「あの、すみません。お手洗いをお借りしたいのですが」

 小脇にノートパソコンを抱えて歩く新田明の背中に声を掛けたのは、いかにも遊び人のように髪を明るく脱色した若い男だった。競歩並みの速さで廊下を蹂躙していた新田は足を止めるや、「……お手洗いっスか?」と繰り返しながら首だけで後ろを振り返ってみせる。

 新田が脇目も振らず廊下を歩くに至ったのは、かの“最強”五条悟のせいだった。同僚の伊地知が五条に「今夜ここで夏祭りがしたいから何とかしてよ」と無茶ぶりをされたせいで、伊地知が担当するはずだった仕事の一部が新田にまで流れてきたのである。

 この業界は人手不足が常。ただでさえ山積みの仕事に他人の分まで回されては、どれほど苦労して時間を捻出しようと定時で帰れるはずもない。今日こそ早く帰るつもりだった新田が残業を甘んじて受け入れたかと言えば、しかしそんなことはなく、「だったら秒で終わらせて帰ってやるっス!」とその明るい双眸に爛々と闘志を燃やしてみせたのだった。

 一分一秒でも早く退勤しようと自らのデスクへ歩を急ぐ新田は、紙袋を手にした若い男を目でなぞった。全く見覚えのないツナギ姿と肉体から放出される微弱な呪力量から、その男が高専外部の人間、それも呪いを視認できない一般人であることをすぐに見抜くや、非の打ち所のない営業スマイルを浮かべてみせる。

「ここからだとちょっと遠いんで、近くまで案内するっスよ」
「わざわざありがとうございます」

 表向きは私立の宗教系学校の扱いを受ける呪術高専だからこそ、外部との揉め事は極力避けたいというのが上層部を始めとした高専関係者たちの本音だった。“何も知らない一般人にこそ親切に”――高専に通う学生のころから口酸っぱく言い聞かせられた言葉は、今では新田の身体にもすっかり染み込んでいる。

 新田は歩速を合わせるようにゆっくりと歩きながら、中肉中背の若い男に話しかけた。

「夏祭りに呼ばれた方っスよね?」
「はい、そうです。屋台でたい焼きを売らせて頂く予定で」
「たい焼き最高っスね!仕事終わりに買わせて頂くっス!」
「ありがとうございます。頑張って美味しいの焼きますね」
「でも急なことで大変っスよね……面倒に巻き込んで本当に申し訳ないっス……」
「いえ。今年は台風の影響で夏祭りが軒並み中止や延期で、こちらとしてはむしろありがたいくらいですよ」

 いかにも遊び人らしきその風貌に反して好感の持てる受け答えをするその男に、新田は人は見た目に寄らないっスねと内心驚いていた。廊下の曲がり角が近付いてきたところで足を止め、男を見上げて人好きのする笑みを向ける。

「お手洗い、そこの角を曲がったらすぐっスよ」
「本当にありがとうございました」

 謹直に一礼した男から視線を外し、すぐに新田は来た道を引き戻っていく。男は新田を追うように振り返った。喪服めいた黒いスーツの背中が視界から消えるより早く、持っていた紙袋からコピー用紙の束を引っ張り出す。感情の一切が失せた瞳を手元に落とすや、その場で手早く紙を捲り始めた。

 目当ての一枚を見つけたのは、新田の影が視界から消えようとした瞬間だった。左上部に貼られた小さな写真には緊張した面持ちの新田が写る。風貌は今と異なる黒髪で、その顔立ちもやや幼い。氏名欄に手書きで記された名を見た男は視線を上げ、遠くに揺れる明るい茶髪をたしかに捉えた。

「……新田明」

 まるで蛇のように先端が半分に割れた長い舌が薄い唇を舐め上げたそのとき、さもタイミングでも見計らったように軽快な着信音が響き渡った。尻のポケットに手を伸ばすと、男は発信者の名を確認することなく、スマホの画面に指を滑らせ素早く応答する。

「はい、です。夏油先輩、どうしたの?」

 気さくな口調で尋ねつつ、男は廊下の壁に背を預けてその場にしゃがみ込んだ。紙袋に入っていた薄型のノートパソコンを取り出すと、それを膝の上に置いて片手のみで操作し始める。

「え、今?呪術高専にいるよ。そう、今朝の事後処理に来月の下見も兼ねて。もう少し感謝してくれてもいいんじゃないかな?――ってのは冗談だけどさ」

 四角い画面に次々と表示されたのは、呪術高専内を映す複数の監視カメラの映像だった。男は通話に意識を割きつつ、この廊下を通る人間がいないかどうかを探るように素早く映像を切り替えていく。

「ああうん、の名前を変えられたせいで、ちょっとね。真人は何も悪くないよ。菱縄縛り?……ううん、それは完全に別件。に酷いことをした罰だよ。何をって、口にもしたくないようなことだけど。あ、さっきの話?……そう、急にどうして五条家の養子に?って思ってたら、どうやらそっちが本命だったみたい。そうだよ、五条先輩にしてやられた。俺にはもうの自我は奪えない」

 男のかんばせに憂いの色が帯び、覇気のない声音で会話を続けた。

「だから夏油先輩ととの接触が……いや、計画には何の支障もないけど念には念をって。俺のほうこそしくじって本当にごめん。欲しいものは手に入れたからすぐに戻るよ……え、何って履歴書」

 そこで言葉を切ると、男は嘆息混じりに肩をすくめる。

「ボールペンで手書き、修正テープの使用は不可って感じ?時代遅れになりつつあるけど、紙っていうのは手に入れるには一番厄介だよなぁ。スマホやパソコンのセキュリティは赤子同然のザル仕様なのにさ……はい、その通りでございます。アナログの頼もしさを今まさに痛感しております」

 監視カメラを切り替えていた男の手がぴたりと止まった。白衣を着た気だるげな長髪の女――家入硝子が地下の検屍室から立ち去る姿が映っていたのだ。男は閉じたパソコンを紙袋に滑らせると、すぐに膝を伸ばして移動を始める。

「あー……そこは平気かな。俺の“獲鱗侵髄”はあの子と違って生きたモノも操れる。つまり俺は自分の細胞だって自在に操れるんだよね。細胞の位置を操作して顔や体型を作り変えることなんて朝飯前だよ。もちろん、真人の“無為転変”には劣るけどね」

 男は非常口から一度外へ出た。建物内よりも監視カメラの目がうんと少なく、夏祭りの準備で外部の人間が往来する外のほうが警戒されにくいと踏んだからだった。扉の向こうはもうすっかり夜の帳が落ち、すぐ傍にあるらしいスピーカーから陽気な祭囃子の音が流れている。

 青々とした雑草の生える地面を静かに踏みしめる。スマホから響くさっぱりとした声音に応じながら、検屍室を目指して男は歩を進めた。

「大丈夫だよ。何があろうと、五条先輩は俺には絶対手を出せない」

 男は幸福を溶かし込んだ微笑を浮かべ、星屑が散りばめられた明るい夜空を大きく仰いだ。

「当たり前だろ?だって俺、に心底愛されてるからね」



* * *




「たこ焼き、焼きそば、唐揚げ、かき氷、焼き鳥……あ、林檎飴もある!」

 切妻造の木門と全面白木造のお堂を直線で繋ぐ広い表参道。それを両側から挟むようにして立ち並ぶ複数の屋台に、わたしは大きく目を瞠った。宵の口に連なる提灯が足元を淡い橙色に染め、スピーカーから響く祭囃子が心を浮き立たせる。普段はずいぶんと物静かな石張りの参道も、今宵はにわかに人通りが激しくなっていた。

 わたしのための“夏”とはいえ、独り占めをするのは味気ない。人が少ないのは夏祭りらしくないのでどうにかならないかと駄目元で伊地知さんに相談してみたところ、夏祭りの開催を知らせるメールが高専で働く術師や補助監督、パート職員、そして“窓”へと一斉送信されたのだ。

 急な話だというのにこれほど多くの人で賑わっているのは、先月日本列島を襲った大型の台風の影響で、夏祭りや花火大会が軒並み中止・延期になったせいかもしれない。誰しも“夏”をもっと味わいたいのだ。きっと、わたしと同じように。

 心許なく繋がる手をぎゅっと優しく握りしめると、わたしは後ろを振り返って声を弾ませる。

「どれから食べよっか!」
「……どれからって、まさか全部食うつもりか?」

 沈黙を貫いていた彼がようやく疑問に唇を割った。普段と変わらぬ呆れた様子に内心安堵しつつ、わたしは白群の双眸を覗き込んで茶目っぽい笑みを浮かべてみせる。

「だってわたしのために用意してくれたんだよ?全部食べなきゃ帰れないよ」
が思ってる以上に入んねぇと思うけど」

 言葉の意味がわからず無言で小さく首をひねると、彼の眉間に薄っすらと皺が寄る。繋がったままの手に力が加わり、重なった肌の隙間にどちらのとも知れない汗が滲んだ。

 やや視線を逸らした恵くんは「……効果抜群はこっちなんだよ」と小声で吐き捨てたあと、頭上に疑問符が出ているであろうわたしを射るように見据えて端的に告げる。

、浴衣だろ。今」

 はてと首をさらに傾げて数秒、腹にきつく帯を締めていることにようやく思い至る。洋装にはない胃への圧迫感に不安を覚えたわたしは、肩を縮こませて目線を落とす。

「お願いします……食べるの手伝ってください……」

 ぼそぼそと紡がれた懇願に小さな嘆息をひとつ落とすと、恵くんはその怜悧なかんばせを屋台のほうへと向けた。

「まずは?」
「一番近くの焼きそば!」

 弾かれたようにわたしが声を張り上げれば、彼の表情が途端に険しくなる。焼きそばの屋台にでんと立つ、白と黒の毛むくじゃらの生き物に気がついたのだろう。頭にねじり鉢巻きを巻いて焼きそばを焼くジャイアントパンダの姿を、無言でじっと睨めつけている。

 恵くんは眉根をきつく寄せながら、繋いだ手をゆっくりと解いた。温かい体温が離れ、生ぬるい夜気に触れたわたしの手のひらが虚空を掴む。

 わたしと手を繋いでいるところなど、知り合いには見られたくないのだろう。噴き出した寂しさを飲み込んだ瞬間、骨張った大きな手がわたしの手を強く掴んだ。指と指の間に恵くんのそれが滑り込むや、絡め取られるように手を深く繋ぎ止められる。

 ――それは俗に言う“恋人繋ぎ”だった。

「……恵くん?」と問いかけたわたしを無視して、彼が屋台に向かって歩き出す。その澄ました横顔に朱が差しているように見えたものの、真近くで灯る提灯のせいではっきりとはわからなかった。

 ふたり揃って屋台の前に立つと、ねじり鉢巻きにエプロン姿のパンダ先輩が「いらっしゃい!」と意気軒昂に声を張った。冷めた表情の恵くんが深く絡んだ手を軽く引き寄せ、無言でわたしに注文を促す。

「えっと、パンダのお兄さん、焼きそばひとつください」
「はいよッ!」

 パンダ先輩は元気よく返事すると、どこか居た堪れない様子の恵くんに視線を滑らせた。

「おにーさん超可愛い彼女連れてるね~!ラブラブか~?!ちょっとオマケしちゃお!」
「……どうも」

 耳を打った淡泊な小声にわたしは瞠目する。否定ではなかった。むしろ肯定とも取れるそれにひどく動揺するわたしを、パンダ先輩が「お前ついに……」とにやにやした顔で見つめる。わたしはすぐに何度もかぶりを振った。残念ながら、恵くんの恋人になった覚えはない。

 今日だけ付き合ってと言ったわたしの我儘を叶えてくれているのだろうか。今日だけは恵くんの恋人のように振る舞っても良いのだろうか。恵くんの隣で彼女面をしても許されるのだろうか。

 過熱する脳髄が疑問で埋め尽くされたそのとき、恋人繋ぎだった手が優しく解放される。彼は浴衣の袂からがま口の小銭入れを取り出しながら、透明のフードパックに詰められた焼きそばを見つめて淡々と尋ねた。

「パンダ先輩、コレいくらですか」

 小銭入れから百円硬貨を取り出し始めた彼を遮るように、わたしはかぶりを振ってすぐに言葉を紡ぐ。

「駄目だよ、わたしが払うよ。わたしが誘ったんだから、恵くんは――」
「俺も食べるんだろ」
「そうだけど、でも」

 それでもなお言い募ろうとするわたしから視線を外し、彼はパンダ先輩の手のひらに四百円を乗せてしまった。助けを求めるようにパンダ先輩を見つめれば、「超可愛いおねーさん、優しい彼氏に甘えときな?」と諭すような笑顔を返される。

 様子を窺うように隣に視線を這わせると、不愛想な恵くんに「ほら」とフードパックを手渡された。作り立ての焼きそばがたっぷりと詰め込まれたそれを受け取りながら、わたしは力強く頷いてみせる。

「かたじけない!この御恩はいつか必ず!」
「武士かよ」

 それからわたしたちはパンダ先輩に礼を告げ、屋台からやや離れた場所へ移動した。早速透明のパックを閉じる輪ゴムを外し、割り箸を割ろうとして停止する。パックを片手に持った状態では割り箸を割るのは困難だった。

 どうするべきかと眉を寄せた矢先、骨張った指にするりと奪われた割り箸があっという間に半分に割れた。「これで良いか?」とぶっきらぼうな声音とともに、割り箸がわたしの手元へ戻ってくる。

 わたしは瞬きを繰り返しながら恵くんを見つめ、抑揚に欠けた平板な声音に言葉を乗せる。

「おめでとうございます。“恵くん好きポイント”が1ポイント加算されました」
「……加算?ていうかなんだ、その好きポイントって」
「えっ知らないの?いっぱい貯まるとわたしが恵くんにメロメロになるんだよ?」
「メ……知らない俺がおかしいみたいな言い方すんな」

 言うと、やや俯いた恵くんが間を置いて小さな声で切り出した。

「…………じゃあ今合計で何ポイントなんだよ」
「10億飛んで1ポイントかな!」
「……それ加算の意味あんのか?」

 怪訝な視線に茶目っぽい笑みを返したわたしは、パンダ先輩特製の焼きそばを頬張る。もちもちの麺に絡む香ばしいソースに「おいしい!」と目を瞠ると、一口分の焼きそばを箸で掴んで彼の口元へ持っていく。

「恵くん、はいどうぞ」
「……は?」

 頓狂な低音を落とした恵くんを見て、わたしは即座に我に返る。持ち上げたフードパックを自らのほうへ引き戻しつつ、口端にぎこちない苦笑を刻んだ。

「……ごめんなさい。いつもお兄ちゃんにやってたから、つい癖で」

 同じ食べ物を分け合うときは、決まって悪戯な笑みを浮かべたお兄ちゃんに「、あーん」とおどけたように促された。出店で食べ物を買ったときは特にそうだったせいで、わたしは促される前に親鳥の如く振る舞う癖が付いていた。相手がお兄ちゃんではなく恵くんだということをすっかり忘れて、恥ずかしい悪癖を披露してしまったらしい。

 夏空のような爽やかなお兄ちゃんの笑みが脳裏を過ぎり、わたしは静かに視線を落とした。叶うことなら、お兄ちゃんとも夏祭りに来たかった。「遅くなってごめんな。仕事がちょっと立て込んで……花火、間に合うと良いんだけど」と申し訳なさそうに告げるお兄ちゃんの優しい顔は、今でもはっきりと思い出せる。

 お兄ちゃんがいない夏をようやく実感した。当然のようにお兄ちゃんが隣にいた夏こそ特別だったのだと思い知らされるようだった。胸に大きな穴が空いたような寂しさを感じながら焼きそばを口へ運ぼうとしたとき、「」とどこか険を含んだような声音で名を呼ばれる。

 引っ張られるように鼻先を持ち上げると、恵くんと目が合った。短く息を吐いた彼はフードパックに顔を寄せるように上体をやや前のめりにさせ、視線を明後日の方向へ飛ばしながら躊躇いがちに口を開ける。色白の肌に薄っすらと朱が差している様子がはっきりと見て取れる。

 わたしはだらしなく頬を緩めた。恵くんのそういう優しさが、好きで好きで堪らない。

 焼きそばを掴んだ箸先を再び彼の口元へ運びつつ、悪戯心が疼いたわたしは砂糖を塗したような甘ったるい声で食事を促した。

「はーい、恵くんあーん――ってどうして閉じるの?!開けて?!」
「……血迷った。やっぱやめる」
「やめないで!正気に戻っちゃダメだよ!ワンモアチャンス!ワンモアチャンス!」
「わかった、わかったから何度も叫ぶな。見られてんだよ」

 どこか突き放すような響きにはっとする。痴話喧嘩だとでも思われているのだろう、周囲から向けられるひどく穏やかな視線に羞恥を覚える。

 ぎこちない笑みを浮かべれば、恵くんが呆れたように口角をふっと緩めた。怒っていないことに安堵して、わたしは「どうぞ」と彼の口へ焼きそばを運ぶ。やや間を置いて、パンダ先輩の特製焼きそばは恵くんの咥内へ消えていった。

「……美味いな、コレ」
「でしょ?!」

 ふたりで焼きそばを平らげると、甘辛いタレがたっぷりの焼き鳥を二本、そしてソースの香りが堪らないたこ焼きと赤く艶やかな林檎飴をひとつずつ買った。またしても恵くんの奢りだった。わたしが巾着付きのカゴバッグから財布を取り出すより早く、恵くんがあっさりと勘定を済ませてしまうのだ。

「俺のほうが多く食ってるだろ」とか「五条先生相手なら“人のお金で食べるお肉最高!”とか言うくせに」とか「小銭減らしたいんだよ。重いから」とか色々言われたけれど、こうも奢られ続けてはただただ申し訳ない。

「かたじけのうござる……」と言いつつ受け取るたびに、「のそれって誰の影響なんだよ」と訝しむような視線を向けられた。時代劇が好きだったお兄ちゃんの影響なのだけれど、謎が多い女のほうが色っぽい気がするので黙殺しておいた。これでわたしの色っぽさが増したに違いない。

 恵くんに返す恩だけが増えていくなぁと思いつつ、ひと気の少ない参道の脇に立って焼き鳥を頬張る。わたしと同じく焼き鳥にかぶりつく彼が、行き合う人々に対してどこか警戒したような視線を送る。

「……それにしても多いな」
「焼き鳥?わたし食べよっか?」
「違ぇよ。人だ」

 無慈悲な低音で切り捨てると、大勢の人で賑わう夏祭りを映す双眸を細めた。

「高専関係者ばかりにしても、こうも人が多いと鱗の呪霊が紛れ込んでもおかしくないだろ」
「……高専に入れるの?」

 咀嚼した焼き鳥を飲み込んだわたしは小さな声で尋ねた。彼はこちらに視線を寄越すことなく説明を加える。

「高専の敷地内全てに強固な結界が張られている以上、“特級”である鱗の呪霊本体が侵入するのはまず無理だろうな。けど仙台のときみたいに操られた人間が這入り込む可能性はゼロじゃない。呪いを視認できない人間から溢れる負の感情、それに紛れ込ませられるほどの微々たる呪力で人間を操れるようだったし、こっちが気づかぬうちに――ってことは充分に考えられる」
「夏祭りの準備に来た外部の人のフリをして、ってこと?」
「いや、関係者に扮している可能性もあるだろうな。前に一度、鱗の呪霊が伊地知さんの名を騙って俺に電話をかけてきたことがある。関係者しか知り得ない内部情報を流したのは焼死体になった上層部の奴だとしても、口調も会話のテンポも伊地知さんそっくりで危うく騙されかけた。向こうはそれくらい巧妙に演じられるんだよ、“人間”を」
「でも、全部可能性の話だよね?」

 わたしが首を傾げると、恵くんがようやくこちらを向いた。険を孕んだその表情を解すように柔らかく笑んでみせる。

「きっと大丈夫だよ。今夜は悟くんがいるし、それに恵くんもいる。悪いことなんて何も起こらないよ」
「……五条先生はわかるけど、なんで俺なんだよ」
「だってわたしのこと守ってくれるんでしょ?」

 いつかの約束をなぞるように悪戯っぽく笑いかければ、彼がきつく眉根を寄せた。不機嫌そうな愛想のないその顔も大好きだなと思っていると、わたしの意識を引き戻すように彼の薄い唇が淡々と言葉を紡いだ。

、口にタレ付いてんぞ」
「えっ」

 思わぬ指摘に顔から火を噴きそうになりながら、失態を隠すように深く俯いてカゴバックからハンカチを取り出す。野薔薇ちゃんの手で丹念に塗り込まれたリップを落とさぬように優しく、けれど素早く口端を拭って顔を持ち上げた。

「取れた?」
「そこじゃねぇよ」

 短く否定した恵くんがわたしの右頬に手を伸ばす。「じっとしてろ」と言うなり親指の腹で頬を優しく拭うと、彼は事もなげにその親指を舌で軽く舐めた。

 ごく自然に繰り広げられた一連の動作に唖然というより愕然とするわたしを置き去りにして、残り少なくなった焼き鳥にかぶりつく。周囲に警戒した目を送る怜悧な横顔を見やったわたしは、羞恥に震える手でハンカチを強く握りしめた。

「うわぁ……」
「……なんだよ」

 白群の双眸がわたしを撫で付ける。眉根に力を篭めたわたしは恵くんの顔をびしっと人差し指で差した。

「恵くんの今のそれ、“モテる男のあざとい仕草”堂々の第三位だよ」
「どこ調べだよ」
「わたし調べです。あ、先に言っておくけど今日付けの最新情報だからね?」
「……だったらにモテる男の仕草の間違いだろ」
「正しくはそうだね」

 訂正を認めて首肯すれば、たっぷり十数秒の沈黙を挟んでから彼が小さな声で切り出した。

「………………ちなみに一位は?」
「してくれるなら教えるよ?でもわたしにモテてモテて仕方なくなるけどその覚悟は良い?」

 まるで相手を試すような不敵な笑みを浮かべたそのとき、人混みを掻きわけるようにしてこちらへ駆けてくる人影に気づいた。弾かれたように恵くんの前へ先んでると、「新田さんだっ」とわたしは胸の前で両手を振る。喪服めいた黒いパンツスーツに身を包んだ補助監督の新田さんがわたしたちの前で足を止めた。

「いや~遠目から見てもわかるくらい美男美女のお似合いカップルっスね!ちゃん超可愛いっス!今夜は彼氏とデートっスか?!」
「ちょっと違います。彼氏になってほしい人とデートです」

 その問いに自慢たらしく小鼻を膨らませれば、新田さんが勢いよく噴き出した。

「さっすがちゃん、気持ちいいくらい全力で攻めてて最高っス。この魔性の女相手に伏黒君もよく平気な顔してられるっスね。これがモテる男の余裕って奴っスか?」
「……いやむしろ逆です」
「ああなるほど、キャパオーバー……だからって不純異性交遊は駄目っスよ?ほら、夏祭りは特に多いって聞くんで」

 新田さんは悪戯っぽく歯を見せて笑うと、すぐに表情を切り替えて左右に首を動かす。

「にしても、おかしいっスね……」
「どうかしたんですか?」
「たい焼きの屋台を探してるんスけど、全然見当たらなくて……」

 釣り込まれるようにわたしは屋台のほうへ視線を這わせる。何度探してみても、ぶら下がる暖簾に記された文字に“たい焼き”の四文字はない。恵くんにも確認してみたけれど、「ねぇな」と端的な言葉が返ってくる。わたしは眉尻を下げた。

「うーん……たい焼きはどこにもないですね……」
「ってことは私の聞き間違いっスね!変なこと言って申し訳ないっス!」

 意外にもあっさりと話を切り上げると、新田さんが並んだ屋台のひとつを指差して笑った。

「さっきからふたりのこと、ずーっと狗巻君が見てるっスよ?そろそろ行ってあげたほうが良いんじゃないスかね」