それは紛うことなき大輪の華だった。赤、黄、白、緑、青、紫。散りばめられた星々の輝きを霞ませるほどの鮮やかな光が、煙る夜空に大きく花開いては散っていく。破裂音とともに次々と打ち上がる花火に、わたしは「綺麗……」と陶酔した声音を漏らした。

 巨大な円を描くように広がった花弁の先で、複数の丸い光が何度も眩く煌めく。惜しげもなく重なり合って咲くスターマインを見つめたまま、恵くんが小さな声で呟いた。

「すげぇ……本格的だな……」
「プロの花火師さんにお願いしたからね」

 ふふんと自慢するように軽く胸を張れば、彼が怪訝な視線をこちらへ寄越す。間髪入れずに「わたしじゃなくて花火っ!」と唇を尖らせて、わたしは恵くんの傍らで打ち上げ花火を見上げる。

「今年は台風の影響で花火大会がたくさん中止になったでしょ?夜蛾学長の伝手を頼って、余ってた花火を買わせてもらったんだ」
「……買わせてもらったって、まさかこの花火全部――」
「そう、これ全部わたしのお金で買ったんだよ?って言っても、来月と再来月のお給料を前借りしただけなんだけどね」

 彼の言葉を遮る形で引き取ったわたしは悪戯っぽく告げた。わたしの代わりに大金をキャッシュで支払ってくれた悟くんには頭が上がらない。夜空に花開いた大輪の赤を目に焼き付けながら、口元に満足した微笑を刻む。

「間違いなく今までの人生で一番高い買い物だよ。宮中祭祀用の呪符と呪具、夏休みのうちに死ぬ気で作らないと借金地獄に真っ逆さまかも」

 多少なりとも安くしてもらったとはいえ、支払った金額は当然ながら百万円などでは済まない。野薔薇ちゃんや真希先輩たちだけではなく、悟くんや伊地知さん、家入先生、夜蛾学長――大勢の大人たちがわたしに協力的なのは、わたしがほぼその十倍にあたる金額を支払うことに快諾したせいだろう。

 そう、金額にしておよそ一千万。この女は本気なのだと知らしめるには充分な額だった。

 誰のためでもなくわたしのためだった。“わたしだけの夏”を目一杯楽しみたかった。他の誰でもない恵くんと一緒に。そのためなら何も惜しくはなかった。

 だって、大好きな恵くんと過ごせる夏は、今だけなのだから。

 来月の交流会を前に虎杖くんが戻れば、わたしはすぐにでも正しく復讐を果たすだろう。来月、再来月の給料を受け取るのは恵くんのことをすっかり忘れたわたしだ。復讐の相手は得体の知れない特級呪霊だから、野薔薇ちゃんや真希先輩たちの心配が現実となって、わたしが給料そのものを全く受け取れない可能性も充分にあり得る。それなら無理を言って前借りをしてでも、今この瞬間のために費やしたかった。

 どう足掻いたところで恵くんを深く傷つけると言うなら、せめて楽しくて綺麗な思い出をたくさん作っておきたい。彼の中で、良い思い出として昇華できるように。

 わたしが全て忘れてしまっても、たとえわたしが死んでしまっても、大好きな恵くんに“五条は最高にいい女だった”と言ってもらえるなら、きっとこの恋に何ひとつ悔いも未練も残らない。恵くんにとって一番の女になりたいがための、“わたしだけの夏”だった。

 可惜夜の空を彩る打ち上げ花火は、やがてひと際眩しい輝きを残して消えていった。それが恵くんの瞳と全く同じ色だったことに遅れて気づき、花火師に指示を出したであろう野薔薇ちゃんと真希先輩の粋な計らいに胸がくすぐったくなる。

 耳の奥でまだ花火の音が響いている。白く煙ったままの夜空からようやく視線を落とし、わたしは隣の恵くんを一瞥することなく呟いた。

「終わっちゃったね」
「……ああ」
「すごく綺麗だったね」
「……そうだな」
「帰ろっか」

 どれほど楽しい時間にも必ず終わりはやってくる。“わたしだけの夏”が終わると思うと、肋骨の内側が途方もない寂しさで埋め尽くされた。

 けれど、わたしと恵くんは恋人ではない。ましてや親しい友だちでもなければ、仲間と呼べるほどシンプルな関係でもない。死んだお兄ちゃんが繋いだ関係を何と表現すればいいのかわからない。ただのクラスメイト、ちょっとした知り合いと表現するのが一番しっくりくる関係だろう。まだもう少し一緒にいたいと駄々をこねられるような関係ではないのは明白だった。

 名残惜しみながらも来た道を引き戻ろうとすれば、繋いだままの手を強く引っ張られた。上体がやや後ろに傾き、わたしはすぐに足を止める。「恵くん?」と首を傾げると、彼はわたしを視界の中央に収めた。

「……やっぱ、今日だけは無理だ」
「……え?」
「今日だけ付き合ってって言っただろ」

 硬い表情を張り付けた恵くんがわたしの手を強く握る。わたしのそれよりうんと大きな無骨な手は微かに震えていた。

さんやに取り返しのつかないことをした俺が、こんなことを言えるような立場じゃないことは嫌ってほどわかってる。一生償っても償い切れないことをしておいて何言ってんだって自分でも思う。でも、を帰したくない。どうしても帰してやれない。この関係が今日だけだって言うなら、それは絶対にできない」

 絞り出すような掠れた声音に瞠目する。夜空を輝かせた花火と同じ色の瞳がわたしをまっすぐ捉えている。空虚な寂しさに満ちた肋骨の内側で期待が滴り落ちた。恵くんは沈黙を挟むことなく滔々と言葉を継ぐ。

が飽きるまででいい、明日も明後日もその先も、の恋人でありたい。今日みたいにの一番近くにいさせてほしい」

 それは哀願にも似た懇願だった。深く絡んだ指先が熱を帯びていく。

がどうしようもなく好きだ。だから、俺と付き合ってくれないか」

 静謐な熱帯夜に響いたそれにわたしはそっと目を伏せた。言いたいことは山ほどあった。恵くんはやっぱりちょっと自分を責め過ぎだとか、帰らないと反省文が提出できないからまた夜蛾学長に叱られるだとか、逆はあってもわたしが恵くんに飽きることなんてないだとか。

 けれども、どれもこれも一向に言葉にならなかった。空知らぬ雨が頬を伝っていたせいで。喉奥から溢れそうになる濡れた息を懸命に押し込んだ。俯くように頭を垂れ続けていたせいだろう、恵くんがか細い声で歯切れ悪く言った。

「……悪い。勘違いした。が俺を恋愛対象として好きなんじゃないかって……本当に悪かった、忘れてくれ。俺も今日のことは忘れて――」

 すぐに言葉を遮るように左右に何度もかぶりを振って、羞恥を堪えて涙で濡れた顔を持ち上げる。わたしを見た彼はぎょっとした様子で目を剥いた。まさか告白で泣くとは思っていなかったのだろう。しかしそれは当の本人であるわたしだって同じことだった。

 下唇を軽く噛んだまま、「ん」とカゴバッグを持ったほうの手を大きく広げると、恵くんが聡明な眦に呆れたような笑みを刻む。勿体ぶった下駄の音が響き、わたしは彼の腕の中に優しく閉じ込められた。彼は深く絡んだ手を解放し、宥めるようにわたしの背中を軽く撫でていく。

「泣くようなことか?いつも以上に可愛いんだから笑ってろ」
「……か、わいい」

 涙に濡れた声で繰り返せば、撫で付ける手を止めた恵くんが拗ねたように言った。

「言っちゃ悪いかよ」
「ううん、うれしい。すごくうれしいよ。でも、さっきはそんなこと一言も……」
「……付き合ってもない相手に軽々しく言えるわけねぇだろ。五条先生と一緒にすんな」

 軽薄という言葉がそのまま服を着て歩いているような白髪の男を思い出す。性格も女癖も悪い悟くんがセクハラだ何だと非難されないのは、間違いなくその顔面偏差値の高さゆえだろう。無論、御三家の御曹司という出自と特級術師という権力のせいでもあるだろうが。

 恵くんが悟くんのようになったら笑っちゃうだろうなと思っていると、わたしが不満を覚えているために黙していると受け取ったのだろう、許しを請うようにわたしを抱きすくめた彼が言い訳めいた口調で言った。

に嫌な思いさせたくねぇから迂闊なこと言えねぇんだよ」

 その言葉に胸がぎゅうっと締め付けられる。込み上げた愛おしさを押し退けるほどの悪戯心が湧いたわたしは、彼から身体を少し離して弱みに付け込むように首を傾げてみせる。

「可愛い?」
「……可愛い」
「本当に可愛い?嘘じゃない?」
「嘘じゃねぇよ。けど、どっちかって言うと可愛いより綺麗のほうが合ってる。念のために言っておくが俺の好みド真ん中だからな」
「えっ」
「……、狗巻先輩に言ってただろ。俺の好みじゃない、って」

 忌々しげに顔を歪めた恵くんが「なんでいつも釘崎に筒抜けなんだよ」と悪態を吐く。野薔薇ちゃんの観察眼の賜物だと自慢したかったものの、喉から溢れたのは涙でびしょびしょに濡れた呼吸だった。一番欲しかった言葉をやっと受け取ったせいで、視界の解像度が瞬く間に下がっていく。

「恵くんずるい……」
「それでまた泣く理由がわかんねぇ……」
「泣きたいわけじゃなくて、うれしくて、涙、止まんなくて」
「頼むから泣くな。俺が泣かせてるみたいで罪悪感がすげぇんだよ」
「泣かせてるの恵くんなんだけどなぁ」
「……どうやったら泣き止むんだ」
「ついにモテる男のあざとい仕草第一位を披露するときが来たよ、恵くん」

 言うと、わたしは涙に濡れた目尻を人差し指の腹で軽く叩いた。眉を寄せた恵くんが手を伸ばそうとしたのを、かぶりを振って即座に否定する。何を求められているのか察したらしい彼が小さく呻いた。

「……それマジでやらねぇと泣き止まないのか」
「えーん、えーん」
「明らかな嘘泣きだしもう泣いてないよな?」

 重い嘆息をひとつ落とし、恵くんがわたしに顔を寄せる。何だかんだ言いつつも我儘を叶えてくれる恵くんが好きだと思った。きつく目蓋を閉じると、遅れて目元に柔らかな感触が落ちてくる。心臓が大きく脈打って、全身が多幸感に包まれていく。そっと目を開けば、表情を改めた恵くんがこちらをまっすぐ見据えていた。

「それで」
「……それで?」
「返事。ちゃんとの口から聞いておきたい」

 真摯な言葉を向けられたわたしは、「えっと」と視線を宙に這わせて言葉を探す。正しく復讐すれば恵くんに関する全ての記憶を忘れてしまう――きっと彼にとって一番大切なことはまだ何も言えていない。

 けれど、と思う。このまま二の足を踏みたくなかった。今日だけは難しいことを考えないと決めたのだから。

 だからわたしは彼から距離を取るように一歩後ろへ引いた。身体の前で両手を重ね合わせ深々と頭を下げる。そして心のままに震える唇で答えを紡いだ。

「ふ、不束者ですが、末永くよろしくお願いします……」

 数秒ののち垂れ下がった頭を緩やかに持ち上げれば、夜目にもはっきりとわかるほど頬を朱に染めた恵くんと視線が絡む。交際の申し出に対する返答にしては重すぎる言葉だったかもしれないと思い至り、わたしの顔にもたちまち羞恥が伝染した。穴があったら入りたい。

 わたしたちはどちらともなく手を繋ぐと、来た道をゆっくりと引き戻った。常夜灯のない長い石階段を手すりもなしに、履き慣れない下駄で下りていく恐怖に、自然と身体は強張り恵くんの手をきつく握りしめてしまう。けれど彼はそんなわたしを一切笑うことなく、歩速を合わせて一段ずつ階段を下りていく。

「……に頼みがあるんだが」
「うん、良いよ。何でも言って?」
「その……明るいところで写真撮っていいか。一枚だけでいいから」
「一緒に?」
「いや、だけ」
「どうして?」
「どうしてって……そこはだけだろ」
「えーっ?!七五三の写真じゃないんだよ?!一緒に撮ろうよ!」
「………………七五三」
「……えっ、今の笑うところ?」

 石階段を下りた先に明るい光を宿す常夜灯を見つける。恵くんは自分のスマホに浴衣姿のわたしを収め、わたしは渋る恵くんを巻き込んでスマホのインカメラで自撮りした。しっかり保存されたツーショット写真をしばらく眺め、だらしなく緩んだ顔を持ち上げる。

「恵くんやっぱりすっごく格好良いね。大好き。好きすぎてどうしよう」

 子どものようにはにかんでみせれば、目を逸らした彼が面映ゆさを誤魔化すように後頭部を掻く。

「……あんま恥ずかしいこと言うな」
「言います。晴れて恋人になれましたのでこれからはどんどん言います。時も場合も考えません。覚悟しろ伏黒恵」
「いや時と場合は考えてくれ」
「やだ。だっていつ死んじゃうかわかんないんだよ?」

 茶目っぽく付け足した言葉に、恵くんはその表情をひどく険しいものへと一変させた。しかしそれも一瞬のことで、努めて表情を消すと緊張感を孕んだ声音で「どういう意味だ」と静かに尋ねる。わたしは微塵も怖気づくことなく、彼のかんばせをじっと覗き込んだ。

「鱗の呪いは関係ないよ。わたしが呪術師で在ることも関係ない。だってそうでしょ?明日交通事故に遭うかもしれないし、寝ている間に心臓が止まって朝には冷たくなってるかもしれない。でもそれはわたしだけじゃなくて、恵くんも同じことだよ」

 澄み渡る夏空のように爽やかな笑顔が脳裏を過ぎる。大切に仕舞い込んだ記憶を丁寧に取り出しながら、わたしは滑らかな口調で言葉を継いだ。

「“死は万人に等しく公平に”って昔お兄ちゃんが言ってた。本当にその通りだよね」

 はっと思い出したように「あ、天元様はずるいと思うけど」と悪戯っぽく付け加えると、硬く引き締まった恵くんの顔を見つめたまま、ことさら陽気な表情を作って胸の内を明かす。

「わたしね、もう二度と後悔したくないんだ」
「……後悔?」
「そう、後悔。だから恵くんのことが好きだよ、愛してるよって気持ちは、いっぱい伝えておきたくて。言葉でも、もちろん態度でも。ちょっと鬱陶しいかもしれないけど、そこも含めてわたしのこと愛してね?」

 お兄ちゃんには伝えきれなかったから――という想いは言葉にせずに伏せたものの、誰より優しい恵くんは察してくれたようだった。やっと表情を和らげた彼に柔らかく笑いかける。

「恵くん、わたしと出逢ってくれて、本当にありがとう」

 面と向かって告げる恥ずかしさを堪えたそのとき、素早く伸びた大きな手に手首を掴まれ引き寄せられる。上体が前のめりになり、思わず白木の下駄を踏み鳴らす。突として揺れた視界が固定されたのは、恵くんが空いたほうの手をわたしの頬に添えたからだった。

 深々と穿つようにわたしに見入る双眸には、たしかな熱が揺らめいている。その予感を受け止めるより早く、瞬く間に眼前にまで迫った彼のかんばせに視界を埋め尽くされた。唇の隙間を埋めるように口付けられると同時に、「んっ」とわたしの喉奥から驚いた声が押し出される。

 長い睫毛に縁取られた目蓋を閉じる恵くんで目の前がいっぱいだった。瞠ったままの瞳をきつく閉じれば、彼はわたしの腰を引き寄せながらさらに唇を深く押し付ける。何度も顔の角度を変えて交わされる密着するだけのそれは、まるでわたしの中の熱を暴こうとしているようだった。

 やがて恵くんは顔を離すと、ばつが悪そうに視線を背けた。熱く火照った己の顔を手でパタパタと扇ぐわたしに、蚊の鳴くような小声で謝罪する。

「……急に悪かった。どうしてもしたくなって」
「えっとね恵くん、もしかしなくてもわたしのこと大好きだったりする?」
「…………大好きじゃなきゃこんなことするかよ」

 そこまで素直に応えてくれるとは予想だにしていなかったせいで、だらしなく頬が緩むのを我慢できない。わたしは胸の前で深く腕を組むと、首を傾げながら白々しい口調で言った。

「うーん、ちょっと今のじゃ大好きの気持ちが伝わってこなかったな~!もう一回っ!」
「……わかった。後悔したいってことでいいな?」
「えっ……そ、それはどういう意味の?あ、まさか息が止まるまでキスされちゃうとか?」
「…………」
「不純異性交遊断固反対ッ!」

 恵くんと手を繋いだまま寮を目指して歩き続ける。打ち上げ花火が終わったことで、夏祭りはすでに撤収作業へと切り替わっている。参道に人々の姿はほとんどなく、可惜夜に浮いた提灯がどこか寂しい橙色で辺りを明るく照らしていた。

 何か少しでも手伝おうと声を掛けたものの、顔の前で両手を交差させた狗巻先輩には「おかか」と強く拒絶され、パンダ先輩にも「の浴衣が着崩れると恵の理性も崩れるからなぁ」と言って遠回しに断られてしまった。反射的に恵くんに視線を寄越せば、「今日はもう何もしねぇよ」と睨め付けられる。「“今日は”?」と少し気になって問い詰めてみたものの、案の定黙殺されてしまった。無念。

「あーあ、帰りたくないなー!もっと一緒にいたいなー!」
「前見て歩け。転ぶぞ」
「無視?!可愛い恋人の嘆きを無視?!」
「すぐ会えるのに何言ってんだ」
「さっき帰したくないって言ったのは誰?!幻聴?!」
「うるせぇ。テンション高すぎだろ」
「ああもうわかってない!恵くんってば乙女心を全然わかってない!これっぽっちも!」
「……そう言うは男心を何もわかってねぇくせに」

 深く絡んだ指がようやく離れたのは女子寮の前で足を止めたときだった。恵くんの体温が残ったままの手を握りしめてその場で立ち尽くしていると、ひどく不愛想な声音に情緒も余韻もなく急かされる。

「ほら、早く帰れ」
「わかってるんだけど浴衣の恵くんがすごく名残惜しくて……部屋に連れて帰りたいよ……」
「……部屋って、お前自分が何言ってんのかわかってんのか?」
「飾るっ!」
「飾るな。もうわかった、の想いは充分伝わった。さっさと帰ってくれ、頼むから」
「そんなに邪険にしなくてもいいのに……」
「そういう意味で言ってんじゃねぇよ。は何も悪くないから変な勘違いはすんな。これは俺の問題だ。もう色々と限界なんだよ。俺は俺を全く信用できない」
「それって何の話?哲学?」
「浴衣ならいつでも着てやるから今日は大人しく帰れ」
「ふっふっふ。言質取りましたからね?」

 口端を吊り上げて茶目っぽく笑うと、わたしは一歩踏み出して彼との距離を詰める。背の高い彼を見上げながら、表情を真面目なものへ改めて己が想いを真摯に告げた。

「恵くん、今日は本当にありがとう。大好きだよ」

 彼の肩に手を添えてそっと背伸びをした。その薄い唇に触れるだけの口付けを落とし、込み上げる羞恥を堪えるように下唇を噛んでくしゃりと笑う。大きく瞠られた白群の双眸に赤い顔のわたしが映っていた。虚を突かれたように黙したままの彼に向かって、わたしは胸の前で小さく手を振ってみせる。

「ばいばい。また明日ね」

 軽やかに身を翻すと、わたしは一度も振り返ることなく女子寮の扉を開けた。幸せを噛みしめながら三和土で下駄を脱いでいたわたしの視界に突然影が差す。頭を持ち上げれば、飽食した悪魔にも似た笑みで出迎えるふたりがそこにいた。

「よう、
「それで、どうだったのよ」

 その問いに自然と頬が緩んだ。わたしは満面の笑みで明るく答えてみせる。

「恵くんの恋人に昇格しました!」



* * *




「マジで長かったわね」
「本当にそうだね。いっぱい食べたから帯がきつくて……」
「そういう話じゃないわよ」

 わたしの部屋で我が物顔にくつろぐ野薔薇ちゃんに、わたしはぎこちない苦笑を返した。真希先輩に手早く帯を解いてもらうと、浴衣を脱いで白いワンピース肌着一枚になる。

「で、どっちから告白したの?やっぱ伏黒?」
「今日は全部吐くまで寝かさねぇからな?」

 一片の隙もない瞳を光らせるふたりから逃れるように、わたしは部屋の引き戸に手をかけた。

「あっ、おいコラ逃げんな!」
「さ、先にちょっとお手洗い!」

 後ろ手で戸を閉めると、トイレに入って用を足す。薄い扉の向こうから野薔薇ちゃんの楽しげな笑い声が聞こえる。白いトイレットペーパーを引き寄せれば、乾いた音が耳を打った。芯が剥き出しになるまで綺麗に使い終わってしまったようだった。

 水で全てを洗い流し、一度トイレから出る。洗面台で手を洗ったあとに再びトイレに戻り、百均ショップで買い揃えた突っ張り棒や木板で作ったお手製の収納棚に手を伸ばした。竹の編み籠に詰め込んだトイレットペーパーをひとつ取り出し、ホルダーに差し込もうとしたところでふと気づく。

「……あれ?」

 違和感があった。わたしはもう一度収納棚に手を伸ばし、今度は編み籠そのものを棚から引き下ろした。中を覗き込み、淡い桃色に染まったそれをじっと見つめる。

 わたしはトイレットペーパーの編み籠を戻すと、その隣に置いていたもうひとつの編み籠を手元に引き寄せた。そっと蓋を開け、唇を一文字にきつく結ぶ。わたしはその中からひとつずつ取り出し、震えを抑え込むようにして強く握りしめた。

「……野薔薇ちゃん、真希先輩」

 部屋に戻ったわたしはふたりの名を呼んだ。談笑していたふたりが揃って振り返る。わたしは抑揚に欠けた声音で淡々と切り出した。

「……トイレットペーパーが違うんだ」
「何?シングルとダブル間違えたとか?」
「ううん。お兄ちゃんがいたころに使ってたトイレットペーパーだよ」

 眉根を寄せるふたりに、わたしは持っていたそれを掲げて見せる。ほぼ真四角の形に個包装された淡い水色のそれを見つめ、野薔薇ちゃんが訝しむように訊いた。

「……ナプキン?」
「そう。これね、お兄ちゃんがいたころに使ってたメーカーのナプキン。でも今は違うメーカーのを使ってるんだよ。そっちのほうがちょっと安いから」
「…………は?」

 真希先輩が低い声を出す。わたしは間を置くことなく、手に持っていた指の長さほどの細長いそれに視線を落とした。

「これってタンポンだよね?わたしが初めて生理になったとき、慌てたお兄ちゃんが間違えて買ってきたことがあるんだけどね、お兄ちゃん、何もわからないからって薬局のお姉さんに必要なもの全部聞いて全部買ってきたんだ。そのときのお兄ちゃんを思い出すとなんだか捨てられなくて、それからずーっとトイレの棚に置きっ放してたんだけど……パッケージ変わったんだね。知らなかったな」

 自分でも驚くほど饒舌に語るのは込み上げる恐怖を堪えるためだった。部屋を満たす空気が張り詰めたものへと一変する。戦慄した表情で野薔薇ちゃんがわたしの名を呼んだ。

「……
「うん」

 わたしは小さく頷く。這うような怖気に震える唇を半ば強引にこじ開けた。

「……わたし、買った覚えなんてないよ」