震えた。ある種の予感がして急いでそれを取り出せば、画面に表示されている名前はのものだった。パンダと棘を軽く一瞥するや、すぐに指を滑らせ着信に応じる。

「あー伏黒?アンタってからの電話は秒で出んのね。わかってたけどなんかムカつくわ」

 スマホの向こう側から聞こえた野薔薇の声音に、恵は思わず顔を歪めた。と付き合い始めたことを全力で揶揄う気だろうと身構えたものの、恵のそれはしかし全くの杞憂に終わった。

「パンダ先輩と狗巻先輩、近くにいる?」
「……いるけど何でだ」
「だったら今すぐ男子寮の談話室集合。良いわね?」