「この度は私の身勝手極まりない行動により、皆様に多大なるご迷惑をおかけしましたこと、謹んでお詫び申し上げます。誠に申し訳ございませんでした」

 腰から上体を直角に折り曲げながら謹直に謝罪の言葉を口にすれば、間を置くことなく「そ、そんなに何度も謝らなくても!」と焦りを含んだ柔らかな声音が落ちてくる。ゆっくりと視線を持ち上げた先には、困り顔の三輪先輩が立っていた。

 傾き始めた陽光が三輪先輩の蝉鬢を茜色に染める。姉妹校交流会の打ち合わせを終えた楽巌寺学長と三輪先輩の見送りに付き添うわたしは、高麗門の目と鼻の先で立ち止まって会話を交わすふたりの学長に目をやった。

 互いに話を切り上げる気配もないことを確認すると、再び視線を三輪先輩へと戻した。背筋を伸ばしたわたしは眉を下げ、すぐに小さくかぶりを振る。

「いえ、何度謝っても気が済みません……我を忘れるほど感情的になるなんて呪術師失格です。本来であれば東堂先輩や真依先輩にも、直接謝罪させて頂きたかったんですが……」
「それに関しては謝るのはこっちのほうですよ……すみません、勝手にいなくなって。五条さんに怒って帰ったとかじゃないので勘違いしないでくださいね」
「……はい」
「真依は根に持つタイプなのでわかりませんけど、東堂先輩ならきっと気にしてないと思いますよ。私が保証します!」

 澄んだ双眸に強い光を宿し、三輪先輩は胸の前で固い拳を作った。僅かに不安の残るその言葉に何と返せば良いのかわからず、わたしは苦笑を張り付けながら「ありがとうございます」と差し当たり感謝を伝えておく。

 野薔薇ちゃんから聞いた話によれば、野薔薇ちゃんも恵くんと同じように堂々と喧嘩を売られたらしい。自販機のすぐそばにいた野薔薇ちゃんと喧嘩を吹っ掛けた真依先輩、そして制止に入った真希先輩は、間一髪のところでわたしの領域に巻き込まれることはなかったそうだ。

 とはいえ、躊躇なく領域を展開し東堂先輩に応戦しようとした事実はしかと目撃されている。わたしの感情的な行動が禍根を残す結果になっていないことを、ただただ祈るばかりだった。

 三輪先輩は楽巌寺学長の丸まった背中を見つめると、「まだ話し込んでますね……」とどこか辟易した様子で呟いた。そして左肘に引っかけている大きな紙袋に目を落とし、遠慮がちに首を傾げてみせる。

「夏野菜、本当にこんなにたくさん頂いてしまって良いんですか?」
「もちろんです。自慢の出来なので天ぷらにぜひ!」
「感想送りますね!」
「はい、待ってます!」

 互いに明るい笑みを交わし合ったそのとき、作業着姿の男が数人、列を成して高麗門をくぐり抜けた。先頭を歩く壮年の男はわたしと目が合うや、「伊地知さんという方とお約束をしている者ですが」と丁寧な語調で切り出した。わたしが身振り手振りを加えて校舎までの道筋を伝えれば、男は短く礼を告げてわたしたちの脇を通り過ぎていく。

 作業着の男たちが呪術師でも“窓”でもないことに気づいた三輪先輩は、その背中を見送りながら僅かに眉を寄せる。

「……これから何か始まるんですか?」
「わたしのための夏が始まるんです」
「五条さんのための、夏?」

 不思議そうに首をひねった三輪先輩に、わたしは悪戯を企む子どものような笑みを返した。黒目がちな明眸にますます怪訝な色が浮かんだそのとき、こちらの様子を窺う鋭い視線に気づいた。夜蛾学長との話が終わったのだろう、楽巌寺学長が深く窪んだ眼窩を三輪先輩に向けている。

「三輪」
「あっ、はい!」

 名を呼ばれた三輪先輩は弾かれたように返事をすると、「本当にありがとうございました!」と生真面目に一礼して立ち去ろうとした。喪服じみた黒いその背中を、わたしは慌てて引き止める。

「あの、三輪先輩!」
「どうかしましたか?」

 すぐに歩みを止めた三輪先輩に駆け寄ると、わたしは流れるような動作でその細い右手を取った。一見華奢に見えるそれは意外にも厚みがあり、手のひらの皮膚や指の腹などはところどころ硬くなっている。真希先輩の力強い手によく似ていると思った。もしかすると、真希先輩と同じように何か呪具を扱う戦闘スタイルなのかもしれない。

 たゆまぬ努力が積み重なった三輪先輩の右手を、己の両手でそっと包み込むようにして胸の前まで引き寄せる。わたしは目蓋を閉じると同時に、呪力を篭めた祈りの言葉を淀みなく紡いでいった。

「吐菩加身依美多女、祓い給え清め給え」

 古神道の祝詞である三種祓詞を唱え終わって目を開けば、驚いた様子の三輪先輩が瞬きを繰り返していた。わたしは右手を優しく握りしめたまま、相手を安心させるような笑顔を拵えてみせる。

「ちょっとしたおまじないです。三輪先輩がこれからも元気で過ごせますように、って。何があっても、弟さんたちのところに笑顔で帰ってあげてくださいね」
「……五条さん」

 長い睫毛に縁取られた柔らかな瞳に、悲哀と同情が入り混じった複雑な色が満ちる。きっとわたしの身の上についてはすでに聞き及んでいるのだろう。三輪先輩が口を開くより早く、楽巌寺学長が大きな咳払いをひとつ落とした。わざとらしいそれに黒目がちな双眸が大きく揺れ、わたしは笑みを深めて話を切り上げる。

「弟さんたちにもよろしくお伝えください」
「……はい、必ず!来月の交流会、お互い精一杯頑張りましょう!」
「絶対に負けませんから!」

 三輪先輩は人好きのする笑顔とともに会釈すると、楽巌寺学長と夜蛾学長の一歩後ろに控えて歩き始める。わたしが見送りに同行するのはここまでだった。客人の背中が高麗門を抜け、水堀を挟んだ架け橋を渡り終えたところでわたしはようやく息を吐いた。

 肺を空っぽにするように細く長く吐き出すや一転、眉根をきつく寄せながら首だけで後ろを振り返る。石を削って作られた常夜灯のその向こう、立派な広葉樹の木陰を穿つように睨み付けた。

「……悟くん、いつまでそこに隠れてるつもり?」

 まるで問いかけに呼応するように、斜陽が生み出す黒い影が不自然に蠢く。やがて小さな葉音とともに、広葉樹の太い幹から悟くんがひょっこりと顔を出した。

「夜蛾学長もう行った?着信の数がすごいのなんのって。メンヘラかよ……って、あれ?、般若みたいな顔してどうしたの?」

 悟くんはお気楽な笑みを結びながらわたしの顔を覗き込んだ。へらへらと緊張感のないその表情に、思わず口端が小刻みに引きつる。

「悟くん、わたしは今ものすごーく怒っています。カンカンです。まさに怒髪天を衝くって感じです」
「だろうね。見りゃわかるよ。だからなんで?って訊いてるんだけど」
「悟くんのせいで夜蛾学長にこっぴどく叱られたんですっ!」

 ぎゃんと吼えると驚いた悟くんが僅かに身を仰け反らせた。「あー……ホント悪かったと思ってるんだよ?」と頬を掻く無責任な義理の兄をきつく睨め付ける。たった一言の謝罪で済むと思ったら大間違いだと、わたしは悟くんに大きく詰め寄った。

 楽巌寺学長到着から約二時間後、伊地知さんが伝えた嘘の予定通り高専に戻った夜蛾学長は、悟くんに一杯喰わされたことを知るや当然のように激怒した。

 野薔薇ちゃんたちと“夏”の準備に勤しんでいたわたしは伊地知さんとともに呼び出され、事情を説明する間もなく落雷の如き説教を受ける羽目になった。楽巌寺学長を待たせての説教故にたった五分で済んだものの、五分という短時間だからこそ間断なく紡がれ続ける叱責はわたしの良心を容赦なくぐちゃぐちゃにした。

 真摯な相槌と謝罪を繰り返しながら、始終深々と頭を下げていた記憶しかない。思い出すだけで身体が震えるほど怖かったけれど、明日の提出を命じられた反省文が五枚で済んだだけ良しとしたい。今回の反省を活かしたこれからの行動については、“悟くんの首に首輪を付けて監視する”とでも書いておくつもりだ。覚悟しろ、五条悟。

 義妹が人権を無視しようとしていることなど露知らず、悟くんは普段と変わらぬ軽薄な表情を浮かべる。笑っていられるのも今のうちだと思ったのも束の間、眼前に差し出された大手百貨店の紙袋にわたしは目を瞬いた。白磁の麗貌が阿るような媚笑を結ぶ。

「これプレゼントするから機嫌直してよ。最高級品だぜ?」

 そっと紙袋を覗き込んだわたしは即座に沈黙した。そしてどこか自慢げな悟くんから目を逸らしつつ、受け取ったそれをきつく胸に抱え込む。

 前言撤回。反省文の内容は“悟くんによく言って聞かせる”に変更だ。



* * *




、待って。ちょっと待って」
「もう。それ何回目?」

 縋るように右手を掴まれ、わたしは肩をすくめた。大の男、それも日本人男性の平均身長を遥かに上回る長身痩躯の怪しい白髪頭の男が、まるで幼児のように地面に座り込んで駄々をこねる姿は見るに耐えないものがある。

 身内の情けない有り様に嘆息をひとつ落とすと、地べたに腰を落としたままの悟くんがわたしを見上げてかぶりを振る。

「その恰好マジで恵に見せんの?ねぇやめない?考え直さない?」
「マジで見せるしやめないし考え直さない。悟くんしつこい。モテないよ?」
「いや~超モテるんだなコレが――ってなんで歩き出すの?!つーか馬鹿力だな?!ケツが擦れて痛い!」

 今にも手首が引っこ抜けそうになりながら、喧しく喚く悟くんを無視してゆっくりと前へ進む。摺り足気味になっているせいだろう、すっかり日の落ちた地面を踏むたび白木の下駄が悲鳴じみた音を上げる。

 ええい放せと何度か手首をぶんぶん振ってみたものの、悟くんは「コレ何かアトラクションみたいだね、犬ぞりみたいな」と言うだけで一向に解放する気配はない。さっさと諦めるのが得策だろう。

「待ってよ、。ねぇ、
「……」
「ねぇってば」
「…………」
~!人の話聞いてる~!?」
「聞いてますっ!でも待ちません!待ち合わせに遅れるので!」

 駄々をこね続ける誰かさんのせいで、遅れるどころかすでに数分遅刻している。責めるほどでもない遅刻をするなどまるで悟くんのようだ。恵くんに「似た者兄妹」と鼻で笑われるのは絶対に御免だと、さらに足を大きく前へ踏み出す。

「どうしよう、樹の気持ちが今になってわかるんだけど。男はみんな狼だって知ってる?恵に襲われでもしたらどうすんの?」
「はいはい恵くんなら喜んで!」
「僕と樹は喜ばないからね?!」

 “シスコンここに極まれり”の超過保護でありながら、どんなときでもわたしの味方だったお兄ちゃんが、悟くんのように大人げない真似をするわけがない。子どもっぽい悟くんと立派な大人のお兄ちゃんを同列に語らないでほしいのだけれど。

 大きなため息を吐いたわたしは黙殺することを決めると、待ち合わせ場所である自販機が横一列に並ぶ回廊へ向かって力強く歩み続ける。

 呪術高専を正面から入って表参道をまっすぐ進み、切妻造の木門を抜ければ全面白木造の大きなお堂が現れる。東堂先輩が半壊させた懸造の舞台、その手前に隣接するお堂のすぐ目の前の広い参道で、“わたしのための夏”――つまり夏祭りが催されることになった。

 発案者はパンダ先輩と狗巻先輩だった。初めは小さな屋台をふたつ出すだけのつもりが、面白いことが大好きな悟くんの耳に入ったがために話はみるみる膨らみ、最終的には業者まで参加しての夏祭り開催が決まったのだ。

 規模は地元の小さな神社で催されるような夏祭りとそう変わらないけれど、たった数時間で準備したと思えば充分すぎるほどだろう。悟くんの鶴の一声には舌を巻く。

 待ち合わせ場所の回廊をそっと覗けば、自販機のすぐそばに浴衣姿の恵くんを見た。心臓が悲鳴を上げ、うっとたちまち息が詰まった。ここに来る前にすれ違ったパンダ先輩が「の好みド真ん中だぞ」とにやにやしていたけれど、その意味を今やっと理解できた気がする。

 落ち着いた海松色の生地に、白の縦縞模様が細かく入った古典柄の浴衣。腰を一線に横切る角帯はどこか柔らかさを含んだ消炭色で風情がある。涼しくも大人っぽい表情の組み合わせが、恵くんの怜悧な佇まいに気品を足していた。

 彼がこちらに気づいた様子はない。賑やかな参道をぼんやりと遠目に見つめる彼の姿にわたしは釘付けだった。雰囲気作りのためにスピーカーから流れる録音の祭囃子が、彼の表情に沈潜を思わせるような奥行きを与えていく。

 これで落ちないほうがどうかしている。今から彼の隣を歩くのかと思うだけで心臓が軽やかに踊り出した。常夜灯に照らされたその横顔に、わたしは半ば無意識に「……格好良すぎ。ずるい」と心底陶酔した感想を漏らした。

「お願い悟くん、あとで恵くんと一緒に写真撮りたいんだけど――って、悟くん?」

 振り返れば、あの大きな幼児は忽然と姿を消している。途端に軽くなった右手を数秒見つめて、まあいいかとわたしは恵くんのもとへ歩を急ぐ。

「遅くなってごめんなさい!」

 声を掛けると彼は澄ました視線をこちらへ寄越し――瞬間、大きく瞠目した。切れ長の双眸に満ちた感情をすくい上げるより早く、わたしの瞳は恵くんの背後から音もなく忍び寄る悟くんの姿を捉えていた。

 軽薄な笑みを浮かべる悟くんは、恵くんの肩に堂々と己の左肘を乗せる。白群の視線はすぐにわたしから外れ、隣に立つ悟くんを「……五条先生」と呆れた様子で睥睨した。悟くんが飽食した悪魔のように囁いた。

「どう?あまりにも綺麗で気の利いた言葉のひとつも出ないだろ?」
「……やっぱりアンタの仕業ですか」
「まさか。一式選んだのは僕だけど、ここまで完璧に仕上げたのは野薔薇だよ。さすがはの専属スタイリスト、の良さをよくわかってるよね」

 言うと、悟くんは恵くんの双眸を後ろから両手で覆い隠した。彼の唇から「……は?」と苛立ちを孕んだ怪訝な響きが落っこちる。悟くんが腹の底から声を張った。

「ハイこれ以上見るの禁止!お金取るよ!」
「取りません。あっ、夜蛾学長」

 眉根を寄せたわたしが悟くんの背後に視線を送れば、悟くんはすぐさま鼻で笑ってみせた。

「甘いな、。僕がそんなハッタリに引っかかるわけ――」
「探したぞ、悟」

 地鳴りによく似た低音が録音しただけの祭囃子と撹拌する。刹那、脱兎の如く逃げ出そうとした悟くんの首根っこを、ひどく険しい表情の夜蛾学長がむんずと力強く掴み上げた。夜でも変わらず黒のサングラスをかける夜蛾学長の瞳は、激怒に煮え滾っているように見て取れる。

 これから学長室かどこかで厳しい叱責を受けるのだろう、襟首を掴まれた悟くんがずるずると引きずられていく。

「オイコラ恵ー!僕のに手ェ出したらどうなるかわかってんだろうなー!」
「悟、お前は他人のことよりも自分がこれからどうなるかをよく考えたほうが良い」

 低い恫喝も無視してぎゃんぎゃん吼え立てる悟くんに小さく手を振って別れを告げると、わたしはそっと視線を移動させた。浴衣姿の恵くんが視界に映るだけで軽く眩暈がしそうになる。ただドキドキするだけではない。彼が傍にいるという安心感で心が開いていくのがわかる。

 後戻りできないくらいベタ惚れだなぁと内心苦笑しながら、改めて謝罪を口にする。

「待たせちゃったよね。遅れて本当にごめんなさい」
「……俺も今来たところだから気にすんな」

 ひどく素っ気ない口振りでそう言った恵くんに、わたしは大きく一歩近づいた。すぐに彼が逃げるように顔を逸らす。一瞬、彼のかんばせに緊張が走ったように見えたのは気のせいだろうか。嫌われない程度の距離感を残しつつ、前のめりなったわたしは声を弾ませる。

「恵くん、浴衣すっごく似合うし格好良いね!見惚れちゃった!」
「…………拒否権がなかったんだよ」

 数秒の沈黙を挟んで、恵くんが掠れた声を絞り出す。抗う間もなく呪言で眠りの底へ落とされた彼を男子寮の談話室へ運び、用意した海松色の浴衣に着替えさせたのはパンダ先輩と狗巻先輩だと聞いている。

「さぁ今すぐ脱げ恵」
「こんぶ」

と、含みのある笑みを浮かべて恵くんにじわじわとにじり寄る先輩ふたりの姿は想像に容易い。明後日の方向を見つめながら困り果てた様子でうなじを掻く彼に、わたしは茶目っぽく笑いかけた。

「でも効果抜群だよ?」
「……効果抜群?」
「うん、わたしの好みド真ん中。恵くんのこともっともっと好きになる」

 そう言って柔らかく笑んで見せれば、恵くんが気まずげに唇を横一文字に結んだ。彼を困らせたかもしれないという自覚が遅れてやってきたものの、本当のことを言っただけだと噴いた後悔を拭って開き直る。

「本気で落としたいなら絶対に駆け引きはしないことだよ」

 ほんの数時間前に家入先生にかけられた言葉が耳の奥で響いている。恵くんとの関係をもう一歩踏み込んだものにしたいとわたしが相談を持ちかけたのは、わたしにとって憧れの対象でもある高専で指折りの大人の女性――家入先生だった。親しい同年代からは得られない、客観的で冷静な視点が欲しかったから。

「君からと平穏な日常を奪い、ましてや死と隣り合わせの呪術界に引きずり込んだ。人一倍責任感の強い伏黒に君と一般的な恋愛関係を築けと言うのは、あまりにも酷な話だと思うけどね」

 豪雷にも似た夜蛾学長の説教が終わったあと医務室に顔を出したわたしを、家入先生はハーブティーとクッキーで快くもてなしてくれた。夏祭りの準備に勤しむ野薔薇ちゃんたちの姿を思い起こしながら、わたしはぽつっと呟いた。

「……ごめんなさい。わたし、それでも恵くんを諦められなくて」
、誰もそんなことは言ってないよ。私は世間一般の高校生らしい恋愛は無理だろうと言っただけだ」
「えっと……あの、先生の言っている意味が、よく……」
「君は伏黒という男をずいぶん甘く見積もっているようだから。アレは絶対に面倒臭いぞ?断言してもいい」

 恵くんの何が面倒臭いのか、わたしにはさっぱりわからなかった。いつも野薔薇ちゃんが「アンタいちいち細かいのよ!」と口癖のように彼に対して怒号を放っているけれど、細かいところが面倒臭く感じるようになるという意味だろうか。

 何となく腑に落ちない言葉を咀嚼するのを諦めて、わたしは「絶対に恵くんが良いです」ときっぱり告げる。家入先生は口角を緩めると、大人の女性らしい色香を纏って答えた。

「あの手の男を本気で落としたいなら絶対に駆け引きはしないことだよ。君はそのままでいい。難しいことは何も考えるな。の折り紙つきの愛情深さが伏黒の安心に繋がる」
「……安心?」
「君に踏み込んでいいと思わせた時点で勝ちなんだよ」
「……わたしに踏み込む?」
「いや、これは言う必要なかったな。良いか?難しいことは全部忘れろ。が接したいように接しているだけで、伏黒の気持ちは簡単に入ってくるはずだよ」

 その助言を聞いて、わたしは少し安心した。所謂“恋の駆け引き”などわたしには到底不可能だ。頭は良くないうえに回転も速くないし、咄嗟に嘘を吐くことも嘘を貫き通すこともすごく苦手だから。

 わたしは家入先生の言葉を噛みしめるように深く頷いた。

「難しいことは考えずに、いつも通りに接してみます」
「それでいい。私の目算では今夜中には射止められるだろうね」
「えっ今夜?!は、早いですね……」

 即効性抜群らしい助言を思い返しつつ、ひどく気まずげな様子の恵くんを見つめる。さすがに今夜はちょっと無理ではないだろうか。次の言葉を探すように、わたしは視線をふらふらと彷徨わせた。

 昼間の告白に触れるつもりはなかった。夏祭りを満喫する前に尋ねる勇気は持ち合わせていない。

 わたしは視線を落として、悟くんが用意してくれた浴衣を眺めやった。縁起の良い模様として古くから愛され続ける七宝柄が淡く浮かぶ白地の浴衣。朱鷺色の帯は華やかで愛らしい四つ葉の形で結ばれている。真希先輩が「絶対落とせ」と言って着付けてくれたそれは我ながら自慢だったのだけれど。

 全く話題にならないのは少し寂しい。図々しいと思いつつも、自分から話を振ってみることにした。

「せっかくだからちょっと気合い入れちゃった。変かな?」
「……似合ってるんじゃないか」
「馬子にも衣装?」

 冗談交じりにわたしは悪戯っぽく笑んでみせる。恵くんは何か物言たげに口を開いたものの、言葉にはならなかったのだろう、すぐに唇をぴたりと縫い付けてしまった。

 気まずい空気がみるみる伝染する。“似合ってる”という言葉も無理に言わせたようで、話を振ったのは失敗だったと悔いる。悟くんは見惚れた云々と言っていたけれど、単純に彼の好みではなかったがために言葉が出なかっただけだろう。もっと大人っぽい浴衣のほうが良かったのかもしれない。

 しばらく黙り込んでいた恵くんが視線を参道のほうへ送る。普段よりやや抑えた声量で疑問を口にした。

「今日花火の約束だったよな?なんで急に夏祭りになってんだ?」

 昼間の告白に触れられなかったことに内心安堵しつつ、わたしは家入先生の助言通り“難しいことは考えずいつも通りに”答えてみせる。

「わたしがみんなにワガママ言ったんだ。今は自由に外出できないから、夏祭りにも行けないでしょ?」
「五条先生となら行けるだろ」
「それはたしかにそうなんだけどね」

 そこで言葉を切ると、白木の下駄で地面を数歩踏みしめ彼のすぐ傍らに立った。驚いたように瞬きする恵くんのかんばせを下から覗き込みながら、わたしは茶目っ気たっぷりの笑みを刻む。

「わたしは恵くんと行きたいんだよ?」

 時が止まったかのように無反応な恵くんに、本当にわたしのことが好きなのかと疑問すら湧いてくる。家入先生の艶やかな声音が脳髄に響き、今日は難しいことを何も考えないことを改めて誓う。わたしは黙ったままの彼の空いた左手に、躊躇なく右手を伸ばした。

「だからお願い!今日だけで良いから付き合って!」

 有無を言わさず恵くんの手を取るや、スピーカーから流れる祭囃子に誘われるように早足で歩き出す。やがて心許ない力で手を握り返され、わたしは笑みをこぼしながら下唇を軽く噛んだ。軽やかな下駄の音の間隔がやや短くなる。わたしのための夏は、まだ始まったばかりだ。